ヒトの強さを無礼るなよ ─ウマ娘プリティーダービー─ 作:嵐牛
デトロイトスタイル。
前に出して脱力した腕で斜め下からしなるような軌道で放つ『フリッカージャブ』により相手の動きを支配して戦うボクシングのスタイルの1つだ。
史上初の5階級制覇を成し遂げたトーマス・ハーンズは恵まれた長身と非常に長いリーチでこのスタイルをフルに活かし対戦相手を圧倒したという。
そう、『長身』と『リーチ』。
両方とも体格が平均的な少女のサイレンススズカが持ち合わせていないものだ。
ジャブで距離と動きを支配するこのスタイルは射程の長さが必要不可欠、間違いなく160センチという小柄な少女が取るような戦法ではない。
ただしその少女が『人間』ではなく『ウマ娘』だった場合、そのスタイルの有効性は天と地ほどに違ってくる。
ジャブは本来なら相手の動きを封じて強打の隙を作るための軽い打撃。
しかしウマ娘の膂力で放つと、それは途端にフレイルのような破壊力を手に入れる。
「うおあっっ!?」
辛うじて仰け反った沖野の鼻先から焦げ臭い臭いが漂う。
ただでさえスピード重視で見切るのが至難のジャブが破壊的な力を携え、相手から視認しづらいというフリッカーの特性そのままに、自らのトレーナーの顔面を捕らえかけたサイレンススズカの右拳が猛り狂う蛇の群れの如く殺到した。
下から横から襲い来る手袋に覆われた小さな拳を、沖野は必死に捌いていく。
「待て待て待て落ち着けスズカ!! 冗談じゃなく死ぬっつーの!!」
「ふふっ。イヤですっ」
スズカの乱打が苛烈さを増した。
顎や鼻面を狙っていたフリッカーが本来の用途を外れてボディや脇腹にも打ち込まれていく。
小柄のデメリットが逆転した。
どこに当てても必倒ならばジャブの定石に嵌る必要はなく、打つ場所を散らした方が効果的だ。
スズカより頭1つ分は背の高い沖野にとっては非常に防ぎづらい─────筈だった。
(
当たらない。
何十というフリッカーの嵐が、ただの1度も沖野の身体にヒットしない。
間合いを見切られているのだとスズカは気付いた。
ウマ娘の瞬発力で放たれるジャブはもはや不可視、防ごうとしても防げるものではない。
フリッカーの有効圏内から僅かに外れる立ち位置を保ち、インパクトを外され伸びた腕の
表情こそ慌てている沖野だが、下も横も直線もなく閃く黒手袋の拳の驟雨を防ぎ切る手捌きに一切の澱みはなかった。
(じゃあ、これなら──────)
乱れ打ちするフリッカーの中に1つだけ腕全体に力を込めた1発を混ぜた。
叩く程度では落とせない一撃。乱打の中から質の変わったそのパンチを正確に見抜いた沖野はその1発を捌くのではなく横に
直後。
(──────どうですかッ?)
空気が吹っ飛んだ。
右のフリッカーの陰で期を窺っていたスズカの左の拳がとうとう撃発されたのだ。
殴られた空気が地面の砂すら巻き上げる烈風になるような規模のスマッシュが、回避のため体勢を変えた沖野に最短距離で突き刺さろうとする。
人体を容易に爆散させる拳が命中するまでのコンマ1秒。
教本に載るような美しい『小手返し』だった。
その刹那でスズカの動きを見切った沖野は左の強打を外側に躱すと同時に手首を捕まえて軌道を逸らしつつ、スズカの側面に背中合わせになるような形で回り込む。
そしてそこから足を引いて退がりつつ、手首を捕まえている両手を下に向けて捻った。
スズカの身体が宙に浮き、地面を離れた両足が綺麗な弧を描く。
後は投げ落としたスズカの身体を引っ繰り返して、肘を
───それで終わるなら苦労はない。
小手返しを食らう瞬間、スズカは投げられる動きに合わせて自ら跳んでいた。
結果として投げは加速。動きとタイミングを外された小手返しは不完全に終わり、スズカは地面に転がるのではなく両足で地面に着地した。
しかし着地したとはいえ投げられた姿勢は不安定。
だが両足が着いていれば問題ない。
強打とは腕力のみで成るものに
競走ウマ娘として鍛え抜いてきたスズカの足腰が、軋みを上げて爆発する。
「〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!!」
投げの手応えに違和感を覚えて手を離していなかったら間に合わなかったかもしれない。
不安定な姿勢から放たれたとは思えないほど芯の通ったアッパーカット。
その瞬間、彼は己のミスに気付く。
顎を上げて仰け反ったということは、相手を視界から外すのと同じこと。
そしてそのミスは最悪の形で返ってくる。
沖野にアッパーを回避されると同時、スズカはその勢いのまま身体を捻りつつ上へと跳躍。
彼女のフリッカーをフレイルに例えたのなら、その一撃は何を引き合いに出すのが適切だろうか。
ウマ娘の筋力
サイレンススズカ渾身のバックハンドブローが、狙い
特撮でしか見ないような光景だった。
紙屑のように吹っ飛んだ沖野が何度も地面をバウンドしながら数十メートルは転がっていった。
砂埃を上げて倒れ伏した彼に、スズカは静かに突きつける。
「トレーナーさんが頑丈なのは知ってますし・・・・・・投げ技の対策は万全です。柔術と合気道は『トレーナー』達のマニュアルになっていると教わったので」
良くて頭蓋骨の粉砕骨折か、普通なら頭部の消失かという一撃を食らわせた相手に語ってみせる行為に何の意味があるというのか。
そうした理由は彼女がこの程度で彼は死なないと確信しているからであり、そして少なくとも対象が彼である限りその確信は正しい。
倒れていた沖野が殴られた所を押さえながら、勢いよく起き上がって叫んだ。
「おーーーーい!! ボクシングでバックハンドブローは反則だろ!!!」
「ウソでしょ・・・・・・平気な顔してる・・・・・・」
「いや普通に痛えからな!!」
痛いで済まされるとは思っていなかったらしい。
最終的には拉致するのが目的である以上、渾身の一撃でダウンしてくれないのは都合が悪いのだろう。眉を八の字にして困り顔のスズカに沖野が猛抗議している。
しかしそれでも彼女は今を楽しんだ。
遠く離れた彼に向けて、スズカは再び左構えに戻る。リズミカルに縦に弾むその姿は、まるで浮足だったスキップのようにも見えた。
「でも嬉しいです。私、まだまだトレーナーさんに飛び込んでいいんですね」
また彼女のエンジンが掛かった。
沖野は遠目からでもそれを理解する。
それにしても、と彼は思った。
彼女の使うデトロイトスタイルは、ジャブで距離と動きを支配して攻撃を叩き込むもの。
スズカの体格やウマ娘の身体能力を加味して戦い方は変化しているが、元々は『打たせずに打つ』というボクシングの理想を実現するスタイルだ。
─────相手に何もさせないまま、自分の好きなようにして勝つ。
それは何というか、沖野にとってはとても覚えのある響きの理想論だった。
(レースと格闘技、土俵が違ってもやりたい事は同じか。・・・・・・お前らしいな、スズカ)
少しだけ笑った。
その表情からスズカが何を読み取ったかは分からない。彼女からすれば沖野が自分がぶつかってくる事を受け入れたという事実以外どうだっていいのだ。
数十メートル先から喜色満面で一気に疾駆してくるスズカを前に、彼は慣らすように手首を回した。
◆
言葉を合図に腰を落として両腕を中段の位置に構えたナリタブライアンが、身長を自分より80センチは上回ろうかという自分のトレーナーへと大きく踏み込む。
それに合わせてトレーナーも動いた。
超長身の身体で彼女の頭に向けて放たれた上から叩き潰すような掌打をブライアンは腕を掲げてガード、逆の拳で思い切りトレーナーのボディを突き上げる。
そこから猛烈なラッシュが始まった。
咆哮と共に鳴り響く拳が突き刺さる音は最早人体が鳴らしていい音ではない。肉と内臓を餅の代わりに
しかし次の瞬間、ブライアンの身体が真横に飛ぶ。
人を潰し殺すラッシュを食らっていたトレーナーが、ブライアンの身体をハエ叩きのように引っ叩いたのだ。
ブライアンの身体が真横に吹っ飛び引き摺られるように転がる。しかし即座に起き上がった彼女の視界に広がっていたのは、鎌のように迫るトレーナーの腕だった。
自分が吹き飛ばした相手に純粋なダッシュ力で追いついた彼のラリアットが、起き上がったブライアンを再び地面に叩きつける。
受け身は取った。
しかし交通事故に匹敵するその衝撃に硬直した一瞬をトレーナーは見逃さない。
常人と比して三回り四回りの大きさはあろうかという掌がブライアンの胸倉を掴み、そのまま腕力でブン投げようとした。
その瞬間、ブライアンの両手がトレーナーの頭を掴んだ。
自分を投げる動きに乗じて身体を起こしてもらった彼女が、そのままトレーナーの頭を両腕で抱え込んで全力の膝蹴りを叩き込んだ。
流石にウマ娘の蹴りを大人しく受ける訳にはいかない。手のひらでガードしたトレーナーに、そのガードごと潰さんとブライアンは膝蹴りを打ち続ける。
だが、彼女の蹴りが唐突に止まる。
顔面をガードしていたトレーナーが受け止めた膝蹴りを手のひらで掴んだのだ。
頭を掴まれ、膝を掴んだ状態で身体を起こす。ブライアンが自動的に持ち上げられた。
同時に振りかぶられるトレーナーの掌。
吊り上げたブライアンに追撃を加える気なのだ。
それを察知した彼女は掴まれていない足でトレーナーを思い切り蹴り飛ばす。
呻いた彼の手から彼女の脚が解放された。
彼女が地面に降り立つ。
同時に構えは完成していた。
腰を深く落としてより強く踏み込めるよう姿勢は前傾、脚と腰に溜めた力を一点に向けて解き放つ。
吼えて爆ぜるは鋼鉄の意思。
蹴るのは相手の身体ではなく、相手の身体の向こうにある空間だ。
「せいッッッッ!!!!」
ズドン!!!!と、旧式の大砲のような音。
ナリタブライアン渾身の前蹴りがトレーナーの腹に突き刺さり、2メートル40に届こうかという大男が地面と水平に飛んでいった。
激突された校舎の壁がガラガラと崩れる。
突きの勢いで巻き上げられる風と砂埃。
戦闘開始から10秒もせずに発生した大破壊を前に、周囲で見ていたトレーナーの中の1人が呟いた。
「
「か、空手、ですか?」
「ああ。見た感じフルコンタクトの方だな」
思わず聞き返してきた近くのウマ娘にトレーナーはそう答えた。
「直接的な殴り合いの強さに重きを置くタイプの空手だ。流派によっちゃ実戦でも防具すら付けない。お互いに自分から間合いを詰めてメチャクチャ殴り合うから試合の様子を『空手相撲』なんて言われたりするけど、体格差を埋める為にも気質的にもこれ以上無く彼女に合ってるだろう」
「なるほど。でもあの、大丈夫なんですか? その、ブライアンさんのトレーナー、あんな事に・・・・・・」
「普通なら大丈夫じゃないな。ウマ娘相手なら身体が真っ二つになってるだろうし、そもそも最初のラッシュでミンチになる。まあ10回は死んでるよ」
「えっ!? じ、じゃあ、あの、あのトレーナーさん死んじゃって・・・・・・!?!?」
「落ち着け。俺は
一気に取り乱したウマ娘を宥めるトレーナー。
そこでそのウマ娘は気が付いた。
人間が10回は死ぬようなこの現場で、血の色と匂いが一滴たりとも見つからないこと。
そして同僚が建造物を破壊する程の一撃を受けたのに、周囲のトレーナーが不自然な位に落ち着いていることに─────
「この程度で
霧のように立ち込める戦塵の向こう、巨大なシルエットが起き上がった。
自分にのし掛かっている瓦礫をまるで布団を捲るかのように
僅かに目を丸くしたブライアンへと歩みを進める彼は、服についた砂埃を適当に払っていた。
「あー・・・・・・流石に今のは響いたな」
打たれた所を撫でながら彼はそう言った。
続く言葉で彼女を煽る。
彼が自らを置いている立場は、相手に胸を貸している強者のそれだった。
「で。今のがお前の全力か?」
「ハッ。そうだ、それでいい。それでこそだトレーナー!!!」
歯を剥き出してブライアンが吼え、それが第2ラウンドの合図だった。
ラッシュの中に強引に割って入ったトレーナーが彼女の腹部に掌打を見舞う。
腹から空気を吐き出したブライアンに追撃の掌打。それが側頭部に命中する寸前でガードした彼女が彼の脇腹にカウンターの
蛇が互いの尾を呑み合うような苛烈な打ち合いが始まった。
(ナリタブライアンもアイツも、あの1発1発で何人纏めて殺せるんだろうな)
攻撃が当たる度、防がれる度に鳴り響くのは近代兵器のような炸裂音。
遠巻きに見ているのに、まるで狭い部屋でハンマーを振り回されているような圧力を感じる。
ナリタブライアンの馬力はトレセン学園でもトップに近い。そして彼女のトレーナーもトレセン学園でトップの怪力だ。
ならばその2つが激突すれば何が見えるのか。
トレーナー達もウマ娘達も、その戦いに全く同じ感情を抱いていた。
「・・・・・・怪獣映画かよ、マジで」