ぞくりと、背筋が冷えた。悪い事が起こるということだろう。幼い頃からそうだった。何かが起こる前には必ず、全身が総毛立つような感覚に襲われる。だが、その原因はその時になるまでわからない。
もしや、汕子がしくじったのかもしれないとも思ったが違うらしい。
どこからか獣の鳴声が聞こえてくる。その声はまだ遠い。鳥の鳴声に近いが、低く大きく、その上に不気味で、鳥よりも狂暴さを感じるものだった。声の元は一つではない。複数。
月夜の淡い光が床を照らしている。瞬き一つしない陽子の横顔。彼女もまた、何か悪いものが近づいていることはわかるのか。
建物の外に人の気配がした。囁くような声。それも多い。足音は忙しなく、慌てているようだった。
ーー逃げなくては。でも、どこへ。
二人に行くあてなどない。帰る方法はおろか、ここが何処なのかさえわからない。
すると、そう遠くない場所から人の悲鳴と騒音が聞こえた。それと同じか、それともそのすぐ後か、濃い鉄の臭いがした。
「うっ……」
血の臭いだ。昔から、血が嫌いだった。色もそうだが、あの臭いもそうだ。焼いた魚や肉もなかなか喉を通らない程に。
それでも、これ程までに濃厚な血の臭いは今までに経験したことがない。強い吐気をおぼえ、同時に全身の筋肉が弛緩した。
「高里くん?!」
「タイキ!」
汕子の腕から放り出された剣が大きな音を立てて床に落ちる。汕子は要の側にいた陽子よりも早く、その体を受け止めた。
闇の帳のお陰で彼の顔はよくは分からないが、顔色は青白く生気がないように見える。今朝まではずっと寝たきりだったのだ。まだ本調子でないのも頷ける。汕子はまるで自分の子のように、慈しむように要の体を腕に抱いていた。その光景は聖母子像のように慈愛に満ちていて、陽子にここではない元の世界にいる父母を想起させた。そのように崇高なものではないのだが。
ーーー帰りたい。
そう切に思う。かつて自分のいた世界に、自分の居場所と言える場所があったかは知らない。けれど、あちらには陽子の父母がいる。それだけで理由は十分だった。
ーーーどうしてこんな場所に連れて来られたのだろう。
ケイキと名乗った男に、有無を言わさず連れてこられたのだ。せめて理由と目的が聞きたい。ケイキはこちらの世界では珍しい薄い金色の髪をしていた。もしかすると、訪ね歩けば見つけることができるかもしれない。
隣の家の屋根には大型の鳥のような獣の爪が食い込み、獣は中の様子を覗き込んで様子を見ているように見えたが、やがて獣の頭も屋根から中へと入む。悲鳴が聞こえたような気がした。
身体の中にいるあの透明なモノも、殺気立つのがわかった。
剣を取るべきは、男性ではないのか。そういう考えがないわけではなかったが、目の前にいる最も親しい男性がこのような状態では仕方がないとも思う。陽子は床に落ちた剣を取り上げた。
「汕子、高里くんをよろしくね」
陽子は剣を携え、闇の中逃げ惑う人々の中へと向かった。
要の体を抱く汕子の腕は震えていた。要は血の毒気にやられ、顔色は青ざめている。そうでなくとも、要の身体は既に病に蝕まれていた。長い間、要の身体には毒である肉塊を食らってきたから。それ以上に重篤なのは、彼の背負う数多の怨嗟だった。
ーーー早く、蓬山へ。
汕子の脳裏には、これまで要に起こった出来事が走馬灯のように浮かんだ。タイキが病んでいる原因は、汕子ともう一匹の獣のためでもある。要はこれまで謂れのない怨みをかってきた。謂れのないとはいえ、それはやはり要の存在が、延いては汕子の存在が原因だった。
もはや嘆くことは許されない。汕子は要を腕に抱き、爪で地を掴み勢いよく駆けた。
汕子の胴から下は豹。しかしその足は豹よりも速い。滑るように地を駆けた。
この集落を襲ったのは、巨大な鳥の群。その目は肉食獣のように血走り、嘴や爪は猛禽類のそれよりも鋭く見える。なによりも目を奪うのは、全身を覆う血の色の羽。
その獣は汕子よりも速い。汕子は要を抱えなくてはならない分、そう速くは動けなかった。
要の身体は、ただの人とは比べ物にならない程の馳走だ。その魂は金色で、この世界にたった十二のみ。その肉は甘美で、力も増幅させるという。
目と鼻の先にある極上の馳走を、知っておきながら放っておく者がいようか。汕子の背後には数匹の爪が迫っていた。
「傲濫!」
汕子がそう叫ぶと、どこからとなく宵闇よりも深く、暗い黒い靄が現れた。獣たちはそれが何か本能的に察し、後退しようと翼を翻したが間に合わない。黒い靄に呑まれ、残った片翼だけが不自然に地に堕ちていた。
遠くから、陽子もその光景を見ていた。
「そんな方法があるのなら、どうして言わなかったの……」
陽子がそう言うと、汕子は困ったように眉を寄せた。
「穢れは、タイキを蝕む」
穢れ?タイキ?分からない言葉が多く、汕子の言葉は陽子にとって意味を成さなかった。
「穢れって何のこと?」
「血」
陽子は右手に持つ血濡れた剣に目を落とした。黒地のため目立たないが、制服にも返り血が点々と付いている。
その血による穢れと、獣を飲み込んだあの黒い靄は繋がらなかったが、汕子が要の容態をひどく気にしていることはわかった。
血によって気を失うくらいだ。要は剣を持つことができない。だからケイキはこの豪奢な剣を自分に渡したのかと、陽子はそう納得していた。