黒麒麟は虚海を越える   作:冬乃菊

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影の中に潜むもの

 今日は何かが起きる。そんな予感がしていた。自分の影に潜むモノたちが、動いているのがわかる。こういう日には、決まって悪いことが起きるのだ。例えば、誰かが怪我をしたり。

 要は授業を受けるのをやめ、美術部部員以外に使用しない美術室の一室に篭った。少なくとも、夕方までは誰も来ないはずだ。

 何度も色を重ねたキャンバスに、筆を滑らせる。空はどんよりと鈍色の雲が陰っていた。丁度今描いている絵のように、仄暗い。

 

 自分の影に蠢く何かがいると勘付くのには、そう時間はかからなかった。友達と呼べる人はいないため、今ではそれが心地良くもあるくらいには慣れた。言葉は交わせず、意思疎通もできないが、それが影から居なくなる気配はなんとなくわかった。

 いつもは気にせず放っておく。しかし、今日は放っておけずに美術室の外に出た。遠くから物音がした気がしたのだ。それも普通の物音ではない。何かとは言い表し難いが胸の底が騒ついていた。筆を滑らせても、少しも落ち着かないのだ。

 美術室の戸を開けた途端、目の前を二人の人影が横切った。一人はこの学校の制服を着た女生徒で、もう一人は色素の薄い金色の長髪の男であった。既視感があったが、そんなはずはないと俯きかぶりを振った。

 再び視線を上げると、そこには人の腰以上の背を持つ大きな犬がいた。殺気はない。むしろその獣の方が、怯えているようにも見えた。

 要は動物が好きだった。言葉が伝わらずとも、仲良くなれる。言葉が同じ人とよりも、獣の方が簡単に打ち解け合えるのだ。不思議だと思う。

「どうしたの?」

 何故、このような獣がここにいるのだろうか。その獣は膝を折り、クイと背の方に頭をやる。何度も。その背に乗れというのか。

 この獣がこの世界のものとは思えない。この世界は自分を拒んでいると、そう感じたことがこれまでに幾度となくあった。この獣は、違う場所へと連れて行ってくれるのかもしれない。

 その獣の毛並みは濃い灰色。見た目よりも柔らかだった。要はその背に跨った。獣は廊下を飛ぶように走り、階段を一気に駆け上がった。要は振り落とされないようひしとその背を掴む。

 

 普段は鍵の掛かっている屋上の扉が歪に捻じ曲がり開け放たれていた。扉に近づく程、吐気が強くなる。臭いが立ち込めていた。

 扉を潜り視界が開けると、そこには血飛沫と巨大な鳥の獣の首と胴体が転がっていた。そして、先ほど廊下を駆けていった二人の姿もあり、男ではなく女生徒の方が血濡れた剣を両手で持っていた。その手足は震え、顔は恐怖に慄いていた。

 獣は二人の元へと近づき、そこで膝を折った。降りろということだろうか。

「まさか主上と同じ建物の中に居られるとは……。私を憶えておいでか」

 男の出で立ちは、異様だ。一度見たら忘れるはずがないだろう。

「いいえ。すみません」

 表情の乏しそうな男ではあったが、要の返事を聞いて落胆したのはわかった。男の横にいた女生徒は二人を怪訝そうに見ていたが何も言わない。

「主上、時期にまた追手が来ます。少々手荒ですが時間がありません。あちらへお連れします。……芥瑚」

 校舎のアスファルトから、翼の生えた女性のような獣が現れた。その体は羽毛で覆われている。陽子は後ずさったが、要も同時にその芥瑚という獣の腕に捕らえられすぐに身体が宙に浮いた。

 細腕に見えたが、二人を抱えれるほど力は強いらしい。加えて鳥とは比較にならない速さだ。これでは地上から見られて騒ぎになるようなこともないだろうと、要はもう片方の腕に抱えられて未だに気が動転して不安げな表情をしている女生徒をよそに、冷静にもそのようなことを考えていた。

「あの、僕は高里要です。あなたは?」

「わ、私は中嶋陽子」

「中嶋さん、よろしくお願いします」

「えっ?!あ、ああ……よろしくお願いします」

 再び沈黙が落ちる。

 この非日常な状況下で自己紹介をし合うことで、少し頭が冷えたようだった。

「あの、芥瑚さん、私たちどこに行くんですか?」

「虚海を渡ります」

「キョカイ……?」

 陽子は要の顔を伺うが、涼しげで何も不安が無さそうに見える。

「高里くんは、怖くないの?」

「恐怖、ですか。無いといえば嘘になりますけど、僕はこのまま何処へでも行ってみたいです」

「そう……」

 高里要。名前だけは聞いたことがある。都市伝説のような噂話と共に、いつも彼の名が挙がっていた。学年も違うため顔は知らなかったが、至って普通のように見えた。だが、この状況下で騒ぐことなく平然としているのには違和感が拭えなかった。

 この人の周りでは事故や怪我が耐えないという。では、今の状況ももしかすると高里と関係があるのかもしれないと心のどこかでそう思う自分がいた。

 

 

 どれほどの距離を飛んだのか。空はもう藍色がかっていた。今夜は満月で、その月明かりと地上の街灯との光があり、周囲が見えなくなることはなかった。

 磯の香りが鼻を掠める。海だ。月光に煌めく波が美しく、幻想的な光景だった。そして目を疑うのは、海が月を綺麗に写し込んでいることだった。その輪郭もはっきりしている。満月の夜の海の普段の姿は知らないが、この情景が有り得ないことは理解できる。

 芥瑚はその海へと近づいていく。月の影は、近づいてもその姿を変えることはない。十分に近づくと角度を変え、海へと向かっているのに気がついた。このままでは溺れると、陽子はもがくがその腕はびくともしない。

「ご辛抱を」

 海へと突っ込んだはずだが、不思議なことに濡れた感覚はなかった。その代わりに四肢が千切れるような痛みと息苦しさをおぼえ、陽子は意識を手放した。

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