崑崙山で生まれたけど、外の世界では氣のことを念と呼ぶらしい   作:awazat

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第7話 手を離れたもの

 内覧の終わり近く、客が品に触れる時間があった。

 

 係がそばにつく。布を敷く。指輪をしている客には外させる。強く持つな、傾けるな、針には触れるな、と何度も言う。

 

 それでも、触れる。

 

 見るだけの品と、手に取れる品では、客の顔が違った。

 

 青磁の盃を持った老人は、指先で欠けた縁をなぞっていた。顔を隠した女は、盃の内側を覗き込む時間が長かった。欲しいとは言わない。でも、手から離すのが少し遅い。

 

 方位針の時もそうだった。

 

 黒い手袋の男が、静かに言った。

 

「拝見しても?」

 

 女会頭は、ほんの少しだけ間を置いた。

 

「どうぞ。係が持ちますので、針には直接触れないように」

 

 男はうなずいた。

 

 係が黒い布ごと方位針を持ち上げる。男は、その布の端に黒い手袋の指を添えた。

 

 本当に、触れただけだった。

 

「良い品ですね」

 

 そう言って、笑った。

 

 内覧は終わった。

 

 終わってみると、部屋は急に広くなった。さっきまで人の目と、値段と、欲みたいなものが詰まっていたのに、客が減ると、灯籠の明かりだけが残った。祭りのあとみたいだと思った。

 

 客たちは、一人ずつ女会頭のところへ寄ってから帰っていった。

 

「良いものを拝見しました」

 

「次に見られるのは、いつかしら」

 

「白灯さんも、ずいぶん面白いものをお持ちで」

 

 誰も、欲しいとは言わない。欲しいと言わないのが、この場での欲しがり方なのだと、少しずつ分かってきた。

 

 黒い手袋の男も、最後に女会頭の前で足を止めた。

 

「良い内覧でした」

 

「ありがとうございます」

 

 女会頭は、いつもの笑みを浮かべていた。

 

「方位針は、今夜お譲りいただけるのでしょうか」

 

「今夜はお譲りしません」

 

「残念です」

 

 男は、たいして残念そうではなかった。

 

「では、また伺います」

 

 そう言ってから、男は俺の方へ来た。

 

「よい目をお持ちだ」

 

 男が言った。俺に言ったのだと、少し遅れて分かった。

 

「どうも」

 

 男は、黒い手袋をしたまま右手を差し出した。

 

「一度、ご挨拶を」

 

 ただの握手。

 

 黒い手袋。

 

 布のはずだ。

 

 ただの手のはずだ。

 

 俺は一歩下がった。

 

「すみません」

 

 自分でも下手だと思いながら言った。

 

「手が、汚れているので」

 

 男は俺の手を見た。汚れてはいなかった。

 

 ゼパイルが横で、変な顔をしていた。たぶん、今の断り方はかなり下手だったのだと思う。

 

 それでも男は笑った。

 

「では、またいずれ」

 

 男が部屋を出ると、小さく息を吐いた。

 

 内覧の品が片づけられていく。青磁の盃は、布に包まれて箱へ戻された。方位針は、女会頭が自分で受け取った。錆びていて、欠けていて、見た目は本当に大したことがない。けれど、部屋の中にある時より、今の方が少し重く見えた。

 

 値段がついたからだろうか。そう思って、少し嫌になった。

 

「方位針は、帳場の奥へ」

 

 女会頭が言った。

 

 番頭がうなずく。

 

「内覧で使った箱は空にして、そのまま部屋に残します」

 

「見張りは?」

 

「帳場に二人。裏口に一人」

 

「鍵は私が持ちます」

 

 女会頭はそう言って、方位針の入った箱を胸の前で抱えた。

 

 俺は、その手元を見ていた。この人は、たぶん盗まれるかもしれないと分かっている。分かっていて、出した。出して、客の顔を見た。俺にも見せた。黒い手袋の男にも見せた。餌。そういう言葉が浮かんだ。

 

「それ、餌だったんですか」

 

 聞くと、ゼパイルが少しこちらを見た。女会頭は、すぐには答えなかった。

 

「はい」

 

 短く言った。

 

「ですが、捨て餌にするつもりはありません」

 

「どう違うんですか」

 

「失えば困るかどうかです」

 

 ひどい言い方だった。でも、分かりやすかった。

 

 そのころ、黒い手袋の男は、白灯商会を出てすぐ、表通りには戻らなかった。

 

 港の方へ向かう細い路地に入る。霧はまだ出ていない。でも、空気は湿っていた。石畳の隙間に、海の匂いが溜まっている。

 

 路地の奥に、灰色の外套を着た女が立っていた。

 

 背は低い。目立たない顔をしている。港にいる下働きか、商人の使いか、荷運びの妻か、そう言われればそんなふうにも見える。

 

 ただ、手だけが妙にきれいだった。汚れていない。爪も短い。何かを盗む人間の手には見えなかった。

 

「遅い」

 

 女が言った。

 

「見物が長引いた」

 

「で、当たりはあったのか」

 

「二つ」

 

 女は嫌そうに眉を動かした。

 

「一つじゃないのか」

 

「一つは海の方だ。錆びた方位針」

 

「方位針?」

 

「白灯商会の所有物だ。内覧に出され、複数の客が価値を認めた。今は箱に戻され、人の手から離れている」

 

「触ったのか」

 

「触った。」

 

「もう盗る必要ないだろ」

 

「入口だけだ」

 

「入口?」

 

「本で言えば、表紙と題名を読んだだけだ。中身を読むには、持ち帰る必要がある」

 

「面倒くさい能力だな」

 

「高いものほど、すぐには読ませてくれない」

 

 女は舌打ちした。

 

「で、もう一つは」

 

「少年だ」

 

 女は少しだけ目を細めた。

 

「それ、予定にないだろ」

 

「ああ」

 

 黒い手袋の男は、楽しそうに右手の手袋を直した。

 

「海の鉱脈を見に来た。だが、別の鉱脈が歩いていた」

 

「触ったのか」

 

「避けられた」

 

「能力を知ってるのか」

 

「知らないだろう」

 

「じゃあ、なんで避ける」

 

「勘だろうな」

 

「勘で避ける奴に手を出すなよ」

 

「だから面白い」

 

「面白くない」

 

 女は低く言った。

 

「海の方だけで十分だ。余計な鉱脈に手を出すと、仕事が荒れる」

 

「君はいつも堅いな」

 

「堅いから生きてる」

 

 女は腕を組んだ。

 

「情報を寄越せ」

 

「手を」

 

 黒い手袋の男が言った。女は少しだけ迷ってから、手を出した。黒い手袋の男が、その手首に触れる。

 

   セカンド・ハンド

   ”来歴を辿る手”

 

 女の中に、何かが流れ込んだ。

 

 錆びた方位針。

 欠けた針。

 黒い布。

 白灯の灯籠の印。

 女会頭の手。

 内覧の客の視線。

 海の匂い。

 まだ読めない、遠い場所。

 

 女は手を振り払った。

 

「よく知ったか」

 

「知った。知りたくなかったけど」

 

「十分だ」

 

「受け箱は?」

 

「港倉庫の裏。商会から百歩ほど」

 

「近いな」

 

「遠くすると失敗するだろう」

 

 女は少し笑った。

 

 それから、港の方へ歩き出した。

 

 夜が少し深くなったころ、港に霧が出た。最初は、窓の外の灯りが少しぼやけるくらいだった。白灯商会の奥の部屋で、俺はまた茶を飲んでいた。さっきより薄い茶だった。菓子はもうなかった。

 

 疲れているのに、眠る気にはなれなかった。内覧の空気が、まだ体のどこかに残っている。人の目。値段。欲しがっていないふりをする顔。黒い手袋の男の視線。

 

 今日は長い。本当に長い。

 

 ゼパイルは椅子の背に寄りかかっていた。

 

「眠い」

 

「寝れば」

 

「寝たら置いていくだろ、兄ちゃん」

 

「たぶん」

 

「ほらな」

 

 俺は窓の外を見た。霧が濃くなっている。塩の匂いがする。それだけなら港だから分かる。でも、他にも混じっていた。

 

 濡れた木。

 古い鉄。

 長い間閉じられていた箱を開けた時の匂い。

 それから、黒い糸の時に少し似た、嫌な感じ。

 

 俺は窓に近づいた。

 

「変だな」

 

 ゼパイルも立ち上がる。

 

「霧は港じゃ珍しくない」

 

「そうじゃなくて」

 

「分かってる。俺でも嫌な感じはする」

 

「分かるの?」

 

「見えはしない。でも、港の顔が変わってる」

 

 外では、店の灯りが早めに閉じ始めていた。荷運びの男が走る。船の方で鐘が鳴る。誰かが低い声で怒鳴る。霧が出ただけで、街全体が少し急いでいる。人間の方が、霧に押されているみたいだった。

 

 部屋の外で、足音がした。

 

 番頭が入ってくる。

 

「会頭」

 

「出ましたか」

 

「はい。霧が」

 

 女会頭は立ち上がった。

 

「方位針は」

 

「帳場の奥です。見張りもおります」

 

「空箱は」

 

「内覧室に残しています」

 

「鍵は」

 

「会頭がお持ちです」

 

 女会頭は、自分の腰の袋に触れた。ちゃんとあるらしい。この人たちは、慣れている。

 

 何度も備えて、何度も盗られて、それでもまた備えている。

 

 金のためか。

 信用のためか。

 たぶん両方だ。

 

「ミナトさん」

 

 女会頭が俺を見た。

 

「何か感じますか」

 

 俺は目を閉じた。方位針の場所は、はっきりとは分からない。でも、奥の方に小さく冷えた点がある。昼に見た方位針の気配だ。青磁の盃とは違う。

 

「まだ、あります」

 

 俺は言った。

 

「でも、落ち着いてない」

 

「落ち着いていない?」

 

「そこにあるのに、そこだけを見てない感じがする」

 

 自分でも嫌になるくらい、説明が下手だった。

 

 女会頭は、それでも聞いていた。

 ばかにもしない。

 急かしもしない。

 それが少しやりづらい。

 

 同じころ、港倉庫の裏に、小さな木箱が置かれていた。どこにでもある箱だった。

 

 灰色の外套の女は、その前にしゃがんでいた。霧が濃い。

 

 ちょうどいい、と女は思った。霧は能力には関係ない。関係ないが、盗人にはありがたい。

 

 女は木箱の蓋を開けた。中には、白い紙が一枚敷いてある。紙の端には、小さく印が書かれていた。

 

 女は自分の手のひらを見た。まだ、黒い手袋の男から渡された感覚が残っている。錆びた針。欠けた先端。黒い布。白灯商会の所有。内覧の場で向けられた欲。

 

 よく知っている。知りたくないくらいに。

 

「白灯商会の所有物」

 

 女は小さく言った。

 

「形状、重量、傷、保管先。確認」

 

 霧の奥で、船の鐘が鳴った。

 

 女は、木箱の底へ指を置く。

 

「誰かの物で」

 

 紙の印が、薄く濡れたように滲む。

 

「私が知ってる」

 

 女は、少しだけ口元を歪めた。

 

「なら、落とし物だ」

 

    ノーマンズ・ランド

   ”私が拾えば落とし物”

 

 白灯商会の帳場の奥で、方位針の入った箱が小さく鳴った。音というより、木がきしむようなものだった。

 

 俺は顔を上げた。

 

「今」

 

「どうした」

 

 ゼパイルが聞いた。

 

「動いた」

 

 女会頭の顔が変わった。

 

「帳場へ」

 

 俺たちは走った。

 

 廊下は長くなかったはずなのに、妙に長く感じた。白灯商会の中は灯りがある。それなのに、霧が入り込んでいるように薄く白い。

 

 帳場の前には、見張りが二人いた。倒れてはいない。眠らされてもいない。ただ、二人とも扉を見ていた。

 

「何かありましたか」

 

 女会頭が聞く。

 

「いえ、何も」

 

「誰か来ましたか」

 

「誰も」

 

「扉は」

 

「開いておりません」

 

 嘘をついているようには見えなかった。

 

 女会頭が鍵を出した。自分で扉を開ける。奥の小部屋に、箱が二つあった。一つは、内覧で使った空箱。囮の箱だ。もう一つは、棚の奥に置かれていた本物の箱。

 

 女会頭は迷わず、奥の箱を開けた。中には、黒い布だけがあった。

 

 方位針はなかった。

 

 誰もすぐには喋らなかった。見張りの一人が、息を飲む音が聞こえた。ゼパイルがゆっくり近づいて、箱を見た。

 

 扉を見る。

 床を見る。

 見張りを見る。

 箱の内側を見る。

 

「変だな」

 

「どう変ですか」

 

 女会頭の声は静かだった。

 

「普通の盗みなら、何か触った跡がある。焦りもある。なのに、ここは綺麗すぎる」

 

「仕掛けか」

 

 俺が聞くと、ゼパイルは少しだけ顔をしかめた。

 

「仕掛け、で済めば分かりやすいんだけどな。でも少なくとも、手口が二つ混じってる」

 

「二つ?」

 

「一つは、品を選ぶ目。もう一つは、品を抜く手段」

 

 ゼパイルは空の箱を指した。

 

「同じ奴が両方やってるとは限らない」

 

 俺は黒い布を見た。方位針が置かれていた跡が残っている。目を凝らすと、何か薄いものがあった。紙みたいな感じだった。紙がそこにないのに、紙の跡だけ残っているような。

 

「拾われた」

 

 俺は言った。自分で言って、変な言い方だと思った。でも、それが一番近かった。

 

「盗まれたんじゃなくて?」

 

 ゼパイルが聞く。

 

「盗まれた。でも、引っ張られた感じじゃない。持っていかれた感じでもない。ここから、別の箱に移されたみたいな」

 

「別の箱?」

 

「たぶん」

 

 ゼパイルはしばらく黙って、空の箱を見ていた。それから、少しだけ笑った。

 

「兄ちゃん、やっぱり頭が悪いわけじゃないな」

 

「そう見えてた?」

 

「見えてた」

 

「ひどい」

 

「ひどくはない。変なんだよ。普通の奴が鍵を見るところで、お前は箱の中の変な跡を見る。普通の奴が犯人を探すところで、お前は品がどこへ行ったかを見る」

 

 ゼパイルは、黒い布の上を指でなぞらずに見た。

 

「だから、たまに馬鹿みたいに見える。でも今のは、たぶん当たりだ」

 

 褒められたのか、けなされたのか、よく分からなかった。

 

 前の世界のことは、ときどき夢みたいに浮かぶ。夜の明かりとか、電車の音とか、画面の中で見た物語とか。そういうものは覚えている。

 

 でも、こういう時に役に立つほど、はっきりした知識ではない。

 

 だから俺は、外の作法をよく知らない。握手を断るのが失礼なのかどうかも、正直よく分からなかった。ただ、あの手には触りたくなかった。それだけは、はっきりしていた。

 

 女会頭は、箱の中を見ていた。顔色は変わっていない。けれど、手だけが少し固かった。怒っている。たぶん。

 

「内通者は」

 

 番頭が言いかけた。女会頭は首を振った。

 

「今は後です」

 

 その判断は早かった。責めるより、追う方を選んだ。こういうところも、頭がいい。少し怖い。

 

「追えますか」

 

 女会頭が俺を見た。

 

 俺は黒い布の上の、見えない紙の跡みたいなものを見た。そこから、細い気配が伸びている。

 

 港の方へ。

 海の方へ。

 正確には、港の方へ置かれた何かへ。

 

「追えるかもしれない」

 

「行くのか」

 

 ゼパイルが聞いた。

 

「うん」

 

「危ないな」

 

「うん」

 

「止めても行くな」

 

「たぶん」

 

「正直でよろしい」

 

 ゼパイルは天井を見た。

 

「俺、なんでついて行く流れになってるんだろうな」

 

「嫌なら残ってていいよ」

 

「そういう言い方をされると、残りにくいんだよ」

 

 女会頭が言った。

 

「人を出します」

 

「出さない方がいい」

 

 ゼパイルがすぐに言った。

 

「大勢で動いたら相手に気づかれる。あと、商会の中に情報を抜かれてる可能性がある」

 

 女会頭は黙った。

 

「では、二人で?」

 

「俺は戦えませんよ」

 

「知っています」

 

「はっきり言うなあ」

 

 女会頭は俺を見た。

 

「ミナトさん」

 

「はい」

 

「取り返せるなら、取り返してください」

 

 その言い方は、頼みというより取引に近かった。でも、嫌ではなかった。この人は、嘘をきれいな言葉で包まない。それだけは少し信用できた。

 

「行ってきます」

 

 俺は言った。

 

 霧の中へ出る前に、ゼパイルが小さく言った。

 

「兄ちゃん」

 

「何」

 

「足元、見ろよ」

 

「比喩?」

 

「今回は本当に見ろ。港の夜は、転ぶと汚い」

 

 俺は足元を見た。

 

 濡れた石畳が白く光っている。

 

 よく分からないけど、少しだけ安心した。俺たちは、白い夜の中へ進んだ。

 

 港倉庫の裏で、灰色の外套の女は木箱の蓋を閉じた。中には、錆びた方位針が入っている。針は、まだかすかに震えていた。

 

「盗れたぞ」

 

 女は小さく言った。

 

 霧の向こうから、黒い手袋の男が現れた。

 

「早い」

 

「近かったからな。あんたが余計なものを見てなきゃ、もっと早い」

 

「それは惜しい」

 

「何が」

 

「別の鉱脈だ」

 

 女は木箱を抱えたまま、嫌そうに顔をしかめた。

 

「まだ言ってる」

 

「海の品も悪くない。だが、あの少年は別だ」

 

「品じゃないだろ」

 

「そうだな」

 

 黒い手袋の男は、少しだけ笑った。

 

「だから良い」

 

 女は黙った。その沈黙は、同意ではなかった。むしろ、少し引いている沈黙だった。

 

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