傍観竜ガレヲンは今日も空を満喫する 作:好きな性癖発表ドラゴン
カリオストロが封印されてから、長い年月が流れた。
島の形は少しずつ変わり、森は代替わりし、人の子らの町は栄えては廃れ、また別の命がそこに住み着いた。ガレヲンはその間も、空の島々を歩いていた。発明品を抱え、甘味を探し、温泉を巡り、時折、足元の土をほんの少しだけ整えながら。
封印からどれほど経ったのか。人の子ならば、歴史と呼ぶほどの時間だったのだろう。だが六竜にとって、それは長い昼寝と、少し長めの散歩の間にあるようなものだった。
小さな祈りは、たいてい音を立てない。
それは、大きな神殿から始まるとは限らない。
立派な祭壇も、磨かれた石像も、荘厳な鐘の音もいらない。
道端の古い祠。
子どもの手で置かれた花飾り。
誰かがついでに添えた菓子。
そこから始まることもある。
「土のお姉さんへ」
祭りの島で、花飾りの少女はそう言って、古い祠に小さな花を供えた。
最初は、ただの子どもの遊びだった。
橋に「ありがとう」と言った不思議な女の真似。
橋を支える土に向けた、子どもなりの感謝。
けれど、それを見た祖母が笑い、菓子を添えた。
翌日には、別の誰かが果実を置いた。
その次には、祭りの無事を喜んだ者が、道端の土を撫でて小さく礼を言った。
まだ信仰ではない。
名前も定まっていない。
ただの噂。
ただの感謝。
けれど、祈りの芽は、そういう柔らかな土から生まれる。
鉱山島では、若い労働者が、閉鎖された古い坑道の入口に小さな石を置いていた。
事故は起きなかった。
いや、小さな崩落はあった。
だが、誰も死ななかった。
あのまま数日掘り進めていれば、大事故になっていたらしい。
監督は、それ以来、作業前の点検を増やした。
休息日も、わずかだが設けられるようになった。
若い労働者は、あの日の女の言葉を覚えている。
変わった話し方。
穏やかな声。
そして、妙に忘れられない一言。
「休息。(汝ら、寝よ)」
彼はその言葉を思い出すたび、少しだけ早く眠るようになった。
仕事は残る。
生活は続く。
焦りも、完全には消えない。
それでも、命を削り切る前に眠ることはできる。
それだけでも、足元は少し違う。
森の島では、古い星晶獣が深く眠っていた。
長い年月、浅く、途切れがちだった眠り。
信仰と島の地脈に支えられながら、それでもどこか傾いていた寝床。
それが、ある日を境に穏やかになった。
森の土は柔らかくなり、根は深く水を吸い、島民たちは「今年の森は機嫌がいい」と話した。
眠りの底で、星晶獣はひとつの気配を思い返す。
星晶獣ではない。
星の民の造りしものではない。
だが、空の命よりも古く、土そのものに近い何か。
観光中のナイスバディな人外お姉さん。
そう名乗った存在。
何ひとつ分からない。
けれど、眠りは深い。
ならば今は、それでよかった。
それらを、ガレヲンは知らない。
いや。
知らない、というのも少し違う。
土の揺れとしては、感じていた。
鉱山の若者が深く眠ること。
少女が祠に花を供えること。
森の星晶獣が穏やかに眠ること。
それらは、大地を通じてかすかに伝わる。
命が今日も足元を踏みしめている。
それだけは分かる。
だが、ガレヲンは自分が何かをしたとは思っていない。
ただ、地脈の凝りをほぐした。
ただ、橋を補強した。
ただ、寝床を整えた。
それだけである。
大仰に語るようなことではない。
少なくとも、本人は本気でそう思っていた。
丘の上で、土人形が茶を淹れている。
小さな手。
丸い頭。
胸元の鉱石の核。
以前より動きは滑らかになった。
湯呑みは岩にならない。
茶も液体を保っている。
湯気も穏やか。
非常に良い。
土人形は、両手で湯呑みを差し出した。
ガレヲンはそれを受け取り、ひと口飲む。
沈黙。
「改善。(茶、液体を維持)」
土人形がぺこりと頭を下げる。
もうひと口。
沈黙。
「問題。(土の香り、過多)」
土人形が、少しだけうなだれたように見えた。
いや、土人形に感情があるかは不明である。
だが、自律性は向上している。
よい傾向。
おそらく。
カリオストロなら、こう言うだろう。
土の味がする茶を出すな。
茶は土を飲むものじゃない。
出力を落とせ。
人間用の基準を覚えろ。
勝手に工房を直すな。
ガレヲンは、懐から古いメモを取り出した。
何度も読み返した紙。
乱暴な文字。
強い筆圧。
書いた者の苛立ちと、興味と、研究者としての正確さが残っている。
――出力を落とせ。
――安全機構を入れろ。
――人間用の基準を覚えろ。
――勝手に工房を直すな。
――焦げ跡を消すな。
――次までに直してこい。
次。
その文字を、ガレヲンは静かに見つめる。
「不便。(検証役、不在)」
風が吹いた。
丘の草が揺れる。
土人形が、今度は菓子を差し出した。
ガレヲンは受け取ろうとして、止まる。
菓子の表面が、ゆっくり鉱石化しかけていた。
「制止。(菓子の鉱物化、非推奨)」
土人形が、はっとしたように手を引く。
菓子はぎりぎり柔らかさを保った。
危うい。
検証役がいれば、怒鳴っていた。
今はいない。
だから、ガレヲンは自分で考えるしかない。
焦らない。
焦燥は好ましくない。
友は戻ると言った。
ならば、戻る。
それまで、発明は少しずつ進めればいい。
そして、空の世界は今日も広い。
ガレヲンは、丘の向こうに広がる雲海を見た。
浮島がいくつも点在している。
騎空艇が細い影を引く。
どこかで誰かが生まれ、誰かが笑い、誰かが急ぎ、誰かが眠っている。
命は今日も騒がしい。
「観察。(空の命、健在)」
それでよい。
ガレヲンは茶を置き、ゆっくりと立ち上がった。
自分の在り方は、もうおおよそ決まっている。
最初に目覚めた時、思ったこと。
カリオストロを見送った時、痛みと共に確かめたこと。
各地を歩き、祈りの芽を知らずに残した時、自然とやっていたこと。
それを、改めて言葉にする。
「静観。(空の命の選択を、我が奪うべきではない)」
未来を知っている。
傷つく者も知っている。
出会う者も、別れる者も、笑う者も、泣く者も知っている。
だからといって、全てを先回りして消すべきではない。
歩くのは、その命自身だ。
選ぶのは、その命自身だ。
そこにある痛みまで奪えば、歩みそのものが変わる。
それは、ガレヲンの望む祝福ではない。
けれど。
「祝福。(されど、崩れゆく足元を少し支えることは許される)」
足元が崩れるなら。
ほんの少し、土を固める。
橋が落ちるなら。
ほんの少し、杭を深くする。
眠りが歪むなら。
ほんの少し、寝床を整える。
それだけだ。
歩くのは、あくまで本人。
ガレヲンは、土台に触れるだけ。
そして、もうひとつ。
何より大事なことがある。
「自由。(我、空を歩き、食べ、眠る)」
誰かの命令ではない。
役目に追われるためだけでもない。
空の命を見て、甘味を食べ、温泉に入り、昼寝をし、時に発明品を作る。
それは、自由である。
自由は、素晴らしい。
ガレヲンは、満足げに頷いた。
土人形も、なぜか真似をして頷いた。
「成長。(模倣、良好)」
その時だった。
遠く。
本当に遠く。
空の流れが、わずかに変わった。
ザンクティンゼル。
神秘を奉る、閉ざされた島。
大地の奥から見れば、その島は長く静かだった。
大きな変化は少ない。
人々は古き信仰と共に暮らし、森は深く、島はゆるやかに息をしている。
だが、その日。
島の上空に、重い影が差そうとしていた。
軍艦。
帝国の鉄の気配。
火薬と金属。
命を並べ、命令で動く大きな力。
その下で、青い気配が揺れる。
星晶獣を従える力を持つ少女。
外の世界を知らず、それでも外へ向かうことになる命。
その近くで、赤い小さな命が騒がしく跳ねる。
よく吠え、よく怒り、よく笑う、小さき相棒。
さらに、島の土を踏む若い命。
星の島を目指す子。
まだ旅を知らない。
だが、空を見上げる心を持っている。
そして、ひとりの騎士。
守るために、背く者。
帝国へ背を向け、剣を抜く者。
ガレヲンは、遠くからそれを感じ取った。
目で見ているわけではない。
けれど、地と空の揺れが伝えてくる。
物語が、動く。
「開始。(物語が動く)」
声は静かだった。
土人形が首を傾げる。
ガレヲンは、遠くの空を見た。
知っている。
これから起こることを。
閉ざされた島に、轟音が響くこと。
森の奥で、青い少女が見つけられること。
帝国の追手。
騎士の決意。
少年、あるいは少女の旅立ち。
父の手紙。
星の島。
イスタルシア。
長い旅。
出会い。
別れ。
傷。
涙。
笑顔。
すべてを知っている。
知りすぎている。
行くことはできる。
今すぐにでも。
空を渡り、島へ降り、帝国の軍艦を土に沈めることもできるかもしれない。
青い少女を隠すこともできる。
騎士の逃走路を作ることもできる。
星を追う子の前に立ち、未来を語ることもできる。
だが。
それは、誰の旅になるのか。
ガレヲンの旅ではない。
それは彼らの旅だ。
彼らが出会い、選び、傷つき、それでも手を伸ばす物語だ。
奪ってはいけない。
「静観。(我、物語を奪わない)」
丘の草が揺れた。
遠く、地脈が細く鳴る。
何もしない。
少なくとも、物語を変えるようなことはしない。
ただ。
足元の土台くらいは。
ほんの少しだけ。
「祝福。(旅路の土台くらいは、整えてもよい)」
ガレヲンは、遠く離れた地脈へ意識を伸ばした。
大きくは動かさない。
帝国の進路を塞がない。
森の道を変えない。
誰かの選択を導かない。
ただ、崩れやすい地面を少し固める。
誰かが走るかもしれない道。
誰かが転びそうになるかもしれない根元。
誰かが踏み出す時、ほんの少し沈む土。
そこに、柔らかな支えを置く。
空へ向かう航路の乱れも、ほんの少しだけ和らげる。
いつか船底が軋んだ時、一度だけ保つように。
いつか足元が崩れた時、一歩だけ踏みとどまれるように。
それだけ。
それ以上はしない。
遠くの空へ、ガレヲンは静かに祝福を置いた。
「祝福。(青き少女の足が、帰る場所を得ますように)」
外を知らぬ少女へ。
「祝福。(赤き小さき命が、今日もよく吠えますように)」
小さく騒がしい相棒へ。
「祝福。(星を追う子の歩みが、己のものとして続きますように)」
まだ旅立たぬ騎空士へ。
「祝福。(背く騎士の剣が、守るために折れませんように)」
守るために背を向ける騎士へ。
誰にも聞こえない。
誰にも見えない。
ただ土が、ほんの少しだけ柔らかく鳴った。
それで十分だった。
しばらく、ガレヲンは空を見ていた。
第一の物語が始まる。
閉ざされた島から、果てなき空へ。
星を目指す旅が、ようやく動き出す。
ならば、自分は。
ガレヲンは、思考を続けようとした。
見守るべきか。
別の島へ向かうべきか。
原作の大きな流れに、どの程度距離を置くべきか。
それらを、ゆっくりと整理しようとした。
その時。
風が吹いた。
甘い匂いがした。
焼き菓子。
蜜。
茶。
少し焦げた砂糖の香ばしさ。
近くの町からだ。
ガレヲンは沈黙した。
非常に重要な気配である。
物語は動いた。
だが、歩くのは彼らだ。
ガレヲンは物語を奪わない。
そして、自由である。
ならば。
「予定変更。(甘味の気配)」
土人形が、ぺこりと頭を下げた。
見送りのつもりらしい。
ガレヲンは、丘を下り始める。
ザンクティンゼルの方角を一度だけ振り返った。
遠くの空は、まだ静かに見える。
だが、その奥で確かに旅は始まっていた。
ガレヲンは目を細める。
「自由。(素晴らしい)」
六竜の金は、世界の運命ではなく、屋台の方へ歩き出した。
その足跡には、ほんの少しだけ柔らかな土が残る。
誰かのために用意したわけではない。
ただ、歩きやすい方がよいと思っただけ。
それを祝福と呼ぶ者がいるなら。
まあ。
「受容。(好きに呼ぶとよい)」
空は広い。
命は騒がしい。
そして甘味は、今日もおそらく美味である。