徠斗たち大学生は長いと9月の上旬まで休みがあって最高ですよね。
大学は人生の夏休み だなんて昔の人はよく言ったものですわ。
日付も変わって月曜日の深夜2時、徠斗の部屋はまだ電気が点いたままだった。
部屋の中はキーボードの打鍵音が小さく、断続的に鳴り響いている。
休日を他人の恋愛事情に費やした代償というべきか。
徠斗は月曜日になっても就寝することなく、レポートと2週間後に迫るテスト期間に向けた勉強に励んでいた。
「ふわぁっ……、ねっむ」
先週出したが、教授に『過去の文献の書き写しになっていて、自論が入ってない』と言われてにべもなく突き返されたレポートとにらめっこして早2時間弱。
過去の論文を読み直し、自分の考えと照らし合わせ、既出の考え方や見え方と被らない内容を目指したが……。
「ダメだ……結局かわんねえよこれじゃ」
参考文献を増やし、視点を変え、内容に説得力を加えてみたが、最終的にたどり着く結論は、教授に突き返された時と似たりよったりのまま。
このままでは、教授にまた突き返される……しかし、曲がりなりにも時間を掛けて作成したものを、また1から書き直すのは気が滅入る。
時刻も丑三つ時真っ盛り。やらなければいけない勉強もまだ残っているため、これ以上レポートだけに時間を使うことは出来ない。
仕方がないので、徠斗はそれ以上追記や修正することは諦めて、ドキュメントファイルを閉じた。
教授が良しと言う可能性はごく僅かだが、それでもやれるだけの事はやったのだ。もしまた突き返されたら、そのときは具体的に何を直せばいいかしつこく聞いてしまおう。
一種の開き直りとも取れるが、眠気が集中力を阻害し始めた今の徠斗の理性は、そこを自覚するだけの余裕は持ち合わせていなかった。
「あー寝みぃ……でもあと少しだけ……」
眠気に苦心する徠斗の右手側にあるのは麦茶。このような場面で学生が選びがちな、カフェインを大量に含んだ甘い炭酸水は、この部屋には1本も用意されていない。
これは徠斗が大学受験の頃からモットーにしている、『カフェインに頼るのは甘え』という考えに基づくものだった。
受験勉強を始めたての頃、試しに飲んだら眠気がどうこうよりも甘すぎて殆ど飲まずに残してしまった事が理由だったが、とにかく、どんなに勉強中に眠気が強くなっていこうとも、カフェイン炭酸砂糖水で眠気をごまかすことだけは、現役合格後も避けている。
……ちなみに余談だが、安酒で酔う時に最も好きなのが『ストロングな9%』と『授かりし赤い翼』という、完璧なまでの『アルコールとカフェイン』の組み合わせだ。
なのでもし今、徠斗がカフェイン炭酸砂糖水を飲んだ場合に、パブロフの犬的な理由で猛烈に酒も飲みたくなる──という可能性は0ではない。
……それこそを恐れている、という可能性も0であるかは、分からない。
結局、徠斗が眠ったのは朝の4時。
カーテンの隙間から白くなってきた空が見えた瞬間、流石に眠気を我慢できなくなった。
ふらつく足でベッドまで向かい、そのまま倒れるようにうつ伏せで意識を放棄する。
死体のように身じろぎ1つしないまま、スマートフォンのアラームが鳴る9時までぐっすり眠った。
小中高生はもちろんの事、社会人であっても許されない就寝・起床時間に、徠斗は大学生であることの恩恵を全力で感じるのだった。
「──お、良いねえ。やっぱりまだ余裕で空いてる」
軽い食事とシャワーを済ませて、スクーターで大学に着くと、徠斗は早めに2限の『犯罪心理学』がある8号棟の大教室に入った。
がらんどうの教室を見渡してから、後ろから3列目の席を選ぶ。
席につくとおもむろにノートパソコンを開き、事前に教授が配布していたレジュメのPDFを開いて内容を確認し始めた。
全て理解するためにガッツリと読み込むのではなく、大まかに何が書かれてあるのかを見ていく程度。
それでも、1時間半の講義時間にみっちり内容を詰めたがる教授が用意したレジュメなだけはある。ページ数はもとより、1面に記入された文字が細かい上に長い。
流し読みだけでも、そこそこの時間を求められるレベルだった。
「どうせ全部読むわけじゃないのにな……欲張りすぎなんだよ小杉先生は」
プロジェクターに図や写真を映しながら、レジュメの大事な部分だけを読み上げるのが小杉教授の特徴。
どこが大事なのかは強調表示されていないので、学生は注意深く講義を聞く必要がある。
その上、どうやら先輩らの話を聞くと、講義中に読み飛ばした内容がテストに出たこともあるらしいので、たちが悪い。
選択必修科目の中で面白そうな講義名だった、と言う理由だけで履修を決めたが、時を履修選択期間に戻せたとしたら、間違いなく避けるだろう。
とかく、面倒くささに辟易しながらレジュメを読んでいる内に、同じ講義を受ける学生が続々と入ってきた。
またたく間に、徠斗の周りの空席は埋まっていく。
「早めに来てよかった……」
目線だけで辺りを見回して、ポツリと溢すひとりごと。
どの講義でも共通だが、老若男女問わず学生は、教授や講師から遠い席を好む生き物だ。
単身で講義を受ける人はもちろんのこと、友人らと一緒に受けている場合は尚のこと、教える相手の近くに座りたがらない。
しかし、如何に大教室での講義と言えども受ける学生の数が多ければ、望ましい席から埋まっていくばかり。
必然的に生じる席取り合戦に負けないため、徠斗は早めに席についていたのだった。
「あーはい、じゃあ時間になったので始めます」
小杉教授の言葉で講義が始まる。
今日の内容は『少年犯罪』だ。
過去30年に渡る少年犯罪の実例や、犯人の詳細な供述、家庭環境など、豊富な1次資料に裏付けされた講義になっている。
テスト対策が厄介という点に目を瞑れば、内容そのものは毎回非常に面白いのが救いだった。
教授の話から大事そうな箇所を注意深く聞き取り、ルーズリーフにペンを走らせている内に、あっという間に1時間半が経ち、2限終了と昼休みの到来を告げるチャイムが、構内に鳴り響く。
「あーはい、時間がきたからじゃあここまで。今日の内容は絶対テストに出すからね。資料全部読んどくように」
小杉教授のありがたい宣言と共に、学生達はわらわらと大教室を後にしていく。
入るときは誰よりも早かった徠斗だが、出るときは逆だ。
どうせ急いで出ようとしても、人数が多いと出入り口前で芋洗い状態になるのは明白。
学生達が急ぐのには、食堂の席取りに追われるからという理由も多い。一方で徠斗は、大学前のジャンクフード店で持ち帰って、適当な所で食べる予定だ。
昼休みの最初にできる行列も、15分程度で平時の並びに戻ることは把握済み。
ならば、人が少なくなってから悠々と出たほうが良い。
大して焦る必要がないのも、この余裕あふれる行動に寄与していた。
「……にしてもアイツ、本当にちゃんと朽梨さんに、話を切り出せんのかな」
人がはけるのを待つ間に徠斗が思うのは、やはり今日大学に来てるはずの、野々原と彩子のことだった。
昨日はちゃんと話をするという旨の発言をしていたが、それが本当に出来るのかは怪しいところだ。
必要なら付き添うと徠斗は言ったが、野々原から助けを求める連絡は今のところ来ていない。
来ていなければ自分から向かえば──と思うかもしれないが、徠斗はそこまで英雄気質ではない。
既に無視できないくらいには彼らの問題に深入りしているが、だからといって別れ話(厳密には全く異なるが)に自ら首を突っ込むような、藪蛇を突くどころか蛇の巣に身を投げるような真似は、最初からゴメンだった。
実のところ野々原の性格的にも、彩子を振るとしたって、徠斗を呼ぶとは考えにくい。
上手く別れられても、関係を押し切られても、最後にはまた『まほら』で酒を飲みながら愚痴を聞いて終わるのが、関の山に違いない。
夕方になったらRa:INでどうなったのか聞くのが一番適切だろう──そう結論づけて、そろそろ自分も教室を出ようと思い腰を上げた矢先。
「……ん?」
Ra:INの通話を告げる着信音が、徠斗のスマートフォンから鳴り出した。
もしや野々原だろうか、そう思って相手先を確認すると、意外な人物の名前が表示されている。
「丸瀬さん? ……あぁ、この前交換したっけ」
先週、押し切られる形で連絡先を交換したことを思い出した徠斗。
それ以降お互いに全くやり取りをしなかったため、このまま交換して終わりかと思っていたが、まさかいきなり文章ではなく通話を掛けてくるとは思うまい。
以前よりは幾分か薄らいだとは言え、未だに苦手意識がある相手の電話を受けるのは気が引けるものの、このまま出ないのは諸々協力してくれた相手に失礼だと思い、急いでワイヤレスイヤホンを準備して電話に出た。
「はい、度会です。何かありました──」
『度会くん!? 大変だよ、あの2人が──』
繋がって早々、非常に珍しい丸瀬の本気で焦った声が、つんざくように徠斗の耳朶を震わせる。
その声を聞くだけで、嫌な予感……いや、確信が徠斗の胸をよぎる。
『──野々原くんと朽梨さんが、この世の終わりみたいな喧嘩しちゃってるの! 早く止めに来て!』
考えうる中で、もっとも望ましくない展開が訪れてしまった。
しかし不思議なことに、それでありながらもどこか深い納得とでもいうべきか。『そりゃそうなりますよな』という気持ちもまた、徠斗の胸中にはあるのだった。
「……まいったなぁ」
ここしばらく、口にすることを忘れていた口癖が、思い出したかのように口をついた。
「あ、度会くん! こっちこっち!」
「丸瀬さん、状況──うわぁ……」
急いで丸瀬が言った場所──食堂の2階に向かうと、既に人だかりが出来ていた。
どうやら事態は、徠斗が思っているよりも大事になっているらしい。
群衆が視線やスマホを向けている先には当然、野々原と朽梨の2人がいる。
ただ居るだけじゃない。
床に倒れた野々原に彩子が馬乗りになっており、その右手には箸が握られていた。
どう見ても惨劇手前の絵面。
騒ぎになるのも当然だ、構図がマズいにも程がある。
ここまで衆目に晒されている状況で呼ばれても、一体全体どうしろというのか。
「丸瀬さんどうしよう、知らんふりして帰りたい」
「そんな事言わないで。私だけじゃ無理だから呼んだんだから」
「あ、任せっきりにするつもりじゃないんすね」
「もちろーん! お酒奢るから、手伝って?」
「承知」
さすが丸瀬莉乃。徠斗を乗せる言葉が分かっている。
他人から貰う酒ほど美味いものはない。女子から奢って貰うならなおのこと。
ましてや、丸瀬のような容姿の優れた女子に奢ってもらう酒ならば、どんな安酒だろうと、フォアローゼズのプラチナにも勝る。
知らんぷりしない動機はできた。残る問題は、どのようにしてあの場に介入するかだ。
呑気に『どうしたの〜』と割り込むのは論外として、大急ぎで彩子を止めようとしても、興奮した彩子が徠斗や丸瀬に危害を加える可能性は捨てきれない。
何より、スマホを向けている学生が数人いるのが厄介だ。
下手な対応で騒ぎを大きくすれば、その醜態がSNSに撒かれるリスクがある。考えようによっては、今止めるべきなのはむしろ撮影者たちの方だ。
しかし撮影者は見えている限り、全員女子。無理やりスマホを取り上げようものなら別の問題を生みかねない。
「丸瀬さん、すまないけど撮ってる人の方をどうにかできません?
野々原が怪我するよりも、後で動画とかバラまかれる方が怖いので」
適材適所……となるかは分からないが、徠斗よりも同性の丸瀬に任せるべきだと判断した故の無茶振りだったが。
「え、ううん全然いいよ? っていうか本当に撮ってる人いたね……そっちは任せて」
あっけらかん。というよりも『そんな簡単なことで良いのか』という温度感で快諾するのだった。
「ありがたいです。じゃあ後はどう止めるかだけど──っ!」
徠斗にとって面倒だった仕事を引き受けてくれた事で、本格的に彩子の対処を考えようとした矢先に、事態が動く。
喧騒で聞こえないが何かしらの会話を挟んでから、彩子が箸を両手に握り直して、ゆっくりと振りかぶり始めたのだ。
何をしようとしているのか、数秒後に何が起きるのか、考えるまでもなく明白な未来を前に、これ以上だらだらと考える暇など与えられていない。
「ストーップ! 朽梨さん、ダメだー!」
もはや周囲の目など構っていられない。
背負っていたカバンを右手に持ち変えながら一目散に駆け寄り、覆いかぶさるように野々原の上に飛び込んだ。
身動きできない野々原は顔面を徠斗の背中に押しつぶされる形になり、音の出るオモチャのようなうめき声を上げた。一方で彩子も乱入者に驚くが、既に振り下ろした腕は止まらない。
彩子の両手に握られた箸はまっすぐ徠斗に向かっていく。
このままでは刺される対象が野々原から徠斗に切り替わるだけだが、そこで徠斗はすかさずカバンを盾のように構えた。
「──ぐぅっ!」
「ぐぇぇ……!」
ガツン、という衝撃がカバン越しに徠斗(と下敷きになっている野々原)を襲う。
大きめのハンマーで叩かれたのかと錯覚させたが、それはおおよそ間違っていない。
何故なら、後ほど分かったことだが、このとき彩子の箸は徠斗のカバンの生地を貫通しただけでなく、中に入っていた教科書やルーズリーフの束をも、刺し貫いていたのだから。
あわやノートPCも貫かれそうだったが、分厚い教科書がギリギリのところで止めてくれていた。
教育のデジタル化が進む昨今、アナログな教材にこだわりを持つ教員が居て良かったと、徠斗は心から思ったのであった。
閑話休題。
「……度会、さん」
振り下ろした後の姿勢はそのまま、額から汗を流しながら、若干冷静さを取り戻した声で彩子が言った。
「……何を、しているんですか?」
「いやこっちのセリフだからな!?」
普段女子に丁寧語の徠斗も、この時ばかりは流石に声を荒げてしまうのだった。
「あの、邪魔しないでくれますか……私は彼と話してるので」
「自分の行動が”会話”の範疇に収まってると本気で思ってらっしゃる?」
だとしたら重篤だから病院に行ったほうが良い──そこまで言いたいのをグッと堪えて、徠斗は彩子の冷静さが雲散霧消する前に言葉を続けた。
「何がどうしてこんな危ないことしてるのか……は、正直察しが付きますけどね。
幾ら何でもこんな場所で事を起こさなくたって良いでしょう」
「……やっぱり、そうなんですね」
「はい?」
彩子の瞳からまた冷静さが失われていく。
額から垂れた汗が滴り落ちて、徠斗の頬をぴしゃっと濡らした。
「やっぱり昨日、あなたが彼に余計な事を言ったんですね? そうですよね? だから私と別れようなんて……恋人でも何でもないなんて……そんな、そんなありえないことを口走ったんだ……」
口調こそ平静を装ってこそいるが、声には誰が聞いても明らかなほどの怒りを孕んでいる。
握っている箸からはミシミシと、本来女子の握力では出ないはずの音が鳴り出した。
このままでは、自分の身も危うくなる──直感で理解した徠斗は、怒りに染まりかけている彩子の思考に冷や水を掛ける言葉を瞬時に考え、口にした。
「──やっぱり、あのぬいぐるみに盗聴器仕掛けてたの、朽梨さんだったのか」
「……っ!」
彩子の大きな瞳が僅かに揺れたのを、徠斗は見逃さなかった。
どうやら焼け石に水とはならなかったらしい。真正面で浴びていた怒気が、またたく間に薄れていくのが分かった。
大衆の前で暴力的な痴話喧嘩をするのは躊躇わないが、盗聴行為を指摘されるのは困るらしい。
どういう良心の線引きがされているのか気になるところだが、今はそこに関心を向けている場合ではない。
彩子の現状は、あくまでも一瞬の動揺に過ぎない。徠斗は掴んだイニシアチブを手放さないためにも、言葉を畳み掛けた。
「どうでしょう、この際だから俺達を見てるヤジウマ連中に教えましょうか。
朽梨さんは好きな男の部屋に盗聴器を仕掛けてるヤバい女だって」
「……やめなさい」
「証拠の品だってすぐに用意できるし、警察にも知れたら普通に前科付きますよね?
そんな人間が、野々原の彼女だのお嫁さんだのに、なれると思います?」
「よくも、そんな酷い脅迫ができますね……そんな人だったなんて思いませんでした……!」
それはこっちのセリフだと心の中で言い返しながら、徠斗はこの後どのように話を持っていくべきかを考える。
既に考えていたが、この状況なので更にもっと考える。
まず、状況や彩子の発言から察するに、野々原が彩子に対してノーを突きつけたのは間違いない。
つまり野々原には、彩子が強制する恋人関係を続ける気はないということだ。
この事実を前提に、解決手段を見出さなければいけない。
もっとも望ましかった、当人間による解決は無理だった。
ならば、第三者が割って入って話をまとめるしかないのだが。
その面倒極まりない役割を担えるのが、徠斗しか居ないというのが問題だ。
(そりゃあ、もうここまで来たら俺がやるしかないけどさぁ……)
幾ら適任だからといって、この流れのまま大学でお奉行様になる気はない。
それに、ここまで拗れ、捻れてしまった問題を解決するには、もう一人足りない。
野々原渚──事態を複雑化させた一因でもある彼女も、同じ場所に居てもらうべきだろう。
(そうなると場を用意する必要が……となれば、やっぱ彼処しかないか)
不安は残る──というよりも不安しかないが、徠斗の中でこの後の立ち回り方に見当がついた。
彩子との対話に意識を向き直し、徠斗はひとつの提案──という形の脅迫をかける。
「これ以上、ここで騒ぎを大きくすべきではないのは、朽梨さんも分かってるはず。ですよね?」
「だったら……どうしろと?」
「今のあなたは冷静じゃない。それはきっと野々原もだと思うので、一度落ち着きましょう。俺が時間と場所を用意します。
余計なヤジウマも、邪魔者も居ない場所で、改めて冷静に、お互いの主張と要望をぶつけ合ってください。……どうです、乗りますか?」
「……………………」
苦々しい表情で徠斗を見下ろし睨む彩子。
腹立たしいが、彼の”提案”を拒否するリスクも充分に分かっていた。
今後、真っ当に幸福な家庭を野々原と築くにあたり、盗行為をした事実を周囲に流布されるのは、社会的な立場を考えて望ましくない。
ならば、今の彩子が出せる答えは、一つしか無かった。
「……わかりました。後で時間と場所を、教えてください」
吐き捨てるようにそう言ってから、馬乗りのような体勢からスクリと立ち上がる。
そのまま、徠斗を視線に入れないまま、付近に落ちていた自分のカバンを手に取ると、足早に去っていった。
「……ふぅ」
遠くなっていく彩子の背中を見送って、ようやく徠斗は脱力のため息を吐いた。
……はずだったが。
「ん? うっわ……」
彩子が立っていた場所に落ちてあった物を視認して、再度冷や汗と悪寒が彼を襲う。
徠斗が見つけたもの、それは先程まで彩子が凶器にしていた食堂の箸だったモノ。
割り箸のように壊れやすい素材ではない、ごく普通の箸は、彩子が握っていた部分だけ粉々のバラバラに砕け散っていた。
「んむっ……むむむぅ〜! そろそろ、どいてほしい……!」
「あ、ごめんごめん」
野々原を押しつぶしたままだったことを思い出し、徠斗も慌てて立ち上がる。
「ぷはぁ……助かった……」
圧迫感から解放されたことについてか、あるいは彩子が離れていったことか。
恐らくは両方の意味で助かった野々原は、ゆっくりと上半身だけ起き上がると、後頭部や背中についた埃を手で払っていく。
「ごめんな……その、俺も、頑張ってなんとかしようと思ったんだけど」
「しゃあないって。相手が悪かった。……ほら、いつまでも床に寝てんな、ホームレスじゃないんだから」
言いながら徠斗が伸ばした手を掴むと、野々原はまたゆっくりとした動きで起き上がる。
照れくささと恥ずかしさ、それと申し訳なさがないまぜになった感情が野々原を包み、顔にも現れた。それをごまかすように右手の人差し指で頬をかきながら、辺りを見渡して言った。
「いやぁ、まさかこんな騒ぎになるなんて。みんなに見られちゃっ……ってあれ、誰もいない……?」
周囲を見渡して、ポカンとした顔になる野々原。
誰も居ないわけが無い、周囲に人だかりができていたのだから。そう思い背後を振り返った徠斗だが。
「……ほんとだ、全然いねえ」
厳密に言えば、全く誰もいないわけではない。
テーブル席で談笑する学生や、カウンター席で黙々と食事する学生など、ごく当たり前の景色が広がっている。
徠斗がこの場に来たときできていたヤジウマが、完全になくなっていたのだ。
徠斗達を見て面白そうに眺める者も、スマホを向けて撮影している者も、誰一人としていない。
「おーい2人ともー、こっちこっち~」
丸瀬だけが、いつのまにかテーブル席に腰掛けて、徠斗たちに手を振っている。
まるで狐に化かされている様な気分だと、徠斗は思った。
表現こそ違うが、同じことは野々原も考えているようで、首を傾げている。
徠斗が飛び込んでから彩子が去っていくまでの少しの間に、どういうわけか、ヤジウマ達は急速に関心を失って解散したということになるが。
「あんなに居たヤジウマが一気に消えるなんて、ありえないよな?」
「魔法でも使ったみたいに、見事にいなくなってるね」
魔法という野々原の例えに、いい得て妙だと納得してしまう。
「……とりあえず、丸瀬さんとこ行くか」
「だね。俺もいい加減、床じゃなくて椅子に座りたいよ」
こうなってしまえば仕方ない。
お互いの意見が一致した2人は、素直に丸瀬が呼んでいるテーブル席に向かった。
「お疲れ様、度会くん。野々原くんも大変だったね」
「ういー。度会呼んでくれてありがとね、助かったよマジで」
「あのヤジウマ達どうしたんです? もしかして丸瀬さんが追っ払った?」
「まさか。私にそんなことできるわけ無いよー。流石に箸で刺そうとしたの見て、みんなビビったんじゃないかな。
対岸の火事だから楽しめるけど、火の手が自分にも回ってくるかもって思ったら、怖くなって逃げちゃうもんでしょう?」
「まぁ、確かにそれは言えてるか……」
丸瀬の話すことは正しく聞こえるが、それにしてはさっき、周囲からパニックや悲鳴の声が聞こえなかったのは不思議だ。
他の座席で食事してる学生達が全く徠斗達を意に介さず、最初から何も無かったかのように振る舞っていることにも、拭いきれない違和感を覚える。
とは言え、だ。
丸瀬が何かしらの圧力ないしカリスマ性を発揮して、周囲の全員を黙らせたと考える方がだいぶ無理のある話。
ここは変に勘ぐるよりも、騒ぎが沈静化したことを素直に喜んでおく方が正しいのだと、徠斗は納得させるように自分に言い聞かせるのだった。
「ちなみに、盗撮してた奴は──」
「安心して。撮ってた子にはキツ〜く『消して?』って頼んだから。
ちゃんと消す完全に削除された所まで全員の確認済みだよ」
「……ありがとうございます、それなら大丈夫ですね」
「そう、大丈夫大丈夫!」
それが分かれば、ヤジウマが消えた理由はどうでも良い。
ようやくホッと安堵の息を吐いてから、遅ればせながら主張してきた空腹感に気づいた。
今後の立ち回りや、野々原にやってもらいたいことなどを話す必要もあるが、まずは空っぽになった胃袋に食べ物を詰め込むことを優先すべきだろう。
本来ならば外のジャンクフード店に行く予定だったが、今から食堂を出て持ち帰ってくるのと、ある程度時間が経って列もまばらになった食堂内で買うのとで、どちらが早いのかなど、考えるまでも無い。
「ちょっとご飯買ってきます。動いたからお腹へったんで」
「だよね。私は待ってるから、行ってらっしゃい。野々原くんは行かなくていいの?」
「渚……妹が作ってくれた弁当があるから大丈夫。度会、今日は月曜だから味噌カツ丼定食がオススメだよ」
「味噌カツ……食べたことない。上手いのか? というか合うのか、味噌とカツ」
「合うし、美味いよ。信じて」
「ふーん。ソースカツ丼なら好物だけど……まぁせっかくだし頼んでみるか」
友人が教えてくれたオススメを蔑ろにする理由も無い。
未知の味に盛大な不安と僅かな期待を胸に、徠斗は小走りで一階に向かった。
騒動の影響もあって他の学生らよりも少し遅れての昼食。
徠斗は味噌カツ丼定食を、野々原は渚お手製弁当を、そして丸瀬は自炊したライスペーパーチキンロールをそれぞれ食べた。
彩子に突き飛ばされた際にリュックサックも床に落としたので、弁当の中身がグチャグチャになったと小さく嘆く野々原を、徠斗と丸瀬がそこはかとなく慰めながら、それぞれのご飯に舌鼓を打つ。
普通なら談笑を交えてご飯を食べたいところだが、この3人の組み合わせでお昼ご飯を食べることは今まで無かったことに加えて、やはり先程のバイオレンスな出来事の直後というのもあるだろう。
会話に華を咲かせて、親睦を深めるという気にはならず、3人は周囲の学生らの楽しげな会話をバックミュージックにして、黙々と箸や手を動かすばかりだった。
量の問題で丸瀬、徠斗、野々原の順に食べ終えて、徠斗が食器とトレーを返却し終えると、ようやく3人の中に会話の空気が流れ出した。
「それで、改めて聞くけど、野々原。彩子さんと何があった?
察しはつくが念のために言ってみろ」
「…………えっと」
野々原は素直に答えず、チラリと丸瀬の方を見た。
徠斗だけならまだしも、あまり交友の無い丸瀬にも痴情のもつれを打ち明けるのに躊躇いが見える。
「気にするなよ、丸瀬さんはもうだいたい知ってるから、お前の事情」
「えっ、あっ、話したの!?」
「全部じゃないけどな。少なくとも朽梨さんとお前が複雑な関係になってることは把握済みだ」
「ごめんね。私の方から聞いたんだ。度会くんが言いふらしたとかじゃないよ」
「いや……どっちにしろ、さっき喧嘩みたら分かっちゃうよね。
だったらまぁうん、話してもいいか」
納得しつつも、少しだけ気まずそうに指で頬をかきながら、野々原は答えた。
「彩子に、付き合うつもりは無いって言った。……君と結婚する気も無いって」
「ずいぶん直球でいったな。しかもドが付くほどの」
予想的中。
などと言ってもこれは彩子の言動から、それ以外にありえない話だった。
競馬で倍率1.1の馬券を買うような物で、何も驚くようなことでは無い。
強いて言えば、昨日の優柔不断気味だった野々原にしては思ったよりもずっと、強い口調で彩子の気持ちを拒絶していたことは、意外だったかもしれないが。
「そしたら、朽梨さんがキレてお前を突き飛ばして……さっきの状態になったと」
「うん……凄かった。俺の言い方が悪かったのもあるけど、全く話聞かないし、一方的に色々話すし……」
「……ん?」
話を聞いている内に、徠斗はテーブルが小刻みに揺れていることに気づく。
揺れの原因は地震ではなく、テーブルの上に乗っている野々原の手だった。
「……野々原、手。震えてる」
「あっ……あはは、ごめんごめん」
ごまかすように笑って、野々原は手をテーブルの下に引っ込めた。
恐らくは話をしている内に、彩子から受けた圧と恐怖を思い出したのだろう。
無理もない。別れ話(ではないのだが)をしたら床に打ち付けられた上に、マウントを取られた挙句、箸で刺される寸前にまで追い込まれたのだ。
彩子の恋慕を拒絶するうえで、避けられない衝突だったにしても、あそこまで直接的な暴力を受けるとは思わなかっただろう。
「俺、前に渚から『たまに空気読めない』って言われたことあったけど……今回はまさにそのパターンだったなって」
「さっきも言ったけど、あんまりにも結論から言いすぎたな。相手は問答無用で婚姻関係まで既成事実化してくる人だったのに」
「うん。野々原くんは悪くないけど、アプローチはもう少し考えるべきだったよ」
「問題を解決したい! って気持ちが全面に出過ぎちゃった……反省してるよ。
2人にも迷惑を掛けて……特に度会、教科書とかカバン……ホントごめん」
「あー……まぁ気にすんな」
教科書はともかく、カバンは大学入学を記念に、父親がプレゼントしてくれた革製の高価な物で、徠斗にとってもお気に入りだった。
穴の部分だけ修理を頼むか、自分で直すか、あるいは新しい物を買う他に無いだろう。
悲しいが、あの状況では仕方ない。咄嗟の判断としてはアレ以外に刃傷沙汰を避ける方法は無かったのだから。
「というより、箸でカバンと教科書を貫通させるあの人がおかしいんだよ。どうなってんの君の幼馴染さんの膂力。正体はカバとかゾウだったりしない?」
「…………例えは最悪だけど、今の度会くんにはそれを言う権利があるね」
そもそもの話、徠斗にとって彩子の怪力は想定外もいいところだった。
第一印象のときに抱いた幻想的な儚さは、流石にここ数日の出来事で無くなっていたが、まさかあの細い腕で男性並み──どころか下手な男性よりずっと力強いだなんて、誰が予想できるだろうか。
「野々原、朽梨さんって昔からあんな力持ちだったのか?」
「いや……そんなことは無かったはず……でも『思うようにいかないとりきむクセがある』って話したことはあった」
「りきむってレベルじゃなかったぞ。漫画やアニメの女の子みたいだった」
「箸を凶器にできるくらいの身体能力って言うと、本当にフィクションみたいだね」
実際に、常人には持ち得ない高い知能や能力を生まれながらにして持ち合わせている人間というのは存在する。
その様な先天的に特異な才能を持つ者を、多くの場合『ギフテッド』と呼ぶ。
彩子は今まで発揮したことが無かっただけで、身体能力のギフテッドだった可能性はある。
というより、実際に徠斗が体感した情報だけで充分、断言してもいいくらいだ。
「そうなると、面倒だなぁ……気に入らない意見は暴力で黙らせるのも可能なのか」
「さ、流石にそこまでは彩子だって」
「野々原くん、さっき君がされたのがまさにそういうことだったんでしょ?」
「……するかぁ。彩子は」
今後に及んで彩子を庇おうとするお人好しな部分は好ましいが、このような危機感の軽薄さが、先程の惨劇手前な事態を引き起こしてしまったのだと、野々原は理解する必要がある。
もっとも、今そのことについて説教をするのは時間も手間ももったいないので、徠斗も丸瀬も揃って敢えて言及しない。
「それで度会くん、彼女の身体的特性が問題の一つになるのは前提として、今日はこの後どうするつもりなの?
時間と場所を変えて改めて話し合いの場を設ける〜的なこと言ってなかった?」
「はい。そう言ったし、そのつもりです」
「話し合い……今の彩子が応じてくれるかな。場所は何処?」
「お前も聞いてただ──いや、下敷きになってそれどころじゃなかったかすまない。
一方的な提案を無理やり呑ませたんだよ。場所は『まほら』にしようと思う。まだ店長には言ってないけど」
「バイト先か。何時に行けばいいかな?」
「そこは流石に店長に相談してからだな。この後Ra:INで聞いてみるよ。あの人昼夜逆転した生活してるから、もう少ししないと起きていないだろうし」
「分かったらすぐ教えてくれ。……というか、なんか、本当にごめんよ。ここまで力になってもらっちゃって」
「今更だろ。今度酒1箱奢れよ」
「……酒で良いのか」
「度会くんらしいね。あーでも、それでまた二日酔いして講義サボるってのはダメだよ?」
「その時はまた丸瀬さんの力を借りますよ」
「良いけど……そのときは私も度会くんにナニカしてもらおうっと」
「……合法的な内容だけでお願いします」
「いや思ったより私のイメージ悪いなっ!?」
「はははは、丸瀬さん。コイツは基本女子に対してはいつもそうです」
「野々原、誤解されるようなことを言うな」
「え、じゃあ私だけ特別に印象悪いってこと?」
「いや、そうじゃなくてですね……あぁもう野々原! 恩を仇で返しやがって!」
「あはははー! ごめんね!」
嵐の後の──いや、嵐の前のと言うべきであろうか。
さながら、高難易度クエストに挑む前の勇者パーティーのように、3人はようやく若干だが打ち解けた会話を広げるのであった。