人里を発った二人はその足で霧の湖までやってきていた。
名前の通り湖の周りを霧が包んでおり、他の一帯よりも明らかに肌寒い。
「……寒いな」
「面倒くさい妖精が此処にいるからな。絡まれる前にさっさと抜けちまおうぜ」
正邪が先を促し、ミカゲが無言でそれに追随する。
霧と言っても一寸先が見えなくなる程の濃さではなく、進むのに何ら支障は無い。
このまま何事も無く目的地に着けばいいなと、正邪が楽観的な思考をしていた矢先――
「ちょーとまったぁあ!」
幼く甲高い声と共に、一つの人影がミカゲ達の前に立ちはだかった。
「うわぁ来ちゃったよ、⑨が」
「⑨?」
「要するに馬鹿ってこと」
「バカっていうなー!!」
両の拳を上げ、全身で怒りを表現する幼女。
常人には恐ろしさよりも愛くるしさを感じさせる光景であるが、生憎と相対しているのは常人の感性からは逸脱した二人な為、反応は相も変わらず淡泊であった。
「喧しい羽虫だこと」
「チルノ、知ってるか。馬鹿って言う方が馬鹿らしいぞ」
「うっさいバーカ。てんさいのあたいをばかにするのがバカなのよ。バカバーカ」
白のシャツに青のワンピースを重ね、何処か涼し気な印象を与える妖精、チルノは挑発にムキになった様子で、しきりに馬鹿を連呼している。
「で、あの青いのが寒さの原因?」
「あの⑨が蛙とか魚とかを手当たり次第凍らせてるからその冷気が蔓延してんだ」
「只の羽虫にしては些か……あぁ、能力持ちか」
「そっ。確か冷気を操る程度の能力だったっけな」
「随分と良い能力を持って生まれたものね」
それについては正邪も同意する。
霧の湖一帯の気温が下がっているのは、チルノもとい1体の妖精によるものだ。
裏を返せば、妖精だからこの程度の影響で済んでいるとも言える。
仮に大妖怪が保有していたとしたら、幻想郷の大半が寒波に沈んでいてもおかしくないと考えると相当に強い能力と言える。
特に、能力を有していない正邪からしてみれば、垂涎の能力であった。
「でもミカゲなら余裕だろ。ちゃちゃっと追い払って先に進もうぜ」
ちゃっかりミカゲの後ろに陣取ってイキる正邪の姿は、正に虎の威を借りる狐そのものであった。
ただミカゲに任せればチルノごとき瞬殺は間違いなく、無傷でこの場を抜けられる。
と、単純に実力差のみを考慮するならば正邪の考えは正しかった。
ただ一点、致命的な見落としがあるとしたら――
「お前が追い払え」
誰もミカゲを御す事が出来ない点だろう。
その言葉と共に、首根っこを掴まれた正邪の身体が途端に浮く。
脳が状況を処理しきれずにいたのも束の間、正邪はミカゲの前に立たされていた。
「……は?」
「あいてはおまえだな! あたいのわるくちをいうやつはやっつけてやる!!」
チルノは氷の礫を前面に生成し終え、戦闘準備は万端な様子。
正邪を無理矢理送り出したミカゲは手頃な大きさの岩に腰を下ろし、脚を組んで頬杖をついた。
まるで今から始まる戦いに一切手を貸さないと、態度で示すが如く。
(……え、まじ? まじで私が戦うの?)
「すきありー!」
混乱する正邪などお構いなしに、チルノは氷礫を撃ち出す。
チルノを起点に放射状にばら撒かれた礫は、次々と正邪の身体に着弾する。
「イテッ!? イテテテッ!!」
「まいったかー、あたいってばやっぱりさいきょーね!」
「あぁ畜生、もうやぶれかぶれだ!」
漸く戦う覚悟を決めた正邪は地面を駆け出す。
先の礫が被弾した部位を一瞥すれば、少し腫れている程度。
同じ部位に連続して被弾しさえしなければ、致命傷にはなり得ない。
「ふふん♪ さいきょーのあたいにはだれもかてないのだー!」
(最強ねぇ……。あっちで座ってるのが最強の妖怪って言ったらどう反応するのやら)
正邪はチルノから距離を取りつつ、回避に努める。
幸いにも弾速はさして早くもなく、放射状にばら撒いてくれるお陰で密度も高くない。
飛行する相手に、走って対抗するなど地の利を捨てる愚行であるが、正邪の保有妖力は少ない。
反撃の妖力弾を撃つ事を考慮すると、飛行に回せる妖力は自ずと限られてくる。
(これくらいなら余裕。後はチルノがへばってくれたら最高だけど……まぁ無理だよな)
元気が有り余っている様子で、立て続けに氷礫を撃ち続けるチルノ。
戦い=逃げるが勝ちを信条とする正邪であったが、この戦いを終わらせるにはチルノを戦闘不能にするしかない。出来なければ、憐れな天邪鬼の氷像(本人入り)が霧の湖に展示される事となる。
「どうした! にげるばっかりか!」
氷礫が当たらない事に業を煮やしたチルノが数を増やすが、放射状に撃つのだから効果は薄い。
「ハハッ、とんだ最強様だな。走る相手に当てられないのかよ」
「ムキー! だったらこれでどうだ!!」
複数の氷礫を寄り集め、チルノは氷柱を作り出した。
見た通りの鋭利さ、直撃でもしたら容易に肉を貫通しそうな形状をしている。
絶対に当たれないと正邪が息を呑むが、その頬を何かが掠めた。
「マジかよ……」
正邪は思わず顔を引き攣らせた。
理由は当然、正邪の頬を掠めた正体、地面に深々と突き刺さった一本の氷柱であった。
威力が上がるのは予想していたが、撃ち出す速度が跳ね上がるのは想定外。
運良く初撃は外れたが、氷礫の時とは明らかに難易度が上がった。
「どんどんいっちゃえー!」
チルノは次々と氷柱を作り出しては、正邪へと撃ち出す。
一発でも当たる訳にはいかないと、正邪は堪らず空を飛んで回避に専念する。
仕方がないとは言え、これで長期戦は困難となった。
「こんにゃろ!」
正邪はこの戦いで初めての妖力弾を撃ち出した。
数を増やし過ぎてもダメージにならなければ意味は無い。
かと言って減らし過ぎれば、折角の弾も当たらない。
二十発、それが正邪に許された手数であった。
「ベー! こんなのあたんないよーだ」
まずは五発。
全て氷柱をぶつけられて相殺どころか、一方的に押し負けてしまう。
更に五発。
氷を纏わせた手で受けられ、呆気なくも掻き消されてしまう。
精々が当たった腕を仰け反らせる事しか出来ない。
「チッ、妖精の癖にタフな奴だ」
「へっへーん、これならあたってもいたくもかゆくもないな!」
一瞬カチンと来た正邪であったがすぐに己を律し、得られた情報を整理する。
正面切っての撃ち合いでは圧倒的不利。
直撃させても傷を負わせられず、腕を弾く程度に留まる。
(泣かせたい。あのにやけ面……)
しかし現実問題、正邪が撃てる弾数は残り十発。
次の競り合いで攻撃に転じるだけの妖力は底を付くだろう。
ならば、天邪鬼らしく卑怯に――
「騙し撃つ!」
飛来する氷柱を掻い潜り、針の穴を通すように五発の妖力弾をチルノの顔面目掛けて撃ち込む。
如何に威力を軽んじられようが、自分の顔目掛けて飛んでくる妖力弾を常人は無視出来ない。
「むだってのよ!」
三発は氷柱に撃ち落とされ、運良く抜けた二発も交差させた腕に防がれ、霧散してしまう。
だが、自ら視界を狭めてくれたのは好都合。
正邪は急降下し、一時的にチルノの視線から外れるがまだ不十分。
即座にチルノの真下に回り込み、一発とワンテンポ遅らせて一発を撃ち込む。
「うわわッ!?」
チルノは一発目を辛うじて回避したが、上半身が仰け反る態勢となる。
そこに間髪入れず、後頭部へ遅れて撃った妖力弾が着弾する。
「痛ッ!? ……あれ、あたまがなんだかくらくらするぞぉ?」
仰け反る勢いと撃ち出した妖力弾の勢いが合わさり、チルノは軽度の脳震盪を引き起こしていた。
視界が回り、フラフラと飛行も安定させられない様子。
「私を舐めた報いだよ」
迎撃が無いなら何も怖くない。
最短距離でチルノとの距離を詰め、正邪は残る三発分の妖力を一発に集約する。
そして、チルノの顔面に掌を向けて放つゼロ距離からの妖力弾。
ゴンッと鈍く、重い音が周囲に響く。
「どんなもんだってんだ!」
再度チルノが上半身を仰け反らせた。
表情は見えず、反応も無い。
しかし、数秒の沈黙を経て、再起動したかのようにチルノは拳を握り込む。
勢い良く姿勢を戻したチルノは涙目で、その額には遠目からでも分かる程のたん瘤ができていた。
「おこった! あたい、ちょーおこったぞ!!」
怒り心頭な様子でチルノは、両の掌を天に翳した。
氷礫を集めて氷柱を作った時のように、今度は複数の氷柱を頭上で寄り集め始める。
それまでの礫や氷柱とは規模が違う。
チルノの背丈の倍以上はある氷塊が頭上に生み出されていた。
「おいおい、冗談だろ……」
想像が甘かった。
氷柱でも度肝を抜かれた正邪であったが、心の何処かでこれ以上は無いと決めつけていた。
だが、現実は違った。
当のチルノは両手を天に掲げ、氷塊が落下しないように妖力で支えている。
重量的に支えるには余裕が無いらしく、顔を真っ赤にして腕を震わせていた。
「くらえ! スーパーハイパーウルトラチルノスペシャルー!!」
「名前糞だせぇ!?」
あまりにもあんまりな技名に反射的に正邪はツッコんでしまう。
だが、それが正邪の動き出しをほんの僅かに遅らせた。
「うぐッ!?」
正邪目掛けて、氷柱と同等の速度で撃ち出される氷塊。
致命的な直撃は避けられたが、右脚を氷塊に引っ掛けてしまう。
骨は幸い折れていないものの、痛々しくも青紫色に変色している。
脚の痛みで集中を乱され、やむを得ず飛ぶのを中断して正邪は地面へと降りた。
「もうとべないみたいね」
上空から正邪を見下ろすチルノは次に撃ち出す氷柱を作り終えていた。
「これであたいのかちね」
「ッ! どうだろうな、これも演技で氷柱を作らせてお前が疲れるのを狙ってるかもしれないぞ」
「ふーん。じゃあ、もういっかいこれをぶつけてあげる!」
チルノは再度氷柱を寄り集めて氷塊を頭上に生成し、正邪に狙いを付けた。
相対する正邪にもう飛ぶだけの余裕は残っていない。
駆けて避けようにも負傷した脚では範囲外に逃れるのは絶望的。
直撃で圧死、運良く直撃を避けたとしても更なる致命傷は避けられない。
その後は語るまでも無く、一方的に削り潰される。
チルノはただ挑発に乗っただけであったが、奇しくも王手を掛けていた。
氷塊を撃った時点で正邪の敗北は確定する。
そう、撃てたのならば――
「念のために仕込んでおいて、本当に良かった」
脚の痛みに脂汗を滲ませながらも、正邪は不敵に笑ってみせた。
「私の勝ちだ」
「……おまえやっぱりバカだな、これであたいのかちなのに」
「まぁ聞けよ。私が撃った妖力弾は全部で一八発、その内十七発は消滅した。これがどういう意味か分かるか?」
「えと、一八発から十七発を引いて……一発たりない?」
「お見事、御褒美だ」
正邪は徐に大袈裟な手振りで開いていた掌を閉じる。
その挙動に連動するかの様に真上に上げられていたチルノの片腕が前方に弾かれた。
「えっ!?」
何が起きたのか分からず、チルノはキョロキョロと周囲を見渡すがもう何も無い。
そして、このタイムロスで勝負は決した。
「うしろからこうげきなんてズルいぞ!!」
「本当に期待を裏切らない⑨だな。上、見てみな」
正邪は人差し指を立て、チルノの頭上を指差す。
「――――あっ」
両腕で辛うじて支える事が出来ていた氷塊を数秒とは言え、チルノは手放してしまった。
当然の如く片腕では支えきれず、氷塊は重力に従って落下を始める。
――真下にいたチルノを巻き込んで
「お前の敗因を教えてやる――馬鹿だから」
「ぬぎゃあああぁぁぁ!!」
チルノの断末魔が虚しく木霊した。
正邪は密かに二の矢を講じていた。
勿論本命はゼロ距離からの妖力弾、それでチルノが沈めば最良。
ただ、自分の弱さを自覚していた正邪は決まらない可能性も考えていた。
故に躱されて消滅を免れた一発の妖力弾を消さずに残した。
一つ補足をするならば、この一発を活かせるか否かは完全に運任せであった。
幾ら不意を撃とうとも所詮は腕を弾く程度の威力。
今回はチルノが怒りに身を任せてくれたお陰で偶々活かせる場面が巡ってきただけのこと。
要するに、チルノの自滅であった。
「あー、馬鹿で助かった」
能力を上手く使われていたら早々に詰んでいた。
周囲を警戒されていたら妖力弾を死角に滞留させていた事に気づかれていた。
チルノがもう少し強靭な肉体であったならば妖力弾で腕を弾く事すら出来なかった。
一つでも掛け違えていたらこの勝ちは拾えなかった。
氷塊に押しつぶされたチルノは目を回して気絶しており、当分は目を覚まさないだろう。
正邪は大きく深呼吸して、昂った精神と脈拍を落ち着ける。
そして、終始一切の助力をしなかった薄情者へと視線を向ける。
「…………ん? あぁ、やっと終わったのか」
正邪は自らの眼を疑った。
あれだけの死闘を繰り広げたと言うに、あろうことか戦いを押し付けたミカゲが正邪そっちのけで地平線に沈む夕日を見ていたのだ。
「もう日暮れか。あの館で一夜を明かすわよ。……何を項垂れている」
正邪は四つん這いになって項垂れた。
称賛はないにしろ、最低限の労いの言葉くらいはあるんじゃないかと心の何処かで期待していた。
しかし、現実は非情なり。
ミカゲにとって、正邪とチルノとの戦いは景色以上に見る価値を見出されていなかった。
「疲れた。背負ってくれぇー」
せめてもの嫌がらせに正邪は地面に蹲った。
数秒ほど無言で蹲る正邪を見ていたミカゲは無造作に正邪の襟首を掴む。
正邪は内心でほくそ笑んだ。
借りてきた猫の如く首根っこ掴まれたまま持ち運ばれるのは癪だが、今は身体が鉛の様に重い。
外見は悪いが、身体を動かさずに移動できるならば願ってもない。
正邪はミカゲに身を委ねる様に目を瞑り――
「ギィアァァァア!?」
腰から伝わる激痛に目を見開いた。
正邪の予想に反して、ミカゲは正邪の身体を持ち上げずにそのまま歩き出していた。
当然襟首を掴まれている正邪の身体は地面に引き摺られる結果に。
「立つ! 立つから手を放せぇー!」
正邪の慟哭を背景にミカゲは進む。
目指すは霧の湖を超えた先。
禍々しくも周りの自然色から完全に浮いた紅の館、吸血鬼が治める紅魔館へと。
次回、紅魔館へ。
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