茶に、まだ土の香りがする。
ガレヲンは丘の上で湯呑みを傾け、静かにそう判断した。
液体である。
湯呑みは岩になっていない。
茶葉も鉱石化していない。
湯気も穏やか。
以前の自動給茶土人形と比べれば、飛躍的な進歩だった。
だが、香りが強い。
茶の香りではない。
大地の香りである。
土の理としては悪くない。
けれど、人の子の飲み物としては、おそらく違う。
カリオストロならば、きっと眉を寄せて言うだろう。
土を飲ませるな、と。
「改善。(茶、液体を維持)」
土人形が、ぺこりと頭を下げた。
ガレヲンはもう一口飲む。
「問題。(土の香り、過多)」
土人形が、少しうなだれたように見えた。
自律性が増している。
良いことかもしれない。
あるいは、後で怒られることかもしれない。
検証役がいないため、判断は保留である。
「不便。(検証役、不在)」
風が吹く。
丘の下には雲海が広がり、遠くにはいくつもの島影が浮かんでいた。
ガレヲンは懐から古いメモを取り出す。
乱暴な文字。
強い筆圧。
何度も読み返したため、端が擦れている。
――出力を落とせ。
――安全機構を入れろ。
――人間用の基準を覚えろ。
――勝手に工房を直すな。
――焦げ跡を消すな。
――次までに直してこい。
次。
その文字を見るたび、胸の奥に小さな空洞ができる。
友は戻ると言った。
だから、戻る。
ならば待てばよい。
六竜にとって、時は長い。
千年も、数え切れぬ年月も、ただ流れるものだ。
それでも、怒鳴る声がないのは少し不便だった。
ガレヲンは湯呑みを置いた。
土人形が菓子を差し出す。
焼き菓子。
表面に蜜。
形状良好。
ただし、端がわずかに結晶化しつつある。
「制止。(菓子の鉱物化、非推奨)」
土人形が、はっとしたように菓子を引いた。
危うい。
だが、学習している。
おそらく。
ガレヲンがそう考えた時だった。
遠くの空が、わずかに軋んだ。
金属の重い気配。
火薬。
軍靴。
命令で動く集団。
閉ざされた島の静けさに、硬い影が差し込む。
ザンクティンゼル。
神秘を奉る島。
長く静かだった地脈に、急激な緊張が走る。
青い気配が揺れた。
外を知らぬ少女。
星晶獣を従える力を持つ、謎多き命。
その近くで、赤い小さな気配が騒がしく跳ねる。
よく動き、よく怒り、よく吠える命。
そして、島の土を踏む若い足。
星の島を目指す子。
まだ旅を知らない足。
けれど、空へ向かう心を持つ命。
さらに、ひとつの剣の気配。
守るために、帝国へ背を向ける騎士。
ガレヲンは遠くを見た。
目で見ているわけではない。
地と空の揺れが、そう伝えてくる。
「開始。(青き命、落ちる)」
土人形が首を傾げた。
ガレヲンは立ち上がらない。
走りもしない。
ザンクティンゼルへ向かうこともしない。
物語が動いた。
だが、それは彼女の物語ではない。
歩くのは、彼らだ。
選ぶのは、彼らだ。
だから、ただ見ている。
ただし、足元が崩れるなら。
ほんの少しだけ、土を整える。
青い少女が落ちる。
森の中へ。
閉ざされた島の空を、逃走の気配が切り裂く。
帝国の追手。
重い鉄の音。
空を覆う軍艦の影。
森の地面は硬い。
根が絡み、石が露出し、落下地点には角の鋭い岩がある。
それは致命ではないかもしれない。
だが、少女の身体には重い。
ガレヲンは、遠く離れた地脈へ意識を伸ばした。
落下地点の土を、ほんの少しだけ柔らかくする。
岩の角を、土の中へ沈める。
根をわずかにずらし、受け止める形へ変える。
「緩衝。(落下地点、硬度過多)」
青い気配が地に触れた。
衝撃はある。
痛みもある。
恐怖もある。
だが、砕けない。
少女は息を呑み、震えながらも立ち上がる。
土が少しだけ柔らかかったことには、おそらく気づかない。
それでよい。
彼女は走る。
外を知らぬ足で。
追われる命として。
それでも、消えない青い光を抱えて。
ガレヲンは静かに見ていた。
「観察。(青き命、未だ大地を踏む)」
それでよい。
次に動いたのは、星を追う子だった。
ザンクティンゼルの森を駆ける足音。
鍛えられている。
毎日、空を目指して身体を動かしていた足。
だが、まだ島の外を知らない。
未知を追うための足であり、戦場を知る足ではない。
赤い小さな命が、その近くで騒がしく跳ねる。
何かを叫んでいる。
何かを急かしている。
小さな羽の気配が、あちらこちらへ忙しなく動く。
ガレヲンは、その足元を感じ取った。
森の道は歩きにくい。
根が浮き、湿った土が滑り、急ぐ命の足を掬う。
星を追う子は、落ちた光へ向かっている。
急いでいる。
だから、足元を見落とす。
大きく変えてはいけない。
道を作り替えてはいけない。
出会いの場所へ導くことも、逆に遠ざけることもしてはいけない。
ただ、目の前の根をひとつ沈めるだけなら。
「整地。(森の根、歩行に不向き)」
土がわずかに沈む。
太い根が、ほんの少しだけ低くなる。
星を追う子の足は、そこに引っかからなかった。
転ばない。
速度は落ちない。
そのまま、森の奥へ進む。
赤い小さな命が、ふと振り返った。
地面を見ている。
何かに気づきかけたらしい。
けれど、すぐに前を見る。
青い少女の気配が近い。
今は、それどころではない。
「安堵。(よい)」
ガレヲンはそれ以上触れない。
青い少女と、星を追う子が出会う。
それは、土の上で起きた。
森の空気が震える。
不安。
驚き。
警戒。
そして、手を伸ばす気配。
赤い小さな命が騒がしい。
青い少女の呼吸が乱れている。
星を追う子の足が止まる。
運命という言葉を、ガレヲンはあまり好まない。
それは時に、命の選択を小さく見せる。
だが、この出会いには確かに重さがあった。
地層の奥に刻まれるような重さ。
ここから、多くのものが始まる。
傷も。
別れも。
笑顔も。
選択も。
旅も。
ガレヲンは、手を出さない。
言葉も置かない。
土も動かさない。
「静観。(出会いは、彼らのもの)」
出会いに祝福を押しつける必要はない。
この瞬間は、彼らが作るものだ。
青い少女が、何かを言う。
星を追う子が、何かを返す。
赤い小さな命が、きっと騒いでいる。
遠すぎて声までは聞こえない。
だが、地面に伝わる震えだけで十分だった。
彼らは出会った。
それで、物語は前へ進む。
背く騎士が、森を駆ける。
剣の重さ。
鎧の軋み。
息は乱れている。
だが、歩みは迷わない。
ルリアを守る。
それだけが、足の向きを決めている。
帝国の追手が近づく。
森の中に、硬い足音が増える。
命令で動く足。
追う足。
守る足。
逃げる足。
焦燥が濃くなる。
カタリナの足が、濡れた斜面へ踏み込んだ。
一瞬、滑る。
剣を抜くには不利な姿勢。
守るべき少女へ向かう道が、わずかにずれる。
ガレヲンは、そこだけ土を締めた。
「支持。(守る足、滑落不可)」
踏み込みが戻る。
騎士の身体が崩れない。
剣の軌道が保たれる。
彼女は一瞬だけ、足元を見る。
違和感。
だが、追手がいる。
青い少女がいる。
今は理由を探る時ではない。
剣が振るわれる。
守るために。
帝国に背いた者として。
ガレヲンは、その足を見ていた。
「祝福。(背く騎士の剣が、守るために折れませんように)」
それは、誰にも届かない声だった。
ただ、土だけが聞いていた。
追撃の余波で、森の岩が砕けた。
砲声。
爆風。
木々の揺れ。
石片が飛ぶ。
大きなものではない。
だが、命に届けば傷になる。
頬を裂く。
目を奪う。
足を止める。
小さな石片が、青い少女と星を追う子の方へ向かう。
ガレヲンは、指先を動かした。
遠く離れた土の粒が、空気中でほんの少しだけ軌道を変える。
石片は逸れた。
ひとつは木の幹へ。
ひとつは地面へ。
ひとつは、頬のすぐ横をかすめて飛ぶ。
恐怖は残る。
危機も残る。
だが、致命にはならない。
「保護。(砕けた石、命へ届かぬように)」
大きく救わない。
戦いを消さない。
追手を止めない。
ただ、足元と石だけを少し整える。
それ以上は、彼らのものだ。
彼らの走る道。
彼らの選ぶ先。
彼らが掴む空。
ガレヲンは、それを奪わない。
逃走の気配が、森を抜けていく。
青い少女。
星を追う子。
赤い小さな命。
背く騎士。
四つの気配が、閉ざされた島の外へ向かって動いていく。
ガレヲンは、遠くの地脈へ最後にもう一度だけ触れた。
ザンクティンゼルの土。
古き信仰を抱く島。
そこから空へ出る道。
足元に、ほんの小さな祝福を置く。
「祝福。(星を追う子の歩みが、己のものとして続きますように)」
父の手紙を抱き、星の島を目指す命へ。
「祝福。(青き少女の足が、帰る場所を得ますように)」
外を知らぬまま、空へ放り出される少女へ。
「祝福。(赤き小さき命が、今日もよく吠えますように)」
騒がしく、頼もしく、小さな相棒へ。
「祝福。(背く騎士の剣が、守るために折れませんように)」
守るために、帰る場所を捨てる騎士へ。
祝福は光らない。
音も立てない。
誰の目にも見えない。
ただ、彼らが足を踏み出した時、少しだけ土が柔らかい。
いつか、船底が軋む時、一度だけ保つ。
いつか、転びそうになる時、一歩だけ踏みとどまる。
その程度のもの。
それで十分だった。
やがて、ザンクティンゼルの揺れは遠ざかっていった。
島から空へ。
閉ざされた場所から、果てなき旅へ。
ガレヲンは丘の上に戻る。
土人形が、また茶を淹れていた。
湯呑みは岩になっていない。
液体である。
温度も良い。
香りは、やはり土が強い。
ガレヲンは湯呑みを受け取り、一口飲んだ。
「確認。(出会い、成立)」
青い少女は、星を追う子と出会った。
赤い小さな命は、今日も騒がしく跳ねている。
背く騎士は、守るために剣を握った。
ならば、それでよい。
ガレヲンは湯呑みを見下ろす。
少し考える。
「疑問。(我、介入したか)」
落下地点を柔らかくした。
森の根を沈めた。
騎士の足元を支えた。
石片を逸らした。
旅立つ道に、小さな祝福を置いた。
だが、出会いは彼らのもの。
選択も彼らのもの。
逃げる足も、守る剣も、手を伸ばす心も、彼らのもの。
ならば。
「否定。(整地しただけ)」
土人形が、ぺこりと頭を下げた。
同意らしい。
おそらく。
ガレヲンは茶を飲む。
やはり、土の味がする。
「まあ、いいか。(茶、土味)」
遠く、閉ざされた島から、ひとつの旅が空へ踏み出した。
六竜の金は、それを追わない。
ただ、空のどこかで、柔らかな土を残している。
その祝福が、いつか誰かの一歩を支えるとしても。
本人は、今日も本気でこう思っていた。
何もしていない。
ただ、整地しただけだと。