崑崙山で生まれたけど、外の世界では氣のことを念と呼ぶらしい   作:awazat

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第5話 白灯商会

 崑崙では、朝の霧がまだ谷に残っていた。

 

 蓮華は茶を淹れていた。玄清は縁側に座り、遠くの山を見ている。ミナトが山を出てから、庵のまわりは少し静かになった。

 

「今ごろ、どのあたりかしら」

 

「十日ほど歩けば、港に着く」

 

「ちゃんと宿に泊まれているといいけれど」

 

「野宿でも死なん」

 

「そういう話ではないのよ」

 

 蓮華は苦笑した。

 

 玄清は茶を受け取り、少しだけ飲んだ。

 

「飯は食うだろう。腹が減ると動きが鈍る」

 

「そこはあなたに似なくてよかったわね。あの子は、おいしいものに釣られるもの」

 

「それはよいことだ」

 

「あなた、真面目な顔で変なことを言うわよね」

 

 玄清は返事をしなかった。ただ、口元が少しだけ動いた。

 

「あの子、すぐ何かに巻き込まれるでしょうね」

 

「巻き込まれる」

 

 玄清は静かにうなずいた。

 

「止めに入る。触る。余計なものを見る。だいたい、そのどれかだ」

 

「よく分かっているのね」

 

「分かっているから、外に出した」

 

 蓮華は山の下の方を見た。霧の向こうに道は見えない。

 

「怪我をしないといいけれど」

 

「怪我はする」

 

「そこは否定してほしかったわ」

 

「死にはしない」

 

 蓮華はため息をついた。玄清はもう一度、山の下を見た。

 

「ただ」

 

「ただ?」

 

「あれは、自分がどれほど目立つかを知らん」

 

 蓮華は、少し困ったように笑った。

 

「そこが一番心配ね」

 

 同じころ、俺は港街の市場で、ゼパイルと一緒に怪しい護符を眺めていた。

 

 ゼパイルは、店先の護符を一枚つまんだ。

 

「霊山由来、ねえ」

 

 札にはそう書かれていた。

 

 隣には、仙境伝来、古山の守り、航海安全、氣を整える札、そういう品が並んでいる。崑崙の名前は大きく出ていない。ただ、高そうな箱の端にだけ、小さく「崑崙筋」と書かれていた。筋って何だ。

 

「外の人って、こういうの買うんだ」

 

「買うな。海に出る奴ほど縁起を担ぐ。山奥の霊験、仙人の加護、そういう言葉は強い」

 

「効かなくても?」

 

「効くと思って買うんだよ」

 

 なるほど。外は難しい。

 

 その時、通りの向こうで誰かが叫んだ。

 

「どけ!危ねえぞ!」

 

 振り向くと、大きな荷車が坂を下ってきていた。荷台には木箱が積まれている。箱には、霊山由来だの、仙境伝来だの、それらしい札が貼られていた。車輪止めが外れたのか、荷運びの男が後ろから押さえようとしているが、まったく止まっていない。

 

 その前に、子どもが飛び出した。手に持っていた果物を落としたらしい。拾おうとして、荷車に気づいていない。考えるより先に動いていた。

 

 子どもの横に入り、肩を軽く押した。子どもは道の端へ転がる。怪我はなさそうだった。荷車の前に立った。荷車が迫る。右手を出した。手のひらが、荷台の前板に触れる。

 

 重い。でも、重いだけだ。

 

 力任せに止めると、荷が跳ねる。中身が壊れる。だから勢いを下へ流した。肩から腰へ。腰から足へ。足から石畳へ。

 

 ぎし、と荷車が鳴った。

 

 車輪が止まった。

 

 次の瞬間、車軸の方が折れた。ばきん、と乾いた音がして、荷車が前のめりに沈む。木箱がいくつか傾いた。中身は崩れていない。子どもも無事だった。荷車を止めた、というより、荷車の方が止められたことに耐えられなかった。

 

「危なかった」

 

 俺はそう言った。

 

 周りは静かだった。

 

 転がった子どもが、目を丸くして俺を見ている。少し遅れて、母親らしき女が駆け寄ってきた。

 

「す、すみません、ありがとうございます」

 

「怪我してないならよかったよ」

 

 女は何度も頭を下げ、子どもを抱えて人混みの奥へ下がった。

 

 それで終わりだと思った。

 

 荷車の後ろから男たちが来た。

 

 一人は大柄。

 一人は棒を持っている。

 一人は細身で、足音が軽い。

 

 商会の荷運び、というより、揉め事を片づける人間に見えた。少し暴力的な雰囲気を帯びている。

 

「おい」

 

 大柄な男が言った。

 

「誰が勝手に荷に触れって言った」

 

「子どもが危なかったから」

 

「荷車が壊れてるだろうが」

 

「止めなかったら、もっと壊れてたと思う」

 

「口答えすんな」

 

 大柄な男が、俺の胸ぐらをつかもうとした。

 

 俺は避けなかった。指が服に触れる前に、手首へ軽く触れる。男の膝が落ちた。

 

「……あ?」

 

 本人が一番驚いていた。

 

 二人目が棒を振った。脅すための振り方だった。大きい。遅い。殺す気も薄い。俺は棒を受けず、持ち手の指を押した。棒が落ちた。

 

 三人目は、もう横に回っていた。速い。三人の中では一番いい。でも、見えている。俺は半歩だけ前に出た。細身の男の足が、俺のいた場所を踏む。身体が流れる。その肘に指を置く。男は、そのまま地面に落ちた。

 

 三人とも倒れていた。

 誰も殴っていない。

 骨も折っていない。

 

 たぶん。

 

「大丈夫?」

 

 俺が聞くと、ゼパイルが小さく笑った。

 

「それは聞く側が違うと思うぞ」

 

 通りは、さっきより静かだった。まずい。たぶん、目立った。荷車の男は黙っていた。怒っているようにも見える。けれど、それだけではなかった。壊れた荷車を見る。倒れた三人を見る。俺を見る。その目が嫌だった。値踏みするような目だった。

 

「……面白いな」

 

 男はそう言った。

 

 まったく嬉しくない。

 

 ゼパイルが俺の袖を引いた。

 

「離れるぞ」

 

「いいの?」

 

「いい。あれは礼を言う顔じゃない」

 

「じゃあ何?」

 

「使い道を考えてる顔だ」

 

 使い道。嫌な言葉だった。

 

 俺たちは人混みから離れた。

 

 少し歩いてから、ゼパイルが振り返る。荷車の男は、まだこちらを見ていた。

 

「兄ちゃん、かなり目立ったぞ」

 

「止めない方がよかった?」

 

「いや、あれは止めるだろ。子どももいた。そこはいい」

 

「じゃあ、何がまずいの」

 

「強い奴を見つけたら、怖がる奴もいる。利用しようとする奴もいる。今のは、たぶん後者だ」

 

 山を出る前に、亀の老人が言っていた。外には、嘘、金、立場、数、道具がある。

 

 その意味が、少し分かった気がした。

 

 ゼパイルは、さっきの荷車の木箱を思い出すように目を細めた。

 

「あの荷も、さっきの店の商品も、似た札がついてたな」

 

「霊山由来とか?」

 

「そう。紙、墨、結び紐、箱の作り。癖が似てる。店ごとに勝手に作ってるわけじゃない」

 

「偽物にも流れがあるんだ」

 

「ある。偽物だからこそある」

 

 嫌な言葉だった。

 

 でも、少し分かる気もした。

 

 ゼパイルは俺を見た。

 

「本当に、山の奥から来たのか?」

 

「どうしてそう思うの」

 

「あの札を見た顔。今の動き。あと、嘘が下手」

 

 外の人間はやりづらい。

 

 俺が答えずにいると、ゼパイルは笑った。

 

「まあ、いい。飯は食ったか?」

 

「まだ」

 

「じゃあ飯だ。腹が減ってると、値段交渉で負ける」

 

「母さんも似たようなこと言ってた」

 

「いい母親だな」

 

 たぶん、そうなのだと思う。

 

 その時だった。

 

「少し、よろしいでしょうか」

 

 声をかけてきたのは、さっきの荷車の男ではなかった。

 

 女だった。

 

 歳は、三十を少し越えたくらいに見える。港街の商人らしい服を着ている。派手ではないが、布は良い。髪はきっちり結われ、指には細い銀の指輪があった。

 

 笑っている。けれど、目はあまり笑っていない。

 

 女はまず、ゼパイルを見た。

 

「あなたがゼパイルさんですね。若いのに、品を見る目があると聞いています」

 

 ゼパイルの顔から、笑いが少し消えた。

 

「誰から?」

 

「この街では、目の良い人の話はすぐに広まります」

 

 それから女は、俺を見た。

 

「そして、あなたは先ほど、うちの荷を助けてくださった方ですね」

 

「うちの荷?」

 

「白灯商会の荷です」

 

 白灯商会。

 

 その名前を聞いた瞬間、ゼパイルが小さく息を吐いた。

 

 あまり良い反応ではない。

 

 女は丁寧に頭を下げた。

 

「荷も、人も、大事には至りませんでした。お礼を申し上げます」

 

「どうも」

 

「それと、もしよろしければ、お二人に少し見ていただきたい品がございます」

 

 ゼパイルが横で何も言わない。

 

「品?」

 

「ええ。霊山由来とされる品です。偽物が多いのは承知しています。ただ、その中に、ごくまれに本物が混じる」

 

 女は、そこで少しだけ声を落とした。

 

「最近、その本物だけが消えるのです」

 

 俺は黙った。

 

 ゼパイルも黙っていた。

 

 女は笑ったまま続ける。

 

「お二人なら、何か分かるかもしれない。もちろん、礼はいたします」

 

 丁寧な誘いだった。

 

 でも、どこか嫌な感じがした。

 

 ゼパイルが、俺にだけ聞こえる声で言った。

 

「兄ちゃん」

 

「何?」

 

「乗るな、とは言わない」

 

 ゼパイルは、女を見たまま続けた。

 

「ただ、こういう誘いは、だいたい相手の得になるようにできてる」

 

 その言い方で、ようやく分かった。

 

 この人は、礼を言いに来たのではない。

 

 困っているだけでもない。

 

 俺たちを、使えるかどうか見に来たのだ。

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