崑崙山で生まれたけど、外の世界では氣のことを念と呼ぶらしい 作:awazat
なんでも黒い糸は、昨日初めて出たものではなかったらしい。父は前から知っていた。母も知っていた。知らなかったのは俺だけだった。
「なんで言わないの」
「言えば追うだろう」
「そりゃ追うけど」
「だから言わなかった」
......正しいので腹が立つ。
黒い糸は、ここ数年、山の端にたまに出ていたらしい。出て、すぐ消える。触らなければ大きな害はない。けれど最近は少し数が増えている。父はそう言った。
「山が危ないってこと?」
「今すぐではない」
「じゃあ、放っておくの?」
「放っておくとも言っていない」
結論から言うと、外を見る者が必要らしい。黒い糸の出どころを探るというより、山の外で何が起きているのかを見る。俺が昨日あれを見て、触って、しかも先を追おうとしたことで、大人たちの中では話が進んだようだった。
その日の夕方、山の者たちが集まった。俺が外へ出るかどうかを決めるためだった。
若い、という声はあった。外を知らない、という声もあった。どちらも正しい。俺は十五歳で、山の外をほとんど知らない。前の世界の記憶はあるが、この世界で使えるかはかなり怪しい。宿の取り方は知らないし、金の相場も知らない。身分証が必要なのかも知らない。前世の知識がどの程度役に立つのかさっぱりわからない。
池のそばで亀に餌をやっている老人が、茶碗を置いた。
名前は知らない。俺は勝手に亀仙人と呼んでいる。いつも亀に餌をやっているからだ。前に飛んできた石を箸で止めていたので、ただの亀好きではない。
「測ろう」
「何をですか」
「外へ出してよいかどうかだ」
亀の老人は、庭の真ん中に俺を立たせた。周りには父と母、何人かの仙人たち。いつもより人数が多い。全員が俺を見ている。......やりづらい。
「力を抜け」
老人が言った。
「はい」
「一気に出すな。ゆっくりだ。少しずつ、身体の中から外へ広げろ」
「どのくらいまで?」
「止めるまで」
俺は息を吐いた。
氣を上げる。
最初は細く。腹の奥から、胸、肩、腕、足へ流す。いつもの準備運動くらいだ。滝に入る前に身体を温める量より、まだ少ない。
庭の灯りが少し揺れた。
亀の老人は何も言わない。
もう少し出す。
池の水面が沈んだ。竹の葉が鳴る。若い仙人の一人が、無言で一歩下がった。
まだ止められない。
さらに出す。
空気が重くなった。
いや、重いというより、静かになった。虫の音が消えた。風は吹いているのに、葉の音が遠くなった。俺の氣が庭いっぱいに広がって、それでも端が崩れない。自分では、そういう感覚だった。
何人かが汗をかいていた。
俺は少し不安になった。
「まだですか」
亀の老人は答えない。
父も何も言わない。
なら、もう少しだけ出す。
身体の奥にある水門を、指一本分だけ開くような感じだった。
その瞬間、池の水が大きくへこんだ。
石灯籠の火が横へ倒れた。消えはしない。倒れたまま燃えている。竹林がざわっと鳴った。亀は完全に甲羅へ引っ込んだ。若い仙人だけではなく、年を取った者たちまで顔を固くした。
母が少し目を細めた。
父が言った。
「戻せ」
俺はすぐに氣を戻した。
庭に音が戻った。
虫が鳴いている。池の水面も戻った。石灯籠の火も普通に揺れている。
俺は息を吐いた。
「出しすぎた?」
亀の老人が、茶碗を持ち直した。
「今ので、どのくらいだ」
「全力ではないです」
「それは見れば分かる」
「半分……は出してないと思います」
場が静かになった。
俺は少し焦った。
「あの、たぶん。ちゃんと測ったことはないので」
「外で今のことを言うな」
亀の老人が言った。
「どっちを?」
「全部だ」
父が横から言った。
「抑える練習をしろ」
「してるよ」
「足りん」
「崑崙だと誰も何も言わないんだけど」
「ここを基準にするな」
それはたぶん正しい。
亀の老人は、しばらく俺を見ていた。
「量もある。質も悪くない」
「悪くない、ですか」
「褒めている」
「分かりづらいです」
「では言い直す。外では、かなり目立つ」
褒められているのか、注意されているのか分からない。
ただ、周りの顔を見る限り、俺が思っていたよりも大きなものを出していたらしい。崑崙で育つと、そこが分からなくなる。父はもっと大きい。母はもっと細かい。山の老人たちは、普段から何を考えているのか分からない。自分の基準がどこで狂っているのか、外に出ないと分からない。亀の老人は茶を飲んだ。
「力だけなら、外では困らんだろう」
「本当ですか」
「力だけならな。外には別の強さがある。嘘、金、数、立場、名前、道具。氣で押せないものも多い」
「そこは弱いと思います」
「分かっているならよい」
父が俺を見る。
「黒い糸のこともある。だが、それだけではない。十五になった。山の中だけで育てる時期は過ぎた」
「外界見聞ってこと?」
「そうだ」
「黒い糸は?」
「見えるなら見てこい。追いすぎるな」
母が口を開いた。
「嫌なら、行かなくてもいいわ」
少し驚いた。もう決まったような空気だったからだ。俺は考えた。確かに怖さはある。金の使い方は怪しい。宿の取り方も知らない。たぶん騙される。相手が強いかどうか以前に、話で負ける気がする。
でも、行きたかった。
ジンが言っていた外の世界。自分の氣がどれくらい通じるのか。自分より強い奴はいるのか。街はどんなところなのか。飯はうまいのか。宿はいくらなのか。外の世界はどうなっているのか。気になることはいくらでもあった。
「行く」
俺は言った。
「黒い糸も気になるし、外も見たい。俺が外でどれくらいやれるのかも知りたい」
亀の老人が小さく笑った。
「よい。見栄を張らんのは悪くない」
父はうなずいた。
「明朝、山門を開く」
「明朝?」
「早い方がいい」
「急だよ」
「外に出るのに、ちょうどいい日はない」
こうして、俺が山を降りることが決まった。
翌朝、山は晴れていた。俺は外界用の地味な服を着て、小さな荷を背負った。少しの薬。少しの金。替えの衣。それから、ジンにもらった金属片。金属片は何かに反応したわけではない。外で物好きに見せろと言われていたから持っていくだけだ。物好きがどこにいるのかは知らない。
荷物は少ないが、考えすぎると出発できなくなりそうだったので、考えるのをやめた。
山門の前に、父と母がいた。
山門といっても、古い石柱が二本立っているだけだ。その先は白い霧で見えない。子どものころ、何度か向こうへ行こうとしたことがある。そのたびに、いつの間にか庵の前に戻っていた。
今日は戻されない。
母が俺の襟を直した。
「見たものを覚えていなさい。でも、見えたものを全部信じないで」
「うん」
「困ったら、まず食べなさい。お腹が空くと判断を間違えるわ」
かなり普通の助言だった。でも、たぶんとても大事だ。前の世界でも、空腹のときに見る通販サイトは危なかった。余裕がないときには間違った判断をしてしまう。母の言っていることと同じかは分からないが、そういうことだろう。
父は短く言った。
「死ぬな」
短い。でも、それで十分だった。
俺は山門をくぐった。
霧が身体にまとわりつく。振り返ると、父と母の姿が白くぼやけていた。次に瞬きをしたときには、もう見えなかった。
一日目は、霧の中を歩いた。道はあるようで、ない。気を抜くと、いつの間にか横へ流されそうになる。子どものころ、山門の外へ出ようとして何度も戻された感覚に近かった。
二日目は、古い森を抜けた。木が大きすぎて、昼でも暗い。夜になると、枝の上で何かが鳴いた。見に行きたい気もしたが、父の「追いすぎるな」という言葉を思い出してやめた。
三日目、山を一つ越えたと思ったら、また山だった。
俺は少し立ち止まった。
外、遠くね?
秘境という言葉は、本当だった。
四日目、初めて人の住む村に出た。山仕事の人たちが住む小さな集落だった。煙の匂いがして、煮た粟の匂いがした。人の氣は崑崙の人たちより薄い。でも、そのぶん生活の匂いが濃かった。
宿はなかった。
納屋の隅を貸してもらい、金を払ったら少し多かったらしい。村の老人が驚いた顔をして、干し肉をくれた。
五日目から七日目にかけて、いくつかの村を抜けた。道は少しずつ広くなり、荷を背負った商人や、馬を引く男たちとすれ違うようになった。崑崙では見ない種類の氣が増えていく。強い弱いではなく、雑で、速くて、落ち着かない。
八日目、道沿いの茶屋で港街の話を聞いた。
海沿いの大きな町で、船が多く、人も多く、品物も多いらしい。山のもの、遠くの国のもの、怪しい薬、古い道具、よく分からない護符。そういうものが集まるという。その中に、崑崙産を名乗る品もあるらしい。
「崑崙産?」
「ああ。仙人の薬とか、氣を開く護符とかだな。高いぞ」
知らない。少なくとも、俺はそんなものを出荷した覚えがない。
九日目、風に潮の匂いが混じった。山とは違う湿り方だった。道を行く人も増えた。荷車も増えた。声も増えた。人の氣があちこちから流れてきて、道の上で混ざっている。
少し酔った。
十日目の昼過ぎ、港街が見えた。
海も見えた。
前の世界の記憶で海は知っている。でも、自分の足で山をいくつも越えて見た海は、少し違った。
広い。ただ広い。
山とは違う。目の前に道がない。水だけがある。船が浮かんでいて、鳥が飛んでいて、港から人の声が聞こえる。
俺はしばらく立っていた。
外に出た、という感じが、そのときやっと追いついてきた。
そして港街の入口で、最初に見た看板がこれだった。
『崑崙山直送 仙人秘薬』
隣にも似たような看板がある。
『本物保証 仙獣の尾』
『氣を開く護符 三枚買うと一枚おまけ』
『崑崙式呼吸法 初回半額』
十日かけて山を降りて、最初に見る外の世界がこれか。
俺はしばらく看板を見上げた。
「……うち、こんなの売ってたっけ?」
声に出ていた。
店先には、丸薬、護符、毛の束、変な石、古びた巻物が並んでいた。いかにも外の人間が考えた崑崙だった。仙人がいて、薬があって、霊獣がいて、秘伝の呼吸法がある。
でも、丸薬は苦い草の匂いしかしない。護符の墨は新しい。仙獣の尾と書かれた毛束は、たぶん山羊だ。巻物の呼吸法は、真似したら普通に腹が痛くなりそうだった。
「兄ちゃん、買う顔じゃないな」
横から声がした。
若い男が、護符を一枚つまんでいた。服はくたびれているが、目だけは妙に鋭い。
「買わないよ」
「だろうな。今の顔は、ありがたがる顔じゃない。疑ってる顔だ」
「いや、疑うでしょ、これは」
「崑崙山って名前がついてるだけで、ありがたがる奴はけっこういるんだ」
男は護符を裏返した。
「紙が安い。墨も安い。古く見せようとして濡らして乾かしてる。雑だな」
店主が顔を上げた。
「ゼパイル、また商売の邪魔か」
「見てるだけだ」
「それを邪魔って言うんだよ」
ゼパイル。
その名前に、少し引っかかった。聞いたことがある気がした。でも、すぐには出てこない。前の世界の記憶は、十五年も山で暮らしているうちに、だいぶ薄くなっていた。
ゼパイルは店先の品を見回した。
「九割九分は偽物だ」
「残り一分は?」
「たまに混じる。偽物の山に、妙な本物が」
「本物?」
「本物というか、変なものだな。売ってる奴も価値を知らない。買う奴も分かってない。でも、物だけは妙に古い。そういうのがあるから市は面白い」
少し分かる気がした。俺が氣で見るのとは違う。ゼパイルは紙や墨、傷や汚れ、古び方を見ている。見方は違うのに、同じものを疑っている。
「兄ちゃん、どこから来たんだ?」
「山の方」
「崑崙か?」
冗談みたいに言われて、俺は少し黙った。
ゼパイルが笑う。
「おいおい、マジかよ」
「まだ何も言ってない」
「言ってないから分かることもある」
外の人間はやりづらい。父や母とは別の方向でやりづらい。
俺は店先の看板をもう一度見た。
崑崙山直送。仙人秘薬。氣を開く護符。
外に出て最初に見た崑崙がこれかと思うと、少し腹が立つ。けれど、少し笑えた。外は、思っていたより胡散臭い。でも、退屈ではなさそうだった。
そのころ、港の外れで、大きなキセルを担いだ男が海を見ていた。
沖に薄い霧が出ている。
「……海の匂いじゃねえな」
男が煙を吐く。
白い煙は風に流されず、港街の方へ細く伸びた。
男は面倒くさそうに肩を鳴らした。
「ま、調べりゃ分かるか」