崑崙山で生まれたけど、外の世界では氣のことを念と呼ぶらしい 作:awazat
内覧の終わり近く、客が品に触れる時間があった。
係がそばにつく。布を敷く。指輪をしている客には外させる。強く持つな、傾けるな、針には触れるな、と何度も言う。
それでも、触れる。
見るだけの品と、手に取れる品では、客の顔が違った。
青磁の盃を持った老人は、指先で欠けた縁をなぞっていた。顔を隠した女は、盃の内側を覗き込む時間が長かった。欲しいとは言わない。でも、手から離すのが少し遅い。
方位針の時もそうだった。
黒い手袋の男が、静かに言った。
「拝見しても?」
女会頭は、ほんの少しだけ間を置いた。
「どうぞ。係が持ちますので、針には直接触れないように」
男はうなずいた。
係が黒い布ごと方位針を持ち上げる。男は、その布の端に黒い手袋の指を添えた。
本当に、触れただけだった。
「良い品ですね」
そう言って、笑った。
内覧は終わった。
終わってみると、部屋は急に広くなった。さっきまで人の目と、値段と、欲みたいなものが詰まっていたのに、客が減ると、灯籠の明かりだけが残った。祭りのあとみたいだと思った。
客たちは、一人ずつ女会頭のところへ寄ってから帰っていった。
「良いものを拝見しました」
「次に見られるのは、いつかしら」
「白灯さんも、ずいぶん面白いものをお持ちで」
誰も、欲しいとは言わない。欲しいと言わないのが、この場での欲しがり方なのだと、少しずつ分かってきた。
黒い手袋の男も、最後に女会頭の前で足を止めた。
「良い内覧でした」
「ありがとうございます」
女会頭は、いつもの笑みを浮かべていた。
「方位針は、今夜お譲りいただけるのでしょうか」
「今夜はお譲りしません」
「残念です」
男は、たいして残念そうではなかった。
「では、また伺います」
そう言ってから、男は俺の方へ来た。
「よい目をお持ちだ」
男が言った。俺に言ったのだと、少し遅れて分かった。
「どうも」
男は、黒い手袋をしたまま右手を差し出した。
「一度、ご挨拶を」
ただの握手。
黒い手袋。
布のはずだ。
ただの手のはずだ。
俺は一歩下がった。
「すみません」
自分でも下手だと思いながら言った。
「手が、汚れているので」
男は俺の手を見た。汚れてはいなかった。
ゼパイルが横で、変な顔をしていた。たぶん、今の断り方はかなり下手だったのだと思う。
それでも男は笑った。
「では、またいずれ」
男が部屋を出ると、小さく息を吐いた。
内覧の品が片づけられていく。青磁の盃は、布に包まれて箱へ戻された。方位針は、女会頭が自分で受け取った。錆びていて、欠けていて、見た目は本当に大したことがない。けれど、部屋の中にある時より、今の方が少し重く見えた。
値段がついたからだろうか。そう思って、少し嫌になった。
「方位針は、帳場の奥へ」
女会頭が言った。
番頭がうなずく。
「内覧で使った箱は空にして、そのまま部屋に残します」
「見張りは?」
「帳場に二人。裏口に一人」
「鍵は私が持ちます」
女会頭はそう言って、方位針の入った箱を胸の前で抱えた。
俺は、その手元を見ていた。この人は、たぶん盗まれるかもしれないと分かっている。分かっていて、出した。出して、客の顔を見た。俺にも見せた。黒い手袋の男にも見せた。餌。そういう言葉が浮かんだ。
「それ、餌だったんですか」
聞くと、ゼパイルが少しこちらを見た。女会頭は、すぐには答えなかった。
「はい」
短く言った。
「ですが、捨て餌にするつもりはありません」
「どう違うんですか」
「失えば困るかどうかです」
ひどい言い方だった。でも、分かりやすかった。
そのころ、黒い手袋の男は、白灯商会を出てすぐ、表通りには戻らなかった。
港の方へ向かう細い路地に入る。霧はまだ出ていない。でも、空気は湿っていた。石畳の隙間に、海の匂いが溜まっている。
路地の奥に、灰色の外套を着た女が立っていた。
背は低い。目立たない顔をしている。港にいる下働きか、商人の使いか、荷運びの妻か、そう言われればそんなふうにも見える。
ただ、手だけが妙にきれいだった。汚れていない。爪も短い。何かを盗む人間の手には見えなかった。
「遅い」
女が言った。
「見物が長引いた」
「で、当たりはあったのか」
「二つ」
女は嫌そうに眉を動かした。
「一つじゃないのか」
「一つは海の方だ。錆びた方位針」
「方位針?」
「白灯商会の所有物だ。内覧に出され、複数の客が価値を認めた。今は箱に戻され、人の手から離れている」
「触ったのか」
「触った。」
「もう盗る必要ないだろ」
「入口だけだ」
「入口?」
「本で言えば、表紙と題名を読んだだけだ。中身を読むには、持ち帰る必要がある」
「面倒くさい能力だな」
「高いものほど、すぐには読ませてくれない」
女は舌打ちした。
「で、もう一つは」
「少年だ」
女は少しだけ目を細めた。
「それ、予定にないだろ」
「ああ」
黒い手袋の男は、楽しそうに右手の手袋を直した。
「海の鉱脈を見に来た。だが、別の鉱脈が歩いていた」
「触ったのか」
「避けられた」
「能力を知ってるのか」
「知らないだろう」
「じゃあ、なんで避ける」
「勘だろうな」
「勘で避ける奴に手を出すなよ」
「だから面白い」
「面白くない」
女は低く言った。
「海の方だけで十分だ。余計な鉱脈に手を出すと、仕事が荒れる」
「君はいつも堅いな」
「堅いから生きてる」
女は腕を組んだ。
「情報を寄越せ」
「手を」
黒い手袋の男が言った。女は少しだけ迷ってから、手を出した。黒い手袋の男が、その手首に触れる。
セカンド・ハンド
”来歴を辿る手”
女の中に、何かが流れ込んだ。
錆びた方位針。
欠けた針。
黒い布。
白灯の灯籠の印。
女会頭の手。
内覧の客の視線。
海の匂い。
まだ読めない、遠い場所。
女は手を振り払った。
「よく知ったか」
「知った。知りたくなかったけど」
「十分だ」
「受け箱は?」
「港倉庫の裏。商会から百歩ほど」
「近いな」
「遠くすると失敗するだろう」
女は少し笑った。
それから、港の方へ歩き出した。
夜が少し深くなったころ、港に霧が出た。最初は、窓の外の灯りが少しぼやけるくらいだった。白灯商会の奥の部屋で、俺はまた茶を飲んでいた。さっきより薄い茶だった。菓子はもうなかった。
疲れているのに、眠る気にはなれなかった。内覧の空気が、まだ体のどこかに残っている。人の目。値段。欲しがっていないふりをする顔。黒い手袋の男の視線。
今日は長い。本当に長い。
ゼパイルは椅子の背に寄りかかっていた。
「眠い」
「寝れば」
「寝たら置いていくだろ、兄ちゃん」
「たぶん」
「ほらな」
俺は窓の外を見た。霧が濃くなっている。塩の匂いがする。それだけなら港だから分かる。でも、他にも混じっていた。
濡れた木。
古い鉄。
長い間閉じられていた箱を開けた時の匂い。
それから、黒い糸の時に少し似た、嫌な感じ。
俺は窓に近づいた。
「変だな」
ゼパイルも立ち上がる。
「霧は港じゃ珍しくない」
「そうじゃなくて」
「分かってる。俺でも嫌な感じはする」
「分かるの?」
「見えはしない。でも、港の顔が変わってる」
外では、店の灯りが早めに閉じ始めていた。荷運びの男が走る。船の方で鐘が鳴る。誰かが低い声で怒鳴る。霧が出ただけで、街全体が少し急いでいる。人間の方が、霧に押されているみたいだった。
部屋の外で、足音がした。
番頭が入ってくる。
「会頭」
「出ましたか」
「はい。霧が」
女会頭は立ち上がった。
「方位針は」
「帳場の奥です。見張りもおります」
「空箱は」
「内覧室に残しています」
「鍵は」
「会頭がお持ちです」
女会頭は、自分の腰の袋に触れた。ちゃんとあるらしい。この人たちは、慣れている。
何度も備えて、何度も盗られて、それでもまた備えている。
金のためか。
信用のためか。
たぶん両方だ。
「ミナトさん」
女会頭が俺を見た。
「何か感じますか」
俺は目を閉じた。方位針の場所は、はっきりとは分からない。でも、奥の方に小さく冷えた点がある。昼に見た方位針の気配だ。青磁の盃とは違う。
「まだ、あります」
俺は言った。
「でも、落ち着いてない」
「落ち着いていない?」
「そこにあるのに、そこだけを見てない感じがする」
自分でも嫌になるくらい、説明が下手だった。
女会頭は、それでも聞いていた。
ばかにもしない。
急かしもしない。
それが少しやりづらい。
同じころ、港倉庫の裏に、小さな木箱が置かれていた。どこにでもある箱だった。
灰色の外套の女は、その前にしゃがんでいた。霧が濃い。
ちょうどいい、と女は思った。霧は能力には関係ない。関係ないが、盗人にはありがたい。
女は木箱の蓋を開けた。中には、白い紙が一枚敷いてある。紙の端には、小さく印が書かれていた。
女は自分の手のひらを見た。まだ、黒い手袋の男から渡された感覚が残っている。錆びた針。欠けた先端。黒い布。白灯商会の所有。内覧の場で向けられた欲。
よく知っている。知りたくないくらいに。
「白灯商会の所有物」
女は小さく言った。
「形状、重量、傷、保管先。確認」
霧の奥で、船の鐘が鳴った。
女は、木箱の底へ指を置く。
「誰かの物で」
紙の印が、薄く濡れたように滲む。
「私が知ってる」
女は、少しだけ口元を歪めた。
「なら、落とし物だ」
ノーマンズ・ランド
”私が拾えば落とし物”
白灯商会の帳場の奥で、方位針の入った箱が小さく鳴った。音というより、木がきしむようなものだった。
俺は顔を上げた。
「今」
「どうした」
ゼパイルが聞いた。
「動いた」
女会頭の顔が変わった。
「帳場へ」
俺たちは走った。
廊下は長くなかったはずなのに、妙に長く感じた。白灯商会の中は灯りがある。それなのに、霧が入り込んでいるように薄く白い。
帳場の前には、見張りが二人いた。倒れてはいない。眠らされてもいない。ただ、二人とも扉を見ていた。
「何かありましたか」
女会頭が聞く。
「いえ、何も」
「誰か来ましたか」
「誰も」
「扉は」
「開いておりません」
嘘をついているようには見えなかった。
女会頭が鍵を出した。自分で扉を開ける。奥の小部屋に、箱が二つあった。一つは、内覧で使った空箱。囮の箱だ。もう一つは、棚の奥に置かれていた本物の箱。
女会頭は迷わず、奥の箱を開けた。中には、黒い布だけがあった。
方位針はなかった。
誰もすぐには喋らなかった。見張りの一人が、息を飲む音が聞こえた。ゼパイルがゆっくり近づいて、箱を見た。
扉を見る。
床を見る。
見張りを見る。
箱の内側を見る。
「変だな」
「どう変ですか」
女会頭の声は静かだった。
「普通の盗みなら、何か触った跡がある。焦りもある。なのに、ここは綺麗すぎる」
「仕掛けか」
俺が聞くと、ゼパイルは少しだけ顔をしかめた。
「仕掛け、で済めば分かりやすいんだけどな。でも少なくとも、手口が二つ混じってる」
「二つ?」
「一つは、品を選ぶ目。もう一つは、品を抜く手段」
ゼパイルは空の箱を指した。
「同じ奴が両方やってるとは限らない」
俺は黒い布を見た。方位針が置かれていた跡が残っている。目を凝らすと、何か薄いものがあった。紙みたいな感じだった。紙がそこにないのに、紙の跡だけ残っているような。
「拾われた」
俺は言った。自分で言って、変な言い方だと思った。でも、それが一番近かった。
「盗まれたんじゃなくて?」
ゼパイルが聞く。
「盗まれた。でも、引っ張られた感じじゃない。持っていかれた感じでもない。ここから、別の箱に移されたみたいな」
「別の箱?」
「たぶん」
ゼパイルはしばらく黙って、空の箱を見ていた。それから、少しだけ笑った。
「兄ちゃん、やっぱり頭が悪いわけじゃないな」
「そう見えてた?」
「見えてた」
「ひどい」
「ひどくはない。変なんだよ。普通の奴が鍵を見るところで、お前は箱の中の変な跡を見る。普通の奴が犯人を探すところで、お前は品がどこへ行ったかを見る」
ゼパイルは、黒い布の上を指でなぞらずに見た。
「だから、たまに馬鹿みたいに見える。でも今のは、たぶん当たりだ」
褒められたのか、けなされたのか、よく分からなかった。
前の世界のことは、ときどき夢みたいに浮かぶ。夜の明かりとか、電車の音とか、画面の中で見た物語とか。そういうものは覚えている。
でも、こういう時に役に立つほど、はっきりした知識ではない。
だから俺は、外の作法をよく知らない。握手を断るのが失礼なのかどうかも、正直よく分からなかった。ただ、あの手には触りたくなかった。それだけは、はっきりしていた。
女会頭は、箱の中を見ていた。顔色は変わっていない。けれど、手だけが少し固かった。怒っている。たぶん。
「内通者は」
番頭が言いかけた。女会頭は首を振った。
「今は後です」
その判断は早かった。責めるより、追う方を選んだ。こういうところも、頭がいい。少し怖い。
「追えますか」
女会頭が俺を見た。
俺は黒い布の上の、見えない紙の跡みたいなものを見た。そこから、細い気配が伸びている。
港の方へ。
海の方へ。
正確には、港の方へ置かれた何かへ。
「追えるかもしれない」
「行くのか」
ゼパイルが聞いた。
「うん」
「危ないな」
「うん」
「止めても行くな」
「たぶん」
「正直でよろしい」
ゼパイルは天井を見た。
「俺、なんでついて行く流れになってるんだろうな」
「嫌なら残ってていいよ」
「そういう言い方をされると、残りにくいんだよ」
女会頭が言った。
「人を出します」
「出さない方がいい」
ゼパイルがすぐに言った。
「大勢で動いたら相手に気づかれる。あと、商会の中に情報を抜かれてる可能性がある」
女会頭は黙った。
「では、二人で?」
「俺は戦えませんよ」
「知っています」
「はっきり言うなあ」
女会頭は俺を見た。
「ミナトさん」
「はい」
「取り返せるなら、取り返してください」
その言い方は、頼みというより取引に近かった。でも、嫌ではなかった。この人は、嘘をきれいな言葉で包まない。それだけは少し信用できた。
「行ってきます」
俺は言った。
霧の中へ出る前に、ゼパイルが小さく言った。
「兄ちゃん」
「何」
「足元、見ろよ」
「比喩?」
「今回は本当に見ろ。港の夜は、転ぶと汚い」
俺は足元を見た。
濡れた石畳が白く光っている。
よく分からないけど、少しだけ安心した。俺たちは、白い夜の中へ進んだ。
港倉庫の裏で、灰色の外套の女は木箱の蓋を閉じた。中には、錆びた方位針が入っている。針は、まだかすかに震えていた。
「盗れたぞ」
女は小さく言った。
霧の向こうから、黒い手袋の男が現れた。
「早い」
「近かったからな。あんたが余計なものを見てなきゃ、もっと早い」
「それは惜しい」
「何が」
「別の鉱脈だ」
女は木箱を抱えたまま、嫌そうに顔をしかめた。
「まだ言ってる」
「海の品も悪くない。だが、あの少年は別だ」
「品じゃないだろ」
「そうだな」
黒い手袋の男は、少しだけ笑った。
「だから良い」
女は黙った。その沈黙は、同意ではなかった。むしろ、少し引いている沈黙だった。