傍観竜ガレヲンは今日も空を満喫する 作:好きな性癖発表ドラゴン
カリオストロの工房には、主がいない。
扉は閉じられたまま、煙突から煙は上がらず、窓の内側には薄く埃が積もっている。それでも工房は、空っぽではなかった。焦げ跡があり、修理された壁があり、怒鳴り声の余韻のような傷があちこちに残っている。
作業台の上では、小さな土人形がじっと待っていた。
命令はひとつ。
「待機。(友の帰還まで)」
土人形はその命令を守り続けている。時折、工房に訪れるガレヲンへ茶を淹れ、作業台の埃を払い、棚の奥で怪しく光る発明品をそっと元の位置へ戻す。
茶は、以前よりかなり改善されていた。
湯呑みは岩にならない。茶も液体である。湯気も穏やかで、工房の床に土柱が生えることもない。成果としては、十分に大きい。
ガレヲンは湯呑みを受け取り、ひと口飲んだ。
「改善。(茶、液体を維持)」
土人形が、ぺこりと頭を下げる。
もうひと口。
「問題。(土の香り、過多)」
土人形は、わずかにうなだれたように見えた。自律性の向上か、錯覚か。検証する者は、今はいない。
ガレヲンは、作業台に置かれた古いメモを見た。乱暴な字で、いくつもの注意が書き残されている。
――出力を落とせ。
――安全機構を入れろ。
――人間用の基準を覚えろ。
――勝手に工房を直すな。
――焦げ跡を消すな。
――次までに直してこい。
次。
その文字は、ずっとそこにあった。
封印の日から、いくつもの朝と夜が過ぎた。人の子ならば、数えるだろう。何年、何十年、何百年と。けれどガレヲンにとって、それは長い散歩の途中にある、少し静かな寄り道のようなものだった。
ただ、怒鳴る声がないのは不便である。
「不便。(検証役、不在)」
土人形が、またぺこりと頭を下げた。
ガレヲンはメモを畳み、工房を出る。発明は保留。焦って進めれば、また何かが鉱石化する。焦燥は好ましくない。
ならば、歩く。
空は広く、島は多い。甘味も、温泉も、眠る場所も、騒がしい命も、見に行くべきものはいくらでもあった。
最初の数年、噂はまだ小さかった。
鉱山島では、若い労働者がたびたび同じ話をした。崩落の日、妙な話し方の女が来たこと。山が鳴り、危険な坑道だけが崩れたこと。彼女が「休息」と言い残して去ったこと。
「休息。(汝ら、寝よ)」
その言葉は、鉱山の休憩所で何度も笑い話になった。
誰かが真似をして、誰かが笑う。けれど、やがて本当に休む者が増えた。鉱山長も、事故の記録を見るたびに顔をしかめ、作業前の点検と休息日を増やしていった。
それは改革と呼ぶほど立派なものではない。けれど、何人かの命は、以前より少し長く眠れるようになった。
祭りの島では、花飾りの少女が祠へ花を供え続けた。
「土のお姉さんへ」
最初は子どもの遊びだった。けれど、祖母が菓子を添え、近所の者が小石を積み、祭りの夜に橋を渡る者が、足元へ小さく礼を言うようになった。
いつしか、その祠には花が絶えなくなった。
森の島では、古い星晶獣が深く眠り続けていた。
島民は、今年の森は穏やかだと話す。土は柔らかく、根は深く水を吸い、雨の日にも山道は崩れにくい。眠る守護者へ捧げる祭礼には、いつの頃からか、地面へ掌を当てる所作が加わっていた。
誰が始めたのかは、もう誰も知らなかった。
人の子らは、早い。
走るように育ち、笑い、悩み、老い、次の命へ言葉を渡す。ガレヲンがひとつの島を離れ、別の島で甘味を食べ、また戻ってくる頃には、前に会った子どもが誰かの親になっていた。
「長命。(人の子の歩み、速い)」
鉱山島の若者は、やがて年を取った。
かつて崩落の日に座り込んでいた男は、白髪を混ぜた髪で、若い作業員たちに話をするようになった。急ぎすぎるな。山は焦る者から足元を奪う。そう言って、彼は坑道の入口に置かれた小さな石を撫でる。
その石が何かを、若い者たちは知らない。
ただ、年寄りが大切にしているから、蹴らないようにしている。
祭りの島の花飾りの少女は、いつしか花飾りを編む大人になった。
子どもたちに祭りの飾りを教えながら、橋の前で必ず言う。足元にありがとうを言いなさい、と。子どもたちは笑って真似をする。橋に、土に、祠に、軽い声で礼を言う。
その言葉は、祭りの度に積もっていった。
森の星晶獣は、変わらず眠っていた。
だが、夢の中で一度だけガレヲンに言った。
「あなたの祈りが、増えています」
森の奥で、ガレヲンは首を傾げる。
「疑問。(我の祈り?)」
「あなたへ向けられた祈りです」
「否定。(我、観光客)」
「観光客に祈る命も、いるのでしょう」
「難解。(空の命、奥深い)」
星晶獣は、静かに笑った。ガレヲンは納得していない。自分は花を求めた覚えも、菓子を求めた覚えも、祠を作れと言った覚えもない。
ただ、足元を整えただけ。
ただ、道を歩きやすくしただけ。
ただ、寝床を直しただけ。
それが祈りになるなら、空の命はやはり難解である。
「疑問。(祈り、増加)」
しかし、祈りが命を害するわけではない。
ならば、今はそれでいい。
「まあ、いいか。(害なし)」
時はさらに流れた。
噂は少しずつ形を変えた。
土のお姉さん。
土を歩く方。
足元を守る御方。
金色の御方。
祝福を置く女。
誰かが勝手に名を足し、誰かが勝手に話を盛り、誰かが勝手にありがたがる。中には、団子を百本食べた大地の女神だと言う者まで現れた。
百本。
それは誇張ではない可能性がある。
「判断。(その噂、一部正確)」
だが、それ以外はおおむね不明である。
ガレヲンは空を歩き続けた。ある島では温泉に沈み、別の島では蜜菓子を食べ、また別の島では発明品を試した。
自動給茶土人形は、茶を岩にしなくなった。だが、土の香りが強い。
安眠石は、三日眠る問題を改善し、半日で起きられるようになった。だが、起きた後に妙に土の上で寝たくなる。
携帯暖炉石は、山小屋を真夏にする火力を失った。だが、近くのパンがすべて程よく焼ける。
自動整地箱は、町ひとつを平坦にしようとする癖を抑えた。だが、花壇を見つけると均したがる。
「改善。(被害、縮小)」
良い傾向である。
ただし、カリオストロなら怒るだろう。
茶に土の味をつけるな。
起床後の嗜好まで変えるな。
勝手にパンを焼くな。
花壇は整地対象じゃねぇ。
たぶん、そう言う。
「不便。(検証役、不在、継続)」
ガレヲンは、工房へ戻る度に古いメモを読み返した。
次までに直してこい。
その文字は、消えない。紙は古びても、意味は残る。友はまだ戻らない。けれど、次はまだ残っている。
だから、待てる。
その間にも、人の子らは変わっていった。
鉱山島では、かつての若者が老いて、やがて土へ還った。彼の孫は、祖父から聞いた「休めと言った不思議な女」の話を、さらに別の子どもへ語った。
祭りの島では、花飾りの少女が祖母になった。彼女の編む花飾りは、毎年ひとつ、古い祠へ供えられるようになった。子どもたちは、その祠を「土のお姉さんのところ」と呼ぶ。
森の島では、星晶獣の眠りが続いた。島民の祭礼は少しだけ変わり、守護者へ祈る前に、まず足元の土へ触れるようになった。
長い時間。
人の子にとっては歴史。
ガレヲンにとっては、少し長い散歩。
それでも、その散歩の途中で見た命は、どれも小さく、騒がしく、眩しかった。
「観察。(命、次へ繋がる)」
ある日、ガレヲンは森の島を再び訪れた。
祠の前には、見知らぬ花が供えられている。かつて少女が編んだ花飾りとは違う。けれど、意味は似ている。
星晶獣は、眠りの中から声を落とした。
「長い時が流れました」
「肯定。(人の子の世代、複数交代)」
「あなたにとっては?」
「回答。(少し長い散歩)」
「そうですか」
森が静かに揺れる。
「あなたは、やはり星晶獣ではありませんね」
「肯定。(以前も否定済)」
「では、何者ですか」
同じ問い。
何度も受けた問い。
答えはある。
六竜。
金。
土の理たる楔。
けれど、今もなお、その名を置く必要を感じない。
「回答。(観光中のナイスバディな人外お姉さん)」
「……長い時を経ても、そこは変わらないのですね」
「肯定。(我、健在)」
星晶獣は、穏やかに沈黙した。
その眠りは、以前よりずっと深い。傷が消えたわけではない。星の民に作り替えられた過去がなくなったわけでもない。
ただ、寝床が傾いていない。
眠るには、それで十分な時もある。
「祝福。(汝の眠り、引き続き穏やかであれ)」
「あなたの旅にも、穏やかな土がありますように」
ガレヲンは少し考えた。
「疑問。(我、土そのものに近い)」
「それでも、祈ることはできます」
「難解。(祈り、奥深い)」
森の星晶獣は、笑って眠りに戻った。
ガレヲンは祠の花を見てから、森を出た。
空は高い。
島々は変わり続ける。
栄えた町が廃れ、廃れた場所に新しい人の子が住み、古い道が消え、新しい橋が架かる。土はそのすべてを覚えている。
だから、ガレヲンも知っている。
長い散歩は、まだ続く。
そう思った時だった。
遠く、ザンクティンゼルの方角で、土がわずかに震えた。
まだ大きな事件は起きていない。
だが、空の流れが変わり始めている。
重い金属の気配。
軍艦。
帝国。
閉ざされた島へ近づく、硬い足音。
その奥で、青い命の気配がかすかに揺れる。
赤い小さな命の気配もある。
星を追う子の足音も、まだ島の土を踏んでいる。
そして、守るために背く騎士の気配が、遠くで鋭く光っていた。
ガレヲンは足を止めた。
「予兆。(閉ざされた島、揺れる)」
カリオストロのメモを取り出す。
次までに直してこい。
友は、まだ戻らない。
けれど、空の命は待ってくれない。
人の子らは早い。生まれ、走り、笑い、老い、次の命へ言葉を渡す。その速さが、今は少しだけ愛おしい。
ガレヲンはメモを畳んだ。
「観察。(長き散歩、一区切り)」
雲海の向こうで、閉ざされた島の空が静かに揺れている。
「開始。(次の命が、空へ出る)」
六竜の金は、ゆっくりと歩き出した。
ただし、すぐにザンクティンゼルへ向かうわけではない。
まずは近くの町で茶菓子を買う。
長い散歩の後には、甘味が必要だった。