姫と勇者と、メイドさん   作:食卓塩少佐

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プロローグ 何度目かのはじめまして

 麗らかな日、という言葉がこれほどにも当てはまる春の日はない。というくらいに快晴な4月4日。

 前日から窓を網戸にして寝ていた徠斗(らいと)の部屋に爽やかな風が優しく入り込み、その寝顔をそっと撫でた。

 およそ花粉症の人間にとっては理解し得ないだろう習慣だが、徠斗は年がら年中窓を網戸にして寝ているため、秋は涼風が、冬は寒風が、そしてこの時期は先述の通り心地よい春風が彼の部屋をお邪魔する。

 ちなみに、夏は熱風または網戸の隙間を縫ってコバエが入り込むのだが、夜風が意外と涼しくて心地好いためか、ついつい窓を閉めずに寝てしまうのだった。

 

「……んぅ、ふぁ~」

 

 本日の第一声にしてはあまりにも情けない言葉と共に目を覚ました徠斗は、現代病とも言える習慣、『朝目が覚めたらまずスマートフォンを手に取る』をまさに忠実に実行し、今が何時かを確認する。

 普段は寝坊とは無縁の人生だ。きっといつもよりこころなしか窓から見える太陽の位置が高かったり、窓から差し込む陽射しが暑かったり、窓から聞こえてくる喧騒が賑やかなのも、気のせいだろうと思いつつ見やった、スマートフォンの時刻。

 "スマートを謳うならサイズは手のひらに収まるサイズであるべき"という謎のこだわりで現行シリーズより3~4世代古いそれの画面に表示されたのは、『10:44』。

 

「……ん?」

 

 10時44分、厳密には時刻を確認した直後に45分に更新されたその時間は、彼の大学生活において、進級するために必須な講義の開始時間ジャストであった。

 すなわち、完全無比なる大遅刻である。

 

「──すぅ……」

 

 先ほどから延々と、およそ主人公らしからぬ発声ばかりだが、もう既に大凡の読者には、彼の人となりが察せられたであろう。

 

「……まいったね、どうも。完璧にやっちまった」

 

 そう。徠斗は、実に情けのない大学2年生であった。

 


 

 ああやべえ、くっそマジかよホントなんでこうなるかな! 

 原因があるなら殴りつけたいが、残念なことに思いつくのが自分しか無い。

 それもそうだろうよ、なんせ、日曜の真夜中までストロング系チューハイを相棒に大学の友人らと宅飲みしてたのが、寝坊の原因なのだから。

 お陰でちょっと頭が重いし、口の奥に指を突っ込んだらワンチャン吐き出せそうな感覚が鳩尾を占めている。

 

 そんな事を3回くらい繰り返し考えつつ、徠斗は4月ではまだ若干以上にキツいだろう冷水でシャワーを浴びて表皮に水分を吸わせながら酔いを強制的に醒ましつつ、この後のスケジュールを考えた。

 まず、大前提として2時限目の講義はお終い。出席をごまかそうにも大学は学生証を出入り口の機械にピッと当てて出席判定をするから、最低でも友人らに学生証を預けておく必要がある。

 残念なことに(本当に残念なことに)、20歳を迎えて以降爛々とストロング系チューハイばかり嗜むだらしがない大学生のくせして無駄に誠実な徠斗は、今のところ大学のシステムを悪用した出席ごまかしを敢行した試しがないため、今朝も学生証は彼の財布の中に入っている。

 幸いなことに、必修科目といえど全ての講義に出席が必須ではないため、今回の寝坊は少なくとも彼のキャンパスライフにおける致命傷にはなり得ない。そこは良かった。いや本当に、本当に良かった。

 

 だけども、そうなると次の問題は、今日をどう過ごすかって話だ。

 月曜日は散々言ってる必修の2時限目の後は、4時限目と5時限目があって、そこからバイトがある。大学までは日頃原チャリ(兄のお古でちょいと年季の入った物)で20分程度の距離なため、今からさっさと行けばまぁそれで済むのだが。

 

 問題は、今の徠斗の状態にある。

 先程から何度か記述しているが、徠斗は咲夜、もとい昨夜──厳密には今日の未明まで、まあまあ度数の強いコンビニ酒に興じていた。

 そして、その際に摂取したアルコールは、約6時間程経った今もなお、彼の血中に溜まっている。

 つまりは、二日酔いというわけだ。

 

 ──二日酔いでスクーター運転して、良いんだっけ? 

 

 良いわけ無いだろう。つまりはそういうことである。

 原チャリなら20分程度で済む距離、約9キロ先にある大学まで、本日に限っては徒歩で行き帰りしなくちゃならないのだ。

 約9キロ、歩きなら2時間は掛かるだろう。それも素面ならという前提であり、二日酔いの自分なら間違いなくもう1時間は必要とする。

 しかもそこからバイト先に向かう必要がある。バイト先は今自分が居るアパートから近い喫茶店であり、つまりはまた2時間かけて帰る必要があるわけだ。

 

「はぁ、無理だろ今日は」

 

 結論、このまま大学の講義は諦めて日中は部屋でサボりつつ、酔いが覚めるのを待ってからバイト先に行こう。そういう事になった。

 大学の友人や同じゼミ生も何回かそういう事をしているし、自分がやるのは初めてだけど……まぁね、そう簡単に問題にはならないさ。

 そんな絶対的な楽観を抱いて徠斗はようやっと、シャワーで濡れたままだった髪にドライヤーを当てるのであった。

 

 なお、当然のようにバスや電車などの公共交通機関に頼ると言う発想は無い。

 無論、それを使うべきなのは二日酔いの頭でも理解しているが……移動に際して、自分では無く他者に全てを委ねる手段には昔から強烈な拒否感が出てしまうのが、徠斗の性分だった。

 

 これのせいで、小中高と遠足や校外学習、林間学校や修学旅行ではだいぶ苦労した。高校生にもなれば多少の我慢や分別が付いていたが、小学生の時はどうにも我慢が出来ず泣き喚いて、親が特別に運転して目的地まで運ぶ……なんて恥ずかしい事もあったくらいだ。

 ここまで読んだら『親の車なら良いのかよ』という疑問が当然湧いてくると思う。安心して欲しい、小学校低学年までは父親の運転する車はおろか、母親が漕ぐ自転車すら無理だった。

 そうなると必然的に遊園地の機械で動くアトラクションなども全滅するわけで、両親は徠斗を楽しませる思い出作りにたいそうな苦労をしたのは間違いないだろう。

 もっとも、唯一の例外がコーヒーカップ系のアトラクションで、あれだけは自分がハンドリングしている(ように感じる)から拒否感は少なくて、両親は遠心力で酔うのを堪えつつ、笑顔で楽しむ徠斗を写真に収めていた。

 

 大幅に話が逸れたので本筋に戻ろう。

 

 恋人と一日中性行為に耽るわけでも無いのに大学を全部サボることに決めたわけだが、そうなると次に彼がするべき事は何か。そう、食事である。

 昨晩も殆ど食事らしい食事はせず、ひたすら胃にアルコールと炭酸を流し込み続けた身体は、二日酔いの不快感と同等かそれ以上の食欲を意思表示していた。

 徠斗も3大欲求の一角に対して抗う気はまるでないため、冷蔵庫の扉を開けたのだが……。

 

「みごとに酒しか無い」

 

 このどうしようもない酒飲みめ。20代の新卒社会人になるのを待たずにアルコール中毒になるのが望みなのか?

 冷蔵庫の中を占めるのはストロング系チューハイが6本。それ以外は醤油や味醂に、フタのラベルすら開封してない魚醤のビン。唯一の固形物はこれまた箱から開けてないコンソメのもとだけ。

 両親が見たら唖然として、最低でも半年は禁酒を命じることだろう。正直、改めて見たら自分でも酷すぎる。

 

「まいったね、これは、ちょっと……ちょっとねぇ?」

 

 自嘲しながら思うことはただ1つ。近場のコンビニに今すぐ向かうことであった。

 


 

「すみません、ピザまんと骨無しのチキンもお願いします」

「しゃららっせー」

「あっ、袋は無しで良いっす」

「345えなりゃりゃっしー」

「タッチ決済で」

「しゃしゃしょー」

 

 短いながらも、異星人か異種族との会話かと思えるくらいに支離滅裂な会話と支払いを済ましてコンビニを出ると、そのまま入口横に設置されてるベンチに腰掛けて、数時間ぶりの固形物を口に運ぶ。

 レモン炭酸水の味ばかり相手させられていたベロが、久しぶりに塩分の濃い食事を迎えた途端、奥歯を通り越して食道から腸までもが『これだよこれこれ! こういうの!』と待ち侘びていた様に起動する感覚を覚える。

 

「あぁ……生きてるぅ」

 

 某格闘マンガで言う『裏返る』というか、さっきまでずっと鳩尾周辺をなぶっていた泥のような倦怠感とダルさと鈍い痛みが、一斉に消えたのが分かった。

 あるいはこれこそが二日酔いで苦しむのが分かってて酒を嗜む理由なのかもしれない。身体が正の方向に動くと言うか、二日酔いが治っていく際に生じる生の実感が、最も『健康』を感じられるというか。

 激しい頭痛と耐えきれない吐き気に数時間も悶え苦しむタイプの二日酔いも、その後に待っている『裏返った瞬間』を堪能するためのスパイスと思えば、存外悪くない。いや、むしろ良い。

 人によってはこのままタバコを嗜むのだろうが、生憎な事に初めて吸った時、ベロが粘土室の泥にコーティングされたような感覚が強く徠斗の好みには合わなかったため、その選択肢は用意されていない。

 

 快復していく身体への安心感に、ぽかぽかな陽射しもあって、このままベンチに座ったまま一眠りしたくなって来たがそうもいかない。

 公園ならいざ知らず、コンビニのベンチで昼寝するなんて大学生でも余裕で不審者通報待った無しだ。世知辛い世の中になったとは思っても言わないように。コンビニ出禁にされても困るのだし。

 

「……お、電話だ」

 

 ポケットから小さな振動が伝わり、スマートフォンを取り出すと、見知らぬ電話番号からの着信とある。

 番号が市外局番では無く、国際電話特有の+から始まるものでも無いため、個人からの電話であることは間違いないのだが、連絡先に登録されていない者からの番号なので、相手先は分からない。

 こういうとき、現代人特有なのかあるいは徠斗の個人的な行為かは分からないが、少なくとも彼の場合は電話を無視する事にしている。

 スマートフォンなのに電話を無視とは、道具の持ち腐れも良いところだが、面倒を避ける処世術だ。

 

 電話は10回以上振動を繰り返し徠斗が出るのを待っていたが、やがて諦めたのか止まった──と思いきやまたすぐに電話がかかってきた。

 当然、この間隔で別の人間な事の方が少ない。相手は同じ番号だ。

 

「めんどくさ……しつこいし」

 

 しつこいのは徠斗が電話に出ないからだが。

 

 出たところで昨今の風潮を鑑みるに、相手は詐欺か業者に決まってるのだから出る意味無し。徠斗はそう決めつけて、2度目の着信も無視を敢行する。相手は先ほどよりも更に長く徠斗が電話に出るのを待ったが、やがて電話の受付時間いっぱいになり止まった。

 止まったのと同時に『よしじゃあイヤホン付けて楽曲をランダム再生しようかな』と思った矢先、そんな徠斗の行動を予知していたかの如く3回目の着信が来た。

 

「何だよもー、気持ち悪いなぁ」

 

 流石に3回も同じ人から電話が来たら、無視するわけにも行かないだろう。

 中国の三国時代における名軍師、諸葛孔明も劉備玄徳の『三顧の礼』に根負けした。何事三度であったり、三度目の正直であったり、仏の顔も三度まで等など、どうにも日本人には3という数字を特別に感じる遺伝子が刻まれているらしい。

 当然、健康優良日本男児であるところの徠斗もその例に漏れず、今度ばかりは諦めて電話に出る事を決めた。

 

「……はい、もしもしぃ?」

 

 こういう望まぬ電話に出る時、徠斗は極力ダルそうに、相手にしたくないという気持ちを露骨なくらい声色に乗せながら応答することにしている。業者であればそのくらい失礼なくらいがちょうど良いものだ。

 業者の電話は大体が若手社員が担当している。こうやって険悪な雰囲気を全面に出せば、面倒くさい営業トークも萎んであっさり電話を終わらせられるのだ──が、

 

『あ、すっごい態度悪い』

 

 どうも、今回の電話は業者では無かったらしい。

 しかも、徠斗は先の短い言葉だけでもう、相手が誰か分かってしまった。

 分かってしまったから、自分のやらかしをこの上なく自覚してしまった。

 

「……えっと、丸瀬さん?」

『そうだよぉ、えっもしかして度会くん、まだウチの電話番号登録してないの?』

「あー、ごめん」

『ひどーい!』

 

 相手の名前は丸瀬莉乃(まるせりの)。徠斗と同学年同学科、ゼミも同じで顔見知り以上友達未満の間柄だ。

 キャンパス内で顔を合わせれば挨拶するし、ゼミや講義の課題について必要なら会話もする位には交友もするが、こうして電話をしてくる程の仲では無かったハズなので軽く動揺している。そもそも、いつ電話番号を教えたのかも覚えていない。

 

『この前ゼミ飲みで教えてくれたでしょー? もしかして覚えてない?』

 

 2週間前、ゼミの同期メンバーが全員飲酒可能な年齢になったので飲み会をしたのは事実だ。

 ただその日は、飲み放題なのを良いことにちゃんぽん(複数の種類のお酒を飲む愚かな行為)した挙句、帰宅してからもコンビニで買ったストロング系チューハイを2缶飲んだこともあり、かなり記憶が残っていない。

 その時に丸瀬とお互いの電話番号を交換したと言われたらそんな気がしないでもないが、全く記憶に無いというのが正直なところだったが…….

 

「……あぁ、そうだったね」

 

 徠斗の口からはでまかせがまろび出た。

 2回も電話を無視した挙句、登録すらしてないとバレた上に、当時のことを覚えてすらいないと言うのはあまりにも悪印象が強くなりすぎる。

 女子のネットワークというのは浅いが広い。ここで丸瀬の気を悪くする情報ばっかり出して万が一でも大学で拡散されでもしたら、キャンパスライフ中に彼女ができなくなる未来が待っているのだから、嘘でも会話に合わせる他無い。

 

「あの日は飲みすぎてて……結構曖昧だったかも、ごめん。それで、電話してくれたのはどうして?」

 

 これ以上この会話を発展させるのは分が悪い。

 一応嘘をついてる罪悪感を消すためにも、さり気なく少しだけ本当のことを織り交ぜながら再度謝罪の後、話題の転換を図った。

 

『なんか話逸らしたがってる感じするけど、まぁ良いや。度会くんって長電話はヤだもんね』

 

 幸いなことに、丸瀬は徠斗に深く追求することもなく、素直に電話の本題に移ってくれた。

 ちなみに長電話は嫌いというのは確かに徠斗の性格上その通りだが、もしかして電話番号交換した際にそれも伝えていたのだろうか?

 

『今日、大学来てないでしょ? サボりはよくないなぁ』

「サボりと言うか、計画的自主休講というやつだと思ってくれたら」

『飲みすぎて寝坊したことを、そういう風に表現するんだ』

「ちょっと待って丸瀬さん、なんでそこまで分かるんだ」

『だって、今日君のグループみんな大学来てないもん』

「……そっかぁ」

 

 徠斗は『類は友を呼ぶ』という諺を今ほど実感するときは無かった。

 考えてみれば、昨晩──いや本日未明まで一緒に飲んでたのだから、自分が酔いつぶれてるなら友人らも同様の状況になってておかしくもない。

 それにしたって、まさか全員二日酔いで寝坊とは。これが冒険RPGの勇者パーティーだったなら、間違いなく最初のステージで全滅不可避な情けないメンバーだったろう。

 

「でも今日だけ休んだって問題ないでしょ。あの教授(ひと)リアペ求めてこないし」

『いつもはね』

「えっ、嘘マジで?」

 

 たった5文字の言葉で人は戦慄できると、徠斗は知った。

 普段はやらないのに、たまたま自分が休んだその日に限って──なんて理不尽が我が身に降りかかるなんて事を、全くもって想定していなかったのだから。

 

『リアペじゃないけどね。明日の11時59分までに提出しないと駄目な課題出されたよ』

「紙の課題? それともネットで提出できるやつ?」

『ネットの課題管理なんてする人だと思う?』

「思わない……マジか詰んだ」

 

 デジタル化が叫ばれ、加速していく世界の中、日本最高学府であるはずのところの大学では未だに旧態依然の課題管理体制で講義を行うアナログ人間が多い。徠斗が"自主休講"した必須講義を務める教授もそのパターンに漏れず、そういう人が出す課題とはすなわち"当日しっかり講義に出席した学生しか手に取れない紙"である。自主休講という名目でサボった徠斗では絶対に手に入らない──それこそ冒険RPGでたまにある特定の条件を満たさないと絶対に手に入らないアイテムの様なものだ。

 その上でたちが悪いのは、限定アイテムにも関わらず十中八九──、

 

「──単位取るのに必要な奴じゃん。もうこのタイミングで出す課題ってなると絶対」

 

 あってもなくてもクリアに影響を及ぼさないゲームと違い、現実の限定アイテムは容赦なく徠斗の大学生活に多大な影響を与えてしまう。

 たまらず男友達を相手にしてる時のような汚い文句を口にしたくなったものの、相手はまだそこまで仲が良いわけではない女子だというのを思い出してどうにか踏みとどまった。

 

「……ありがとう丸瀬さん、もうどうにもならねぇけど、何も知らないまま過ごすよりかはマシだったよ」

 

 そう。人は『あとになって実は……』という展開にとても弱い。

 あの時もう少しだけ頑張っていれば、勇気があれば、踏みとどまっていたら……そういう想像しやすいけど絶対に手が届かない未来に後悔するのが上手だ。日が経てば経つほど、後悔によるダメージは大きく深くなるもので、そう考えれば早々に諦める踏ん切りが付けられたのは良かったと言える。

 最悪の場合──いや、最悪というか最低限の誠意として、教授の部屋に直接赴いて頭を下げて課題の紙をもらうという選択肢も、今ならまだ僅かな希望として有るくらいだ。

 

『おーい、なんかもう一人で絶望してる感じ? まだ話は終わってないんですけどー』

「え、このあと更に絶望が?」

『なんでよ。だから、課題の紙、君の分取っておいたから今から取りにおいでって』

「えー!? マジで!?」

『マジだよ、こんなので嘘ついたら性悪すぎだって』

「いや、女神様って言っても過言じゃないや。あるいは聖女さま?」

『チョイスが謎なんだけど……とにかく、ウチが大学にいる時間までに来て? 乗り物は苦手だろうけど、早めにね』

「うん分かった、そっち着いたら俺から電話するから」

『はいはーい、じゃあまたねー』

 

 絶望から反転、徠斗は希望が胸を埋め尽くすのを感じる。

 こうなったら公共交通機関への苦手意識なんてものは我慢するしか無い。電車やバスが嫌だから単位に影響する課題を諦めるなんて言うのは、バカでも選ばない選択肢だ。

 

「さっさと帰って着替えないと」

 

 タラタラと進めていた歩行を倍速にして、徠斗はアパートに戻っていった。

 


 

「はぁ~何とかなった……」

 

 お気に入りの曲を聴いて目を閉じ、気分を落ち着かせながら電車で大学に向かうと、遅めの昼食を取るところだった丸瀬と合流。

 課題を受け取るだけで終わるかと思ったが、丸瀬の誘いを受けて学食で一緒に昼食を取ることになった。

 徠斗たちが通う大学構内には複数の飲食店があり、大学生たちの十人十色な要望に応えている。

 例えば、13号棟のカフェ。ここは街の雑誌でも紹介されたパフェやパンケーキなど、スイーツ系が主なメニューだ。

 同じ棟内で活動する外国語学科生が主な客層で、常にオシャレな雰囲気を醸し出している。

 徠斗は一度だけ丸瀬に連れられてここのパフェを食べたが、雑誌に載るのも納得の美味しさで感動した。内心リピートしたがってる物の、先述した常にオシャレな空間に男子大学生単身で乗り込む勇気は無く、歯痒い思いをしている。

 7号棟地下一階には、インドカレー店がお昼時間のみ営業している。種類は日毎に2種類、辛さも辛口と激辛口しか無いが、まさに辛さを求める学生からの需要は高く毎日が行列。徠斗はまだ食べたことは無いが過去に4回ほど、ここで食べた学生が青い顔をして最寄りのトイレに駆け込む姿を見ている。

 1号棟は大学の事務局が設置されてるが、最上階は地元で採れた食材で作られた料理を出す、展望ラウンジ兼レストランだ。座席は少なく値段も高めだが、味と景色は確かなものなので地味に大学内デートの定番スポットになっている。そのため近づくのも癪だが、恐らく徠斗に彼女が出来ればいの一番に通いたがる場所になるだろう。

 また、厳密には大学の敷地内では無いが、徒歩2分ほど離れた場所には全国各地に店を出す有名ファーストフード店がある。徠斗は基本、ここで食事を済ませている。

 しかし今回、丸瀬が選んだのはいずれとも違う場所──3号棟の学生食堂だった。

 3号棟は建物全体が学生に食事を提供することを目的とした建物であるため、構内で最も広く、最も席が多く、そして最も大学生の財布に優しいお値段で、幅広い種類の食事が提供されている。

 丸瀬は券売機であっさりと何を食べるか決めたが、徠斗は普段使わない店なこともあってあれこれと悩んだ末、けっきょく無難な『学生定食A』を選んだ。

 内容は豚の生姜焼き定食で、安くておかずの量も多くお得感満載。

 しかし、無難なメニューなぶん、味付けも無難……有り体に言うと薄味なので、男子大学生の胃を満たすにはあと一歩足りないのがもどかしい。

 なので、満たしきれない食欲分の不満は、丸瀬との会話で埋めることにした。

 食事の合間に他愛もないが決して退屈では無い会話を適度に挟み、二人とも食べ終わって少しだけ食休みをする中、ようやく丸瀬から課題を受け取ったが──片面しか印字されてないA4横1枚を見て戦慄した。

 

 ──マジかよ。てっきりびっしりと問題が用意されてると思ったのに。

 

 内容は『今日までの講義内容を、自分なりに最低500文字以上でまとめて、A4で提出しろ』という指示のみ。

 ただし、提出時に必ずこの問題用紙をホチキスで一緒に出せともあり、確かに講義に出席しないと条件を満たせないものだった。

 それにしたって、たかだかペラ1枚の紙に人生が狂うところだった事実には変わりない。

 学生という生き物は、真面目に過ごすという条件があってこそ、生きることが許された存在なのだと思い知る徠斗なのであった。

 食事とお礼も済ませた後は、丸瀬と別れて午後の講義を受け、大学の図書館に向かった。

 図書館のコピー機で友人の分も問題用紙を印刷して、ゼミの部屋に赴き友人らの机にしまう。

 今頃になってようやく酔いが覚めているだろう友人連中に、課題の連絡を送ると、『問題用紙を家まで持ってきてくれ』と返事が来たが、『バイトがあるので無理だ』と拒否。

 わざわざ人数分コピーしてあげただけでも感謝すべきだと思いながら、徠斗は大学を出たのだった。

 

「……ここまでは良いんだけどなぁ。帰りなぁ……どうしよっか」

 

 残る問題は、バイトのことを考えたらまた電車を使う他ないという点のみ。

 時間だけ見れば、バイト先までは歩いてもギリギリ間に合うのだが。

 

「絶対ダメだよなぁ、今日ちょっと暑いし」

 

 バイト先の店長は、かなり身なりにこだわりが強い人だ。

 長時間歩いて薄っすら汗をかき、着の身着のままの徠斗を見たら、お説教が始まるのは間違いない。

 アパートに戻ってもう一度シャワーを浴びて、すっきりした姿でバイトに向かうのが安牌だ。

 

「はぁ、まいったね本当。もう2度と平日は日を跨いで酒飲まない」

 

 決して守られることのない誓いを立てて、徠斗は最寄りの駅に向かった。

 行きと同じくスマートフォンで曲を聴きながら、降りる駅までの時間を過ごそう──と思っていたのだが。

 

「……なんだなんだ」

 

 イヤホン越しに雑音が入り込んでくるので、全く曲に集中できない。

 耳から外すとなるほど、と納得する。

 

「あんだよお前ぇ! ぶちくせぇ面しやがってダボハゼが!」

 

 どこぞのバカ学生が、場所もわきまえず、馬鹿でかい声で騒いでるのかと思ったが、実態はそれよりもっと酷い。

 

「あの……ごめん、なさい。ぶつかるつもりは無くって」

「なにしゃべってか分かんねえよ、オレバカだと思ってんのかオォガキ!」

 

 呂律の怪しい、見るからに酒に酔った中年男性が、右手に飲みかけの酒缶を持ちながら少女にダル絡みしていた。

 絵面の醜悪さで言えば食事中、目の前で突如始まるコバエの交尾に等しい。

 どうせ、ベロベロに酔った中年男性が電車の揺れで前後不覚にもなって、少女にぶつかったのだろう。なのに中年男性は、少女の方から自分にぶつかってきたと逆ギレして、今に至る……という流れに違いない。

 少女は小柄な上に華奢な容姿をしており、倍以上も背丈がある男性の怒号に、完全に萎縮してしまっている。

 うつむいた顔を上げる気配はなく、腰近くまで届く銀白色のツインテールが僅かに揺れているのは、決して電車の振動だけが理由ではないだろう。

 哀しいかな。相手が弱気だと、いっそう気が強くなるのが、限界泥酔中年男性という生き物。

 結果的に自分を無視した態度の少女に、ますます怒りのボルテージを上げていく。

 

「調子こいてシカトかゴラクソガキボケぇ! なんかいうことあんじゃねえのかよ!?」

 

 左手でつり革を掴んで揺らし、倍の声量で怒鳴り、口端からツバを飛び散らせる──品性の欠片も見当たらないその姿は、ジャングルで敵に威嚇する猿のようだった。

 

「……春の風物詩って言うけどもさぁ」

 

 いつの時代も暖かい時期になると、虫や動植物と一緒に変人も湧いてくる。

 とはいっても、ここまで分かりやすく『春』な人間と遭遇するとは、思っていなかった。

 社会人の退勤ラッシュにはまだ早く、どの車両も空席が目立つ時間帯だ。

 ぱっと見渡しても車両の乗客は徠斗を含めて6人だけ。しかも、男性は徠斗と中年の2人のみ。

 他の乗客であるところの女性陣は、知らないふりをしているか、助けてあげたいけど怖気づいてる人ばかり。

 つまり、この騒ぎを力でおさめられる可能性を持つのは、徠斗のみということになる。

 

「……参るな、こういうの」

 

 学生の馬鹿騒ぎ程度なら、黙って隣の車両に移動するだけだった。

 でも、このような暴力沙汰一歩手前の話では、そうもいかない。

 

「本っ当に、飲むんじゃなかった。……これだから、電車は嫌いなんだ」

 

 スクーターは素晴らしい。

 事故が起きても、巻き込まれても、責任の所在は自分だ。

 けど今の徠斗はどうだ。公共交通機関という、他人に振り回される危険性が高いモノに頼った結果が、まさにこれだ。

 自分は何も間違ったことをしていないのに、いつの間にかできあがっていた『限界泥酔中年男性から、少女を助けなきゃいけない空気』に呑まれている。

 もしここで徠斗がすーっと別車両に移れば、残った女性客からは冷血な人間だと、後ろ指をさされるに違いない。

 情けない人間だ、男らしくない奴だと、SNSで罵る奴もきっと出てくるだろう。自分らは何もしてない、する気がないのを棚にあげながら。

 だが仮に、徠斗が中年男性から少女を助けたとして、見返りなんてものは何もないだろう。

 強いて言えば、ほんの僅かに芽生えた道徳的優位感と、せいぜい死後に閻魔さまの裁定が、いくらか優しくなる期待ぐらいなもの。

 一方でバイトに遅れるリスクは高まり、抵抗されて怪我でもしたら、治療費という望まぬ出費すら出て来る。

 見返りが……なんてレベルじゃない。マイナスの要素ばかり、圧倒的に損だ。

 きっと、古い冒険RPGゲームの攻略本とかでなら『やるだけ損するクソミッション』と書かれるに違いない──なんて事をグダグダと思いながら立ち上がり、

 

「旦那。お酒こぼれちゃうよ? もったいない」

「──んぁあ?」

 

 勇者・徠斗は、ミッション『酒カスから少女を救え!』をスタートした。

 


 

 まず第一に、もう殴られるのは前提として考える。

 中年男性は徠斗より背丈は低く、見かけの体格差もあるが、今の状況では意味のない指標だ。

 気分よく女子を恫喝してるのに、そこへ水をさす相手がいれば、仮に2m越えのアメフト選手だろうと敵意を向ける──それが泥酔した人間というものだから。

 とはいえ、わざわざ好き好んで殴られる人はいない。なので最低限の説得だけは試みることにした。

 

「旦那、その缶フタ空いてんのにほとんど飲んでないじゃない。ぬるくなったら不味いだけでしょ」

「……」

 

 肩にぽんと手をかけて、柔和な笑みを浮かべながら敬意を持って話す。

 中年男性は急に話しかけてきた徠斗に面食らったのか、目と口をぽかんと開けて黙っているだけだ。

 仮に、相手の本来の性格が穏やかだったり、下町情緒あふれるものであれば、一欠片の理性が働いてこの場も収まる可能性が残っているが。

 

「女の子にキツいこという前に、まず先に飲んじゃいましょうよ、ね──ぶぇっ」

 

 年齢は違えど同じ酒飲みだからこそ、共感し得る説得を最後まで言い終える前に、中年男性の左拳が徠斗の右頬を撃ち抜いた。途端に女性客らの悲鳴が車両内に響く。

 

「いっつぅ……躊躇無く殴るじゃん、マジですか」

 

 数歩よろめきながら、小さくぼやく。

 力加減なんて働いてない男性の拳は、言うまでもなく痛い。それどころか喧嘩慣れしているのか、体重の乗ったとても良いパンチだった。

 もし当たったのが右頬ではなく、もう少しだけあごに近ければ、気絶していたかもしれない。

 だが正直、先述の通り覚悟はしていたので痛みは我慢できた。

 むしろ殴られた痛みより、徠斗を不快にさせたのは、何もしない野次馬の分際で一丁前に悲鳴だけは上げている、他の女性客(ギャラリー)たちの方だった。

 助けようとせず、無関係な立場でいたいなら、その被害者ぶった振る舞いも自重していろ──内心で毒を吐きつつ、気を取り直して次の行動に移る。

 

「なんだよお前よ、なんだよ、なんなんだよこの野郎殺すぞ!」

 

 中年は早口でまくし立てているが、無言で殴っておいて『何だ』も『殺すぞ』も無いだろう。

 そう言い返したい気持ちをぐっと抑えて、徠斗は別の言葉を口にした。

 

「あんたこそ何だ、さっきのへなちょこパンチ。ずいぶん手加減してくれて、ありがとうね!」

 

 心にもないことをさも本音のように語りながら、両腕を広げて迎え入れるような姿勢を取り、矢継ぎ早に煽りを加える。

 

「もっかい殴ってきなよ旦那。でも、次は女の子みたいな情けないパンチじゃなくて、ちゃあんとマトモなのをくれよな、ほら! 来いって!」

「な…………」

 

 さっきとは違い、中年男性は困惑から動きを止めてしまう。

 殴ったはずなのにむしろ煽られるという、道理から外れた出来事に酔った頭がついていかない。

 それを知ってか知らずか、徠斗の煽りは勢いを増していった。

 

「なんだよぉ黙りこくって。来てみろよどうしたチンピラ、眠いのか? 眠くなったのか? だったら手に持ってる酒で顔洗っとけよハゲ」

 

 もはやどっちが悪い側なのか、今このタイミングから2人を見たら判断がつかないだろう。

 野次馬の客たちはもちろんのこと、先ほどまで怯えきっていた少女までもが、徠斗の不可解な行動に唖然としている。

 唯一、短い時間で質の濃い暴言を浴びせられた中年男性だけが、ハゲと揶揄された薄毛の頭頂部まで真っ赤にしながら、怒りの形相を浮かべていた。その様子はまさに『怒髪天を衝く』と言ったところだろうか。天を衝くほどの毛量は無かったが。

 

「──歯ぁブチ折んぞションベンガキ!」

 

 ここまで言われて黙ったままでいられるわけ無いのは分かるが、トドメをさした一言は『ハゲ』だろうか。中年男性は身構える隙もなかった最初のパンチと違い、メジャーリーガーさながらの大きく振りかぶったモーションで殴りかかった。

 徠斗の『女みたいなパンチ』という、見え透いた強がりに本気になってしまったが故の、あまりにも隙だらけな動き。

 それでも力の強さは身を持って理解している。きっと宣言通り、当たれば歯は折れるだろう。

 なので、

 

「てぃっ」

 

 そんな軽い掛け声と共に、徠斗は迫りくる中年男性の拳より速く、相手の右脚を払った。

 

「──へ?」

 

 掛け声の割に全力で蹴っ飛ばされた右脚からバランスが崩れて、先程のパンチの意趣返しのように、右頬から豪快に床へダイブする。

 はずみで右手から缶が離れて、くるくる回りながら床に酒を撒き散らした。

 中年男性はしたたかに頭を打った瞬間、見事に意識が飛んでしまい、ピクリとも動かない。

 

「……お酒って本当、気をつけて飲まないと駄目だよなぁ」

 

 轢かれたカエルのような格好で気絶する中年男性を見下しながら、徠斗は言った。

 かくして、勇者・徠斗は、ミッション『酒カスから少女を救え!』をあっさりと──攻略本でも読んできたかのように、クリアしたのだった。

 

 

「……もしもし店長? はい、度会です──いやっ、今はそのやり取り良いですから。いきなり

 話の腰を折らないでくださいよ」

 

 びくともしない中年男性を駅のホームまで引きずって、駅員に事態を説明した徠斗は、そのまましばらく残ることになった。

 あわよくば、サクッと帰宅の途につける可能性も期待していたが、中年男性が完璧に気を失ってることに加えて、徠斗の唇も地味に出血していたことで事態を重く見られてしまったらしい。

 

「──ということで、ちょっと今日のバイト遅れるかもしれません。すみません……えっいや、休みまではしなくたって、大した怪我もないですし。……そうですか、ありがとうございます。じゃあ、また明日よろしくお願いします」

 

 バイト先の店長に事情を説明したら、遅れることに叱責するどころか、むしろ休みを言い渡されることに。どうやら大した怪我はなくとも、あわや大喧嘩という事態に直面した、徠斗の精神的疲労を気遣ってのことらしい。

 同じ年の離れた大人でも、ここまで違いがあるのかと、電話を終えた徠斗は小さく感動するのだった。

 店長が心配するほど、徠斗の精神的疲労は多くなかったが、それよりもまだ少し二日酔いのダメージが残っていたため、この降って湧いた休みは『災い転じて福となす』あるいは、文字通りに『怪我の功名』だろうか。

 更に徠斗に運の巡りを感じさせたのは、先程の一部始終を動画で撮影してる女性がいて、徠斗の味方をしてくれたことだ。

 

 ──いや、動画を撮るくらいなら一緒に取り押さえる手伝いをしてくれよ。

 

 なんて、多少の不満を覚えてしまうのは仕方ないだろう。

 とはいえ、後日バズリ狙いでSNSに投稿されて、ただ承認欲求のため浪費されるのではなく、彼女なりに勇気を出して証人になってくれた事こそを、徠斗はありがたく感じることにした。

 

 事実、店長への連絡を済ませてから、事態は期待していた以上にアッサリと進んだ。

 女性が撮っていた動画にはバッチリと、中年男性が少女に恫喝する様子と、徠斗を殴った後に、(見た感じは)軽い足払いを受けて気絶するまでの、一連の流れが映っていた。

 鉄道警察も徠斗の言葉だけでは信じるか怪しかったが、ここまで明確な動画を前にして疑う理由も無く素直に納得する。

 未だに気絶……ではなく、そのままいびきを立てて眠りこけてる中年男性は、駅員4人がかりで連行された──まるで麻酔で眠らされた、野生の猿のように。

 かくして、『危ないから今後は、わざと相手を煽るような事はしないように』と軽い説教を受けはしたものの、晴れて徠斗たちは解放されたのだった。

 なお、最初に因縁をつけられていた少女は、最初からこの場にはいなかった。

 最初に動画を撮っていた女性と電車を出る際、本人も降りてきたのだが、

 

『あの、ボクも一緒に駅の人に説明しま──』

『いや、君はもう帰りな。いちばん被害受けたの俺だし、俺が話しつけとくから』

『そんな! ボクのせいで迷惑をかけたのに』

『迷惑かけたのは、そこでのびてるオッサンの方な。嫌な思いした時はさっさと帰って、美味しいもの食べるのが一番なんだよ。帰りな、ほらほら電車行っちゃうよ』

 

 こんなやり取りをして、やや強引にだが徠斗がそのまま帰らせた。

 証言なら既に動画という絶対的な物がある上、人数が多いとそれだけ話が終わるまで時間が掛かり、バイトに遅れそうだからと言うのが理由だったが、ここまでアッサリと済んだなら、居ても同じだったかもしれない。

 

「取り敢えず、面倒なことに発展しないで良かった。あなたの動画のお陰です、助かりました」

 

 事務室から出て真っ先に、女性に礼を述べると、向こうもすかさず頭を下げてきた。

 

「いえ、こちらこそ……あなたが居なかったら私も、何も出来なかったので。怪我は、大丈夫ですか?」

「いえいえ、最初はちょっと驚いたけど、今はもう平気ですよ」

「顔を思いっきり殴られてたのにですか? じょうぶ、なんですね」

「おかげさまで」

 

 エスカレーターで駅のホームまで向かう最中、揺り返しのように穏やかな空気で会話が弾む。

 先程までは緊張の糸が張り詰めていたので気づかなかったが、事態が落ち着いたので改めて女性を見てみると、かなり目を惹く容姿をしているのが分かった。

 腰まで届く濡羽色の長髪、すらりという形容がぴったりな手足、顔立ちは高名な画家が理想として絵に描いたかのような美人顔。それでいて、三日月を模したシンプルながら可愛らしい髪留めをしているのが、良い意味でギャップを出している。

 期待してない、と言えば嘘になるだろう。

 このような出来事でも無ければまず、会話することすら無かったかもしれない相手だ。

 ドラマや映画のように、今回の出来事が切っ掛けで、この美人と仲良くなれるかもしれない──紛うことなき下心ではあるが、酔っぱらいに殴られた後なのだ、そのくらい俗物的なことを考えても、バチは当たらない。

 

「お互い災難でしたね。まさかあそこまで、たちの悪いタイプの酔っぱらいに遭遇するなんて」

「そうですね。私のもお酒を飲むと性格が変わるところがありますけど、あそこまで酷いことは起きませんし」

 

 恋のフラグが一瞬で折れた──否、爆散した。

 

「へ……へぇ……彼氏さんも、お酒好きなんですか。気をつけないとですねぇ」

 

 人生とはここまで無慈悲な物なのか。縁もゆかりも無い他人を助け、見ず知らずの他人に殴られ、ようやく何か良い事が起きそうな予感を覚えた矢先に、希望が絶望へと転じた。

 

 ──どうせ報われないのなら、端から期待させないでくれよ。

 ──期待したのは自業自得? いまそういうの要らないから。

 

 猛烈な勢いで徠斗の身体から、気力が削がれていく。

 やはり店長の言う通り、精神的疲労はあったのかもしれない。

 今はもうとにかく、1秒でも速く帰宅して眠りにつきたい。そう願う徠斗であった。

 


 

 翌日。二日酔いのダメージも完全に癒えた徠斗は、大学に行って課題の提出を済ませてから、まっすぐバイト先に向かった。

 もともと、金曜日は午前中しかコマを入れてないので、バイトのシフトも他の日に比べて長めに取ってある。昨日は気を遣ってもらい休みを貰った手前、気合いを入れて働こうと心に決めていた。

 ……もっとも、気合いを入れようが入れまいが、今から向かっている職場での仕事量は変わらないのだが。

 

 スクーターを店の裏路地に停めて、裏にある従業員用出入り口から入店する。

 瞬間、店長が趣味で焚いている香が徠斗の鼻腔をくすぐった。

 

「うっ、今日のは好みじゃないかも……」

 

 その日の店長の気分によって種類が変わるのがこの店の特徴の一つだが、あいにく今日のは徠斗の好みと外れていた。

 

「なんや、来てそうそう店の文句たぁ、ずいぶん偉なったなぁ自分」

 

 そんな徠斗の独り言を聞き逃さず、すかさず不満げに言葉を返す男。

 年は徠斗よりも10は上か。赤毛に、長身細身。ファッションなのか本当に目が悪いのか、右目だけ片眼鏡をかけている。

 

「うげっ、聞かれてた……おはようございます店長」

 

 男の名前は朝姫大和(あさき やまと)。徠斗が店長と呼ぶ通り、バイト先であるこの喫茶『まほら』で、オーナー兼店長を務めている男だ。

 客に出すグラスを拭いていた朝姫は、最後の一個だったそれをしまい、ぐるりと徠斗に身体を向けて言葉を続ける。

 

「あんなぁ、何回も言うとるやろ。店長ちゃうて、マスターって呼びぃや」

「そっちこそ。いつまでその関西弁もどき使ってんですか。浅草出身でしょアンタ」

「浅草でもドバイでも関係あらへん。言葉っちゅうのは生まれた土地じゃなく、魂に根ざすもんや」

「……なんでやねん」

 

 徠斗は呆れて雑な関西弁で返す。

 どういうわけか、顔を合わせると必ず最初はこのような会話から始まってしまう。出会った当初は面食らったものだが、今となってはもう慣れきってしまった。

 

「昨日はオッサンに殴られるなんて災難やったな。怪我はあらへんの」

「ええ。というか痛さよりも、袖に飛んだツバが臭いほうがダメージありました」

「そらあかんわ、今からでもオッサンとこ行って、ガッポリ慰謝料請求しにいかんと」

「もう何処にいるかも分かりませんって。……あぁでも、あの時間から酔ってるような酒好きなら、いつかまほら(ここ)に来るかもですね」

「来るわけ無いやろ。ここに来る客に、そんなしょーもない飲み方するアホはおらんわ。もしいたら即出禁よ、出禁」

「……ふーん。出禁、ですか」

「なんですの、その一言物申したそうな目」

「いえ、何にも」

 

 なるほど確かに。この店に来る客層は常連も含めて、他人に迷惑をかける類の酔い方をする人はいない。

 それどころか、『アホな飲み方する奴は出禁』というルールに則れば、まず真っ先に出禁になるのは朝姫になってしまう。

 何故か? 答えは簡単。営業時間が終わり店を閉めた後、カウンターで残り酒(まほらではボトルの処理や余り物をまかない代わりにしている)をすると、必ずと言っていいほどに酷い酔い方をしているのが、他ならぬ朝姫本人だから。

 笑い上戸になる日もあれば、泣き上戸になる日もある。絡み酒をしてきたと思いきや、全く酔った素振りも見せず静かに淡々と飲む日もある。まるでアプリゲームのガチャや、昨今悪名を轟かせているランダム商法の如き気まぐれを発揮している。

 店の片付けをする立場としてはたまったものではない。徠斗も何度、朝姫の悪酔いに巻き込まれたことか。数え上げれば、枚挙にいとまがない。

 

「それにしても自分、今日はやけに早く来たけど、どないしたの。昨日会えんかったから寂しくて顔見に来たん?」

「そうですよ」

「おーおー、そないに想われて嬉しいわぁ──ってちゃうやろ。ボケにそのまま乗ったら落ちが行方不明なるわ」

「店長のフリに一々付き合ってると気が触れるので」

「俺は邪神か祟りのたぐいか。せめて『日が暮れる』くらいにオブラート包みなさい」

 

 ここから更に『オブラートってもう俺の世代でも伝わりにくいですよ』と返して、朝姫が動揺するさまを見るのもありだったが、それこそ日が暮れてしまうに違いない。

 

「……普通に店の準備ですよ。どうせ店長、昨日は一人だから片付け全部終わってないんでしょう?」

 

 閉店後の締め作業は、その多くを徠斗が担っていた。

 無論、朝姫が店のオーナーであるから、何も手がついてない、なんてことは無いだろう。

 普段からレジの釣り銭や売上の管理はもちろん、商売道具である珈琲豆や、酒類の管理も必ず朝姫自身が行っている。

 昨日もその辺りは朝姫一人で済ませただろうが、例えば灰皿の清掃やゴミの回収準備、洗って乾かした食器の棚入れなど、普段やらないからこそ、細かい作業が()()()()になってる可能性は非常に高い。

 

「あぁ、それで来てくれたんか。おおきに。でも杞憂やで、バッチリ済ませとるから」

「その手の発言して、本当にバッチリな事の方が珍しいんですけど……あれ?」

 

 バックヤードに入ると疑いの念は驚きに変わった。

 

「食器が普通に片付いてる……」

「せやろー? 昨日は食事メニューはチョコとポップコーン以外なしにしたからな」

「売上的に大丈夫ですかそれ?」

「しゃあないやろ。俺が作ったもん食わすほうが問題やろ」

「それは、そうかもしれませんね」

「……少しは否定してやー」

 

 徠斗がバイトとして入る前、この店は『固形物のメニューは酒とポップコーン以外に頼むな』というのが、常連含めた全客の共通認識だった。

 朝姫が出すコーヒーやカクテルは、徠斗が舌を巻くほどに美味い。その一方で、料理については『よくこれで店を開く気になったな』と口を揃えて言うくらいに悲惨な腕前をしている。

 その穴を埋めていたのが徠斗だったので、彼が休んだ日の食事メニューに制限をかけること、それにより清掃の手間が省けたことも、納得できなくもない。

 だが、それだけでは納得しきれない点がバックヤード以外にも店内の随所にあった。

 

「それにしたって、店の中が随分ときれいに……テーブルもカウンターも、俺が掃除したときより綺麗じゃないですか」

 

 そう語る徠斗の言葉通り、店内はリニューアルオープンしたのかと思うほど、隅々まで清掃されていた。テーブルなど徠斗の顔が映り込むくらいにピカピカだ。

 この店で働き出してまだ一年未満とはいえ、朝姫にここまでの掃除スキルがないことは、徠斗も重々承知している。

 そうなると考えられることはただ一つ。

 

「店長、店の客に掃除させたんですか……マズいですよそれは」

「なんでやねん!」

 

 完璧なイントネーションで繰り出される、エセ関西弁のツッコミ。

 徠斗からすればボケではなく、本気の発言だったが。

 

「実は新しいバイトが昨日来てな。早速接客と掃除してくれたんや。もうバッチリ即戦力やで?」

「バイト……? その辺の浮浪者を酔わせて、無理やり働かせたんじゃなく?」

「なわけあるかい。普通に求人出したら来てくれた、真っ当な子や」

「求人って、いつの間にそんなの出してたんですか」

「『自分になんかあった時、ワンオペなるんやからもう一人くらい雇うた方がええ』て言うたん、ほかならぬ自分やろが。忘れたんか?」

 

 確かに、関西弁じゃないがそんなようなことを以前に口にした覚えはあった。

 だがその時の朝姫は、閉店後で泥酔状態だったはず。

 絶対に記憶から消えていると思っていたので、まさか覚えているどころか、聞き入って求人までしていたとは意外だ。

 

 ──ベロベロに酔っているようで、記憶が飛んでいないのは、同じ酒飲みでも経験が違う故なのか。

 

 磨き上げられたテーブルを撫でつつ、徠斗が本筋とズレた点で関心していると、従業員用出入り口の扉が開き、

 

「こ、こんにちはー……」

 

 たどたどしい挨拶をしながら、一人の少女が入ってきた。

 

「お、噂をすれば何とやらやな……来よったで、昨日からの即戦力ドラフト1位が」

「うそ、新しいバイト女の子だったんですか!?」

 

 こんな胡散臭い関西弁を話す中年が開く店に、まさか女子が入ってくるとは想像もしていなかった。

 とは言えこれは徠斗にとって、まさに僥倖(ぎょうこう)。女っ気のない職場に、春風のごとく颯爽と現れた異性。歓迎こそすれ、反対する理由なぞ皆無だろう。

 同時に得心もいった。

 磨き上げられたテーブルやカウンターも、女性の手によるものだとすれば当然の結果だ。男性という生き物はどうしても、最後の仕上げというものに対して無頓着になりがちだが女性は違う。

 徠斗でさえ『客が不快にならず、業務に支障が起きない』程度の清掃がゴール地点であるのに対して、新しく入った女性は『まるで新品のような状態』をゴール地点に置いて清掃した。

 この事実だけでも、女性が高い意識を持った聡明な女性である事がうかがえる。視点が違う、美意識が異なる領域にあるのだから。

 そういう女性は仕事だけにとどまらず、当然のように、自分自身にも妥協を許さず美を追求しているものだ。

 

 ──どんな素敵な女性なのだろう。

 ──どんな容姿をしているのだろう。

 

 瞬間沸騰湯沸かし器もかくや、という勢いで期待を膨らませて、徠斗が新人の姿を視界におさめた──その瞬間に。

 

『あーっ!!!』

 

 店内に響き渡る仰天の声が、徠斗と新人の両方から、飛び出た。

 

「キミ、昨日の!」

 

 アンティークドールを連想させる、小柄で華奢な体型。

 腰近くまで届く、銀白色のツインテール。

 どうみても、昨日の電車で徠斗が庇った女の子に違いなかった。

 対して、少女の方も徠斗を鮮明に覚えていた様子で。

 

「やっぱり、あなただったんだ!」

 

 暗い表情ばかりだった昨日とは打って変わり、人懐っこそうな笑顔を徠斗に見せた。

 唯一、この状況についていけてない朝姫だったが、それでも二人のただならぬ、しかし険悪とは真逆な雰囲気から、ある程度のことは察しがついたらしい。

 

「お? なんや、自分ら顔見知りやったんか?」

「え、えぇ……昨日の件で」

「酔っぱらいのおじさんから、ボクを助けてくれたんです!」

「へぇ、まさかそこで繋がるんか。たまたま助けた相手がバイト先来るとか、なんや運命感じる話やないの」

 

 まさしく、運命的な展開だと言える。

 果たしてこれは、偶然の積み重ねで起きた結果なのか。徠斗は誰かが──例えば安直だが、朝姫が仕組んだことだったりしないのかと、本気で思った。

 

「まぁ、そないな出会い方しとるんやったら、これからも上手いことやれそうやな。仲良うしたってや」

「はい、店長! それと──」

 

 元気に返事をしてから少女は徠斗の目の前に駆け寄り、呆気にとられているままだった徠斗の手をぎゅっと握ると、

 

「はじめまして! 今のボクは朝倉巴って名前だよ、これからよろしくね──先輩!」

 

 まるでアイドルか何かを見るように、キラキラと瞳を輝かせながら言うのだった。




ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
ヤンデレCD三作目、ヤンデレCD惨の二次小説を初めて書きました。
結末まで決めているので、エタらず最後まで書こうと思います。
良ければお気に入り登録、感想よろしくお願いします。
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