ヒトの強さを無礼るなよ ─ウマ娘プリティーダービー─ 作:嵐牛
ウマ娘によるインファイト。
至近距離からの重火器の連射と何ら変わらないそれを、沖野は拳に力が乗る前に手で捌いて進路を逸らしてしまう。
スズカは更にラッシュの回転を上げた。
それは攻めきる構えに見えてその実、彼の両手を防御に専念させる為の防衛の行動だった。
彼の両手を一瞬でも自由にしてしまえば────自分は問答無用で落とされる!!
「くっ!?」
飛来する右ストレートの出始めに側面から触れた沖野はそのまま触れた手を押し込んでパンチを逸らす。パンチの強力なベクトルを根元から曲げられたスズカの身体が振り回されるように回転、沖野に背中を晒す形になってしまった。
同時に首に巻き付いてくる沖野の腕。
背後からスズカの頸動脈を捉えたチョークスリーパーが、そのまま彼女を意識をブラックアウトさせにかかる。
「ん」
しかしそうはならなかった。
沖野の腕が首に巻き付く寸前でスズカが自分の腕を間に割り込ませていたからだ。
締め落としが失敗した沖野は素直にスズカを解放し、スズカは慌てて沖野から距離を取る。
明らかな異常が彼に起きていた。
隠しきれない混乱に見舞われつつも彼女は努めて冷静に状況を分析しようとする。
(あの煙草を吸ってからトレーナーさんに何かが起きた。効力は多分ドーピングだけど・・・・・・これは単純なフィジカルの増加とは違う)
身体能力の増加は認められるが、恐らく主な効能はそれではない。
筋力を増強したところで人の反射神経を置き去る速度のラッシュを捌けるようにはならないからだ。
となるとあの煙草の真の効能は─────
「・・・・・・
「おう、よく分かったな」
《神便鬼毒》の煙で肺を満たし沖野は答える。
やはりそうかとスズカは顔を顰めた。
状況を視覚が認識して脳に伝え、脳がそれに対する行動を身体に指示。そして動作として出力。
神経が情報を伝える速度が爆発的に向上した彼は今、このプロセスに要する時間が人類の域を超えて短くなっている。
恐らく彼は今、時間の流れが急激に遅くなったかのような感覚になっているだろう。
ウマ娘のスピードを完全に見切る反応速度・・・・・・同じ人間の攻撃なら、まさにハエが止まる程スローに見えるはずだ。
(フリッカーだと大振りで見切られる。でもピーカーブーは掴まれそう。・・・・・・それなら!)
スズカが前に踏み込んだ。
再びのインファイトと見た沖野が腰を落としてスズカと目線を合わせ低い場所からの攻撃に備える。
彼女の拳を速度が乗る前に掴むべく手は前目の位置に置いた。
───その上で沖野は頭を撃ち抜かれた。
くらりと沖野の頭が揺れる。
彼の頭部を叩いたのは必殺技でも何でもない、何の変哲もない
『ジャブ』。別に特別な技ではない。
何なら彼女がフリッカーを使っていた時にも打っていたパンチだ。
しかしデトロイトスタイルから斜めの軌道で繰り出すフリッカージャブと違って、普通のジャブは直線で突き刺さる。
最短距離を最速で叩くパンチなのだ。
そしてくどいようだが、例えジャブでもウマ娘の膂力ならそれは人間の顔面を粉砕する一撃になる。
「ふッッ!!」
一呼吸で沖野の両手を弾き顔面を叩く。
瞬き程の時間で都合7発。閃光の如き拳速で叩き込まれるジャブの束はまるでショットガン。
フリッカーに比べて拳の移動距離が大幅に短縮されたジャブはドーピングしても見切れない。
スズカの顔が歪む。
その表情は、何かとても不快な物に触ってしまったかのような嫌悪感だった。
(何、この感触・・・・・・!?)
彼との戦いが始まった時からずっと拳に感じてきた違和感が頂点に達した。
あの煙草の効果とも考えにくい。
撃ち抜いた拳に果たされないまま残る不快感と、骨と肉で出来た物質を殴ったとは到底思えない感触。
何というかまるで、天井からぶら下がったブヨブヨの何かを殴っているような──────
「っしぃッッ!!!」
堪らずスズカは前に出た。
芯を捉えた手応えを得ればこの不快感も消えるはずとジャブの合間に踏み込んで、沖野の胴体に左の強打を見舞う。
沖野はその動きを読んでいた。
スズカの左に合わせて身体を捻り彼女のパンチを回避。同時に前に出て彼女の左腕の手首と肩を掴み、手首を引いて巻き込むように肩を押す。
そんな簡単な動きでスズカは転がされた。
強打のエネルギーを流されたのだ。
仰向けに空を仰いだ彼女の顔が強張る。
────寝かされたら彼の独壇場だ!!
「こんなもので・・・・・・っ」
自由な右腕で沖野の腕を殴りつける。
だが沖野はそんな苦し紛れの反撃に楽に対応した。
肩を押さえていた左手を放しスズカの右をキャッチしてそのまま引っ張る。転がされたスズカがうつ伏せになった。
自分の失策を彼女が悟った彼女の耳が、自分を右腕ごと押さえ込んだ沖野がザイルロープを取り出す音を捉えた。
「─────────っっっ!!!」
「うおっ!」
メチャクチャに暴れた。
腕も脚も頭も全てを振り回し、まるで釣り上げられたマグロのように遮二無二身体を跳ねさせる。驚いた沖野が巻き込まれないためにスズカから飛び退き、その隙にスズカは立ち上がって体勢を整えた。
誘って投げられた。
そこに嵌ったのは自分の落ち度とはいえ、余りにも不都合な事実が明らかになりつつある。
ジャブは捌くまでもなく通じない。
かといって彼にダメージを通せる可能性のある強打は振りが大きくて見切られる。
ではあの煙草を吹き飛ばすか?
────どうやって?
あのジャブの束を全て顔面で受けておいて、鼻血ひとつ流さず口に咥えたままだったというのに!
(違う。トレーナーさんは頑丈なんじゃない。
「気付いたか? じゃあそろそろ観念してもらうぞっ!」
今度は沖野から前に出た。
革靴とは思えない滑らかな足捌きで一気に距離を詰めた彼の両手が蛇のようにスズカを襲う。
それに対してスズカはバックステップで中間の間合いを保って亀のようにガードを固め、さらに背中を丸め姿勢を低くして沖野の手に対する的を小さくする。
「おっ?」
冷静な判断と行動に沖野は眉を上げた。
突破口を探っているのだ。
自分の攻撃を完封され、文字通り手玉に取られてもまだ彼女は諦めていない。
一度躱し損ねれば即制圧に至る掌から逃れつつスズカは努めて冷静に分析する。
────さっきジャブで打った感触から、彼の身体の秘密の見当はついた。
回避しつつジャブを刺す。
沖野は躱さず顔面で受けた。鼻血すら出ない。
顔を打たれ視界がブレた隙に今度は胸に向けてジャブ。それも危なげなく捌かれた。
スズカは身を沈めて重心を落とす。
肩の力の入り方を見て沖野は強打のラッシュを察知、《神便鬼毒》で向上した動体視力と行動速度は認識と判断に僅かな遅延も無く回避行動を実行した。
沖野を襲ったのはサイズは大きくも軽い衝撃。
パンチではなくスズカがぶつかってきたのだ。
敵の動きが見え過ぎてしまう今の沖野の状態を利用してフェイントを掴ませた彼女が、刹那の隙に自分を沖野の懐に捩じ込む。
そしてスズカが行ったのは攻撃ではない。
両腕を回しての
しかしこの状況でのそれが、ただの親愛の証であるはずもなく。
ボクシングには『組み技』が存在する。
パンチの届かない相手の身体に抱きついて攻撃などの動きを封じる技術。
不利な状況から逃げて体力を回復させる為のその場凌ぎで、そして
「これは流せませんよね。トレーナーさん」
『クリンチ』。
抱き着いて背骨を鯖折りにする、衝撃を流せない組み技による回避不能の一撃。
沖野に抱きついたスズカがその両腕で彼の胴体を背骨ごと一気に抱き潰し、彼の意識を闇の中に叩き込んだ──────
────そうなる刹那、沖野の指先がスズカの背中に触れた。
その瞬間、彼女の背筋に猛烈な悪寒が走る。
急げ。間に合え。彼に何かをされる前に!
本能の警鐘に駆り立てられるようにスズカが両腕に力を込めて沖野の胴体を締め上げる。
「正解だ。けど間違いだな」
転がされた。
ウマ娘の膂力で抱きついていたはずのスズカが大きな混乱に見舞われる。
なぜ投げられた? どうやって投げた?
ウマ娘の力で締め上げられている状況からどうやって自分の腕を振り解いた?
追撃はない。
距離を取ってもう一度分析に回るため立ち上がろうとしたスズカは、そこで違和感に気付く。
立ち上がるために地面につこうとした右腕がピクリとも動かない。
まるで右肩から先が水の入った袋になってしまったかのような、自分の身体が意思の通らない異物に変貌した言いようのない怖気。
自分の作戦は間違っていなかった。
一瞬早く何かをされたのだ。
何らかの方法で自分の腕を麻痺させてそこからクリンチを抜け出したのだ。
だがどうやって?
何をどうすれば今の一瞬で四肢の一部を麻痺させる事が出来るというのだ!?
「
整体にマッサージ、鍼灸治療など。
いわゆるツボと呼ばれるポイントから身体の各コンディションにアプローチする技術は数多く存在する。
その内の1つが『武術』だ。
大陸には古来より点穴を突いて活殺自在とする技術体系が存在する。
柔術と合気道に併せてそれを極めた沖野の腕は蠍の尾か毒蛇と変わりない。
スズカが見抜いたと思っていた弱点は、彼が撒いていた餌でしかなかった。
「《
盤面が一気に傾いた。
掴まれるどころか触れられるだけで勝負が決まりかねない相手を前に片腕というハンデで相対する事になったスズカは一気に追い込まれた。
触れられない為には間合いを空けるしかないが、沖野の腕が届かない場所は自分の攻撃も届かない。
だからスズカはその場に踏み止まって沖野の腕を撃ち落とし続けるしかないのだ。
腕一本で、沖野の変幻自在の腕を。
「くうううううッッ!!」
反撃に転じる暇もなく、歯噛みして沖野の手をパリングするスズカ。
通常なら人間の腕が砕ける程の力だが、その力を完璧に逃している沖野は無傷のままだ。
ウマ娘のスピードだから片手で捌けてはいるが、ドーピングで行動速度が人類の枠を超えた彼にはそれが精一杯。
ジリ貧になっていくスズカを制圧するべく沖野はより一層攻撃の手を強めていく。
「そろそろ頭を冷やせ!! このままだとお前らは本当に戻れなくなるぞ!!」
────だが、その一言が余計だった。
「私達は! もう戻れないんですっ!!!」
普段の静かな所作を覆すように叫んだスズカが上半身を思い切り捻った。
用を為さなくなった右腕が遠心力で振り回され、虚を突かれた沖野の顔面に当たる。
ダメージはない。しかしそれでいい。
彼女の目的は、沖野の超反応の要である目を塞ぐ事なのだから。
────きっと、これが最後のパンチ。
この一撃で全てが決まる。
輝く未来を捨てても、消せない過去になっても!
この意地と意思だけは絶対に
「はぁぁぁぁああああっっっ!!!」
引き絞られた左拳が渾身の力で撃発される。
サイレンススズカ、彼女の人生における最高にして最速のボディブロー。
その渾身の一撃は沖野のジャケットに触れる事も出来なかった。
突き刺さっていたからだ。
拳が腹に着弾するより一瞬早く、視界を塞がれたはずの沖野の指が───彼女の左肩関節に。
(読まれ、てた・・・・・・)
片腕を使えないボクサーの攻撃手段は限りなく限定される。ならばブラフを挟もうとカウンターは不可能ではない。ましてそれが《特能枠》として技術を極めた沖野であるなら尚更だ。
それでもウマ娘のパンチに視界不良の状態でここまで精密なカウンターを決められるのは、トレセン学園でも彼ともう1人くらいだろうが。
点穴を突かれてダラリとぶら下がる左腕。
両腕が使い物にならなくなって呆然とする彼女に、沖野はザイルロープを握りながら言う。
「深めに突いた。丸一日は指まで動かない。・・・・・・スズカ、大人しく投降しろ。これ以上は無意味だ」
その通りだった。
両腕が動かないボクサーなど一般人以下。
逃走したところでどこに行っても出来る事など無いし、トレーナーを連れ去るなどどうやっても不可能。
「はい。そうですね、トレーナーさん。私の《レッドアネモネ作戦》はここで終わりです」
「そんな名前があったのかよ・・・・・・。よし、後ろを向いてくれ。拘束はしなくちゃならない」
「いいえ。降参はしません」
スズカはそう言い切った。
歩み寄ろうとしていた沖野の足が止まる。
彼の動きを止めたのは援軍の横槍でも取り出された秘密兵器でもない。
何かを深く重く決意した彼女の、湖のように静かな笑みだった。
「私の作戦は終わっても、──────
地面が爆ぜた。
スズカが走り出したのだ。
破れかぶれの特攻ではない。
沖野の周囲を左回りに旋回し、更にそのスピードは加速していく。
その意図と結末を理解した沖野に氷のような戦慄が走った。
「おいスズカ、
「はい。分かってます」
高速旋回でドップラー効果を発生させながらスズカは淀みなく答える。
彼女は複雑な事をしている訳ではない。
小さい円を描くように走って遠心力を蓄える事で瞬間的にトップスピード以上の速度を叩き出し、そのまま沖野に特攻しようとしているのだ。
持ち得るスペックの限界値を凌駕したその一撃はこれまでで1番の破壊力を発揮するだろう。
・・・・・・だが、沖野が恐れたのはそこではない。
避けずに激突すれば沖野はもちろん、頭から突っ込んできたスズカの首もへし折れるだろう。
力を流して転がすか投げるかしても、あの勢いで地面に激突すればどこから落下しても取り返しのつかない損傷を負う。
今すぐ停止すれば大丈夫?
受け身を取ればあるいは?
不可能だ。
沖野に両腕を封印されているのだから。
空を駆ける飛行機のように、彼女は今、高速で走り続ける事でバランスを取っているのだから。
つまり。
全てを懸けたこの一撃の後に、サイレンススズカには逃れられない死が待っている。
「見ていて下さい、トレーナーさん。これが私のラストランです」
「・・・・・・悪いが、そうはいかねーよ」
沖野が大きく息を吸う。
《神便鬼毒》の燃焼が一気にフィルターまで達し、最大量の薬効が彼の身体を駆け巡った。
卵の殻が割れるような音と共に拡張されていく五体と五感。自身の限界値を大きく超えた沖野は静かに腰を落として待ち構える。
サイレンススズカは歓喜した。
彼が自分を受け止めようとしてくれているからだ。
「ようやく掴んだ夢なんだ。ここで終わりには絶対にさせない」
優しい人が泣いています
どうして そんなにも悲しいの
その優しさ どうか
あなたの心のために とっておいて
────結局、私は甘えてばかりね。
少しだけ申し訳無さそうに笑って、スズカは更に強く地面を蹴った。
私はトレーナーの沖野が好きだ。
元々所属していた《リギル》の方針と噛み合わず鬱屈としていた自分を引き抜いた彼のチームは、どこまでも自由な場所だった。
好きなように走って、好きなように笑って、好きなように怒って。夏合宿では随分と久し振りにお腹から笑ったように思う。
自分のやりたい事を全力で応援してくれて、いつだって自分達のことを第一に優先してくれる。
あの天皇賞の後は、そんな彼の優しさに依存してしまいそうになったりもしたけれど・・・・・・私達に対してどこまでも真っ直ぐで、そして少し不器用な彼に惹かれたのは、競走ウマ娘でなくてもごく自然な事だったと思う。
だけど、だから分かる事もある。
チームメイトに対する彼の態度。
彼は所属しているウマ娘に対して本当に絶妙なコミュニケーションを取っていた。
全力で自分達を支えながらも適度に怒らせ、適度に幻滅させ、信頼は得ながらも恋愛の対象からは外れるような接し方。
多分これもベテラントレーナーの技量なんだろう。
そしてその関係がとても繊細なバランスで成り立っているのを理解できたのは多分、自分が早い内から彼に想いを寄せていたからだ。
皆はギリギリ彼を対象にしていない。
だからきっと誰かが行動してしまえば、皆の心は将棋倒しみたいに傾く。
彼が最も避けようとしていた事態になる。
同じ
私はトレーナーの沖野が好きだ。
だけど同じ位《スピカ》というチームが好きだ。
だからこの想いは仕舞っておこうと思った。
心から笑えるこの居場所が壊れないように。
だけど、そんな私を嘲笑うみたいに私の想いは膨らむばかりで。
心から溢れそうになる感情を必死で押し留めても、胸の中から聞こえてくるのは自分の悲鳴ばかりで。
決壊するかどうかギリギリの、悪魔的なタイミングでトウカイテイオーは姿を見せた。
彼女の誘いに乗るかどうか。
自分の葛藤を押し切ったのは、結局は彼女の言葉だった。
『ボクね。好きな人を憎むようになるのって、何より辛い事だと思うんだ』
私はトレーナーの事が好きだ。
同じくらいチームの事も好きだ。
だから私は戦う事に決めた。
暖かく脈打つこの想いが、悍ましい何かに
台無しになってもチームが壊れず「アイツが悪い」と皆が一緒に背中を指差せる、近付こうとも思われない先頭の場所に立つ為に。