崑崙山で生まれたけど、外の世界では氣のことを念と呼ぶらしい   作:awazat

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第4話 外へ

 なんでも黒い糸は、昨日初めて出たものではなかったらしい。父は前から知っていた。母も知っていた。知らなかったのは俺だけだった。

 

「なんで言わないの」

 

「言えば追うだろう」

 

「そりゃ追うけど」

 

「だから言わなかった」

 

 ......正しいので腹が立つ。

 

 黒い糸は、ここ数年、山の端にたまに出ていたらしい。出て、すぐ消える。触らなければ大きな害はない。けれど最近は少し数が増えている。父はそう言った。

 

「山が危ないってこと?」

 

「今すぐではない」

 

「じゃあ、放っておくの?」

 

「放っておくとも言っていない」

 

 結論から言うと、外を見る者が必要らしい。黒い糸の出どころを探るというより、山の外で何が起きているのかを見る。俺が昨日あれを見て、触って、しかも先を追おうとしたことで、大人たちの中では話が進んだようだった。

 

 その日の夕方、山の者たちが集まった。俺が外へ出るかどうかを決めるためだった。

 

 若い、という声はあった。外を知らない、という声もあった。どちらも正しい。俺は十五歳で、山の外をほとんど知らない。前の世界の記憶はあるが、この世界で使えるかはかなり怪しい。宿の取り方は知らないし、金の相場も知らない。身分証が必要なのかも知らない。前世の知識がどの程度役に立つのかさっぱりわからない。

 

 池のそばで亀に餌をやっている老人が、茶碗を置いた。

 

 名前は知らない。俺は勝手に亀仙人と呼んでいる。いつも亀に餌をやっているからだ。前に飛んできた石を箸で止めていたので、ただの亀好きではない。

 

「測ろう」

 

「何をですか」

 

「外へ出してよいかどうかだ」

 

 亀の老人は、庭の真ん中に俺を立たせた。周りには父と母、何人かの仙人たち。いつもより人数が多い。全員が俺を見ている。......やりづらい。

 

「力を抜け」

 

 老人が言った。

 

「はい」

 

「一気に出すな。ゆっくりだ。少しずつ、身体の中から外へ広げろ」

 

「どのくらいまで?」

 

「止めるまで」

 

 俺は息を吐いた。

 

 氣を上げる。

 

 最初は細く。腹の奥から、胸、肩、腕、足へ流す。いつもの準備運動くらいだ。滝に入る前に身体を温める量より、まだ少ない。

 

 庭の灯りが少し揺れた。

 

 亀の老人は何も言わない。

 

 もう少し出す。

 

 池の水面が沈んだ。竹の葉が鳴る。若い仙人の一人が、無言で一歩下がった。

 

 まだ止められない。

 

 さらに出す。

 

 空気が重くなった。

 

 いや、重いというより、静かになった。虫の音が消えた。風は吹いているのに、葉の音が遠くなった。俺の氣が庭いっぱいに広がって、それでも端が崩れない。自分では、そういう感覚だった。

 

 何人かが汗をかいていた。

 

 俺は少し不安になった。

 

「まだですか」

 

 亀の老人は答えない。

 

 父も何も言わない。

 

 なら、もう少しだけ出す。

 

 身体の奥にある水門を、指一本分だけ開くような感じだった。

 

 その瞬間、池の水が大きくへこんだ。

 

 石灯籠の火が横へ倒れた。消えはしない。倒れたまま燃えている。竹林がざわっと鳴った。亀は完全に甲羅へ引っ込んだ。若い仙人だけではなく、年を取った者たちまで顔を固くした。

 

 母が少し目を細めた。

 

 父が言った。

 

「戻せ」

 

 俺はすぐに氣を戻した。

 

 庭に音が戻った。

 

 虫が鳴いている。池の水面も戻った。石灯籠の火も普通に揺れている。

 

 俺は息を吐いた。

 

「出しすぎた?」

 

 亀の老人が、茶碗を持ち直した。

 

「今ので、どのくらいだ」

 

「全力ではないです」

 

「それは見れば分かる」

 

「半分……は出してないと思います」

 

 場が静かになった。

 

 俺は少し焦った。

 

「あの、たぶん。ちゃんと測ったことはないので」

 

「外で今のことを言うな」

 

 亀の老人が言った。

 

「どっちを?」

 

「全部だ」

 

 父が横から言った。

 

「抑える練習をしろ」

 

「してるよ」

 

「足りん」

 

「崑崙だと誰も何も言わないんだけど」

 

「ここを基準にするな」

 

 それはたぶん正しい。

 

 亀の老人は、しばらく俺を見ていた。

 

「量もある。質も悪くない」

 

「悪くない、ですか」

 

「褒めている」

 

「分かりづらいです」

 

「では言い直す。外では、かなり目立つ」

 

 褒められているのか、注意されているのか分からない。

 

 ただ、周りの顔を見る限り、俺が思っていたよりも大きなものを出していたらしい。崑崙で育つと、そこが分からなくなる。父はもっと大きい。母はもっと細かい。山の老人たちは、普段から何を考えているのか分からない。自分の基準がどこで狂っているのか、外に出ないと分からない。亀の老人は茶を飲んだ。

 

「力だけなら、外では困らんだろう」

 

「本当ですか」

 

「力だけならな。外には別の強さがある。嘘、金、数、立場、名前、道具。氣で押せないものも多い」

 

「そこは弱いと思います」

 

「分かっているならよい」

 

 父が俺を見る。

 

「黒い糸のこともある。だが、それだけではない。十五になった。山の中だけで育てる時期は過ぎた」

 

「外界見聞ってこと?」

 

「そうだ」

 

「黒い糸は?」

 

「見えるなら見てこい。追いすぎるな」

 

 母が口を開いた。

 

「嫌なら、行かなくてもいいわ」

 

 少し驚いた。もう決まったような空気だったからだ。俺は考えた。確かに怖さはある。金の使い方は怪しい。宿の取り方も知らない。たぶん騙される。相手が強いかどうか以前に、話で負ける気がする。

 

 でも、行きたかった。

 

 ジンが言っていた外の世界。自分の氣がどれくらい通じるのか。自分より強い奴はいるのか。街はどんなところなのか。飯はうまいのか。宿はいくらなのか。外の世界はどうなっているのか。気になることはいくらでもあった。

 

「行く」

 

 俺は言った。

 

「黒い糸も気になるし、外も見たい。俺が外でどれくらいやれるのかも知りたい」

 

 亀の老人が小さく笑った。

 

「よい。見栄を張らんのは悪くない」

 

 父はうなずいた。

 

「明朝、山門を開く」

 

「明朝?」

 

「早い方がいい」

 

「急だよ」

 

「外に出るのに、ちょうどいい日はない」

 

 こうして、俺が山を降りることが決まった。

 

 翌朝、山は晴れていた。俺は外界用の地味な服を着て、小さな荷を背負った。少しの薬。少しの金。替えの衣。それから、ジンにもらった金属片。金属片は何かに反応したわけではない。外で物好きに見せろと言われていたから持っていくだけだ。物好きがどこにいるのかは知らない。

 

 荷物は少ないが、考えすぎると出発できなくなりそうだったので、考えるのをやめた。

 

 山門の前に、父と母がいた。

 

 山門といっても、古い石柱が二本立っているだけだ。その先は白い霧で見えない。子どものころ、何度か向こうへ行こうとしたことがある。そのたびに、いつの間にか庵の前に戻っていた。

 

 今日は戻されない。

 

 母が俺の襟を直した。

 

「見たものを覚えていなさい。でも、見えたものを全部信じないで」

 

「うん」

 

「困ったら、まず食べなさい。お腹が空くと判断を間違えるわ」

 

 かなり普通の助言だった。でも、たぶんとても大事だ。前の世界でも、空腹のときに見る通販サイトは危なかった。余裕がないときには間違った判断をしてしまう。母の言っていることと同じかは分からないが、そういうことだろう。

 

 父は短く言った。

 

「死ぬな」

 

 短い。でも、それで十分だった。

 

 俺は山門をくぐった。

 

 霧が身体にまとわりつく。振り返ると、父と母の姿が白くぼやけていた。次に瞬きをしたときには、もう見えなかった。

 

 一日目は、霧の中を歩いた。道はあるようで、ない。気を抜くと、いつの間にか横へ流されそうになる。子どものころ、山門の外へ出ようとして何度も戻された感覚に近かった。

 

 二日目は、古い森を抜けた。木が大きすぎて、昼でも暗い。夜になると、枝の上で何かが鳴いた。見に行きたい気もしたが、父の「追いすぎるな」という言葉を思い出してやめた。

 

 三日目、山を一つ越えたと思ったら、また山だった。

 

 俺は少し立ち止まった。

 

 外、遠くね?

 

 秘境という言葉は、本当だった。

 

 四日目、初めて人の住む村に出た。山仕事の人たちが住む小さな集落だった。煙の匂いがして、煮た粟の匂いがした。人の氣は崑崙の人たちより薄い。でも、そのぶん生活の匂いが濃かった。

 

 宿はなかった。

 

 納屋の隅を貸してもらい、金を払ったら少し多かったらしい。村の老人が驚いた顔をして、干し肉をくれた。

 

 五日目から七日目にかけて、いくつかの村を抜けた。道は少しずつ広くなり、荷を背負った商人や、馬を引く男たちとすれ違うようになった。崑崙では見ない種類の氣が増えていく。強い弱いではなく、雑で、速くて、落ち着かない。

 

 八日目、道沿いの茶屋で港街の話を聞いた。

 

 海沿いの大きな町で、船が多く、人も多く、品物も多いらしい。山のもの、遠くの国のもの、怪しい薬、古い道具、よく分からない護符。そういうものが集まるという。その中に、崑崙産を名乗る品もあるらしい。

 

「崑崙産?」

 

「ああ。仙人の薬とか、氣を開く護符とかだな。高いぞ」

 

 知らない。少なくとも、俺はそんなものを出荷した覚えがない。

 

 九日目、風に潮の匂いが混じった。山とは違う湿り方だった。道を行く人も増えた。荷車も増えた。声も増えた。人の氣があちこちから流れてきて、道の上で混ざっている。

 

 少し酔った。

 

 十日目の昼過ぎ、港街が見えた。

 

 海も見えた。

 

 前の世界の記憶で海は知っている。でも、自分の足で山をいくつも越えて見た海は、少し違った。

 

 広い。ただ広い。

 

 山とは違う。目の前に道がない。水だけがある。船が浮かんでいて、鳥が飛んでいて、港から人の声が聞こえる。

 

 俺はしばらく立っていた。

 

 外に出た、という感じが、そのときやっと追いついてきた。

 

 そして港街の入口で、最初に見た看板がこれだった。

 

『崑崙山直送 仙人秘薬』

 

 隣にも似たような看板がある。

 

『本物保証 仙獣の尾』

 

『氣を開く護符 三枚買うと一枚おまけ』

 

『崑崙式呼吸法 初回半額』

 

 十日かけて山を降りて、最初に見る外の世界がこれか。

 

 俺はしばらく看板を見上げた。

 

「……うち、こんなの売ってたっけ?」

 

 声に出ていた。

 

 店先には、丸薬、護符、毛の束、変な石、古びた巻物が並んでいた。いかにも外の人間が考えた崑崙だった。仙人がいて、薬があって、霊獣がいて、秘伝の呼吸法がある。

 

 でも、丸薬は苦い草の匂いしかしない。護符の墨は新しい。仙獣の尾と書かれた毛束は、たぶん山羊だ。巻物の呼吸法は、真似したら普通に腹が痛くなりそうだった。

 

「兄ちゃん、買う顔じゃないな」

 

 横から声がした。

 

 若い男が、護符を一枚つまんでいた。服はくたびれているが、目だけは妙に鋭い。

 

「買わないよ」

 

「だろうな。今の顔は、ありがたがる顔じゃない。疑ってる顔だ」

 

「いや、疑うでしょ、これは」

 

「崑崙山って名前がついてるだけで、ありがたがる奴はけっこういるんだ」

 

 男は護符を裏返した。

 

「紙が安い。墨も安い。古く見せようとして濡らして乾かしてる。雑だな」

 

 店主が顔を上げた。

 

「ゼパイル、また商売の邪魔か」

 

「見てるだけだ」

 

「それを邪魔って言うんだよ」

 

 ゼパイル。

 

 その名前に、少し引っかかった。聞いたことがある気がした。でも、すぐには出てこない。前の世界の記憶は、十五年も山で暮らしているうちに、だいぶ薄くなっていた。

 

 ゼパイルは店先の品を見回した。

 

「九割九分は偽物だ」

 

「残り一分は?」

 

「たまに混じる。偽物の山に、妙な本物が」

 

「本物?」

 

「本物というか、変なものだな。売ってる奴も価値を知らない。買う奴も分かってない。でも、物だけは妙に古い。そういうのがあるから市は面白い」

 

 少し分かる気がした。俺が氣で見るのとは違う。ゼパイルは紙や墨、傷や汚れ、古び方を見ている。見方は違うのに、同じものを疑っている。

 

「兄ちゃん、どこから来たんだ?」

 

「山の方」

 

「崑崙か?」

 

 冗談みたいに言われて、俺は少し黙った。

 

 ゼパイルが笑う。

 

「おいおい、マジかよ」

 

「まだ何も言ってない」

 

「言ってないから分かることもある」

 

 外の人間はやりづらい。父や母とは別の方向でやりづらい。

 

 俺は店先の看板をもう一度見た。

 

 崑崙山直送。仙人秘薬。氣を開く護符。

 

 外に出て最初に見た崑崙がこれかと思うと、少し腹が立つ。けれど、少し笑えた。外は、思っていたより胡散臭い。でも、退屈ではなさそうだった。

 

 

 そのころ、港の外れで、大きなキセルを担いだ男が海を見ていた。

 

 沖に薄い霧が出ている。

 

「……海の匂いじゃねえな」

 

 男が煙を吐く。

 

 白い煙は風に流されず、港街の方へ細く伸びた。

 

 男は面倒くさそうに肩を鳴らした。

 

「ま、調べりゃ分かるか」

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