傍観竜ガレヲンは今日も空を満喫する 作:好きな性癖発表ドラゴン
眠い。
最初に浮かんだのは、それだった。
眠い。
帰りたい。
目の奥が熱い。
こめかみのあたりが鈍く痛む。
机の上には、冷めきった缶コーヒーがあった。半分以上残っている。飲むつもりで開けたはずなのに、いつの間にか味よりも苦さだけを想像するものになっていた。
画面には、まだ終わっていない資料。
右下の時計は、とっくに日付を越えていた。
通知が鳴る。
まただ。
誰かからの確認。
誰かからの催促。
誰かからの「明日の朝までにお願いします」。
明日の朝。
今はもう、明日の朝に片足を突っ込んでいるというのに。
指が動いた。
慣れた手つきで、文字を打つ。
『承知しました。対応します』
本当は、承知などしていない。
本当は、対応などしたくない。
けれど、そう打つしかなかった。
自分が止まれば、何かが止まる。
自分が投げれば、誰かに迷惑がかかる。
誰かがやらなければいけない。
だから、やるしかない。
そんな言葉を、何度も何度も、心の中で呟いてきた気がする。
もう少しだけ。
これが終わったら。
明日を乗り切ったら。
今週さえ越えれば。
そうやって積み重なった「あと少し」は、いつの間にか、足元を埋める泥のようになっていた。
重い。
動けない。
けれど、止まることもできない。
キーボードの光が滲む。
画面の文字が、ゆっくりぼやける。
指先が冷たい。
背中が固い。
息を吸っているはずなのに、肺の奥まで空気が届かない。
誰かの声がした気がした。
大丈夫か、と。
あるいは、まだ終わっていないぞ、と。
どちらだったのかは、もう分からない。
額が、机に近づいていく。
視界が傾く。
指先が、最後にひとつだけキーを叩いた。
それから。
意識は、土の底へ沈むように途切れた。
――音がした。
鼓動ではなかった。
心臓の音ではない。
もっと大きく、もっと深く、もっと遠いもの。
大地の奥を流れる、重く穏やかな脈動。
目を開けるより先に、それが分かった。
いや。
目を開ける、という感覚そのものが、すでに人のものではなかった。
自分の下に島がある。
島の下には空があり、空の下にはさらに遠い何かがある。
地層が重なり、岩が眠り、根が水を吸い上げ、土の粒が互いに身を寄せ合っている。
草の根が震える。
小さな虫が地中を進む。
遠くで崖が軋む。
山の腹に溜まった熱が、ゆっくりと息をする。
分かる。
聞こえる。
触れている。
いや、違う。
触れているのではない。
繋がっている。
己の爪が、大地を掴んでいた。
巨大な爪。
岩盤を噛み、山肌に深く食い込む爪。
尾がある。
長く、重く、島の稜線と見紛うほどの尾。
翼がある。
広げれば雲海を押し退け、空の流れそのものを変えてしまいそうな翼。
鱗がある。
岩のように硬く、鉱脈のように深く、土の底に眠る金属の輝きを内側に秘めた鱗。
息をする。
それだけで、地脈が震えた。
山がわずかに鳴り、眠っていた石が目を覚ます。
人間ではない。
獣でもない。
竜。
それも、ただの竜ではない。
その理解は、記憶より先にあった。
六竜。
金。
土の理を司る楔。
創世期より存在する、大いなる竜。
空の世界の大地を支えるもの。
名は――
「覚醒。(我は、ガレヲン)」
声が響いた。
口から出たようで、違う。
咆哮であったようで、言葉でもあった。
空気を震わせたようで、世界の内側へ直接落ちたようでもあった。
ガレヲン。
その名を理解した瞬間、視界が開けた。
雲海があった。
果てしない空があった。
青く、広く、どこまでも抜けている。
地上ではない。
大地は、空に浮いていた。
島々が雲の上に点在し、遠くで騎空艇らしき影がゆっくりと航跡を引いている。
知らない景色。
けれど、知っている景色。
あり得ないほど巨大な自分の感覚の中に、別の記憶が浮かび上がる。
前世。
そう呼ぶしかないもの。
狭い部屋。
満員電車。
終わらない仕事。
鳴り続ける通知。
削られる睡眠。
冷めたコーヒー。
机に沈む意識。
自分は、たぶん男だった。
妙齢、という言い方が正しいかどうかは分からない。若くはない。けれど老人でもない。社会に揉まれ、責任という名の重りをいくつも背負わされ、そのうちいくつが本当に自分のものだったのかも分からなくなっていた。
男だった。
はずだ。
だが、今は違う。
人ですらない。
性別という区分が、そもそもこの巨躯には馴染まない。
人でもなく。
獣でもなく。
空の世界の理に近い竜。
ならば、男だったか女だったかなど、今さら大した問題ではなかった。
「確認。(前世、男)」
しばし沈黙。
「確認。(現在、竜)」
さらに沈黙。
「問題なし。(些事)」
本当に、どうでもよかった。
性別。
年齢。
前世の名前。
そのあたりの輪郭は、土に染みた雨水のように曖昧になっていた。
ただ、感覚だけは残っている。
疲れていた。
縛られていた。
何かに追われ続けていた。
だからこそ、今のこの身体が理解している自由の広さに、魂の奥が静かに震えた。
けれど、その震えが落ち着くより早く、別のものが押し寄せた。
知識。
記憶ではない。
経験でもない。
けれど、確かに知っているもの。
青い少女。
赤い小さな相棒。
星の島を目指す騎空士。
黒き鎧の騎士。
帝国。
星晶獣。
星の民。
覇空戦争。
天司。
堕天司。
空の底に広がる赤き地平。
十の武器を極めし者たち。
十二の巡りを背負う者たち。
封印された錬金術師。
失われる命。
救われる命。
笑う者。
泣く者。
壊れる者。
戻らない者。
知っている。
知っているはずがないのに、知っている。
それは物語のようでもあり、歴史のようでもあり、未来のようでもあった。
誰が、いつ、どこで傷つくのか。
誰が立ち上がり、誰が倒れ、誰が救われずに消えるのか。
そのすべてが、地層のように意識の中へ積み重なっていく。
重い。
だが、前世の仕事とは違う重さだった。
これは、命の重さだ。
空の世界に生きる、数えきれない命の足跡。
それを、ガレヲンは知っていた。
知りすぎていた。
ならば。
変えるべきか。
そう考えた瞬間、大地の奥が低く鳴った。
自分には力がある。
ありすぎるほどに。
地を動かし、島を傾け、土を盛り、山を割り、流れを整えることができる。
目の前で崩れる足場を支えるなど、容易い。
誰かが死へ向かう道を、別の方向へ押し流すことも、できるかもしれない。
全てを知っているなら。
全てを変えることも、できるのかもしれない。
だが。
それは、本当に救いなのか。
空の命は、自ら歩く。
迷い、選び、傷つき、それでも前へ進む。
その歩みの尊さを、ガレヲンの内側にある何かは知っていた。
六竜としての本能か。
前世で、誰かに自分の時間を奪われ続けた男の残滓か。
分からない。
ただ、ひとつだけ確かだった。
力あるものが、全ての選択を奪ってはいけない。
救うという名で、歩く権利まで取り上げてはいけない。
だから、結論は静かに落ちた。
「静観。(我、空の命の歩みを奪わない)」
空が、風を鳴らした。
遠くの草原で、草が揺れる。
けれど、そこで終わりではなかった。
冷たい結論ではない。
見捨てるための静観ではない。
歩みを奪わない。
それだけだ。
もし、その足元の土が崩れるなら。
ほんの少し、支えるくらいは。
「祝福。(されど、足元の土が崩れぬことくらいは願う)」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
まだ出会っていない騎空士へ。
まだ旅立っていない青い少女へ。
まだ笑っている誰かへ。
いつか泣く誰かへ。
そして、過去の自分へ。
眠れなかった男へ。
帰りたいと言えなかった男へ。
自分の足元が崩れていることに、気づく余裕すらなかった男へ。
静かに、祝福を置いた。
そこで、ふと。
気づいた。
仕事がない。
いや、正確には、世界の理としての役割はある。
六竜の金。
土の理を安定させる楔。
それは間違いなく、重い在り方なのだろう。
だが、少なくとも。
上司はいない。
納期もない。
出勤時間もない。
勤怠を打刻する必要もない。
深夜に通知が鳴ることもない。
誰かから「明日の朝までにお願いします」と投げられることもない。
ガレヲンは、ひとつずつ確認した。
「確認。(納期、なし)」
風が吹く。
「確認。(上司、なし)」
雲が流れる。
「確認。(出勤、不要)」
遠くで鳥のようなものが鳴いた。
「確認。(睡眠、任意)」
沈黙。
それから、胸の奥に、じんわりと温かいものが広がった。
「歓喜。(自由)」
自由。
その言葉は、思ったよりも柔らかかった。
前世では、休日という言葉ですら、どこかに仕事の影がついて回っていた。
休んでいても、頭の端では翌日のことを考えていた。
眠っていても、通知音に似た幻聴で目が覚めたことがある。
けれど、今は違う。
空が広い。
大地が深い。
そして自分は、歩きたい方へ歩ける。
命は、削られるためにあるのではない。
働くためだけに生きるのではない。
歩くためにある。
食べるためにある。
眠るためにある。
笑うためにある。
空の命は、そのために息をしている。
だから。
「不快。(休息なき労働は、悪)」
まだ何も見ていない。
まだ誰にも会っていない。
それでも、その感覚だけは、深く土に刻まれた。
命を道具のように削る在り方。
それだけは、どうにも好ましくない。
ガレヲンは身じろぎをした。
大地が応える。
巨大な爪が岩盤からわずかに離れ、尾がゆるやかに動く。
その一動作だけで、周囲の地脈がほんの少し整った。
山肌に溜まっていた緊張が抜ける。
小さな落石が止まる。
根が深く息をする。
それは彼女にとって、肩を回す程度の動きだった。
「伸長。(身体、良好)」
竜の巨躯が、ゆっくりと空を見上げる。
どこまでも青い。
ビルの隙間から見上げる空ではない。
窓ガラス越しに、疲れた目で眺める空でもない。
雲海の上に広がる、本物の空。
騎空艇がひとつ、遠くを横切っていく。
その下には、いくつもの島。
そこに人が住んでいる。
笑い、怒り、働き、眠り、恋をし、別れ、祈り、また明日へ歩いていく。
騒がしい。
忙しない。
短い。
けれど、どうしようもなく眩しい。
「観察。(空の命、実に騒がしい)」
少し、目を細める。
「理解。(されど、愛おしい)」
そう思った瞬間。
風が、何かを運んできた。
甘い匂いだった。
焼けた餅。
蜜。
焦げた砂糖。
茶葉の香り。
遠くの港町。
屋台。
人の営み。
食。
ガレヲンはしばらく沈黙した。
空の世界を知るには、空の命の営みを知る必要がある。
営みとは、衣食住。
衣は、竜の身には不要。
住は、大地そのものが寝床となる。
ならば、まずは食。
とりわけ、甘味。
非常に論理的である。
「決定。(観光)」
そうして、竜は一歩を踏み出そうとした。
だが、直前で止まる。
このまま降りれば、港町は大混乱に陥る。
巨大な竜が山を越えて現れたなら、人の子らは逃げる。
店は閉まる。
屋台も片づけられる。
甘味が買えない。
それは困る。
「思案。(人の営みを知るには、人の姿が適切)」
大地の奥で、地脈がゆるやかに組み替わる。
岩のような巨躯が、ほどけていく。
島の稜線と見紛う尾が、光と土の粒へ解ける。
翼が畳まれ、爪が縮み、鱗の硬さが人の肌の形へ収まっていく。
竜の威容は消えない。
ただ、人の子が見上げずに済む大きさへと、器を変えた。
やがて、そこに立っていたのは、ひとりの女だった。
長い髪。
竜の名残を宿す角。
人の形を取りながら、人の範疇に収まらない気配。
小さくなった。
弱くなったわけではない。
ただ、人の世に紛れるための姿。
ガレヲンは、自らの身体を確認する。
手がある。
足がある。
歩幅は、先ほどよりずっと小さい。
人の子らの道を壊さずに歩ける。
良好。
ふと、前世の感覚が囁く。
これは、人間社会ではどう見えるのだろうか。
ガレヲンは少し考えた。
「確認。(人型、形成)」
さらに確認する。
「確認。(見目、良好)」
そして、結論。
「結論。(ナイスバディ)」
問題はなかった。
前世は男だった気がする。
本体は竜である。
今は人の女の姿を取っている。
分類は複雑だが、重要ではない。
自由であることの方が、はるかに重要だった。
「目的。(甘味)」
ガレヲンは歩き出した。
世界を救うためではない。
歴史を変えるためでもない。
ただ、甘い匂いのする方へ。
足元の土が、彼女の歩みに合わせて柔らかく沈む。
山道を下り、草原を抜け、小さな石橋を渡る。
途中、道端の花がわずかに揺れた。
小さな虫が、彼女の影を避けて土に潜る。
ガレヲンはそれを見て、わずかに頷いた。
「賢明。(踏まれぬ選択、良し)」
やがて、港町が見えてきた。
浮島の端に作られた、小さな町だった。
木造の家々。
石畳の道。
停泊する小型騎空艇。
荷を運ぶ人々。
走り回る子ども。
昼間から酒場で笑う騎空士たち。
屋台の煙が、青空へ細く上っている。
人々は、突然現れた美しい女性に目を奪われた。
当然だった。
歩き方が違う。
纏う空気が違う。
美しい、という言葉では足りない。
人の姿をしているのに、人の枠に収まっていない。
だが、当の本人はまったく気にしていない。
視線の先には、屋台。
団子。
甘味。
それだけである。
店主は、串を焼く手を止めた。
「え、ええと……お嬢さん、何にする?」
お嬢さん。
その呼び名に、ガレヲンは少しだけ考えた。
前世は男だった気がする。
本体は竜である。
現在は人の女の姿を取っている。
なるほど。
人型社会は、なかなか複雑である。
「理解。(人の分類、興味深い)」
「え?」
「問題なし。(お嬢さんで可)」
「あ、ああ……そうかい」
店主は困ったように笑った。
ガレヲンは屋台の品書きを眺めた。
醤油。
蜜。
餡。
きな粉。
焼き目のついたもの。
柔らかく蒸したもの。
種類がある。
選ぶ必要がある。
ガレヲンは、少し考えた。
そして、答えた。
「購入。(全種)」
「ぜ、全部?」
「肯定。(全種)」
「一本ずつでいいのかい?」
ガレヲンは、店主を見た。
不思議そうに。
「疑問。(なぜ一本で足りると判断した)」
「いや、普通は……」
「提案。(店主の限界まで)」
店主が固まった。
周囲の客も固まった。
子どもが、ぽかんと口を開けている。
ガレヲンは胸に手を当て、静かに言った。
「安心。(対価は支払う)」
「そ、そういう問題かねぇ……」
それでも商売人である。
店主は戸惑いながらも、団子を焼き始めた。
甘い匂いが強くなる。
ガレヲンの目が、わずかに輝いた。
「期待。(空の叡智に触れる時)」
「大げさだねぇ、お嬢さん」
焼き上がった団子が差し出される。
ガレヲンは受け取った。
白く柔らかな団子。
表面に蜜がかかり、陽の光を受けて艶めいている。
口へ運ぶ。
噛む。
柔らかい。
甘い。
ほんの少し焦げた香ばしさが、舌の上に広がる。
前世で最後に何を食べたのか、もう思い出せなかった。
コンビニのおにぎりだったか。
冷めた弁当だったか。
それとも、何も食べていなかったか。
分からない。
けれど今、この瞬間だけは確かだった。
自由とは。
好きな時に団子を食べられることでもある。
「美味。(空の叡智)」
店主が笑った。
「そりゃよかった。見た目によらず、よく食べるねぇ」
ガレヲンは、当然のように胸を張った。
「当然。(我、ナイスバディな人外お姉さん)」
店主は沈黙した。
周囲も沈黙した。
子どもが小さく呟いた。
「……じんがい?」
ガレヲンは団子をもう一本取った。
「追加。(十本)」
「まだ食べるのかい!?」
「肯定。(自由ゆえ)」
港町の上を、騎空艇の影がゆっくりと横切っていく。
人々の笑い声が、風に混じる。
遠くの空は広く、島々はどこまでも続いていた。
ガレヲンは団子を片手に、その空を見上げる。
知っている。
この先にある物語を。
傷つく者を。
泣く者を。
救われる者を。
失われる命を。
けれど、今はまだ歩き出さない。
誰の旅路も奪わない。
ただ、空の命の営みを見て、食べて、眠り、時折、足元の土を少しだけ整える。
それでいい。
「自由。(素晴らしい)」
六竜の金は、静かに目を細めた。
そして、もう一本、団子を食べた。