黒麒麟は虚海を越える   作:冬乃菊

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誘い

「お迎えに上がりました」

 無機質とさえも思わせるその怜悧な双眸。表情を動かさず、その長髪の男は陽子の元へと澱みなく近づいてくる。

 男の纏う衣も、普通とは違う。まるで異国の時代劇から飛び出してきたかのような装い。教室には当然、陽子の他にも多くの生徒がいた。友人と話していた者も、読書をしていた者も、その男に気づくと思わず口をつぐんだ。ざわざわしていた教室が、一瞬にしてシンと静まり返った。

 そんな状況でも男の表情は少しも動かず、その視界には自分しか入っていないようだ。

「君!どこの者だ?高校生にも見えないが。……中嶋の知り合いか?全く、困るよ」

 陽子が戸惑いながらふるふると小さく顔を横に振るが、白髪混じりの頭をした教師は意に介さず溜息をついた。それにびくりと陽子は肩を震わす。

「っ、先生!違います!こんな人、私は知りません!」

 陽子は長髪の男が近づいてくるため少しでも距離をとろうと席から立ち上がる。これまでずっと、自分の周囲の大人には良い子供だと思われるよう振舞ってきた。教師からこのような態度を取られるのは初めてのことで、気が動転した。

 陽子の心境など誰も構いもしない。長身の男は在ろう事か、陽子の足元に膝をついて頭を垂れた。

「御前を離れず、忠誠を---」

 何か言っているが、見知らぬ男だ。そんな男の言葉に耳を傾ける必要なんてない。それよりも、クラス中の生徒たちの全ての視線が全身に突き刺さっていることの方が問題だった。

「許す、と」

「わ、私、あなたのこと知りません!人違いです!!」

「猶予がありません。許す、と」

 この男に自分の言葉が通じるような気がしない。

---パンッ

 突如、大きな音と突風が襲った。窓を見ると、その周囲には生徒や先ほどまで話していた教師が床や机に伏していた。その体からは血が滴っている。教室の窓ガラスが散り散りに割れ、無数に突き刺さっていた。陽子は小さく悲鳴をあげる。

「追手が迫っています。許すと仰ってください」

 逃げなくては。状況も何も分からないが、この異常事態はわかる。

「ゆ、許すから!」

「失礼を」

 男の白い手が陽子の手首を掴むや否や男は駆け出し、陽子も合わせて駆け出すしかなかった。

---何故お前だけ……

 教室を出る間際に、床に倒れた教師が息も絶え絶えに腕を伸ばしてそう言っていた。

 そう。何故、自分だけ。分からないことだらけで頭がどうにかなりそうだ。

 

---女の子は少しおとなしすぎるくらいが良いんだよ。

 父親は、自分に常に淑やかであることを望んだ。だから、体育の授業ではいつも全力で望むようなことはなかった。

 こんなに早く走ったことはなかった。意外と動くものだと思う。校舎の外から何か迫っているのはわかる。

 いつまた窓ガラスが割れるか、いや、建物が抉れるかわからない。しかし、どうしたことか敵の足が途絶えたようだ。男は怪訝に思ったがその足は止めなかった。

 その代わりに、黒く淀んだ何かが向かう先にあるのがわかった。敵ではないが良くないものであるのはなんとなくわかる。

少し先に見える廊下の表札には「美術室」とあった。

---ガラ

 もう誰からも見られたくなかった。陽子は、美術室から出てきた生徒と顔を合わせたくないと、顔を背けた。だが、長髪の男はその生徒を見ると目を見開いた。

「ハンキョ」

 何か男が言ったように思えたが、どういう意味かはわからない。

 走りながら後ろを振り向くと、教室の廊下にはそぐわない灰色の毛並みの大きな犬、いや狼と言った方が近いか、その獣が男子生徒の前に足を折り屈んでいた。そして、まるで自分の背に乗れと訴えるように男子生徒の腰を鼻で突いて動かしていた。

 陽子は再び前を行く長髪の男を見た。私と同じようにあの男子学生も助けようとしているのだろうか。この男は何者だろう。

 美術室を通り越すと、学校の屋上へと続く階段はすぐだった。陽子は行く先も分からず走っていたが、男が階段を駆け上がっていくのにギョッとした。

「そっちは屋上よ!どうするの?!」

 陽子の悲鳴にも似た問いに、男は僅かに振り返るが返答はない。陽子の手首を掴む力は強い。

 屋上に辿り着くと、ようやく男の手が緩み陽子は距離をとった。

「あなた、一体どういうつもりなの?!あんな…教室のガラスがあんな割れ方をするなんて聞いたことがない。何が起こってるの?あなたの仕業なの?!」

「……今は説明している猶予がございません。あの妖魔はあなたを狙っている。このままこちらに止まれば、無関係の者に危害が及びますがよろしいか」

「私を狙って……?どうして……」

「冗祐。この方に憑き、お守り申し上げよ」

---御意

 地面から低い声がした。すると、背中を何かが這うような気配が襲い陽子は思わず身を捩った。その感覚はすぐに止み、今度は男から立派な装飾の施された剣を差し出された。

「これを。振るえるのは貴方だけです。けして肌身離さずお持ちください」

「な、なに……?今度は戦えとか言い出す気?」

 男は否定せず、その剣は受け取れと言わんばかりだ。一介の女子高生が剣の扱い方など知るわけもないのにと、陽子は顔を引攣らせる。

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