崑崙山で生まれたけど、外の世界では氣のことを念と呼ぶらしい 作:awazat
崑崙では、朝の霧がまだ谷に残っていた。
蓮華は茶を淹れていた。玄清は縁側に座り、遠くの山を見ている。ミナトが山を出てから、庵のまわりは少し静かになった。
「今ごろ、どのあたりかしら」
「十日ほど歩けば、港に着く」
「ちゃんと宿に泊まれているといいけれど」
「野宿でも死なん」
「そういう話ではないのよ」
蓮華は苦笑した。
玄清は茶を受け取り、少しだけ飲んだ。
「飯は食うだろう。腹が減ると動きが鈍る」
「そこはあなたに似なくてよかったわね。あの子は、おいしいものに釣られるもの」
「それはよいことだ」
「あなた、真面目な顔で変なことを言うわよね」
玄清は返事をしなかった。ただ、口元が少しだけ動いた。
「あの子、すぐ何かに巻き込まれるでしょうね」
「巻き込まれる」
玄清は静かにうなずいた。
「止めに入る。触る。余計なものを見る。だいたい、そのどれかだ」
「よく分かっているのね」
「分かっているから、外に出した」
蓮華は山の下の方を見た。霧の向こうに道は見えない。
「怪我をしないといいけれど」
「怪我はする」
「そこは否定してほしかったわ」
「死にはしない」
蓮華はため息をついた。玄清はもう一度、山の下を見た。
「ただ」
「ただ?」
「あれは、自分がどれほど目立つかを知らん」
蓮華は、少し困ったように笑った。
「そこが一番心配ね」
同じころ、俺は港街の市場で、ゼパイルと一緒に怪しい護符を眺めていた。
ゼパイルは、店先の護符を一枚つまんだ。
「霊山由来、ねえ」
札にはそう書かれていた。
隣には、仙境伝来、古山の守り、航海安全、氣を整える札、そういう品が並んでいる。崑崙の名前は大きく出ていない。ただ、高そうな箱の端にだけ、小さく「崑崙筋」と書かれていた。筋って何だ。
「外の人って、こういうの買うんだ」
「買うな。海に出る奴ほど縁起を担ぐ。山奥の霊験、仙人の加護、そういう言葉は強い」
「効かなくても?」
「効くと思って買うんだよ」
なるほど。外は難しい。
その時、通りの向こうで誰かが叫んだ。
「どけ!危ねえぞ!」
振り向くと、大きな荷車が坂を下ってきていた。荷台には木箱が積まれている。箱には、霊山由来だの、仙境伝来だの、それらしい札が貼られていた。車輪止めが外れたのか、荷運びの男が後ろから押さえようとしているが、まったく止まっていない。
その前に、子どもが飛び出した。手に持っていた果物を落としたらしい。拾おうとして、荷車に気づいていない。考えるより先に動いていた。
子どもの横に入り、肩を軽く押した。子どもは道の端へ転がる。怪我はなさそうだった。荷車の前に立った。荷車が迫る。右手を出した。手のひらが、荷台の前板に触れる。
重い。でも、重いだけだ。
力任せに止めると、荷が跳ねる。中身が壊れる。だから勢いを下へ流した。肩から腰へ。腰から足へ。足から石畳へ。
ぎし、と荷車が鳴った。
車輪が止まった。
次の瞬間、車軸の方が折れた。ばきん、と乾いた音がして、荷車が前のめりに沈む。木箱がいくつか傾いた。中身は崩れていない。子どもも無事だった。荷車を止めた、というより、荷車の方が止められたことに耐えられなかった。
「危なかった」
俺はそう言った。
周りは静かだった。
転がった子どもが、目を丸くして俺を見ている。少し遅れて、母親らしき女が駆け寄ってきた。
「す、すみません、ありがとうございます」
「怪我してないならよかったよ」
女は何度も頭を下げ、子どもを抱えて人混みの奥へ下がった。
それで終わりだと思った。
荷車の後ろから男たちが来た。
一人は大柄。
一人は棒を持っている。
一人は細身で、足音が軽い。
商会の荷運び、というより、揉め事を片づける人間に見えた。少し暴力的な雰囲気を帯びている。
「おい」
大柄な男が言った。
「誰が勝手に荷に触れって言った」
「子どもが危なかったから」
「荷車が壊れてるだろうが」
「止めなかったら、もっと壊れてたと思う」
「口答えすんな」
大柄な男が、俺の胸ぐらをつかもうとした。
俺は避けなかった。指が服に触れる前に、手首へ軽く触れる。男の膝が落ちた。
「……あ?」
本人が一番驚いていた。
二人目が棒を振った。脅すための振り方だった。大きい。遅い。殺す気も薄い。俺は棒を受けず、持ち手の指を押した。棒が落ちた。
三人目は、もう横に回っていた。速い。三人の中では一番いい。でも、見えている。俺は半歩だけ前に出た。細身の男の足が、俺のいた場所を踏む。身体が流れる。その肘に指を置く。男は、そのまま地面に落ちた。
三人とも倒れていた。
誰も殴っていない。
骨も折っていない。
たぶん。
「大丈夫?」
俺が聞くと、ゼパイルが小さく笑った。
「それは聞く側が違うと思うぞ」
通りは、さっきより静かだった。まずい。たぶん、目立った。荷車の男は黙っていた。怒っているようにも見える。けれど、それだけではなかった。壊れた荷車を見る。倒れた三人を見る。俺を見る。その目が嫌だった。値踏みするような目だった。
「……面白いな」
男はそう言った。
まったく嬉しくない。
ゼパイルが俺の袖を引いた。
「離れるぞ」
「いいの?」
「いい。あれは礼を言う顔じゃない」
「じゃあ何?」
「使い道を考えてる顔だ」
使い道。嫌な言葉だった。
俺たちは人混みから離れた。
少し歩いてから、ゼパイルが振り返る。荷車の男は、まだこちらを見ていた。
「兄ちゃん、かなり目立ったぞ」
「止めない方がよかった?」
「いや、あれは止めるだろ。子どももいた。そこはいい」
「じゃあ、何がまずいの」
「強い奴を見つけたら、怖がる奴もいる。利用しようとする奴もいる。今のは、たぶん後者だ」
山を出る前に、亀の老人が言っていた。外には、嘘、金、立場、数、道具がある。
その意味が、少し分かった気がした。
ゼパイルは、さっきの荷車の木箱を思い出すように目を細めた。
「あの荷も、さっきの店の商品も、似た札がついてたな」
「霊山由来とか?」
「そう。紙、墨、結び紐、箱の作り。癖が似てる。店ごとに勝手に作ってるわけじゃない」
「偽物にも流れがあるんだ」
「ある。偽物だからこそある」
嫌な言葉だった。
でも、少し分かる気もした。
ゼパイルは俺を見た。
「本当に、山の奥から来たのか?」
「どうしてそう思うの」
「あの札を見た顔。今の動き。あと、嘘が下手」
外の人間はやりづらい。
俺が答えずにいると、ゼパイルは笑った。
「まあ、いい。飯は食ったか?」
「まだ」
「じゃあ飯だ。腹が減ってると、値段交渉で負ける」
「母さんも似たようなこと言ってた」
「いい母親だな」
たぶん、そうなのだと思う。
その時だった。
「少し、よろしいでしょうか」
声をかけてきたのは、さっきの荷車の男ではなかった。
女だった。
歳は、三十を少し越えたくらいに見える。港街の商人らしい服を着ている。派手ではないが、布は良い。髪はきっちり結われ、指には細い銀の指輪があった。
笑っている。けれど、目はあまり笑っていない。
女はまず、ゼパイルを見た。
「あなたがゼパイルさんですね。若いのに、品を見る目があると聞いています」
ゼパイルの顔から、笑いが少し消えた。
「誰から?」
「この街では、目の良い人の話はすぐに広まります」
それから女は、俺を見た。
「そして、あなたは先ほど、うちの荷を助けてくださった方ですね」
「うちの荷?」
「白灯商会の荷です」
白灯商会。
その名前を聞いた瞬間、ゼパイルが小さく息を吐いた。
あまり良い反応ではない。
女は丁寧に頭を下げた。
「荷も、人も、大事には至りませんでした。お礼を申し上げます」
「どうも」
「それと、もしよろしければ、お二人に少し見ていただきたい品がございます」
ゼパイルが横で何も言わない。
「品?」
「ええ。霊山由来とされる品です。偽物が多いのは承知しています。ただ、その中に、ごくまれに本物が混じる」
女は、そこで少しだけ声を落とした。
「最近、その本物だけが消えるのです」
俺は黙った。
ゼパイルも黙っていた。
女は笑ったまま続ける。
「お二人なら、何か分かるかもしれない。もちろん、礼はいたします」
丁寧な誘いだった。
でも、どこか嫌な感じがした。
ゼパイルが、俺にだけ聞こえる声で言った。
「兄ちゃん」
「何?」
「乗るな、とは言わない」
ゼパイルは、女を見たまま続けた。
「ただ、こういう誘いは、だいたい相手の得になるようにできてる」
その言い方で、ようやく分かった。
この人は、礼を言いに来たのではない。
困っているだけでもない。
俺たちを、使えるかどうか見に来たのだ。