結局、猛烈な暑さが襲う夏です。みなさんどうかご自愛ください。
「あ、せんぱーい!」
普段の裏手にある駐輪場ではなく店の前にスクーターを停めると、巴がパッと駆け寄ってきた。
「こんにちは。というか早いね……まだ30分前なのに」
スクーターで移動するのもあるが、待ち合わせ場所に歳下の女子を一人にさせるわけにはいかないという、生来の真面目さが働いた徠斗だったが、巴はそんな徠斗よりも更に早く来ていたようだ。
「全然早くなんてないよ! 先輩に無理言って一緒に行くのに、遅れるわけにはいかないもの」
どうやら、2人とも考えることは一緒だったらしい。
だとしても早すぎるとか、無理やり同行してる自覚はあったのかなど、言及したい点は幾つかあったが。
どちらも遅れることなく合流できたのだから、結果オーライで終わらせるのが無難だろう。
それより、徠斗にはもっと言及すべきものが目の前にある。
「今日の格好は……なんというか、ずいぶんオシャレな格好なされて」
「えへへへ〜、そうでしょ?」
最初に目に入ったのは、頭にふわっと被った茶色の鹿撃ち帽だった。
次にベージュのロングコート。続いてチェック柄のプリーツスカートに、革靴。
肩に掛けた革のバッグといい、胸元で陽光を受けてキラリと光る懐中時計といい、これはまるで──。
「探偵コーデっていうのかな? なんでまたそんな、気合いの入った格好を」
「答えは簡単! 今日のボクは、ただのバイトの後輩じゃないからね!」
自慢げに胸を張って、巴は言う。
「今日は名探偵の先輩の相棒として、デ……同行するんだから!
ほら、なにごとも形からって言うでしょ?」
「なるほど……いやしかし、似合ってますね」
「ふふふ、だよねー? 正直ボクも、ここまで似合うなんて予想以上だったからびっくりしてるんだ」
「うん、ほんとに可愛い」
「〜〜〜っ!」
一番求めていた言葉を、飾り気もなくまっすぐ言われた巴が破顔する。
そんな反応を前に、徠斗は大学生になってから見聞きしてきた大学の女子達を想起した。
一人目。大学1年の頃、同じ講義が複数あって息が合うことも多く、思い切って告白した佐野郁恵さん。
『あーごめんウチもう彼氏いるんだ。2▲歳でベンチャーの社長してんの、凄くない?』
この後、延々と彼氏に奢ってもらった高そうなご飯の写真や、アミューズメントパークでのカップルセルフィーを見せられた。
二人目。昨年末の飲み会で、楽しい時間を自分の愚痴吐き場に塗り替えた宮﨑優樹菜さん。
『アイツ(彼氏)マジキモくない? 高校の男友達と飲んだくらいで怒るとか童貞かよ。
自分だってアニメとか見てるくせにさ。もう冷めてきたし乗り換えろっと』
ちなみにこの後普通に浮気した上に妊娠して大学中退した。
三人目。4月にゼミが始まった記念の飲み会の3次会で限界まで酔ってた丸瀬莉乃さん。
『度会くぅん……わたしねぇ、昨日□□□に告られたんだけどぉ、ありえなくない?
だってわたし、あの顔面からイケるって思われてたんだよ……もうそれだけでマジ鬱だよ鬱』
せめてこの人はまともな枠で居て欲しかった。
出てくるのはどれも、擦れた話題ばかり。
それに比べると、眼の前にいる巴の素直さ溢れる言動はどうだろう。
さながら、天使のように見えてくるのではないか?
耳と尻尾があったら間違いなくぱたぱたと揺らしていたに違いない巴を見て、『もしこの子が同級生だったら、絶対好きになってたんだろうなぁ』と思う徠斗だった。
是非そのまま思うだけに留めて、絶対に言葉に出さないままで居てもらいたい。
「でもアレですね。似合いすぎてて、相棒と言うより朝倉さんが主役って感じ」
「うぇっ!? そ、そんなぁ! この帽子のせい? それともコート?」
「いや、どっちもそのままでいいですよ。でも……」
そう言って、徠斗はスクーターのシートを開けて、収納スペースから予備のヘルメットを取り出すと巴に手渡した。
「今からこれに乗っていくから、帽子だけは取ってくださいな」
「は〜い。えへへ、先輩と2人乗り、先輩とタンデム〜」
「タンデムって……言葉知ってるんですか」
「先輩のスクーターに乗れるから、調べたの!」
「それはどうも」
わざわざ自分のために調べて来る殊勝さに、ますます『やっぱ同級生にこういうのされたら弱いなぁ』と、口惜しさを感じる徠斗だった。
スクーターで約40分の旅をして、2人は無事野々原家前に到着した。
これがメロドラマであったなら、タンデム中の2人は朗らかな会話を楽しむのであろう。
だが、実際のところ徠斗にそんな余裕は無かった。
スクーターに乗るようになってから、女子を乗せるのは今回が初めてだ。
気が置けない男友達ならともかく、出会って日が浅い朝倉に怪我などさせるわけにもいかない。
普段より何倍も安全運転を意識する状況で、徠斗の緊張感はいつになく高まる。
とうてい、女子が楽しめるような雰囲気作りや、気の利いた会話などは一切思い浮かぶことがなかった。
その緊張が伝播したから、というわけではないだろうが、巴も人が運転するスクーターに乗る機会は滅多に無かったのだろう。
普段はあんなに話したがりなのが嘘のように、走行中は徠斗の背中に手を回して静かにしていた。
「うん、着いたよ。ここだ」
そう言って徠斗がスクーターを停めた瞬間、2人の緊張がふわっと弛緩するのを互いに感じつつ、スクーターから降りた巴が言った。
「ありがとう、先輩。運転上手だね」
「モットーは生涯無事故なので。酔ったりしてません?」
「うん、ぜんぜん平気だよ! ……ここが野々原さんのお家なんだ」
「ああ、そうみたいです」
2人の視線の先には、駐車場付きの立派な一軒家が建っていた。
駐車場には車が2台余裕で駐車できる程度のスペースがある。
半分はしばらく使われてなさそうな、埃や雨垢が目立つ乗用車が占めていたが、もう半分は野々原兄妹のものと思われる自転車が、並んで駐輪されていた。
徠斗も自転車が出る時に邪魔とならないよう気を使いながら、自分のスクーターを空いたスペースに停めた。
門扉にはインターホンと『野々原』と書かれた表札があり、ここが間違いなく目的地であることを無言で告げていた。
「それじゃあ、入りますよ。準備は大丈夫?」
「うん、いつでもOKだよ!」
ヘルメットを脱いで、幾らか乱れた髪を整えながら答える巴。
それを聞いて頷いた徠斗は、ゆっくりとインターホンを押した。
何秒間かの沈黙を置いて、インターホンではなく、門扉の先にある玄関扉がガチャリと開いて、野々原が出てきた。
「やあ、度会に朝倉ちゃん! 暑い中来てくれてありがとう!」
「おひさ。インフルは治ったみたいだな」
「お陰様でねー。久しぶりに熱で嫌な夢を見たけどさ」
約2週間ぶりの再会に会話を弾ませながら、野々原が2人を家に案内する。
田舎の祖父母の家を彷彿とさせる広々とした玄関、靴箱の上にはお土産で買ったものだろうシーサーの置物や、精巧な雀の剥製などが置かれていた。
「おじゃまします」
「お、おじゃましまーす……」
「入ってって……というか、今日の朝倉ちゃんの格好可愛いね。探偵っぽいけどミステリー好きなの?」
「ありがとうございます! ……えっと、ちなみに野々原さんから見てこの格好、主役と相棒役、どっちに見えます?」
「え? それはもちろん主役だよ! 帽子もっと明るい色にしたら完全に!」
「そうですかぁ……」
「……あれ、言葉ミスった?」
「ミスってないよ、気にしないで良い」
「あ、あぁ……そう?」
野々原という第三者から見ても、徠斗を差し置いて主役に見えてしまう事実に、巴はそこはかとないショックを受ける。
少しだけ項垂れる巴を横で見ながら、徠斗は学んだ。
気合を入れすぎた服装は、時に本人が望む以上の結果を与えてしまうのだと。
「まぁいいや。部屋で渚にカルピス入れてもらったんだ。上がってよ」
「ありがとう。ってか、カルピス飲むのいつぶりかな。仕事で客に出すばっかだからさ。
……ほら朝倉さん。気を取り直して行きますよー」
「うん……先輩、ボクはどんなに目立っちゃっても先輩だけの相棒だからね?」
「それはどうも」
巴の肩を叩いて励ましながら、野々原の後ろを歩く。
廊下を渡りリビングを横切って階段を上がって右手側の部屋に入ると、野々原と同じ髪の色をした少女が、3人分のグラスが乗ったお盆を持って立っていた。
徠斗と目が合うと、お盆を部屋の中央に置かれているちゃぶ台テーブルにおろし、ペコリと丁寧に頭を下げた。
「はじめまして、妹の渚です。先日はお電話で失礼しました」
「どうも、渚さん。こちらこそ現実では初めまして……っ!」
電話で声を聞いたときに抱いた、丁寧そうな女の子のイメージそのままで、徠斗は内心小さく驚いた。
髪色と空気がふわふわするような優しい雰囲気は兄妹そっくりだが、実は妹ではなく姉だと言われても納得できてしまうほどに、発言や振る舞いから漂う気配は、年齢よりもずっと大人っぽかったからだ。
だがそれ以上に、徠斗の視線を引いたものが一つある。いや、渚だけではない。恐らくは巴も同じだろう。
季節は春を迎え、GWを過ぎ、もう少しで梅雨を迎えようとしている時期にも関わらず。
渚の首元には、真冬に巻くような真紅のマフラーが巻かれていた。
俗な徠斗の思考が真っ先に思いついたのは2つ。
1つは、いわゆる厨二病──または高二病によるもの。2つ目は、これは外れて欲しいと切に願っているが、自傷行為の痕を隠すため、というものだ。
いずれにせよ、人目を引く異常な格好であることには違いない。
それでいて、全くの無反応であることの方が、むしろおかしいくらいだ。
どうする、この奇っ怪な状況に言及すべきか、スルーすべきか。立ちどころに判断を求められて思考を張り巡らせようとした矢先。
背後に居た巴が一目散に駆け出し、渚の手を握って言った。
「そのマフラー、可愛いですね!」
嘘だろ!? 徠斗は内心で爆発するように湧いた言葉が決して表に出ないように堪えるのに必死だ。
正真正銘の初対面で、いきなりマフラーに触れるどころか全肯定な発言をするなど、思いもよらない行動を前にして徠斗は度肝を抜かれた。
だがしかし、いやだからこそ、というべきか。渚は顔も名前も知らない同年代の探偵コーデをした赤の他人に言われた褒め言葉を、この上なく素直に受け取ってしまった。
「あ……ありがとうございます」
少し照れくさそうにマフラーへ手を添えて、小さく笑う。
巴はそんな渚に畳み掛けるように──恐らくそんな意図は無いのだろうが、渚の中に警戒心が生まれる暇を与えずに、言葉を続けた。
「凄い手入れもしてますよね? 誰から貰ったんですか!?」
「その、お兄ちゃんから、昔プレゼントで……」
「あー分かります! ボクも小さい頃お姉ちゃんから貰った人形、今も大事に部屋に飾ってるから!
でも良いなぁ、マフラーならいつでも一緒にできますしね!」
徠斗だけならどうしても気まずくなるはずの状況。
巴が意図してか無自覚にか、一気に兄想いの妹という和やかな空気に塗り替えて見せたのだった。
そんな2人の会話を前にしながらとっさに渚に背を向けて、野々原にだけ聞こえるように小声で尋ねた。
「……へぇ。凄え仲良いんだな、お前と渚さん」
「あはは……恥ずかしいから冬場以外は脱いだらって、言ってるんだけどね」
照れくさそうに頬を掻きながら野々原が言う。
冬以外にマフラーを巻く姿を変だと思いつつ、それを受け入れているのを見て、徠斗はつい尋ねてしまった。
「なぁ、野々原……お前と渚さんって、実は姉と弟の関係だったりする?」
「はい? 急にどうしたの、そんなこと言って」
「いやだって、雰囲気が大学四年生並みに大人びてるくせに、貰ったマフラーを喜んで年中巻いてるって、息子に貰ったプレゼントを喜んで使う母親みたいだし」
「母親って、徠斗お前、華の女子高生になんて事を……ん?
というかお前って、渚のこと名前で呼んでる?
いつの間にそんな仲良しさんに」
「いや、引っかかるのそこかよ……。今日までに何回か、お前の健康状態について連絡してるウチにね。2人揃って野々原呼びじゃ紛らわしいだろ?」
「じゃあ俺を名前で呼べばいいのに」
「いや、なんかお前は”野々原”って感じなんだよな」
「なんだそりゃ!」
女子高生の間に挟まれながら、ヒソヒソと会話する大学2年生の男子2人。
だいぶ怪しい絵面だが、いつの間にか巴との会話を終えた渚はそそくさと2人の横を通り過ぎ、部屋を出ていく。
「じゃあお兄ちゃん、私はリビングにいるから。何かあったら呼んでね?」
「──あ、いつの間に。うん分かった。ありがとう渚」
「はーい」
兄のささいなお礼の言葉に、ニッコリと微笑んで渚は階下に降りていった。
「すっげーなお前。渚さんから全く思春期の妹みを感じねえ。
前世でどんな徳を積んだら年頃の妹にあそこまで慕われるんだ」
「ナチュラルに今世の俺の功績じゃないってディスるのやめてね。
うちはちょっと特殊なだけでしょ。親が居ないから、兄妹でいがみ合ってる余裕ないだけだよ」
『えっ』
あまりにもサラリとお出しされた重い情報に、徠斗と巴の驚き声が重なる。
一方、野々原はもう慣れたことのように──事実として慣れきっているのだろうが、なんてこと無いように顔と声色でテーブルの前にあぐらをかいて、話を続けた。
「俺たちが小さい時に、両親だけで車の運転中、事故に遭ってね。大型車同士の巻き込み事故の巻き添え食らって。まぁ物心付くかどうかって頃だったから、殆ど覚えてないんだけどな」
「え、じゃあ表にあった車は?」
「父さんの車だよ。車好きだったらしくてさ、通勤用とプライベート用で2台持ちだったんだ。ったく、どうせならカッコいい方を遺してくれたら良かったのに。
……あ、ここ笑うところだからね?」
「笑えねえよそのネタでは……」
ドン引きしつつ呆れながら、徠斗は野々原の向かい側に腰を下ろす。
その右隣にストンと正座した巴は、徠斗とは違い真剣な面持ちになって、野々原に尋ねた。
「寂しくなったりは、しないですか?」
「ちょ、朝倉さん……?」
シンプルに気まずい話だ。続ける気など毛頭なかった徠斗だったが、まさか巴が話題を膨らませてくるとは思わなかった。
質問の内容も、2回しか会ってない相手にするには、いささか踏み込み過ぎなので焦った。
「え? うーん……そうだなぁ」
そんな徠斗の焦りも知らずに、野々原はいつも通りのペースで、素直に巴の質問に答えようと考えを巡らせている。徠斗の心配は杞憂に終わったらしい。
約10秒ほど間を置いてから、野々原はあっけらかんと笑いながら答えた。
「中学までは、結構寂しいときもあったかな。授業参観とか、運動会で親が居ないって現実をすっげえ感じたし。でも」
言葉を止める野々原。
視線は渚が入れたカルピスの入ったグラスに向けられている。
そのまま、野々原の言葉が続いた。
「渚が居てくれたからね。寂しい顔なんてしていられないじゃん?」
長男の務めは、妹を安心させることだからね! と胸を叩いて誇らしげに言う野々原。
「きょうだい……家族……」
野々原の返答に何を思ったのか、巴はボソボソと呟いてからこくんと頷くと、
「ありがとうございます。勉強になりました」
「うん? ……そっか、なら良かったよー」
一体何がどう参考になったのか、皆目見当も付かないが。
それを気にする野々原ではなかったし、思っていても追求する気は無い徠斗だった。
「でも、それを聞いたら納得です! 野々原さんのお部屋見た時から思ってたけど、大学生の男の人にしてはけっこうファンシーな物があるなぁって!
妹さんとそのくらい仲が良いと、お互いの趣味の物プレゼントしあったり、部屋の小物とかもシェアしてるんですよね」
「お、そこに気がつくとは、さすが探偵さんの格好してるだけあるなー」
徠斗は全く気づいていなかったが、話を聞いて改めて部屋を見ると、確かに男の部屋にしては色合いやデザインが可愛らしい物が散見される。
例えば野々原の背後にある、テレビ横のカラーボックス。
収納されているのは漫画やゲーム機器類と男子然としているが、箱自体は薄ピンク色かつ角が丸いもので、男子が自ら進んで買うようなものには見えにくい。
足元に目を向ければ、色鮮やかな幾何学模様のカーペットで、これも知り合ってから1年程度とは言え、徠斗が知る野々原のセンスでは選ばなそうな模様をしている。
他にも、勉強用デスクの上に置かれたクマのぬいぐるみだったり、壁に掛かった北欧風からくり時計だったりと、随所に女性の気配を匂わせる物はあった。
巴は『妹と小物をシェアしている』と見たが、徠斗はそれよりも『同棲してる男女の部屋』という印象を受けたが、流石にそれは飛躍した受け取り方だと思い、口を噤むのだった。
「ちなみに、あのぬいぐるみも妹さんがプレゼントしたものですか?」
「えっ、あぁ……それは……いつのだったかな」
巴がクマのぬいぐるみを指さすと、野々原は若干歯切れの悪い答えを返す。
徠斗がその様子に違和感を覚えるよりも速く、巴がすくっと立ち上がり、ぬいぐるみの前まで歩いて手に取ると、隅々を見回しながら言った。
「手の込んだぬいぐるみですね。……もしかして、手作りですか?」
「……よく分かったね。もしかして、本当に探偵だったり?」
「違いますよー。ボクもよく趣味でハンドメイドの手袋や帽子作るから、何となく手触りとかでわかるんです!」
「へぇ~。手芸趣味なんて、女子って感じだなぁ」
素直に感心した声色で言いながら、野々原はカルピスに手を伸ばし一口すると、耳の裏を掻きながら言った。
「実はそれ、彩子から貰ったんだよね。また話し始めるようになってから」
「朽梨さんから? それはまた……」
「またからかったりするなよ、絶対だからな?」
「別に。今更そんなことくらいでやいのやいの言わないよ」
彩子が抱く感情の大きさを知った今、手作りのぬいぐるみを意中の相手に送る行為程度、当然のものにしか感じられない。
しかし、ここで図らずも知れたのは、野々原が彩子に悪感情を抱いていない、という事だ。
彩子から一方的に恋人扱いされていることに困っているが、野々原は決して、彩子を嫌っているわけではない。そうでなければ、ハンドメイドのぬいぐるみをプレゼントされて、平然とインテリアの一部になんてしない。
そうなると、やはり前日に丸瀬と出した疑問が脳裏をよぎる。
『一体どうして、野々原は素直に彩子と付き合わないのか』
今日、ここまでの情報でその答えを見出せそうな気がしないでもないが、思い至ろうとするよりもまずは、今日の本題を全うすることのほうが先だ。
徠斗はぬいぐるみをいじり続けている巴を他所に、グラスに口を付けて一口飲んでから、本腰を入れる。
「野々原、じゃあそろそろ話すぞ。俺が大学で聞いてきたこと」
「……うん。よろしく」
朗らかな空気が一転。緊張感を帯びた表情になる野々原をまっすぐ見据えて、徠斗は大学で丸瀬とともに調べたことを詳らかに話した。
話の途中、何度も話を遮って質問を挟んでくるものだとばかり思っていた徠斗の予想に反し、野々原は終始冷静に、聞くに徹していた。
巴がぬいぐるみを元の場所に置いて徠斗の隣に座り直し、3人のグラスの中身が空になった頃、徠斗の話も終わった。
最後まで決して話の腰を折るようなこともないままだった野々原は、短い溜息を溢してから、後ろに身体を倒して言った。
「すまんー度会。すっげえ疲れただろ、そこまで調べんのに」
ファーストインプレッションは、非常に野々原らしい労い混じりなものだった。
再度空気が和らいでいくのを感じて、徠斗もちゃぶ台に身体をぐでーっと乗せながら返した。
「ふ、ホントだよ。こちとらレポートだって残ってんのに」
「ありがとうなぁ~」
苦笑する野々原は床に寝そべったまま、天井をじっと見つめて言葉を続ける。
「それにしても……そか、約束か」
「言い当ててやる。覚えてないんだろお前」
「うん、正解」
「だよなぁ」
よしんば覚えていた所で、それが二十歳を越えても実効だと思う人間では無いだろう。
あくまでも、子供の頃の気まぐれで交わした、些細な口約束。
彩子にとって将来を確定させたモノは、野々原にとってはその程度のものでしかなかった。
「拗れるの確定だな。言っとくけど、冗談でした~で済むような温度感じゃなかったぜ」
「はぁ……何で、俺なんかの約束をそこまで大事に……」
「さぁなぁ。あの人についてはお前以上に詳しい人ここにいないし、推し量るのもお前しか無理でしょ」
「……そうだね。俺は、幼なじみだし」
噛みしめるように、野々原は自分と彩子との関係性を言葉にした。
いまや、そのように思っているのは野々原だけだ。
……いや、厳密に言えば『約束』を交わした日から、彩子はずっと途切れること無く野々原を将来の夫婦だと思っていたのだから、十数年もの間ずっと、野々原だけがお互いを幼馴染だと思っていたのだ。
つまり、この2人はずっとズレた認識で同じ年月を重ねてきたということになる。
見えているものが、見ようとしたものが、見たいものが、全て一度も交わらないまま、今日まで寄り添いあって生きてきたのだ。
ある意味では、よく今回の件が起こるまで、2人の致命的な認識のズレが表に出てこなかったものだと、徠斗は感心する。
同時に、考えた。
求められたものには応えている。
もうこれ以上、徠斗は野々原と彩子の間にある十数年間の拗れに、関わる必要は無い。
丸瀬はこの件に危険性を感じ、関わることをやめた。徠斗もまた同じ様にするべきではないかと自問する。
『ま、話はここまでだ。後はどうするか、お前が考えな』
そう言ってしまえば、後は巴を連れて帰るだけで、徠斗はこれ以上面倒な話に関わらずに済む。
冷静に考えれば、いや、考えるまでもなく、普通はその様にすべきだろう。わざわざ徠斗が求められている以上に他人の恋愛事情に関与する意味がない。
ただでさえ、度会徠斗の人生には、大学のレポートを筆頭に面倒事が幾つもある。他人の面倒を請け負うほどの人生的
だが、しかし。
それを分かっていても、すぐにそうしなかったのには理由がある。
彼は今、どうしても『知りたかった』のだ。
そのために、猫をも殺す好奇心──今回はともすれば猫どころでは済まないかもしれない──が、どうしても徠斗の脳裏に付き纏って離れなかった疑問を、口に出してしまった。
「なぁ野々原。お前どうしてずっと、朽梨さんと付き合うって考えだけは避けてるんだ?」
「…………」
重い沈黙が、一気に部屋を包み込む。巴も、空気を読んで口を挟まないようにしている。
ちゃぶ台に突っ伏している徠斗は、野々原が今どんな表情を浮かべているのか、見ることが出来ない。
こういう空気になることは半ば覚悟していた。
この問いは野々原と彩子との関係に一歩踏み込む行動に他ならなかったからだ。
そして、野々原が恐らく問いに応えられず、しどろもどろになることも予想がついていた。
──なので。
「お前、もう朽梨さん以外に好きな人がいるんじゃないの?」
もうこの際、更に一歩踏み込んでしまうことにした。
「──んなっ、な、何を急に!?」
顔は見えないままでも、がたっと立ち上がり動揺しているのが音や声から分かる。
その様子から鑑みるに、どうやら徠斗の言葉はおおよそ当たっていたようだ。
徠斗の頭の中で想像上の丸瀬が、腕を組みながら『やっぱりね』と全て分かっているような顔で頷く。少し鬱陶しいので首を振ってその想像を払い除けながら、突っ伏した体勢のまま顔だけあげると案の定、徠斗の視界には中腰でわなわなした顔の野々原がいた。
なお、隣の巴は口元に手を当てたまま、『わーそんなこと聞いちゃうんだ!』とでも言うように2人を交互に見ている。
「誰なんだよ。あんな美人の幼馴染の好意を袖にするくらい、お前が惚れてる相手って。
大学の人? 俺も知ってる奴か?」
「あ、あー……っと。俺まだ何も言ってないぜ?」
「目は口ほどに……というより、全身で答えを言ってるようなもんじゃねえか。
お前、けっこう隠し事とか出来ないタイプだからな?」
「うっ……その……」
言葉に詰まれば詰まるほど、より一層徠斗の言葉を肯定する事になるのは、野々原も分かっている。
しかしそれでも、上手い言い返しが思いつかないので、先生に軽い説教を受けてる小学生のような反応を見せることしかできない。
ますます相手が誰なのか気になってくる徠斗だが、ここまで露骨に困ってる姿を前にすると、流石に弁えろという気持ちの方が強くなる。
言いたくないのか、言えないのか、あるいはその両方か。いずれにせよ今、野々原にもっとも求められる事は、意中の相手を徠斗に白状することではなく、その好意を貫くための誠実な行動だ。
「まぁ良いけどさ、相手が誰でも。だけどお前、それならそれで、朽梨さんのことはハッキリフラないとダメじゃん」
「っ! そう、だよな……って、フルのか……」
「いや分かるよ、まず真っ当に告られても無いもんな」
思い出すのは徠斗が中学生の時。
男子の中だけで『誰々が好き』という話題で盛り上がったら、誰かが当時の徠斗の意中の相手にその事を告げ口して、結果フラレる事があった。
告白もしてないうちから、一方的に『ごめんなさい』と言われた時、徠斗の胸に去来したのは失恋した悲しさやフラレた恥ずかしさではなく、『なんだコレ?』という気持ちだった。
真っ当なプロセスを挟むこと無く、想いを伝えたり断られる覚悟や気構えができる前に、結果だけお出しされた事に、猛烈な違和感を抱いたことを、徠斗は強烈に覚えている。
申し訳なさそうな顔で頭を下げて拒絶の意を示す女子。
その後ろで何故かこちらを非難するような目を向ける取り巻き。
加害行為をしてないうちから、勝手に加害者扱いされているようで、むしろ被害者はこっちだと言いたいくらいだったが──これ以上思春期の苦い思い出に思考を割くのは閑話休題。
「恋ってのは大方、両想いなら合意。片想いは加害なんだよ野々原」
「お、おう……?」
「一目惚れなんてのが典型例でな。惚れた方はドラマティックかもしれないが、惚れられた側にとっては事故みたいなもんだ。今回の場合は一目惚れとちょっと違うが、お前が一方的に好意を向けられる被害者である事は変わんない」
忘れていた過去を偶発的に思い出し、湧き出る当時の激情を理性というフィルターで濾していき、言葉に説得力という圧を乗せていく。
「でもな野々原、今のお前に好きな相手が別に居て、朽梨さんの好意は迷惑だと思ってるなら、どんなに長い付き合いの相手でも断らなきゃダメだ。
今の状態が長引けば長引くほど、お前は純粋な被害者のままでは居られないぜ?」
「べ、別に被害者で居たいわけじゃないよ! ……でも」
「でも?」
「……いや、なんでもない」
「……そっか」
なんでもない、わけがないだろうが。
まぁ言えないことなのだろう。徠斗は敢えて追求することはしなかった。
いずれにせよ、もうただの友人以上の踏み込み方をしたのだから、徠斗としても『言いたいこと言ったからもう知らない』で済ませるわけにはいかない。
「まぁ、どういう結論になるかはお前の気持ち次第だけどさ。二股野郎とかにはなるなよ、絶対に。それしたら絶交するからな」
「し、しないよ! そんな怖いこと!」
「怖い……まぁ確かに、お前との約束を語るときの朽梨さんは、得も言われぬ怖さがあったからなぁ」
彩子が僅かな時間とは言え発していた、先程の徠斗では比にならないほどの、場を支配するような有無を言わせない圧倒感を思い出す。
「ま、一人でどうこうするのが怖いときは、俺も付き添う程度はしてやるよ。
だからまぁ、現状維持だけはよしとけよな」
「……うん、考えるよ」
不承不承、なのだろうが。
野々原は、徠斗の言葉にやっと、頷くのだった。
「今日はありがとうね。それと、せっかく来てくれたのに大したもてなしも出来なくて、ごめん」
話すべきことを話し終えて、それ以上滞在する理由は乏しい。
徠斗だけなら一緒にゲームで遊ぶなどの選択肢もあるが、巴が居るのならそれもない。
そもそも、忘れてはいけない。野々原はまだ季節外れのインフルエンザが治ったばかりの、病み上がりなのだ。
「気にすんなし。それより、明日はちゃんと大学来いよ?」
「うん。もちろん……あの件についても、俺なりに考えるよ、ちゃんと」
玄関先での会話だ、野々原の後ろには渚もいる。
ぼやけた言い回しになるのは仕方ないだろう。徠斗は一回頷いてから、締まった空気を緩めるように砕けた声色で言った。
「ま、何か愚痴りたくなったらいつでもまほらに来いよ。俺も朝倉さんもたっぷり聞いてやるから。1杯につき5分な」
「5分って……横浜の占いのほうがまだ長く聞いてくれるじゃないか。暴利だなぁ」
「お酒の度数によって相談時間が伸びる方針だ」
「……じゃあ、今のうちに強いお酒頼めるようにしないよな」
野々原が返すと、2人同時にくすくすと小さな笑いが溢れた。
同時に、後腐れない解散のタイミングが今だと察して、徠斗は素早く玄関の扉を大きく開けた。
アイコンタクトだけで巴を先に行かせて、最後にもう一回野々原兄妹に視線を向けると、
「お邪魔しました。あと、お大事に」
そう簡潔に言って、玄関を後にするのだった。
「ねえ先輩、運転中は大変だと思うから、先に何個か話ししてもいい?」
駐輪していたスクーターにまたいで、ヘルメットを被って後はエンジンキーを回すだけというタイミングで、巴がそんな事を言ってきた。
当然、話を断る理由もない。一応野々原家の敷地内ではあるが、長話を振る様子でも無いので、徠斗は一旦被っていたヘルメットを脱ぐと、後ろに座る巴を肩越しに見て頷いた。
「いいですよ。なんです?」
「ありがとう先輩。あのね、まず聞きたいことがあって……その、ね?
先輩って、実は人に好かれるのが嫌なタイプだったりする……?」
「え? なんでそんなこと……あー」
質問の意図が分からず一瞬だけ困惑するが、すぐに思い当たるものに気づき、こめかみに指を添える。
間違いなく、先程の野々原に向けていった言葉が原因だろう。
「人に好意を向けられると不快になるとか、そういう偏屈な性格じゃありませんよ。
野々原に言ったのは、あくまでも俺個人の見解っていうか」
「人を好きになるのは加害だっていうのが?」
「男子ってのは、そういう扱いになりがちなんです。いやまぁ、常に女子からの人気が高い人については全くそんなこと無いんですけど。
俺は残念なことに、小中の頃は女子から見た男子Tier表ではAとかSランクじゃなかったんでね。好きだと思ってる事自体が有害、って思われる人が世の中にはいるんですよ」
「……高校生の時はそうじゃないの?」
「どうだったんでしょうねぇ。彼女がいたから悪い評価では無かったと思いたいけど。
結局別れてるし、大学生なってからはいないし……っと、そういう話じゃないか。
とにかく、好きだって気持ちを持つことに善悪は無いと思うけど、どう伝えるかは、考えないとダメじゃないの? ってタイプです。わかりました?」
「……うん、分かった」
背中にいるため、巴が果たして本当に納得できたのかは声色だけでは分からないが、少なくとも徠斗が持たれかけた、『恋愛に拗れた価値観を持つ人間』という誤解は解けたらしい。
「良かった……」
か細く小声で呟いた巴の声は、誤解が解けた事による安堵で意識が緩んでいた徠斗の耳には、届くことはなかった。
「それで、もう一つは?」
「う、うん! あのね、さっき野々原さんの部屋で──」
「ん。ごめんなさいちょっと待って。人が来る」
話を遮った徠斗の言葉どおり、玄関から渚が姿を見せて、駆け足でこちらに向かっている。
「あっ、本当だ……野々原さんの妹さん、だよね?」
「うん、渚さんですね」
「……そう言えば、あの子は名前で呼ぶよね、先輩って」
「え? いや、今は一旦その話待って」
あと数秒で渚が目の前に来るタイミングなのに、新たな話題の種が芽を出しそうになったのを感じて、慌てて巴を制する。
幸いにも巴が食い下がることはなく、渚が来るのに併せて押し黙った。
「度会さん」
「あーすみません、渚さん。ちょっとこの後何処に行くかで話が伸びて、すぐに出ますよ」
「あ、いえ。そうじゃないんです」
「んぇ?」
てっきり、『いつまで駐車場にいるのか、早く行け』という旨の言葉を言われると思い、先んじて嘘と方便を混ぜて言い訳を口にしたが。
どうも、渚は純粋に徠斗に用があって家から出てきたらしい。
「あの、どうしても徠斗さんにお願いしたいことがあって。家を出る前に伝えたかったんです」
「……はい、なんでしょう」
自然と、徠斗の身に本日何度目かの……そして今日一番の緊張が走る。
わざわざ、さっきの玄関先ではなく、兄がいない状況で伝えようとしたことだ。
恐らく、兄の耳には入れたくないことなのだろう。
そんな徠斗の予想に反すること無く──。
「もう、今回の件については関わらないで欲しいんです」
渚の要望は、非常に個人のエゴを強く匂わせる物であった。
「……えっと、理由くらいは聞いてもいいですよね」
「これは、私たち家族だけの問題なので」
「それは違うんじゃないかな。お兄さんも朽梨さんも、俺の大学の同級生で、それぞれ友達と顔なじみですよ。別に野々原家だけに限った話では無いと思いますが」
「それでも、度会さんも、朝倉さんも本来は関係ない話なんです。あの人──彩子さんが好き勝手したせいで、私やお兄ちゃんだけじゃなく、大学の皆さんにまで迷惑を掛けてしまったことは、代わって謝ります。
──でも、だからこそ、もうここで終わりにしたいんです」
「……っ」
彩子の件でこれ以上、無関係な人たちの時間を煩わせたくない。
それ自体は、理屈としては納得できる。
おかしいどころか、誠実とさえ言えるかもしれない。
ただし、発言者が渚でなければ、だが。
「言い返すようになって悪いけど。今回、俺は野々原──渚さんのお兄さんから直々に相談を持ちかけられて、彼と朽梨さんに関わったんです。
あの2人のどちらかから直接もう結構だと言われたならまだしも、妹の渚さんに言われて素直に聞く筋合い……ううん、もっと穏当な言い方……道理は通らないと思うけど、どうです?」
「それは…………」
「勘違いしないでほしいのは、俺は積極的に関与したいわけじゃないってことです。
理屈として納得できれば、この場でもう関わらないと約束します。
でも、浅い理由だけ並べて関与するなと言われただけで、素直に頷くのは無理がある程度に、俺は野々原とも朽梨さんとも関係を持ってるんでね」
徠斗自身が内心驚くほど、勢いよく口が回っている。
事実として渚の要望は突拍子もない、とまでは言わないが、無理筋寄りな要望だ。
だからといって、正直ここまでハッキリと断るほどのモノでも無い。
そのうえで、素直に引き下がらない理由は一つ。
それは卑しくも、好奇心によるものだった。
渚の僅かな発言の中に、わざわざ兄のいないところでこんな事を頼む渚の姿に、徠斗は何かを感じたのだ。そしてその『何か』こそが、ともすれば、今回の野々原と彩子の問題にもっとも関係する要素なのではないか、と。
「理由は──言えません」
果たして渚の解答は短く、しかし、そう語る表情は決して単調なものではなかった。
眉間にシワを寄せ、唇を固く結び、何か大きな気持ちを抑えようとして──それが全く出来ていない、そんな表情だ。
「言えません、けど。それでも、分かってください。これはお兄ちゃんと、私の──ううん、私が、なんとかする問題なんです。しなきゃいけないんです。だから──」
「わかりました」
「──えっ?」
渚の言葉はもう、決壊寸前のダムから聞こえる軋みのようだった。
そんな物を真正面から聞かされて、なおも『筋が通らないから全部話せ』とは、言えるわけが無い。
「理由はよく分かりませんけど、俺からはこれ以上、あの2人にどうこう言うことはしません。まぁでも、また君のお兄さんから話を振られたら、最低限の対応に出るくらいは許してくださいね」
「……いいんですか?」
「いいも何も、渚さんがそうしてほしいんでしょう? そこまで言われたら流石に断れませんよ。……でも、これはお節介承知でいいますが」
徠斗は話しながらもこれ以上会話が長引かないように、巴との会話のため外していたヘルメットを被り直す。
アゴのストラップも付けてから、余計な言葉だと自覚しつつ言った。
「朽梨さんは、強い意思を持ってアイツの伴侶を自認してます。それを第三者が……それも『妹』の渚さんが覆すのは、容易じゃないですよ」
「……はい、分かってます」
「そうですか。じゃあ、ご健闘を祈ります。
朝倉さん、ヘルメット付けて?」
「──あ、うん! もう付けてるよ!」
「じゃあ、行きましょうか。それじゃあ何かあったら、電話ください。
さようなら、渚さん」
「……はい、その、度会さん」
「はい?」
「……ありがとうございます」
その言葉には頷くだけで、徠斗は急いでスクーターを走らせ、野々原家を後にするのだった。
「すみませんね、朝倉さん。2つ目を聞く前に出ちゃって」
まほらまで戻るまでの走行中、徠斗はおもむろに巴に謝った。
安全運転のため、運転している時は会話することはないと思っていたので、巴は少し驚きつつも、風音にかき消されない程度に声を張り上げて言葉を返す。
「ううん、平気だよ! 先輩こそ気にしないで? 運転してるんだし」
「いや、流石に少しは慣れたから、大丈夫。
あまり難しくない話題なら、今のうちに話したかったこと言っていいですよ」
「そ、そう? ……じゃあ、言っちゃうね」
果たしてなんだろうか。今日はあまり明るい出来事がない、出来れば最後くらいは気が軽くなるような話であると良いのだが──そんな徠の望みは、立ちどころに打ち崩される。
「野々原さんの部屋ね」
「はい」
「盗聴されてたよ」
「…………はい?」
「だから、盗聴器が仕掛けてあったの」
「……嘘でしょ」
予想の斜め上。人間社会の常識と良識を信じている人間である徠斗にとって、ある意味でもっとも恐ろしい話を聞いてしまった。
無意識でスロットルを握る右手に力が入り、スクーターの速度を上げていく。
「そんなの、どこにありました? コンセントとか?」
「ボク、部屋にあったぬいぐるみを触ってたよね。あの中に、入ってたんだ」
「ってことは、仕掛けたのは……はぁ、マジかよ。そういう事する人なんだ、あの人」
野々原は、ぬいぐるみは彩子から貰ったと話していた。
その中に盗聴器が仕込まれていたとすれば、つまり、そういうことだろう。
仕掛け人は、朽梨彩子にほかならない。
「えっ、じゃあさっきの会話全部聞かれてたってこと!?」
「大丈夫だよ、気づいてすぐに止めたから。ボク達が部屋に来たことまでは知ってても、会話の内容までは漏れてないから」
「そっか……良かったぁ」
今日一番の焦りが、瞬く間に安堵に変わった。
スクーターの速度も徠斗の心情に合わせて、速度が緩まっていく。
「それにしても、よく気づきましたね?
それに止め方まで知ってるなんて……どうして知ってるんです?」
「え!? それは……えっと、まぁその……き、今日はほら!
先輩の相棒役だから! そういうのも調べてきたんだ!
まさか、ほんとーに盗聴器があるなんて思わなかったけどねー!」
心なしかしどろもどろになってる気がしたが、服装だけじゃ無く知識面も気合を入れたのだと、徠斗は解釈した。
というよりも、彼の中では彩子が盗聴器込みのプレゼントをしていたという事実がショッキング過ぎて、巴の発言の真偽を疑うどころではない。
「いやまぁ、色々知った後じゃあ、そういうことするかしないかで言えば、猛烈にする人だと思うけどさぁ。あー本当に美人が勿体ないなぁ、あの人!」
「……先輩、ずっとその朽梨さんのこと美人って言ってるよね?
そんなに好みの顔してるの?」
「えぇ? あぁ、まぁそうですねぇ。ハッキリ言って容姿は過去に出会ってきた女性の中で段違いですよ、あの人。だけどもうどうしようもないくらい中身が酷いです!」
「そっか……今までで一番……一番なんだ……。むぅっ……!」
「んんっ、朝倉さん、ちょっと腕締め付けすぎです、ちょっとお腹痛い……あの? 聞いてます?」
徠斗の腰に回っている巴の腕の力が、グイグイと強くなっていく。
脇腹が小さな悲鳴を上げているが、巴は構うどころか、より力を込めて冷淡な声で一言。
「先輩、安全運転に集中してね?」
「そ、そのためにこそ力緩めて……」
結局、まほらに到着するまで、巴の緩やかな締め付けは続くのだった。
結局、巴の腕がわずかに緩むものの終始力強く締め付けられたまま、まほらに着くまで緩められることはなかった。
「今日は無理言って同行させてくれてありがとう、先輩!」
「んーん、こっちこそ。居てくれて助かりました」
スクーターから降りて朗らかに笑う巴に、徠斗もにこやかに応える。
脇腹はじんわりと痛むが、可愛いバイトの後輩がした事と思えば、軽く受け流せる。
「ここからは電車? 良ければ家まで送りますけど」
「大丈夫! お気持ちだけ貰っておくね。それより先輩、これからはどうするの?
渚さんには、もう関わらないって言っちゃったけど、本当にもうノータッチ?」
「うーん……そこなんですよねぇ」
約束を反故にするのは簡単だ。さりとて、実際のところ徠斗がこれ以上能動的に、野々原と朽梨の関係に干渉できる要素は残っていない。
実は渚に懇願されるまでもなく、既に彼が関与できる余地は残っていなかった。
「あとはアイツラがどうするか次第です。助けを求められたら、その時また考えますよ」
「……ねぇ先輩。こんなこと聞いて良いのか、ちょっと迷うんだけど。
でもやっぱり気になっちゃうから、聞いちゃうね。
……野々原さんが好きな人って、誰だと思ってる?」
「……たぶん、俺とキミは同じ答えだよね」
「うん。ボクも先輩が思ってるのと、同じ人だと思う」
「ですよね」
今日の2時間足らずの滞在でも、充分なほど情報は満ちていた。
兄からもらったマフラーを季節問わず巻いて、積極的に尽くそうとする妹。
そんな妹の好意を満遍なく受けて、かつ、自分も妹を悲しませないように努めながら、その存在に救われている兄。
好きな相手を問われて、言えずに固まってしまう兄。
兄の恋愛事情を、自分事として受け止めている妹。
如何に鈍感な人間でも気づけてしまう程に、あからさまで分かりやすい。
そしてだからこそ、分かってしまった人間の頭を悩ませる。
野々原は──野々原兄妹は、お互いに想い合っていた。
それは、おおよそ、この現代社会において赦されない恋慕であり。
「……どうしてこう、めんどくさい恋の仕方ばっかりするんだろうなぁ。俺の周りって」
徠斗にとっても、勘弁願いたい展開であった。