俳優として生きる烏麻亜蝶と、研究者として生きる氷薙ルイ。
アイドルにならなかった彼らがどう出会い、関わっていくのかをテーマに考えた、原作とは一切関係のないIFストーリーです。

※捏造・独自設定多めとなります。
※本編・設定資料集にしか載っていない情報のネタバレ有ります。

※恋愛要素はありません。
※櫻井鬨は登場しません。

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The time that my journey takes is long and the way of it long

Prologue

 

 

 

 

 生まれてからずっと、俺という箱の中身は、空だった。

 無気力で、無関心で、無感動。

 だが理由は特にない。ごく平凡な家庭に恵まれ、平凡な日々を過ごし、育った。

 誰もが眉をひそめる凄惨な過去も、目を覆う悲惨な家庭環境も持たない。ただ生来、そういう生き物だっただけだ。

 

 折に触れ、周囲は情動の乏しい俺を心配したが、しかし、特に困ったこともなかった。

 例えて言うなら、俺は野草のようなものだ。波立つことのない静謐な湖畔の縁に、ただ、佇んでいる。

 生き抜こうという鋭い信念で、そこに根を下ろしてはいない。死のうという強い決意をもって、朽ちるわけでもない。

 

 そうして、ただ生き、ただ死ぬ。それだけのことだ。

 そう思っていた。あの日までは。

 

 

 ——亜蝶の、あの、うつくしい姿を見るまでは。

 

 

                        「Project Archive L2-12」より引用

 

 

 

I know not what this is that stirs in me⁠—I know not its meaning 

 

 『今日の関東地方は、午後から局地的に激しい雨に見舞われそうですね』

 カーラジオのニュースが耳に入って、ルイはふと窓の外を見やった。

 時刻は正午過ぎ。空一面を鈍色の雲が覆っている。とはいえまだ外は明るく、今にも降り出しそうな雰囲気ではないが——。

 『大気の状態が非常に不安定な状態です。関東甲信、内陸、山沿いを中心に激しい雷雨にご注意ください』

 隣に座って本をめくっていた高崎教授が顔を上げた。

 「氷薙君は傘持ってきた?」

 「はい」

 「そう。今日は外での撮影もある。ちょうど雨天でのシーンだそうだけど、あまり酷いと中止になるかも」

 「了解です」

 短く返事をして、彼は手元のファイルに目を落とした。表紙をめくれば、取材対象である映画「来航――忘れられた神の帰還:最終決戦」の詳細な資料が記載されている。

 (テーマは宝船と七福神の来訪。だが齎すのは福ではなく七つの災い、か)

 現代を生きる陰陽師を主人公としたフィクション映画だ。最近人気の怪異小説家の作品を映画化したもので、資料を読んだ限り、かなり緻密に構想が練られていた。かといって冗長さや分かりにくさもなく、見ごたえのあるものになるだろうと想像できる。

 「氷薙君」

 再び教授に声をかけられた。

 「はい」

 「この映画。面白そうだと思う?」

 「それは……」

 少し迷ってから、かれは答えた。

 「聞く相手を間違えていると思います」

 「私は、そうは思わないよ」

 穏やかに、教授は微笑んだ。

 「俺は今まで一度も、そういう感情を持ったことはありません」

 「でも、一生そのままかどうかはわからないからね」

 「……」

 車が止まり、わずかに車内が揺れる。

 シートベルトを外して、教授はドアを開けた。

 「行こう。監督が、貴重な時間を空けておいてくれているからね」

 教授に倣って外に出る。

 吹き込んだ風は、湿った匂いがした。

 

 

 鋸山の中腹に位置する元名深教寺は、普段の閑静さと打って変わって忙しなく人が動いていた。

 資料によると、主人公は災いを起こす七神のうち六神を倒し、最後に宝船に残った恵比寿神との戦いを控えている。ここでは戦勝祈願の舞のシーンが撮影されるらしい。

 映画のクライマックスの舞台となる東京湾岸を一望できる展望台からは少し外れた位置にあるが、ここも木々が手入れされているからか眺めはさほど悪くない。ただ、今日の天候ではそれも意味をなさないだろう。

 「山本監督。お久しぶりです」

 「高崎先生。お待ちしていました」

 現場に入った彼らは、青いジャケット姿の壮年の男性に迎えられた。山本俊樹監督——前作手掛けたサイコホラー映画「魔女のいない審判」で大きな成功を収めた若手監督だ。

 「お忙しい中お迎えいただき、ありがとうございます」

 「いやいや、とんでもない。先生にお会いできるのを楽しみにしていました。そちらは……以前お話しされていた学生さんですか」

 豊かな感情をのぞかせる目を向けられて、ルイは頭を下げた。

 「氷薙ルイです。弘徳大学の心理学部博士課程で、映像演出と心理表現を専門に研究しています。本日はお世話になります」

 「氷薙さん。有望そうな学生さんだ」

 彼が笑うと、目尻に細かく皺が刻まれた。

 「君の研究にこの作品を選んでもらえて光栄です。完成したらぜひ読ませてください」

 「恐縮です」

 「じゃあお二人とも早速、こっちに来てください」

 途中でスタッフとやり取りをしながら、泳ぐように人の間を縫って歩く監督の後を追う。監督が立ち止まったのは、カメラマンが目の前に見えるほど現場に近い場所だった。

 

 ぽっかりと空いた場所に、黒の装束を纏った青年が立っていた。

 ぬばたまの髪を撫でつけたヘアメイク担当のスタッフが、監督に頷いてすっと退く。

 「本番、回します。五秒前——」

 一瞬で周りの音が全て消え、鋭く空気が張り詰めたのが分かった。

 「四、三、二、一」

 

 「スタート」

 

 決して大きい声ではなかったが、無音の空間に響き渡り——その瞬間、滑るように青年が動き出した。

 

 長い袖が優美に広がり、宙を舞った。

 鮮やかな深紅の露先が薄闇に軌跡を描いて、見る者の視線を奪う。

 漆黒のたなびく衣は繊細な鱗翅にも似て、羽ばたく蝶をどうしてか連想させた。

 

 徐々に早くなる拍子に合わせ、縦横無尽に閃く扇は、まるで刃のようだった。

 流麗なターン。最後のステップは、一瞬のぶれもなく中央に刻まれる。

 鮮やかな手つきで印を結んだ彼の、燭台の灯を映した黒瞳が、鋭く空を射抜いた瞬間。

 

 生まれてこのかた乱れたことのない鼓動が、初めて跳ねた。

 

 (あれが……)

 資料にあった名前を、ふと思い出した。

 

 烏麻亜蝶。

 

 この映画の主演を務める、俳優の名だった。

 

 

 「はい、カット。オーケー!」

 監督の声に、亜蝶は詰めていた息を吐いた。

 この「オーケー」には「満足」の感情がこもっている。

 ——だったらひとまずは、及第点か。

 毛穴が開き、汗が噴き出る。首を軽く振って熱気を飛ばした。今日は湿度が高いうえに、寺では熱が籠りやすい。

 「お疲れ様です!飲み物どうぞ」

 「ありがとうございます」

 額に浮いた汗を拭った。乱れる呼吸を整えて、ベースで待つ監督に歩み寄る。

 「お疲れ様です。烏麻さんは、本当に舞台映えしますねえ。すごくよかったです」

 「光栄です。映像を確認したいのですが」

 「もちろん。こちらへ」

 モニターの前に案内される。映像を再生しながら、監督が続けた。

 「他のスタッフさんたちにはすでに伝えてるけど、映像が問題なければ皆さんにこれから一時間休憩に入ってもらいます。その間、僕は今後のシーンの演出について高崎先生と相談しますが、結論によっては多少動きを変えてもらうかもしれません」

 「わかりました」

 高崎慎氏——何度か現場に出入りしている、柔和な男性の顔を思い起こす。

 名門大学である弘徳大学の心理学科で、創造性や感性と心理学の研究を専門的に行っている研究者だと聞いている。以前指摘を受ける機会があったが、どれも論理的かつ的確で、意見を聞く機会はなるべく持っておきたかった。

 「……あの、監督」

 「うん?」

 「もし……」

 時間があれば——言いかけて、彼は口を噤んだ。

 「……いえ、なんでもありません」

 首を振った亜蝶に不思議そうな顔をしながらも、監督はそれ以上踏み込みはしなかった。

 舞う自分の姿を観察する。照明、構図、振りの精度——申し分ない。前回カメラワークを指摘した部分も修正されていた。

 「問題ありません」

 「よかった。じゃあ休憩に入ってください。撮影もほとんど終わりまで来てますから、もう少しの間、よろしくお願いします」

 そう残して背を向ける監督を、羨望を込めて亜蝶は見送った。

 本当は彼も、高崎教授に話を聞きたい。だが、時間の都合上不可能に違いなかった。

 (無駄なことに時間を費やす暇はない。俺はもっと……)

 「……ん?」

 視界の端に見慣れない人影を見て、彼は首を巡らせた。

 量産品らしいシャツとスラックス。それ自体は珍しくもなんともないが、平均よりずいぶん背の高い男だった。ほどよく筋肉のついた長い手足。日焼けなのか地の色なのか、やや濃い色の肌もあいまって、外国人のようにも見える。

 かなり目立つ見た目のはずなのに——不思議と存在感が薄い。今になるまで気づかなかった。

 「すみません、彼は?」

 失礼に見えない程度に彼を手で示す。そちらに顔を向けた衣装スタッフが、ああ、と声を上げた。

 「あの人は……心理学の先生の生徒さんだそうです。見学しに来たみたいで」

 「高崎教授の?」

 意外だ。

 「モデルさんみたいな方ですよね。すらっと背が高くて」

 内心をはからずも代弁してくれたスタッフに内心で同意しつつ、亜蝶はもう一度彼を眺めた。周りのスタッフより頭ひとつぶん以上抜きんでた身長。高い頬骨と涼しげな目元が日本人離れした面差しを際立たせている。だが分厚い紙束に時折目を落としながらVFXディレクターやカメラマンと話す姿はなるほど理知的で、学者らしくも見えた。

 「……だったら」

 高崎教授と話す機会はないだろうが、あの彼なら——。

 (教授ほどの深い視点は期待できない。……が、多少は収穫があるかもしれない)

 その期待が外れないことを、願うばかりだ。

 

 

 「質問は以上です。お忙しい中、お時間を割いていただき、ありがとうございます」

 「こちらこそ、面白い視点の話が聞けてよかったよ」

 「論文大変でしょうけど、頑張ってくださいね」

 にこやかに返しつつ足早に去っていくスタッフを、頭を下げて見送ってから、ルイは柱に軽く寄りかかった。走り書きのメモを読み返そうと胸ポケットに手を入れたとき、視界の隅をひらめいた黒に、自然と目が吸い寄せられる。

 「烏麻、亜蝶」

 隙のない眼差しと、あの灯を宿した瞳が重なって——知らず、その名前が零れていた。

 「ご存知いただいていたとは、光栄です」

 おのれよりわずかに低い位置にある顔を、ルイは見下ろした。目が合った途端に整った眉がぴくりとしかめられ、しかしすぐに笑みで上書きされる。

 「はじめまして。お名前をお聞きしても?」

 「氷薙ルイ」

 「……氷薙さんは、どうしてここへ?」

 「高崎先生が——」

 言いかけて、少し悩んだ。どこまで説明したものか。

 「——私の研究論文の指導教官が監督の知己で、何度か映画の演出に関わってきた縁で、この映画をテーマの一つとして取り上げることになりました。現場に来たのは、その一環です」

 「研究?」

 「私は弘徳大学大学院の心理学部博士課程に在籍しています。そこで、映像演出と心理について研究を」

 「——……なるほど」

 顎に指を添え、青年は一瞬何かを考えるように目を伏せる。

 ゆっくりと開いた双眸が、つとルイの手にあった資料に向いた。

 「……それは、この映画の?」

 開きっぱなしになっていた紙面には、ちょうど先ほど亜蝶が演じていたシーンの設定が書かれていた。取材した際に書き込んだメモで余白が埋まり、何度もめくったせいで端がよれている。

 素早く文字を追っていた視線が上がり、ルイをとらえた。

 「失礼。つい目に入ってしまいました」

 「ああ……いえ、お構いなく」

 「ずいぶん、読みこんでいらっしゃるんですね」

 「『ひとつひとつのカットに表現者の魂が込められている』。以前そう教えられました」

 監督、演者、スタッフ。全員のこだわりや意図は細部に行きわたっている。それを見逃してはならない——高崎教授が常々言っていることだった。

 「至言ですね」

 目を細める青年から、ルイは持っている資料に視線を移した。

 (俺には、これがなければ何もわからない)

 映画を通して訴えたいことも、表したいことも、何ひとつ。

 (だからこそ、きっと俺は……)

 

 ——その魂の形を、ずっと追い求めている。

 

 

 ひときわ大きく雨音が響いて、亜蝶が顔を上げた。

 「次は、港での決戦を撮影します」

 東京湾に辿り着いた宝船は、最後の災いを首都に齎そうとする。それを食い止めるために、亜蝶が演じる陰陽師が直接対決するシーンだった。

 「ただ……僕は、結末に納得がいきません」

 「結末?」

 「恵比寿神は……ヒルコは、二千年の間自分を捨てた両親を恨んでいた。福の神などと祀り上げられ、薄汚い期待を押しつけられてきた。それなのに、『それまで受けた仕打ちは試練だった』などという説明でどうしてそれまでの怒りを手放すことができたのか、僕には理解できない」

 ヒルコ。記紀神話に登場する、イザナギとイザナミの子。異形であったがゆえに葦舟に乗せて流された、悲劇の神。

 後世に七福神の一柱である恵比寿神と習合し信仰されるも、自らを捨てた日本に深い恨みを抱えていると映画では説明される。

 「僕は彼を説得しなければならない。ですが、たった一度の説得で、二千年の恨みが消えるとでも?」

 吐き捨てるような言い方だった。

 「——……ヒルコに感情移入をしているのか?」

 疑問とも呼べない感想が、口から滑り出た。

 「——ッ」

 息を呑んだ彼が、瞬く間に眦を吊り上げ——しかし深呼吸で幾分落ち着きを取り戻したようだった。

 「展開に説得力があるかを疑問視しているだけです。個人の感情でものを言ったりはしません」

 ルイはもう一度資料に目を落とした。その指摘には同意できる。

 「……確かに、復讐から赦しへと感情を再構成するには、反復的な刺激が必要とされるのが一般的です。一度の説得でそこに到達する展開は、疑問の余地が残るでしょう」

 だが、物語の本質はそこではないのだろう。

 「この物語は、復讐に囚われた者が、いかにしてそこから脱却するかというテーマを内包しています」

 「……そう、ですね」

 「医療のある領域においては、ナラティブ、つまり『語り』を重視する領域があります。患者の持つ物語に傾聴と尊重の姿勢を見せ、時に患者にとってより良い物語に再構成する手法です。この主人公が行っていることはまさにそれだ——たとえ事実でなくとも、ヒルコ及び恵比寿神は『捨てられたのではなく試練だった』と再解釈することによって、『加害者』たる親や日本から自由になり、赦しというプロセスを経て回復する」

 「……」

 深い思考の海に潜るように、青年がうつむいた。

 それを邪魔しないよう、ルイは目だけで外を見た。降りしきる雨。焚かれた抹香の匂い。

 (憎しみと、赦し……)

 どちらも己とは縁遠いものだ。

 しかし、「理解できない」と言った亜蝶のまなざしは、単なる演者として以上の熱がこもっているようにも思えた。

 だとすれば、彼にもまた容易には鎮められない炎があるのだろうか。

 そんなことを、ぼんやりと思った。

 

 

 重く淀んだ潮の匂いが、鼻を突いた。

 土の色を含んだ波は沸々と波打ち、暗雲がその頭上に立ち込めている。

 専用車で先行した撮影陣より遅れて到着したルイたちが現場に入ったとき、すでに撮影は始まっていた。中央では主人公が恵比寿神と戦うシーンが繰り広げられている。

 「戦闘というより、もはや演武だね」

 神や陰陽術のエフェクトはCGで合成される。そのため、撮影段階では彼一人が動いていた。すでに決まった型をなぞるような動きは、確かに演武と言って差し支えないだろう。

 「前に、CG合成されたキャラクターと戦う演出と生身の人間同士が闘うシーンで、観客の没入感がどう変化するかをゼミ生と話したことがあってね。なかなか興味深かったよ。君はどっちがいいと思う?」

 どう違うか、ではなく、どちらがいいか。

 問いに込められたわずかな含みに、ルイはしばし答えに窮した。教授は時々こういう質問をする。あるはずのないかれの情動のありかを探るように。

 「使用される場面によってどちらが適当かが変化することは前提だとして、俺は……生身の人間同士のほうが、呼吸や動きに差異が生まれにくく、観客からも違和感がないと思います」

 「なるほどね」

 教授は顎を引いた。

 「CGだと演者の目線や台詞の温度が演出されたグラフィックと合わないこともありがちだ。そうなると観客はストーリーに没頭できない」

 「……はい」

 降りしきる雨の中、漆黒の袖をはためかせて青年が走っていた。

 「ですが……」

 「ん?」

 雲の隙間で、細い光が一閃する。

 「演者がどれだけ演技に魂を込めるかで——その違和感すら凌駕してしまうこともあるのでしょう」

 一拍して轟いた雷鳴の下、黒い狩衣が地面に投げ捨てられた。

 

 

 激しさを増す雨と共に、現場にも疲弊した空気が漂い始めていた。

 恵比寿神と戦うシーンの撮影までは順調に進んでいたのだが、場面が神との対話に移ってから監督の指摘が相次いでいた。

 「それじゃ、台詞をなぞってるだけでしょう」

 監督の指摘が、雨音を掻き消すように響く。

 「言葉が薄っぺらい。心の底から届けようとする意志が見えないんだ」

 そんなんじゃ、日本が滅びるよ。そう言って監督は脚本を軽く叩いた。

 「ヒルコの憎しみを受け止めて、鎮める。それが君の仕事であり使命ですよ、陰陽師」

 そこまで監督が言ったとき、控えめに監督を呼ぶ声がした。

 「すみません、雨脚がけっこう強まってきてて、スタッフから機材保護の要望が出てます。いったん休憩がてら、対応を検討するのはどうですか?」

 助監督だった。

 監督が一度亜蝶とスタッフを見回して、仕方なさそうに頷く。

 「まあ……一度気分転換が必要かな。じゃあ、これから一時間の休憩にしましょう」

 その目が、まっすぐに亜蝶を見た。

 「君は、誰よりもヒルコの怒りを知っている。そんな目をしてる」

 「——は」

 目を瞠った亜蝶に、監督は続けた。

 「その怒りから解放されるために、君はどう向き合ってほしいですか?」

 僕が見たいのは、その答えだ。

 監督の言葉に、亜蝶は立ち尽くすほかなかった。

 

 衣装スタッフが飛んできて濡れた単衣を脱がせ、柔らかなブランケットをかけてくれる。

 タオルを渡されて、顔と髪を拭いた。差し出されたコーヒーに口をつける。

 ふわりと立ち上る香り高さが、ほんの少し緊張を緩めてくれた。紙コップから伝わる熱は、冷え切っていた手には過ぎるくらいの温度だった。

 だが、胸の奥で燻る焦燥は、いっそう激しさを増していた。

 (……クソ!)

 ぎりっと亜蝶は奥歯を噛みしめる。これ以上どうするのが正解だというのか。

 (このままだと、夕方の撮影に支障をきたす。……いや、そんなことはいい)

 今は、この場で監督の期待通りの演技をすることに集中しなければ——。

 『君は、誰よりもヒルコの怒りを知っている』

 脳裏に蘇った声に、反射的に手に力を込めていた。

 (——ああそうだ)

 知っているとも。親の過ちの結果を異形というかたちで背負わされた痛み。そればかりか身勝手にも捨てられ、苦難に満ちた生を余儀なくされた憎しみ。全く同様のものとは言えないが、それでも他人事には思えなかった。

 『ヒルコに感情移入をしているのか?』

 そうだとも!

 氷薙ルイ。彼の言葉は正しい。浅ましい欲望やくだらない世間体のために負わされた原罪。同じ罪を背負う者として、その苦痛を惨めになるほど理解できてしまっている。だからこそ。

 (説得程度でこの怒りが手放せるものか……!)

 一息でまだ熱い液体を飲み干す。喉奥を通っていく苦み。胃の腑に落ちていく熱のように煮えたぎったこの感情が冷める日が来るとは到底思えなかった。

 (……だが、それを仕事ができない言い訳にするわけにはいかない)

 コップを置いて、深呼吸を一つ。

 『烏麻亜蝶』は完璧でなければならない。常に。

 (「たとえ事実でなくとも」……)

 淡泊な語り口を思い出す。大した期待はしていなかったが、存外ヒントとしては悪くなかった。

 (「『捨てられたのではなく試練だった』と再解釈することによって、『加害者』たる親や日本から自由になり、赦しというプロセスを経て回復する」)

 構造としては理解できる理屈だ、と彼は眉を寄せた。

 だが、それは直接の参考にはならない。

 自分の演技として組み立てるには、もっと他に——。

 

 (……?)

 

 不意に外が騒がしくなった気がして、亜蝶は顔を上げた。

 カーテンを開ける。雨粒が尾を引いて落ちていく窓ガラスから、慌ただしく動き回る人々が見えた。

 胸騒ぎがする。常備されているジャケットを羽織って、亜蝶は外に出た。途端にシャワーのように雨が頭上に降り注ぐが、気にしている余裕はなかった。

 「救急車だと?」

 耳に滑り込んできた言葉に、かれは息を呑んだ。

 

 

 その日、映画の公式サイトには、次のような告知文が掲載された。

 

 

 『【お知らせ】

 映画「来航―忘れられた神の帰還—」の撮影中、山本俊樹監督が体調不良により緊急搬送されました。

 医師の診断により、一定期間の療養が必要と判断されたため、撮影スケジュールを一時的に延期いたします。

 監督の回復を最優先に、制作チーム一同、安全な環境づくりに努めてまいります。

 撮影再開に関する情報は、改めて公式SNSにてお知らせいたします。

 皆さまのご理解と温かいご声援に、心より感謝申し上げます。』

 

 

 雨で朧な視界の中、サイレンと赤色灯が徐々に近づいてきていた。

 「氷薙君」

 教授の声に、ルイは振り向いた。

 「先生。山本監督は」

 「私には判断できないから、なんとも」

 やや青ざめた顔色で、教授は首を振った。

 「ここはスタッフの方に山本監督に付き添える人がいないみたいだ。だからプロデューサーや助監督とも話し合って、病院までは私が付き添うことになったよ」

 「了解です」

 「いつ戻ってこれるかわからないから、今日はここで解散にしよう。予定よりは早いけど、こうなった以上見学どころじゃないし」

 ルイは頷いた。

 「こんなことになってすまないね。何か収穫があったならいいんだけど」

 収穫。見学の成果ということなら、心当たりはあった。

 「制作側の貴重な意見が聞けましたし、それに……」

 闇色の衣が脳裏をよぎった。舞っていた青年の瞳の中にあった、危ういまでの凄烈な光も。

 一度言葉を切った彼に、教授は穏やかな仕草で続きを促した。

 「……不思議と、惹かれるものを見た。そう思います」

 「そうか……。君の口からそんな言葉が出るとは、珍しいね」

 教授が軽く目を瞠る。

 ついで、なにごとかを言おうと口を開いた。

 「もしかしたら。君が思っているより、君は——」

 刹那、サイレンの音がいっそう大きく響き渡り、その声はルイの耳には届かなかった。

 背後から救急車が姿を現す。教授は肩を竦めて救急車に道を開けた。

 「もっと聞きたいところだけど、そろそろ行かないと。気をつけて帰ってね」

 「ありがとうございます。先生もお気をつけて」

 軽く頭を下げる。

 赤いライトに背を向けるようにして、彼は歩き出した。

 

 

 ざわめきも人の姿も遠くなり、雨粒が傘を叩く音だけが響いていた。

 地面にできた大きな水溜まりを迂回して、立っていたオブジェの前方に回り込む。

 そこにひっそりと佇む人影を見つけて、ルイは足を止めた。

 「あれは……」

 大手制作会社のロゴが入ったジャケットを羽織っている。一瞬スタッフかと思ったが、しかしその後ろ姿には見覚えがあった。

 茫洋と遠くを見ていた瞳が不意にルイを捉え、弾かれたように彼が顎を上げる。

 「お、まえは——」

 その声にやはり、と得心する。烏麻亜蝶だ。

 「……失礼。氷薙ルイ、さん。みっともないところをお見せしてしまって、申し訳ありません」

 動揺を一瞬で拭い去り、亜蝶が深く頭を下げる。背中の上に大粒の水の玉が浮かび、筋をつくりながら染み込んでいくのを見て——反射的に一歩を踏み出していた。

 「謝らなくていい」

 「——は?」

 呆然と開かれた目が、ルイを見た。

 「そのままでは風邪を引く」

 差し出した傘はそのままに、コートを脱いで青年にかけた。指先がかすめた白磁のような頬はひどく冷たく、間近に見た唇は色を失っていた。

 その薄い口唇がわなないた。それが寒さのせいだけではないと彼が理解するのは、直後のことだった。

 「——必要ありません」

 切り裂くような声だった。

 「施しのつもりですか。あいにくと、貴方の自己満足に付き合う義理などありません。もう二度と会うことはないでしょうが、一つ言っておきます——()は他人に気遣われるのが大嫌いだ。反吐が出る」

 傘を押し戻して、彼は吐き捨てた。怒気を宿して燃える瞳が、きつくルイを睨み据えていた。

 「……施しのつもりはなかった。だが、不快な思いをさせたことは詫びよう」

 「では、何のつもりだったんです」

 返事に窮した。自分はなぜ、彼にこんなことをしたんだろうか。

 少し考えて、口を開いた。

 「映画の主役に風邪を引かれて撮影が長引けば、論文の進行に影響が出る」

 「……監督が倒れた現状を理解してないのか。俺のことなど気にしている余裕は——」

 「なぜ倒れたかもわかっていない。明日には復帰しているかもしれない」

 虚を突かれたように亜蝶が黙り込む。

 その隙に、冷えて強張った指に傘を握らせた。

 「おまえの演技にはきっと、人を魅了する力があるんだろう」

 彼を見ていると、自分の知らない感覚を引き出されるように思う。

 「だから、その傘とコートは使ってくれ。必要ないなら捨ててくれていい」

 「——待て」

 背を向けようとしたルイを、亜蝶が止める。

 「俺は借りなど作らない。絶対に」

 力強い断定ののち、青年はルイに手を伸べた。

 「スマホを貸せ。傘は持っていろ」

 ぞんざいな口調。こちらが素のようだった。ポケットからスマートフォンを出して手渡せば、彼は眉を上げる。

 「画面のロックもしていないのか」

 「見られて困るものもない」

 不用心だなと呟いた亜蝶は、スマートフォンを取り出した。その指が二つの端末の画面を操作する。

 雨音に混じってコール音が数度響き渡り——ややあって無言のまま返される。手から傘が静かに引き抜かれ、跳ねた雫が頬に飛んだ。

 「近日中に連絡する。メッセージは逐一確認しておけ」

 その言葉だけを残して、彼は背を向けて去っていった。

 

 (烏麻亜蝶——)

 遠ざかっていく青年の名前を、脳内で反芻した。

 同時にこちらをまっすぐに睨みつけていた、亜蝶の眼を思い返す。

 それを思い出すと、心臓のあたりが僅かな熱を孕むような気がする。ちりちりと、焦げつくような微かな痛み。

 

 ——この感覚を、もっと知りたい。

 

 これは、いったい何なのだろうか?

 

 

 マネージャーが迎えにきたのは、現場の撤収作業も終わる頃だった。

 「すみません、亜蝶。急いで車を飛ばしてきたのですが、道が渋滞していて」

 透明な傘から水滴を振り落とした彼は、亜蝶を見るなり眉を上げた。

 「そのコートは?朝には着ていなかったはずですが」

 「借り物です」

 「借り物。誰からですか?事務所のほうからお礼をしなければいけませんね」

 「その必要はありません。あなたの手を煩わせるほどのことでもない」

 コートに伸びてきた手を振り払う。

 「……現場のスタッフに借りたんですか?だとしても、所属会社宛てに送るのが賢明ですよ、亜蝶。あなたは——」

 「『現役外相の息子で、花形俳優。余計なトラブルを避けるためにも、個人的なやり取りは控えるべき』、ですか」

 「その通りです」

 デビューしてからというもの、腐るほどに聞いた言葉を先回りすれば、マネージャーが頷いた。

 さざ波のように沸いた苛立ちをため息で押し殺し、亜蝶は口を開く。

 「現場のスタッフではありません。彼らは監督が倒れてずいぶん動転していたらしい。休憩中に起こった事態といえど、一度スタッフが様子を見に来たきり、一時間は放置されました。その間に、見学に来た一般人が僕を()()して貸してくれたものです」

 マネージャーの顔色が、さっと変わった。

 「それは……あるまじき問題です。抗議しておきましょう」

 「そうしてください。二度とこのようなことが起きないように」

 「ええ。ですが……制作側の不備は当然として、貴方も不用意に外に出るのはやめなさい」

 内心で舌打ちする。このまま誤魔化されればいいものを。

 「撮影現場の中だけです」

 「だとしても、見学者がいるような場所で不用意に出歩くのは危険です。そのうえ一人だなんて」

 「休憩時間にどうしようと、僕の勝手だ。口出ししないでもらえませんか」

 「亜蝶」

 言葉を連ねようとするマネージャーを、手を振って黙らせた。

 「……髪が濡れていますね。顔色も良くない」

 諦めたように話題を転換したマネージャーは、亜蝶を外にいざなった。

 「早く帰りましょう。今後のスケジュールについては、車内で」

 「わかりました」

 立てかけてあった傘を手に取る。見覚えのないそれを見ても、マネージャーは片目を眇めただけで、今度は何も言わなかった。

 

Whom dost thou worship in this lonely dark corner of a temple with doors all shut?

 

 りん、というドアベルの音が、閑静な店内にこだまする。

 微かに木とコーヒーの匂いが漂うそこは、外の明るさと隔絶されたように薄暗かった。

 陽気な音楽が流れる店内を見渡す。ラックにはレコードや本が積み上がり、船の模型や民芸品のインテリアが隙間を埋めるように置かれていた。薔薇のステンドグラスが外の光を透かし、その横に貼り付けられた世界地図に鈍く反射している。天井には鈴蘭型のシャンデリアが二つ吊り下がり、控えめな光を投げかけていた。

 「一名様ですか」

 布製の仕切りを跳ね上げて、店主とおぼしき老爺が顔を出した。

 「……連れがいます。先に来ていないなら、後で来ると思います」

 店主はちらりと店内に目線を向けた。カウンター席の端に設けられたスイングドアから出て、ルイについてくるよう促す。

 「こちらです」

 店の一番奥、大きな花瓶の影になったその場所に、亜蝶はいた。店にかかった時計に視線をやり、それからルイを向く。

 「時間通りか」

 「間に合ったのなら、よかった」

 座るよう示される。荷物を置いて彼の対面に腰を下ろすと同時、盆を持った店主が彼らの脇に立った。

 「お待たせいたしました。アールグレイです」

 「ありがとうございます。氷薙ルイ、お前も何か頼むといい」

 しなやかな指先が、メニュー表を指した。

 「ルイでいい。……すみません、彼と同じものを」

 「かしこまりました」

 「メニューも見ないのか」

 「特にこだわりもない。飲めるなら、なんでもいい」

 「……」

 かすかに亜蝶の柳眉がひそめられる。

 フラメンコの曲が変わり、高らかにかき鳴らされるギターの音を聞きながら首を巡らせた。床に置かれたリュートにピアノ。壁に取り付けられた棚には土産物らしい置物と飾り皿。椅子の上には折り畳まれたアラベスクの絨毯が無造作に置かれていた。

 テーブルに視線を戻したとき、亜蝶の椅子に黒い傘がかけられているのに気がついた。クリーニング店のタグが覗く袋も。

 「律儀だな。返さなくてもよかったのに」

 「俺は借りなど作らない。そう言ったはずだ」

 「そうだったな」

 亜蝶がカップを傾ける姿を見ながら、ルイは続けた。

 「山本監督は、一昨日意識が戻ったようだ」

 「お前なぜそれを、ッ」

 陶器が擦れ合う小さな音が響く。一拍おいて、亜蝶は椅子に深く座り直した。

 「——高崎教授からか」

 「ああ」

 「他には。何か仰っていたか」

 「くも膜下出血だそうだ。幸い軽度なもので、ひと月程度で退院可能だと聞いている。だが、リハビリも含めると、現場復帰はさらに先になるだろうと」

 (秋の学会発表で『来航』についても触れる予定だったが……)

 こうなっては変更を視野に入れざるを得ない。構成の組み直しと再調査が必要だ——逸れかけた意識を、亜蝶がカップを手に取る微かな音が引き戻した。

 「……そうか。だったら、お前にひとつ、頼みがある」

 頼み。束の間躊躇って、ルイは口を開いた。

 「俺に、できることなら」

 「高崎教授に繋ぎをつけて欲しい。聞きたいことがある」

 「お待たせいたしました、アールグレイです。注文の品は全てお揃いですか」

 「はい」

 目の前に、精緻な絵柄の施されたカップが置かれる。湯気とともに柑橘系の香りが鼻腔を満たすのを感じながら、ルイは聞き返した。

 「聞きたいこと?」

 「前にお前に聞いただろう。『ヒルコはなぜ、陰陽師の説得に応じたのか』と」

 「ああ」

 「俺は監督の要望を理解し、完璧な表現で応えなければならない。だが、今の俺にはまだ、……その下地が足りない」

 亜蝶はくちびるを噛んだ。

 「だから、知る必要がある。ヒルコの心理や、効果的な説得のすべを」

 空になったカップを置いて、亜蝶は立ち上がった。伝票を手に取る。

 「用件は済んだ。この後も用事がある。失礼する」

 「待ってくれ。代金を——」

 「いい。高崎教授に橋渡しを頼む手間賃だ」

 そう残して、彼は店を出て行った。

 

 

 「——という経緯で、彼が先生に会いたいと」

 「君が烏麻君と、そんなに仲良くなっていたとはね」

 分厚い紙束の角を揃えながら、教授はルイを見た。

 「わざわざ君に仲介させなくても、来てくれるならいつでも歓迎するのに」

 「では、そのように伝えておきます」

 「でも、来ても彼の希望には応えられない」

 ルイは顔を上げた。

 「なぜですか」

 「私は今回の作品について、監督の代わりに答えやヒントをあげられるほど詳しくはない。下手にアドバイスして、監督のイメージを崩すことになれば、烏麻君にとっても影響は計り知れないからね」

 「そういうものですか」

 「監督の世界観は、烏麻君のほうがよく知っているはずだ。監督の説明を聞いて、効果的な演出を考えるだけの私よりもよっぽどね。ああでも、何も収穫がないのも酷か……」

 教授が後方に手を伸ばす。棚に隙間なく詰め込まれた本を辿りながら、ルイを振り向いた。

 「烏麻君は読書家だから、本がいいと思うんだよね。氷薙君も一緒に考えてみない?」

 「彼と、親しいんですか」

 「撮影期間に何度か話したことがあるくらいだけど、勉強熱心で向上心の高い子だよ。この間、現場でサルトルの『存在と無』の話をしたら一人だけ通じたんだ。ナンシーの『無為の共同体』  なんかも読んでいるようだね」

 哲学に造詣が深いのだろうか。本棚を見ながら思案した。心理学書、哲学書、映画・演劇評論——。

 探しあぐねて立ち尽くした彼の横で、教授が一冊の本を手に取った。

 「それは?」

 「以前共同で書かせてもらった本だね。十人くらいで文学作品における怒りと悲しみの表現について論じたものだ」

 机に置かれたそれを見る。どうやら、それぞれの研究者が各自選出した文学作品を題材に、特徴的な感情描写について分析した共同研究書のようだ。

 「怒りと、悲しみ……」

 名状しがたい違和感に俯いた視線の先を、教授が追ったのだろうか。

 「これが気になるの?」

 引き抜かれたもう一冊の本に、ルイは瞬いた。

 「『タゴール作品集』?」

 「違った?熱心に見ていたから、気になったのかと」

 「ああ……いえ——」

 副題は「祈りの詩」。文芸に詳しくはないが、「詩聖」タゴールの著作の英訳版らしい。

 詩。感性と情緒によって構成された芸術。おのれとは対極に位置するもの。

 何度触れたところで、掴めたものなど何ひとつなかったが——。

 

 雷光のような眼差し。冷たい肌の内で今にも弾けそうに震えていた、激情。

 あれらを目の当たりにした感慨の名が、ここになら書いてあるのだろうか。

 

 「これを、お借りしてもいいですか」

 気づけば、そう口が動いていた。

 「もちろん構わないよ。当分使うこともないだろうし、返すのはいつでもいい」

 「ありがとうございます」

 本を受け取る。机に置かれていた本を、教授がその上に乗せた。

 「亜蝶は……」

 「うん?」

 「彼なら、これを読めば、ヒルコの心が分かるんでしょうか」

 普通の人間なら——言いかけた言葉を、ルイは飲みこんだ。

 「どうだろう」

 教授は曖昧に微笑んだ。

 「もしかしたら、烏麻君の求めているような答えそのものにはならないかもしれないね」

 本は、言うなれば鍵だ。教授はそう続けた。

 「答えはすでに、当人の中にある。あとは、そこにアクセスするだけなんだよ」

 

 

 台本の空白部分を、細い文字で埋めていく。窺い知れる感情。意識したいポイント。重要な台詞は色を変えて強調し、動きや表現のイメージを補完する。

 「ふ——」

 顔を上げて、息をひとつ吐いた。窓から見える変わり映えのない景色でも、近くを見すぎて痛みだした眼球には効き目がありそうだ。

 目頭を揉みながら、立ち上がってリビングを突っ切る。苦く芳醇な香りで満ちたダイニングに足を踏み入れ、ポットからマグカップにコーヒーを注ぎ入れた。

 重いものが床に落ちる音に振り向くと、黄色い二つの目がかれを見上げていた。それはにぃーと細い声で鳴く。

 「ジュゼ」

 思わず口元が緩む。亜蝶が動き出す音を聞きつけてきたようだ。素早い動きでソファに飛び移った飼い猫を見送り、ぱきりとポーションミルクの開け口を折って蓋を剥がした。黒の中に沈み、広がって水面を目指す白は、無尽に広がっていく煙を思わせた。

 「『エントロピーの、法則』……」

 先日出演が決まったドラマで演じることになった物理学者の口癖をなぞる。目に見えるあらゆる現象の名を呟くのが癖だというその男は、脚本を提示されてなお、まるで煙を掴むように曖昧な  人物だった。

 (煙、か)

 マドラーで撹拌する。完全に混ざったのを見計らって引き上げた。軽く流水で洗って清潔なクロスで拭き、食器棚にしまう。

 そうしてようやくリビングに移動すれば、ジュゼは亜蝶の定位置に居座っていた。どけと言ったところで聞かないことは分かっている。

 仕方なくその横に腰を下ろす。マグカップをジュゼが遊ばないようテーブルの奥に置いた時、スマートフォンがメッセージの受信を知らせた。

 送り主は——氷薙ルイ。

 「……」

 コーヒーを一口飲む。通知をタップしてメッセージを開いた。ともすれば無機質にすら見える、簡潔に整理された文章。数える程度しか言葉を交わしていない亜蝶ですら、彼らしいと思える端的さだった。

 訪問は歓迎するが、演技についての助言はできない。記載された内容に、亜蝶はため息をつく。

 「……まあ、そうだろうな」

 分かっていたことだが、やはり自分で探るしかないだろう。落胆とも言うほどでもないが、軽い失望感に嘆息する。

 しかし、続いていた文面に、亜蝶は自分の口角が上がっていくのを自覚する。

 「本か」

 ルイの書き方から察するに、手渡すことを想定しているのだろう。わざわざそのために時間を割くのは面倒きわまりないが、教授じきじきに、亜蝶のために選んだ一冊だ。ただの本ならば事務所に送らせるが、教授の厚意を無碍にするようで気が引けた。それに。

 (煙のような男……)

 ちらりと頭をよぎったのは、ついさっきまで考えていた新たな役のことだった。

 ——役のモデルとして、あいつが参考になるかもな。

 一個人としても、僅かに興味が湧いているのは否定できない。見透かすような目、掴みどころのない雰囲気。これまで接したことのない人種だった。演技の幅を広げるのに、彼という人間を知るのも無駄にはならないはずだ。

 「いいだろう。まあ、会ってやるさ」

 呟いて、亜蝶は返信欄をタップした。

 

 

 ——だからって、どうしてこういうことになる。

 目の前に置かれた資料とノートに、亜蝶は頬を引きつらせた。資料は見学時にルイが持っていたものだ。ノートには読みやすいが独特な字が細かく並んでいる。書かれているのは資料の分析だろう。

 「……ルイ。これはどういうつもりだ」

 「おまえは以前、『ヒルコはなぜ、陰陽師の説得に応じたのか』を知りたいと言っていた」

 「そうだ」

 「だが、教授は助力できないと言っている。そして手がかりになりそうなのはこの一冊だけ。一読したが、おまえが知りたいことの核心には触れていないと判断した」

 亜蝶は唇を引き結んだ。

 「高崎教授が、役に立たないものを寄越したと?」

 「そうじゃない。きっと先生なりの含意はあるんだろう」

 「お前なら、俺が知りたいことを説明できるとでも」

 「少なくとも、おまえ一人で考えるよりは」

 淡々と言い切る男を睨みつける。それでもルイは表情一つ変えなかった。

 ——前もそうだった。

 あの寺での会話でも、傘とコートを押しつけてきたときも。何を考えているのかわからない原因の一つがこれだ。挙動の真意も、感情も、全く読めない。

 「……何のつもりだ」

 「何のつもり、とは」

 「言葉通りの意味だ。こんなことをして、お前にどんなメリットがある」

 「おまえが役の理解を深めることは、映画のクオリティに直結する。それは俺の研究結果にも関わってくる」

 ため息をついた。事実だとすれば、とんだ研究馬鹿だ。

 「……もういい。それで、俺に何を教えると?」

 「教える、という表現は適切じゃない。俺はただ、鍵になりたいだけだ」

 「鍵?」

 「『答えはすでに、当人の中にある。』そう先生は言っていた。おまえが監督の世界観を理解しているとも。だったら俺は、おまえの求める答えに辿り着くためにできる限りのことをしよう」

 亜蝶はもう一度、深く息を吐いた。答えが分かっているなら、これほど苦労はしていない。

 論文がそんなに大事なのか。そう思いかけて、いいや違うと思い直す。

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 アカデミアには詳しくないが、論文には期限があることはわかる。当然、計画も要る。一朝一夕で書けるようなものではなく、だからこそこんなふうに撮影が無期限延期になったことで、大なり小なり計画の見直しをされるべきだ。こんなことをしている余裕はないはずなのに。

 (救いようのない愚物か、それとも何か裏があるのか)

 眉を寄せた亜蝶の前で、ルイはノートをめくる。

 「この映画は、『陰陽師・常磐和也の超常解決』シリーズを原作として監督が作ったものだ。完結後の後日談といった体裁だな。ある時日本中に突如として『七つの異変』が起き、それを解決するために主人公が動きだす」

 「この異変を引き起こした根本的原因が恵比寿神、つまりヒルコだ。彼は自分を捨てた両親と日本そのものを恨んでいた。あとになって都合よく福の神として自分を祀る日本の民にもその矛先が向いた。……当然だ。散々虐げておいて、利用できるとみれば手の平を返す。そんな連中を憎まずにいられるわけがない」

 「そうか」

 同意でも批判でもない相槌。それがなぜだか癇に障った。

 「……お前はそう思わないのか。親に捨てられ、居場所も存在意義も奪われた。そのうえ名前まで奪い、今度は福の神だと持て囃す。それがどれだけの屈辱か!」

 「屈辱。おまえはそう呼ぶのか」

 「なに?」

 「以前プロデューサーは、悲しみだと言っていた。資料には傷だと書いてあった。おまえは……それらを、屈辱と呼ぶんだな」

 「——はっ」

 悲しみ。傷?

 陳腐な表現すぎて眩暈がする。

 そんな浅い言葉で、ヒルコの苦しみが片付けられるものか!

 「その程度の理解だから、説得されたくらいでヒルコが考えを変えると思っているんだ」

 怒りとも呆れともつかない感情で、口角が吊り上がる。

 「ではどうしたら、ヒルコの憎しみは解けると思うんだ」

 「そんなこと自体、無理に決まっている」

 復讐が果たされるまでは、決して。

 「……」

 沈黙が降りて、亜蝶は冷えた紅茶を一口飲んだ。氷がグラスと触れる音が耳に心地いい。

 熱くなった頭が少しクリアになった気分で、亜蝶は言葉を継いだ。

 「だが、脚本でヒルコが憎しみを手放すことは決まっている。問題は、それにどう説得力を出すかということだ」

 「おまえの言う通りだ。以前も少し触れたが、確かにすぐに考えを翻すのは無理があるとしても、時間をかければ不可能じゃない。そのスパンを限りなく縮めたと思えばいい」

 「前に言っていた、『より良い物語に再構成する』だったか」

 エピソードの再解釈による、精神の回復。そのようなことを言っていたはずだ。

 「『それまでの仕打ちは試練であり、両親からの愛だった』というのがそれか」

 亜蝶が演じる主人公は、イザナミとイザナギは葦舟に乗せて流すことこそがヒルコを完全な神にすると考えたのだと説明する。彼らは泣く泣く我が子を手放したのだと。

 「そういうことになる」

 「馬鹿馬鹿しいな」

 試練などという耳ざわりのいい言葉でそれまでの苦しみを正当化する。どこまでも都合のいい話だった。

 机に置かれた本に手を伸ばす。教授がかれのために選んだというそれに触れようとした、そのとき。

 「!」

 聞き慣れたコール音。反射的にポケットに手を入れる。震える黒いスマートフォンに表示された着信表示画面にはマネージャーの名前があった。

 「何かありましたか」

 『亜蝶。明日の収録の時間に変更がありました。今からスケジュールの確認をしたいのですが』

 「わかりました。今外にいるので、家に帰ってから話しましょう。……ルイ、悪いが」

 「ああ。この本は忘れるな」

 財布から紅茶の代金を取り出した。今度こそ本を手にする。目だけで頷いて、亜蝶は席を立った。

 『亜蝶?誰かと話していたのですか』

 「あなたが気にすることではありません」

 『そういうわけには……、誰と会っているのですか?私は何も聞いていませんが』

 「言う必要がないからです」

 「ないわけがないでしょう!亜蝶、あなたはもっと自覚を持ってください。人気俳優として、何より烏麻家の一員として——』

 通話を切った。

 「『烏麻家の一員』だと?笑わせる」

 恥晒し。一家の汚点。

 そう言って亜蝶を芸能界(こんな場所)に追いやったくせに、どの口が!

 歪みそうになる口元をマスクで覆った。父の犬。どこまでも煩わしい。

 「……クソ」

 悪態をついて、亜蝶は扉を開ける。

 忌々しいほど晴れた空を避けて、影の中を歩いた。

 視界を()く太陽から逃れるように。

 

 

 きゃあ、と二つの小さな歓声が、静かな店内の一角で上がった。

 「あった!亜蝶様の表紙!」

 「よかった、ここはまだ残ってて……!ああ、五軒もハシゴしたのが報われるぅ」

 「でも残り三冊だ、危なかったあ。限定表紙は……さすがにないかぁ~」

 抑えたため息。

 「しょうがないよ。限定表紙買うために地方遠征する人もいるし」

 「通常表紙だって店によっては開店十分で売り切れだって。開店前から長蛇の列!」

 「ニュースになってたよね。通販も即完売。見つかってホントよかった」

 手に取っていた本を閉じた。目星をつけていた別の本を開く。目次を確認。

 「ファンクラブでも限定表紙は争奪戦だって。あそこ古参ほど過激だからさ」

 「過激ってかルール違反にめっちゃ厳しくない?追放とか叩きとかけっこう見るし。亜蝶様のファンとして恥じないように、みたいな」

 「わかる!ちょっと入ろうか検討したけど無理だよね。ライト勢は遠くから拝むのが一番かも。……あ、すみません、これ買いたいんですけど」

 しばらく会話が途切れた。静かな店内で、会計のやり取りと機械音が響く。

 「そういえば見た?亜蝶様、今年も誕生日ライブするって」

 「見た見た!めっちゃ盛り上がってたよね」

 「亜蝶様のライブ、見たら虜になるっていうよね。一回くらいは参加したいのに」

 「倍率オニだもん。超人気なのに大きいハコでやってくれないの謎」

 「あーそれね。『一人一人のファンの顔を、しっかり見たいからです』らしいよ」

 「え!さすが亜蝶様。ファンサの神か?」

 「ね!ビジュも歌も演技も天才的なのに」

 「あれでしょ、政治家一族の生まれなんだよね。デビュー当時からすごい人気になったし。それであの人格!完成されてる」

 「優しくて、気遣いも完璧だよね。それなのにファンには特別甘くて。惚れる~」

 笑い声が遠ざかる。本に意識を戻そうとして——ふっと抹香の匂いが脳裏をよぎった。湿った空気と、年月を経た木の香りも。

 『僕には理解できない』

 言い切った亜蝶の声。張り詰めたまなざし。微かに震えていた、呼吸。

 

 彼女たちの知る「烏麻亜蝶」に、あの彼は含まれているのだろうか。

 

 本を元の位置に戻す。声が聞こえていた方向に足を向けた。

 目標はすぐに見つかった。たった一冊だけ残った雑誌。表紙にはここ最近で見慣れた——だが知らない表情でこちらを見る青年が写っていた。

 (——いや)

 知らないわけでは、ない。

 最初に会った時の亜蝶はこうだった。丁寧で柔和な言葉遣い。整えられた微笑み。

 「優しくて気遣いも完璧」な、「完成され」た人格。

 飾られた仮面(ペルソナ)

 

 馴染んだ彼こそが「本当の」亜蝶なのか。

 ——あるいは。

 

 まだ彼には、ルイの知らない側面があるのかもしれない。

 

 

 書店を出て、図書館に向かった。ここから徒歩でわずか五分の位置にあるそこは、小さいながらも学術書の揃えが良い。

 平日ということもあってか館内は閑散としていた。もっとも、彼が知る限りこの図書館の来館者はほとんどなく、一階に設けられた学習スペースだけが地元の学生で埋まっているのが常だ。

 「あ、氷薙さん。この前取り寄せ依頼されてた本、届いてますよ」

 今取ってきます、と奥のスペースに入っていった司書を見送って、ルイはカウンターを眺めた。置かれた透明なスタンドには数種類の地方イベントのフライヤーが入っている。

 目についた一枚を手に取った。近代の芸術家の美術品・工芸品を揃えた特別ギャラリー。

 「お待たせしました。……お、そこ行かれるんですか?今日までなのでぜひ!場所もここから十分程度ですよ」

 司書に本を手渡される。壁にかかった時計は正午を指していた。家庭教師のアルバイトは十八時からの予定だ。まだ時間は充分ある。

 「ありがとうございます。行ってみようと思います」

 「だったらそのチラシで割引になるので、持っていくとお得ですよ。それと一階に展示スペースがあるので、よければそちらも見ていってください」

 楽しんで、と笑顔を見せた彼に会釈をして、ルイはフライヤーを裏返した。

 

 

 「KODOUミュージアム」。

 芸術家でもあった蒐集家、雲井虎堂の居宅を改装したというその美術館は、細い路地の脇にひっそりと建っていた。

 罅割れて薄汚れた漆喰壁と、小さな庭。木製の扉は重々しく、人の入りを拒む雰囲気が漂っている。パンフレットの地図を見ても見落としそうなその建物は、入口に金属製の看板が立っていなければ、美術館とは分からないだろう。

 取っ手を押せば、耳障りな音を立てて扉が開いた。ニスの塗られた床板が差し込んだ光を反射する。

 「いらっしゃいませ」

 小窓が開いて、受付の女性が顔を出した。

 「展示を見に来たんですが」

 「はい。チラシがありますね。入館料は三百円になります」

 料金を払ってチケットを受け取った。靴を脱ぎ、用意されていたスリッパに履き替えたルイは、廊下を通って展示室に入る。

 もともとリビングだったというそこには絨毯が引かれ、ガラスケースが置かれている。壁には絵画や掛軸がかけられ、説明パネルが随所に散りばめられていた。

 他に誰もいない室内を巡る。空気清浄機の微かな駆動音と外からの鳥の声だけが響く部屋で、かれは展示に見入った。

 赤ら顔の漁師と松明、暗い波が油彩の中で躍動する。

 素朴な砂色と、鮮やかな緑が対照する銀彩の茶碗はショーケースの中で鈍く輝き、和服姿の磁器人形はその精巧な着物の柄の鮮やかさを披露した。

 寂寥たる冬の山家を描いた水墨画は人影や木々の細部まで陰影に満ち、『駅で待つ女』と題された木版画では暗い色調と繊細な線で描かれた女性が列車に向かって身を乗り出している。雲母摺りの料紙に細い筆致で書かれた書が流れるように詩を吟じ、硝子製の跳ねる兎は今にも水飛沫に溶けそうな透明な足で、大口を開ける鮫を躱した。

 ひとつひとつ見終えて、ルイは壁にかかった時計を見た。入館してから一時間程度。まだ時間はある。

 今見たのが特別ギャラリーなら、常設展示もあるだろうか。

 廊下に出る。ちょうど目の前に「休憩所」の看板があった。それまでずっと歩きっぱなしだったことを思い出す。

 一度座るのもいいだろう。

 思考のままに扉を押し開けた。思いのほか滑らかに動いた扉の向こう、目に入ったのは布張りのソファとローテーブル。

 「!」

 ソファの端に座って目を閉じている青年がいた。

 思わぬ先客に息を呑み——その既視感に、掠れた声が漏れる。

 

 「亜蝶……?」 

 

 一拍の間を置いて、彼の目がかっと開いた。瞬く間に跳ね起きる。

 「ここ、は——」

 「KODOUミュージアムの休憩所だ」

 「……ああ」

 ぐるりと室内を見渡している亜蝶の目の下に、濃い隈ができていた。もともと白い肌だが、今はさらに白く見える。

 「亜蝶。顔色がよくないようだが、きちんと寝ているのか」

 「詮索するな。不愉快だ」

 にべもない。

 「わかった。だが、どうしてここに」

 「……雲井虎堂の本名は烏麻虎丞だ」

 「親戚というわけか」

 「そうだ。その縁で、俺がこの美術館の管理を引き継いだんだ。分かったらもう来るな」

 あっさりと教えてくれたのは、それを言うためだったらしい。

 「だったら、最後に一ついいか」

 「なんだ」

 「ここの常設展の場所はわかるか?」

 

 

 「——雲井虎堂は、一族の反対を振り切って芸術の道に進んだらしい」

 常設展は、併設された蔵の中にあった。

 靴音と、亜蝶の声が反響するそこは、なるほどリビングより展示品の品質は保持されそうだ。

 「だが本人が願うほどの才能には恵まれないことを自覚し、細々と作品を創りながら蒐集家になったと聞いている。その数は三百点以上にのぼる」

 「それが全て、ここにあるのか」

 「そうだ」

 壁にかかった絵を眺めた。西洋とおぼしき街並みが描かれた水彩画。

 「しかし……お前がこういうところに来るとは、意外だな」

 亜蝶の声に、ルイは絵から視線を外した。

 「意外?」

 「興味がないと思っていた」

 少し考えた。興味という感覚が、おのれの中にあるのだろうか。

 「……興味があるのかどうか、俺にもわからない」

 「は?」

 目を丸くした亜蝶に、言葉を重ねた。

 「俺が美術館に足を運ぶのは、医者に勧められたからだ」

 それ以外に理由はなかった。自発的な行動と言うには及ばない。

 「医者?」

 「俺には……情動というものがないんだろう。きっと生まれつきだ。人としてあるべき感情も、興味も目的も持てない。だからクリニックに通っていた。そこで精神療法として勧められたからやっている。それだけだ」

 だが、生来持ち得ないものは、どれだけ訓練したところで獲得などできはしないのだろう。

 「いくら美術館や博物館に足を運んでも、何かを『感じた』ことは一度もなかった。その美しさに胸を打たれたことも、込められたメッセージに共感したこともない」

 心理学の勉強も、勧められたアロマも、読書も。この空洞を埋めるどころか、覆い隠すにも足りないらしい。

 さすがに、この年にもなれば理解する。

 自分は生涯、この欠陥を背負って生きていくしかないのだと。

 

 

 一心に展示を見つめるルイを、亜蝶は横から観察した。数少ない虎堂の遺作の欄の前に立った男の表情はただ静謐で、何の感慨も読み取れはしない。

 『情動がない』。それが事実ならばなら当然か、と亜蝶は息を吐いた。

 にわかには信じがたい話だが、この男ならそうであってもおかしくないという妙な説得力がある。

 透き通った虹彩に映るのは一点のキャンバス。林檎の木に繋がる門扉は今にも閉ざされようとし、黒い鳥が門の向こう側から黄色い鳥を追い立てていた。

 制作時期は雲井虎堂が家から勘当された頃と一致する。カラスの楽園から追放されるトラツグミ。これほどわかりやすいメタファーもない。

 その隣に架けられた絵には、孔雀の羽を全身にまとった黒い鳥。言うまでもなくカラスだが、見境なく差し込まれた飾り羽が滑稽さを演出していた。細い首に似合わない大粒の宝飾品と、小さな鉤爪に引っかけた札束の紐。鉱山を買い取り、また銀行を設立した当時の烏麻家への風刺であることは言うまでもなかった。

 (——烏麻虎丞という男は)

 これほど勘当された事実を恨み、痛烈に生家を批判しながら、それでも家への執着を捨てきれなかった。

 俺はそんなふうにはならない。

 (あんな連中には及びもつかない高みへ羽ばたく、蝶となるんだ)

 神すら見下ろす頂に至って、何もかもを目の前にひれ伏させてやる。

 そのために、この人生はあるのだから。

 

On the day when the lotus bloomed, alas, my mind was straying, and I knew it not

 

 スクリーンに映った映像を切れば、静かだった講義室に徐々にざわめきが満ちていく。

 開いていた資料のデータを閉じる。ノートパソコンを閉じて、機材の電源を全てオフにした。出て行く生徒たちの背中を見送りながら、シラバスを参照しつつテキストの内容を確認する。

 次回の講義内容はディスカッションと演習。資料やフォーマットの作成にかかる時間を計算した——今日は夜まで研究室で作業になりそうだ。

 出張のため、話し終えるなり退室した教員の代わりに片付けを終えたルイは、人気が完全に消えたのを見計らって電気を消した。

 土曜日だからか校内は人の気配が薄い。研究室に戻ってデスクに置いてある荷物に手を伸ばす。途端響き渡ったバイブ音にバッグの底を探った。音の出どころはスマートフォン。電話だ。

 『ちょっと兄ちゃん!今どこにいるの?』

 出た瞬間、末弟の声替わりしたての声に詰問される。

 「学校だ」

 『俺も今そっちに来てるからさ。迎えにきてよ。えーと、弘徳大学図書館』

 「図書館に?どうして」

 『オープンキャンパスだよ。兄ちゃんホントにメッセージ見ないね』

 前に連絡したじゃん、と言われてメッセージアプリを開いた。スクロールして遡る。

 「……すまん。見逃した」

 『何回も電話したのに出ないしさ』

 「さっきまでアルバイトだった」

 『アルバイト?何の?』

 「アシスタントだ。授業を補助している」

 『ふーん』

 「今から行く。そこを動かないように。一旦切る」

 荷物を持って図書館に向かう。目標はすぐに見つかった。入口の前で大きく手を振っている。

 「遅いよ」

 「無茶を言うな。これでも急いだんだ」

 「待たされてお腹すいた。昼ごはんおごって」

 「母さんから昼食代を貰ってるだろう」

 「それは……貰ってるけど」

 こちらを見上げた弟は、いかにも不満だと言いたげに口を尖らせた。

 「人の連絡をスルーした罰」

 今度はルイが閉口する番だった。

 「わかった。おやつ代は出してやろう。何がいい」

 「ハンバーガー!あ、でも何にしよう。すき焼き風……シーズンの新作も美味そう。ね、両方買っていい?」

 「一個までだ」

 「えー。ポテトも欲しいんだけど?」

 「それだと夕食を食べられなくなる」

 「食べれるよ。余裕。兄ちゃん俺のこといまだに小学生くらいだと思ってるよね」

 「そんなことは……」

 とにかく、それだと予算を大幅に超えてしまう。

 どうしても二個以上食べたければ、自分のお金で買うこと。

 そう伝えると顔を顰めたが、今度は大人しく頷いた。

 「食べずに帰って、自分のお小遣いにしないように」

 「わかってるって」

 

 学内のコンビニに歓声を上げた弟は、長いこと迷ってからおにぎりと唐揚げを購入していた。

 「いいなあ兄ちゃん。学校にコンビニもあるし、学食もあるんでしょ。選び放題じゃん」

 「そうだな」 

 「何が人気なの」

 「何だろうな。聞いたことがない」

 「おすすめは?」

 「気になるなら、自分で食べ比べてみたらいい。この学校に来たいのか?」

 「……うーん。悩み中。この大学、ゲームサークルあるからいいなって思うけど。オシャレ度?がもうちょっと欲しかったり。あ、これ言ったら父さんに怒られたんだよね。やりたい勉強とかなりたい仕事で選べって。でも別に興味ないし」

 「そうか」

 「文学部とか安パイかなって思うんだよね。でも経営学部とかでもいいかも。ハクが付きそう。兄ちゃんはなんで心理学?カウンセラーになりたいの?」

 「いや。だが、……心、について勉強しようと思った」

 「そうなんだ。俺もやりたいことがあればいいんだけどなー。そうだ!東央学院大学には観光サークルってあるじゃん。それも楽しそうでさ。このまえアニキに言ったらもっとマシな理由にし ろって馬鹿にされた。自分だって野球やりたくて選んだくせにさ」

 アニキ。すぐ下の弟は、そう呼ばれるようになったらしい。

 「サークル活動も、大事な目標だ」

 「だよね?さすが兄ちゃんわかってる」

 ぱっと表情を明るくして水筒のお茶を一気飲みし、また喋り始める。

 「あと清峯大学とも迷ってて。キャンパスが広くてイベント楽しそうなんだよね。私大だけど偏差値的には行きやすそうだし。でもなー、宗教の授業ってなんか怖いのと土曜日も授業あるのダルいなー。早く決めろって言われるけど四年通うんだから考えたいじゃん。なのにあと半年くらいで受験シーズンでしょ?それまでに偏差値上げられる気がしない。兄ちゃんみたいに頭良くないし」

 「俺だって、頭がいいわけじゃない」

 「うわ嫌味!トンビが鷹を生んだってみんな言ってるのに」

 「俺はただ、机に向かってるのが苦じゃなかっただけだ」

 「それがもう才能じゃん。俺は絶対無理。あーあ、同じ親から生まれたとは思えないなあ」

 無邪気な言葉に、微かなざらつきが心臓を撫でた気がした。

 「……そうだな。俺もそう思う」

 

 よく変わる表情。素直な感情表現。

 同じ親から生まれたとは思えないほどに、弟たちは自分と違った。

 (……いや、そうじゃない)

 己が欠陥品なのだ。まともな両親から発生した異物。

 自分だけが、生まれる前に感情というパーツを落としてきてしまった。

 

 「そんで思い出したんだけどさ。兄ちゃん来月の二十三日空いてるよね?」

 ルイは脳裏でスケジュールを確認した。予定は一件。

 「おまえの誕生日だろう。夕方には家に行く」

 「ケーキ買ってきて!あとプレゼントはシャツがいい。この前新作で上がってたやつ」

 「後で商品名を送ってくれ。買っておこう」

 「やった!ブランド間違えないでね!リンクで送るから、絶対そこから買って!」

 「わかった」

 「じゃあ俺帰る!あんまり兄ちゃんの邪魔するなって言われたし」

 「気にしなくていい。車には気をつけろ」

 「うん。じゃーね!プレゼント忘れないでね!」

 リュックを担いで背を向けた弟を見送って、ルイは研究室に足を向けた。

 

 

 原稿の最後の一枚に目を通した教授は、うん、と言いながら顔を上げた。

 「いいと思うよ。『山羊は何も語らない』の公開直後の初期反応に三カ月後の追跡調査結果を足して比較・分析。『来航』は仮説を先に置いて、今後の展開として調査する余地を残している。これならひとまず学会発表の質はクリアできそうだね。あとは、プロデューサーやCGディレクターへの取材内容を仮説に反映してもいいかもしれない」

 「ありがとうございます。仮説のほうはもう少し推敲してみます」

 返された原稿を受け取った。

 「それと、一つ朗報があってね。ここだけの話だけど、今月末から山本監督が復帰する予定だそうだ。見込みだけどね」

 「では、撮影再開するんですか」

 「さすがにまだ無理じゃないかな。でも年内再開も視野に入れていると聞くよ」

 早ければ秋頃に、と教授がつけ足す。

 「もしかしたら、学会発表までにもう少し書けることが増えているかもしれないね」

 「はい」

 ファイルに原稿を納めようと開く。十数ぺージの何も入っていないポケット越しに、見覚えのあるレイアウトが目を引いた。「KODOU ミュージアム」のフライヤー。

 その幽寂たる佇まいと、独特の顔料とニスの混じった匂いを思い出した。ルイを案内した青年の、まっすぐに伸びた背筋も。

 ——監督の、復帰。

 

 それが意味することを思ったとき、胃の奥に心許なさがひやりと落ちた。

 『俺は監督の要望を理解し、完璧な表現で応えなければならない』。亜蝶は以前そう言った。彼が教授やルイに頼ったのは——そうせざるを得なかったのは、監督が不在だったからだ。

 しかし監督が復帰すれば、亜蝶には直接聞くという選択肢ができる。そして監督も、その熱意に全力で応えるだろう。

 (そうなったら、俺は……)

 ——亜蝶にとっての選択肢として、優先度は限りなく低い。

 「氷薙君?」

 声をかけられて、はっと意識を引き戻す。

 「大丈夫?気分でも悪い?」

 「いえ。……考え事をしていただけです」

 書類を今度こそファイルに入れ、バッグにしまい込んだ。

 「お時間をいただき、ありがとうございました。失礼します」

 「うん。また何かあれば相談して」

 柔らかい声に頭を下げる。

 廊下に出れば、開かれた窓から弾けるような蝉の声が聞こえていた。よく冷却された空気に混ざる前の、湿度をはらんだ熱風が微かに肌を撫でる。

 薄暗い廊下には過ぎるほど眩い外界を前に、ついに足を止めた。

 『お前はそう思わないのか』

 亜蝶の声が、脳裏に蘇る。

 『親に捨てられ、居場所も存在意義も奪われた。そのうえ名前まで奪い、今度は福の神だと持て囃す。それがどれだけの屈辱か!』

 (思わない。思えない。俺は)

 わからないのだ。何も。感情も本能もない、人の形をした虚像には。

 それでも、彼の瞳の奥に(とも)っていた輝きだけは、己の深いところに届く気がした。

 

 「屈辱、か」

 

 呟けば、胸の奥がわずかに痛んだ。亜蝶に会って以降、時々心臓を苛む熱。

 この痛みの正体を知らないまま、まともな人間のことも分からないまま、亜蝶という手がかりすら遠ざかるのだろうか。それはひどく——損失のように思えた。

 スマートフォンを取り出した。アプリを開く。最後の会話履歴はひと月以上前。

 

 しばらく迷って、ルイはメッセージ欄を開いた。 

 

 

 インターホンが鳴って、亜蝶は上体を起こした。

 ホームシアターを途中停止。ため息をついて玄関まで歩いた。モニターに映し出されている背景はエントランス——ではない。通話ボタンを押して、一言。

 「鍵があるでしょう。入ってきたらどうです」

 直後に電子音。ロックが解除される音がして、静かに扉が開いた。隙なくスーツを着こなした男と目が合う。

 「また抜き打ちで生活の監査ですか。ハウスキーパーや清掃業者にも報告させているくせに、熱心なことですね。僕ごときに思考を割く余裕があるとは、父もずいぶん暇なようだ」

 「暇、だなんて。烏麻先生は、いつも貴方のことを気にかけていらっしゃいます。この大事な時期のただ中でさえ」

 「大事な時期だからでしょう。家の恥が露呈しないように、ね」

 マネージャーはため息をついた。

 「……今日私が来たのは本業のためですよ。亜蝶」

 本業。その言い方に亜蝶は唇をゆがめた。父の私設秘書はあくまで副業——そんな体裁が通じると本気で思っているのか。

 だが、仕事の話だと言われれば乗るしかない。

 「スケジュール変更でもありましたか」

 「ええ。そして、貴方に朗報があります——山本俊樹氏が復帰されます。同時に「来航」の撮影再開も十一月初頭に決定しました」

 「……!」

 「入りますよ、亜蝶」

 一瞬の隙を突いて、マネージャーは亜蝶の横をすり抜けた。リビングに続くドアを開放する。

 「何を勝手に!そこには入るなと——」

 「今の貴方を立たせておくわけにはいきませんよ。鏡を見てみなさい」

 言われるまでもない。自分の状態など百も承知だった。

 「わざわざ家に押しかけておいて、どの口が!」

 怒鳴った瞬間、目の前が眩んだ。頭から一気に血が引く。崩れ落ちそうになる膝を根性で動かし、ソファに座り込んだ。

 甲高いアラートがマネージャーの鞄から鳴り響き、彼は無表情でスマートフォンを取り出す。一拍おいて、ふっとアラートが止んだ。

 フーッと威嚇音が聞こえ、頬をふわりと毛並みがかすめる。いつも他人が来ると隠れるくせに、今日はいつの間にか出てきたらしい。

 「……はあ。その雑種を見るのも一昨年以来ですか。品位を損なうと何度も忠告しましたよね?貴方に相応しい血統書付きの品種はいくらでも手配できるのに、よりにもよって捨て猫なんて」

 「プライベートには干渉しないでいただきたい。そういう取り決めだったはずですが」

 「しかし完全には分けられないことは理解の上で、でしたね」

 「ジュゼについて、慈善行為としてプロモーションに組み込むことには同意したでしょう。それ以上は無用な口出しです」

 それよりも、とマネージャーを睨む。

 「無駄話をすることが、あなたの本業ですか」

 「……いえ。本題に入ります。先ほども言いましたが、山本俊樹監督の復帰とともに『来航』の撮影再開が十一月初頭に決定しました。撮り残したカットを五日間で撮影しきるそうです。そのため、他の撮影スケジュールは前倒し、あるいは後ろ倒しになります。詳細な日程はこちらで調整しておきます」

 「ずいぶん早い再開ですね。監督は最近まで入院していたと聞いていますが」

 「ええ。ですがその理由は亜蝶、あなたにあります」

 数秒考えて、はっと亜蝶は息を呑んだ。

 浅くなりかけた呼吸を深呼吸で落ち着けて、口を開く。つまり——。

 「……今の政治状況に、何か変化があったということですか」

 頭がずきずきと痛む。父は外務大臣。現政権に変化があれば、良くも悪くもその影響は計り知れない。

 だが、撮影再開が「急がれている」のなら——まだ決定的な進退は判明していないのだろう。

 「現総理である小臼桂一氏が、今朝辞任を表明しました」

 案の定、告げられたのはそんな言葉だった。今すぐ何かが変わるわけではない。が、楽観視もできない事実。

 「……では、総裁選の結果如何では、僕の活動にも差し障りが出かねない」

 「その通りです」

 重々しい肯定に、こめかみの痛みが増した気がした。

 「あまり思い詰めないように、……と私が言うのもなんですが。その状態では三時間後のインタビューもままならないでしょう。リスケしておきます。今日は休みなさい。映画など見ている場合ではありません」

 「何を根拠に!舐めるな。この程度で——」

 「大声を出しただけで立ち眩みを起こすような健康状態で?舐めているのは貴方のほうですよ」

 「——!」

 咄嗟には、言い返せなかった。

 言葉を詰まらせた亜蝶をよそに、マネージャーはスマートフォンを操作した。微かなコール音が響くそれを耳に当てて、彼は亜蝶を軽く振り向いた。

 「これから各所に連絡を入れるので、事務所に戻ります。見送りはいりません。分かっていると思いますが、明日は朝の五時から撮影が入っています。準備を怠らないよう。では」

 足早に出ていく後ろ姿から目を逸らし、亜蝶は舌打ちした。乱暴にホームシアターの電源を切る。

 ピルケースから頭痛薬を取り出し、水で喉奥に流し込んだ。耳をぺたりと伏せて玄関を注視し続けるジュゼの背を軽く撫で、ため息をつく。

 「もういい。……寝ようか、ジュゼ」

 マネージャーに従うようで業腹だが、体調管理が疎かになったのは否めない。それは確かに怠慢と言ってよかった。

 疲労を外に示すようでは、完璧になどなれないのだから。

 

 

 メッセージの返信に気づいたのは、送ってからしばらく経った、ある昼下がりのことだった。

 『今から五時間なら空けられる』

 その一行を前に、ルイは思案した。送られたのはおよそ一時間前。

 場所の指定がない以上はいつものカフェにいるのだろう——そこまでは三十分程度で行ける。

 今日は大した予定もない。

 『これから行く』

 それだけ打ち込んで、ルイは鞄を手に取った。

 

 三度目に訪れたそこは変わらず人の気配がなく、店主はルイを見ると無言で奥を示した。頭を下げて、亜蝶の定位置の席に向かう。

 こちらを射抜く瞳と目が合った。

 「ようやくお出ましか」

 それには答えず、ルイは彼の傍に歩み寄った。照明が暗くわかりにくいが——あきらかに顔色が悪い。美術館で会ったときより、さらにやつれたようにも思える。

 「亜蝶。おまえの向上心は得難い美徳だが、今日は休んだほうがよさそうだ」

 「ッ、うるさい。どいつもこいつも……、俺の時間の使い方に口を出すな!」

 血走った目でねめつけられて、ルイはつかの間黙考した。

 「……わかった。だが、早めに切り上げさせてくれ。今日は予定ができた」

 時計を確認した。時刻は十四時を回っている。

 「予定?」

 「弟の誕生日プレゼントを買いに行く。どうやら人気商品らしい。オンラインショップは完売で、今日の十六時から在庫が補充されると」

 亜蝶が目を細めた。

 「——それで、馬鹿正直に十六時に店に行くのか?」

 「何かまずかったか」

 「それだけ人気なら、今行っても長蛇の列だろう。他の店舗にはもうないのか」

 「……弟が言うには、現時点ではそこでしか再入荷の目処はないと」

 あらためて文面を確認する。

 『今日の4時から!渋谷店で再入荷するって!』

 『たぶんそれ逃したらもうないから』

 『絶対忘れないで!』

 「お前の弟は、人選を間違えたな」

 亜蝶の声に、ルイは顔を上げた。

 「そうかもしれない」

 大きく息を吐いて、亜蝶は手を組んだ。

 「まるで他人事だな。で、どうする」

 「だが、……まだ、おまえの用事が」

 口ごもったルイに、微かに亜蝶が右頬を吊り上げた。

 「安心しろ。俺の用事はすぐ済む。これを返却したかっただけだ」

 「これは、前に渡した……」

 見覚えのあるタイトルを前に、咄嗟に二の句が継げなかった。

 教授が亜蝶に選び、そしてルイが手渡した本。

 「どれも興味深かったが、確かにお前が言った通り、俺の知りたい答えはなかった。だが——監督が復帰すれば、いずれにせよ必要なくなるものだ」

 「亜蝶……」

 周囲の音が遠のいていく。

 

 「返すものはこれで全部だ、ルイ」

 花が開くように、彼は秀麗なかんばせを綻ばせた。

 

 「俺は帰る。また夜から仕事があるからな」

 亜蝶が立ち上がるのを、ただ見ていた。弓なりに整った眉が、ルイを捉えて持ち上がる。

 「何をぼうっとしている。弟に頼まれているんだろう。早く行かないと売り切れるぞ」

 「……ああ」

 立ち上がり、亜蝶に続いて店を出た。

 駅は店を出て右側。亜蝶が足を向けた先は、その反対。

 別れの言葉すらなくとも、会う理由が亜蝶の中にもう残っていないことはうかがえた。

 真昼の太陽が後頭部を焼くのも気にならず、陽炎に揺らめく黒いシルエットを目で追う。 

 振り向きもしない背中を、だが目を離しがたくて見つめ——はっと我に返った。

 ——何をしているのだろう、俺は。

 (そうだ。誕生日プレゼントを)

 買ってやらなければ、また泣かせてしまう。

 駅に足を向けようか逡巡し、最後にもう一度だけ振り返った。

 

 

 ——瞬間。

 燃え尽きた蝋燭の芯のように、不意にその後ろ姿が崩れ落ちた。

 

 

 「ッ、————亜蝶!」

 何かを思うより早く、駆けていた。

 もどかしいほど遠い数百メートルの距離をようやく詰める。倒れ伏した身体を抱え起こし、日陰になっている石塀に凭(もた)れさせた。

 「亜蝶。……しっかりしろ、亜蝶!」

 真っ白な頬を掌で軽く叩いた。呼吸も脈も弱い。

 目立つ怪我はなさそうだが、頭を打ってはいないだろうか。もしくは監督のように重篤な病気が?

 思考が頭の芯に冷水を浴びせて、知らず、呼吸が浅くなった。

「——、うる……、さい」

 瞼が震えて、薄い唇から吐息のように声が漏れた。

 「……亜蝶」

 僅かな安堵に息を吐いた。意識はある。

 二度、三度、亜蝶が瞬いた。微かにその眉が寄る。

 「どうして、……、お前がここにいる、ルイ」

 「おまえが倒れるのを見たからだ。それより、動けそうか。動けないなら救急車を呼ぶが」

 「やめろ。一人で帰れる。余計な、ことをするな……、っ」

 石塀に手をついて立ち上がろうとした亜蝶は、立てないままに座り込む。

 「亜蝶」

 ふらついた体を引き寄せて横に倒した。頭を膝に乗せて回復体位を確保する。

 「は?……おい、離せ、何のつもりだ!」

 「落ち着け」

 もがく体を抑えて囁いた。あまり興奮しては身体に障る。

 「救急車は嫌か。だったら、せめて休んでいけ」

 「クソ、恩を売ったつもりか!誰がお前なんかに——!」

 ルイは眉根を寄せた。錯乱しているのだろうか。

 「やはり病院に行ったほうがいい。それとも、信頼できる誰かに来てもらうか。家族か……」

 そういえば彼は俳優だったと、今更のように思い出した。

 「それとも、マネージャーか」

 そう言った瞬間、発条(ばね)発条仕掛けの玩具のように亜蝶が飛び起きた。

 「やめろ‼」

 「ッ、亜蝶。まだ——」

 咄嗟に伸ばした手を、亜蝶は振り払った。

 「どけ!俺は誰にも頼らない。俺一人で、完璧に!この世界で、本物の、至高の俳優として君臨してみせる!」

 「————、あげは」

 

 (ああ、まただ)

 

 ちりちりと心臓が痛む。

 血の気を失った顔で、なりふり構わず叫ぶ彼を見ていると、その(たましい)の輪郭にほんのわずか触れられるように思う。

 だから手を伸ばしたくなる。幾度叩き落とされようとも。

 「……亜蝶」

 冷たい手を取り、己の肩に回す。今度は抵抗はなかった。ずしりとかかる重みから、そんな気力もないのだと察する。

 「一人で帰れる。ついてくるな」

 「今のおまえを一人で歩かせられない」

 「……はぁ。勝手にしろ」

 弱弱しく呟いて、亜蝶は行き先を指さした。

 

 

 近道でもあるという裏通りを抜けた先は、一棟の高層マンションがあった。

 空の青を反射する硝子製のバルコニーと、白いタイル壁が瀟洒なつくりが特徴の建物。一台の車もない駐車場を通り抜ける。裏口であろう扉脇に設置されたカメラに、亜蝶は右手のスマートウォッチをかざした。下部の小さなスクリーンに現れた暗証番号を入力——開錠。

 扉の中に入った亜蝶の腕から力が抜けた。ずるずると頽れていく身体を抱き留めて、広大なホールを見渡す。

 「亜蝶、まだ気を失うな。あのソファまで行こう」

 「く、……っ」

 押し殺した呻き声。お互いに限界が近かった。

 なんとかエントランスの壁際に置かれた革張りのソファに亜蝶を座らせて、ようやく一息つく。汗で濡れた額を手の甲で拭って、ルイは浅く息をする青年を見た。虚ろな目。絞り出すように咳き込んで、亜蝶はひゅうと喉で呼吸した。

 「本当に、大丈夫か」

 「……、——気遣いの、つもりか。虫唾が走る」

 「おまえの自律心は尊重したいが、精神論だけでは成り立たないこともある」

 息を整えて、エレベーターを見上げる。一階にいることを確認。

 膝を落とし、ソファで蹲る亜蝶の膝裏と肩甲骨に両腕を差し込んだ。そのまま己の脇は締め、体幹の上下運動に合わせて一気に持ち上げる。

 「……!ルイ、貴様!何を……!」

 「暴れるな。なるべく気を付けるが、おまえを落とさない自信はない」

 「貴、様……、俺を脅すとは、いい度胸だな!」

 吐き捨てた亜蝶に返事をする余裕もなく、エレベーターまで歩を進めた。

 「おい。そこに認証システムがある。もう少し右だ。……そこで止まれ」

 手早く亜蝶がロックを解除する。音もなく開いたエレベーターに乗り込んで、壁に背と腕を預けた。二人分の荒い呼吸音が狭い空間に響く。

 各階が一秒ごとに通り過ぎていくのを待つ時間は、永遠のようにも思えた。

 『ドアが開きます』

 合成音声が響き、同時に亜蝶の体が動いた。

 「もういい。下ろせ!」

 強引にルイの腕を振りほどき、亜蝶が床に下りる。先ほどよりは確かな足取りで、ある部屋の扉を開けた。よろめきながら入っていった亜蝶を追いかけて、ルイもその後ろに続く。

 「亜蝶。廊下で寝る気か。こんな場所で寝たら身体に障る」

 「……ッ、まだいたのか」

 広い廊下の端で座り込んだ亜蝶の腕を取った。触るな、と呻いた亜蝶の腰を支えて立たせる。

 「ベッドはどこだ」

 「人の話を聞け!」

 「おまえがベッドで寝てくれれば帰る」

 「過干渉も大概にしろ。余計な、お世話だ……」

 そこで寝る、と指で示されたのはリビングのソファだった。艶のあるベルベット地のソファはゆったりと座面が広い。こちらに背を向けるように横になった亜蝶に、ローテーブルに置かれていたブランケットをかけた。

 視界の端に何かがよぎった気がして、振り向いた。扉の影からじっとこちらを見る眼差し。

 「……猫?」

 「ん、……ジュゼか」

 「飼い猫か」

 亜蝶を見る。こちらを振り向いた彼が、猫を手招きした。

 「ジュゼッペだ。しかし、珍しいな。こいつが初対面の人間に姿を見せるなんて」

 「そうなのか」

 「人間が嫌いだからな。俺以外にはまず近寄らない」

 猫——ジュゼッペは素早くルイの脇をすり抜けて、亜蝶の傍に座った。丸い目がルイを見上げる。

 少し迷って、ルイは慎重にジュゼッペの鼻先に指を近づけた。すっと首を引いた黒猫は、ややあって冷たい鼻先でルイの匂いを嗅ぐ。ぺろりと自身の鼻を舐めて、ジュゼッペは部屋の外に走っていった。

 ひとまず、敵ではないと認められたということでいいのだろうか。

 「気は済んだか」

 亜蝶の声に、頷いた。

 「だったらさっさと帰れ。邪魔だ」

 「そうしよう」

 「それと、——こんなことで弱みを握ったなどと思うなよ」

 「そんなことは思っていない」

 亜蝶は鼻を鳴らした。

 「どうだか」

 部屋のドアに手をかけた。わずかに振り返る。

 「おまえの誇り高さに敬意を覚えこそすれ、弱みだと思ったことはない。今はなるべく休むといい」

 映画の完成を、心待ちにしている。

 それだけ言い残して、ルイはリビングを出た。

 

 

 正面玄関を出て、庭園のような植栽を抜けたとき、マンション前に黒塗りの車が停止した。スモークガラスで車内の様子は見えない。

 運転手側のドアを開けて降りてきたのは、この暑さの中でもかっちりとスーツを着込んだ男性だった。

 

 一瞬、互いの視線が交錯する。

 

 軽く会釈したルイを横目に、彼は靴音を響かせてエントランスに入っていった。

 

 

 

 「お久しぶりです、烏麻さん」

 「ご無沙汰しております、監督。復帰を心よりお祝い申し上げます」

 「ありがとう」

 監督復帰後の最初の打ち合わせ。ようやく一歩進んだ実感に、亜蝶は口元の端を持ち上げた。

 「烏麻さんの近頃の活躍は耳にしています。先日はついに国際映画祭の助演部門賞を獲得したとか。オリコンの年間再生数も、過去最高記録を更新したと報道されてましたね」

 「監督のお耳にまで届いていたとは、恐縮です」

 「『来航』主題歌のデモの提出も、ありがとうございます。あとで聞かせてもらいますが、非常に楽しみです」

 「映画の世界観と魅力が十二分に伝わるよう、心を込めさせていただきました。監督のお心に適えば幸いです」

 「ますます楽しみになってきたな。君の描く世界観はダークながら緻密で壮麗。きっと『来航』にふさわしいものになるでしょう」

 監督は一口水を飲み、台本を開いた。

 「……さて。あまり雑談につき合わせてもいけない。本題に入りましょう。残るシーンは十一。本当は前回撮りかけだったシーンからいきたかったんですが、最終日になりました。あそこは君 にしては珍しく苦戦してましたね」

 「ッ……、不甲斐ない限りです。監督やスタッフの皆さんの手を煩わせてしまいました」

 「試行錯誤はつきものですよ。どんな名優だって、全シーン一発OKなんてあり得ません」

 それにね、と監督は続けた。

 「私はあのとき、主人公が君でよかったと思いました。心から」

 「……僕が?」

 「ヒルコってね、兄弟みたいに日本の神様になれるはずだったのに、生まれのせいで何にもなれなかった存在なんです。両親の結婚の作法が失敗したから正しい姿で生まれられず、日本からも追放された。恵比寿という名前になって、外国から来る福の神様とならなければ受け入れられなかった。この映画ではそういうポジションになってる。その彼と本気で向き合って、本気で言葉を届けてくれる主人公に、君ならきっとなってくれると思ったんですよ」

 「監督……」

 「あの時の君も、雨の中ずぶぬれになって、真っ青な顔で震えてて、それでも真剣にヒルコを説得してた。……だけど何回もリテイクしてもらったのは、君の中に必死さが見えなかったから」 

 監督の言葉に、亜蝶は押し黙った。

 「いいんです。君は若いし、……私だって若い頃は全く興味なかったです。国とか、そこに生きている人のことなんて考えるような年でもない。守りたいほど大事なものも別になかった。国を 背負って戦う心境なんて、簡単に想像できるものでもない」

 亜蝶は頷いた。それも監督の期待に沿えなかった一因なのだろう。

 「ですが、……僕が真に向き合うべきなのは、そこだけではないのだと思っています」

 「というと?」

 「僕はずっと気になっていました。ヒルコは二千年の間、この国を恨んできた。並大抵の憎悪ではない。だというのに、『それまでの悲劇は全て試練だった』と言われて納得してしまうのは、らしくない。そう思っていました」

 監督が目を細めた。考え込むように視線を落とす。

 「結末を否定するわけではありません。ただ、いささか唐突に過ぎるのではないかと。『何者かになれたはずなのに、生まれのせいでなれなかった』——これは多くの人の共感を集める絶望と憎しみのはず。ここを雑に消化してしまえば、これまで積み上げてきた設定がもったいない。そうは思われませんか」

 一度、深く呼吸した。

 「そのために、陰陽師はより説得力のある言葉、そして行動でヒルコを説得しなければなりません。心理学に詳しい人にも聞いてみましたが、やはり僕にはうまく掴めなかった。ただ……彼は非常に興味深いことを言っていました」

 境内に響いていた雨音の中でもよく通った声を思い出す。何度も反芻した言葉。

 「たとえ事実でなくとも、ヒルコ及び恵比寿神は『捨てられたのではなく試練だった』と再解釈することによって、『加害者』たる親や日本から自由になり、赦しというプロセスを経て回復する、と」

 監督、と呼びかける。

 「あなたが描きたかったのは、こういうことですか。もしそうなら、具体的なヴィジョンを聞かせていただけませんか。あなたの言葉があれば、僕はもう迷いません」

 監督はまだ、考え込むように俯いていた。だが、その目は何かに気づいたように見開かれていた。やがてそうだ、とその口が動いた。

 「そうです。そうだよ烏麻さん。私は——そう書くべきだった」

 早口で監督は言いつのった。

 「いや、恥ずかしながら、私は尺の限界だと言い訳して都合のいい展開に逃げてしまった部分があるんですね。きっと君が覚えた違和感はそこなんだろう。でも、君の言う通り、ここで雑に消化してしまうのは、確かに……もったいない」

 小さく監督が笑う。

 「ライターさんに相談してみます。ああ、スケジュールには影響しないようにしますよ」

 晴れやかに、そして少年のように瞳が輝いていた。

 「もし機会があれば、その人にお礼を言っておいてください。あなたのおかげで良いものが作れそうだ、と。もちろん烏麻さんも、教えてくれてありがとうございます」

 「お役に立てたなら、光栄です」

 軽く顎を引く。

 ——ルイに?

 ようやく借りを完済したと思ったのに、どうしてか濡れ葉のようにまとわりつく男。こちらからわざわざ構ってやる義理もない。おまけに礼という言葉で介抱された記憶を思い出して、舌打ちしたくなった。とんだ辱めだ。

 「監督。では、一日目の撮影シーンについて伺わせてください」

 ちらつく男の顔は、台本の文字で上書きした。

 

 

 見事な金色の出汁巻きを箸で割って、小葱と大根おろしを乗せた。醤油を少し垂らして皿に盛ってやる。

 「おお~。これが出汁巻き……」

 「冷めないうちに食べろ」

 「ねえ兄ちゃん、俺やっと居酒屋来れたね!」

 「そうだな」

 五回は繰り返した台詞だが、余程嬉しいのだろう。ルイとしても、ここまで喜んでもらえたなら何よりだった。

 「これをお酒と飲むと美味しいんだろうね。ビール?日本酒?どっちがいいの」

 「俺にはよくわからない。それと、飲酒は二十歳になってからだ」

 「知ってるよ!」

 出汁巻きをぱくつきながら、弟が呟いた。

 「けど、知っておきたいでしょ。大人になったんだからさ」

 「そういうものか」

 先週、弟は誕生日を迎えた。

 シャツが入手できなかったと伝えたときの反応は案外大人しかった。気が変わりやすい性格の弟だ。興味が失せていたのかもしれない。代わりに居酒屋に行きたいと言い出した。

 『俺今年で成人じゃん!だからそのお祝いも兼ねて!お願いお願い!みんな居酒屋行けるのに俺だけハブなの嫌なんだよ!』

 両親と話し合ってもらったうえで、二十一時までに家に帰ることを条件に、ルイが保護者も兼ねて居酒屋デビューとなったわけだ。

 「テレビついてんね。ふーん?選挙結果決まったんだ」

 「これからはニュースも見ておくといい。おまえも有権者になったんだ」

 『兎堂(とうどう)新内閣発足 首相会見』というテロップの上で、男性がマイクを持って演説していた。音声がないが、字幕でなんとなく内容はわかる。

 「兄ちゃん、テレビばっか見てたら全部貰っちゃうよ」

 「刺身は全部食べていい」

 「マジ!?やった!」

 ウーロン茶を一口飲んだ。出汁巻きを口に運んで咀嚼する。柔らかな食感に、ほどよく塩気の効いた味。テレビ画面が切り替わった。

 『汐見財務大臣』

 『榊経済安保大臣』

 『槇岡文部科学大臣』

 次々と流れてくるテロップ。閣僚の顔写真と特命担当を見るともなしに眺めていると、弟がメニュー表を突き出してきた。

 「ねえ兄ちゃん。次、この水晶鶏ってやつ食べたい。あとガーリックポテトサラダ」

 両親がいくらか補助金を持たせてくれていたことに感謝した。目に付くものを片っ端から頼んでいる。ルイの所持金だけでは到底追いつかない勢いだ。

 「わかった。今七時半だから、それを食べたら帰ろう」

 「え!もう?ちょっと待って、じゃあラーメンで締めにしようかな……」

 「春巻きと焼き鳥セットも頼んでいるからな」

 「うん!あ、待って親子雑炊?どうしよう」

 悩み始めた弟に無意識に頬を緩めて、ルイはテレビを見上げた。画面の中で、先ほどとは別の男性がマイクを持って話している。

 『烏麻内閣官房長官』

 テロップには、そう映っていた。

 

 

 駅まで弟を送り、家に帰ったルイは、階段を上って部屋のあるフロアに足を踏み入れ——。

 足を止めた。

 自分の部屋の前に、黒いスーツを着た人影が二人立っていた。身長と体格からどちらも男性。

 時刻は二十時半。こんな時間に行政関係者が来ることはまずない。

 知り合いかと一瞬考えたが、少なくともスーツを着た男性と面識はない。顔にも当然覚えがない。

 『兄ちゃんって人の顔覚えないよね』

 ——弟によくそう言われることを思い出すと、断定はできないが。

 部屋を間違えている可能性もあるが、通報の準備もしておくに越したことはないはずだ。

 スマートフォンを取り出したルイと、手前にいた男性の目が合った。首を傾けて話しかけたのは、隣に立つ、どこかただならない雰囲気の男性。ちらりとルイを見る視線には威圧感があった。

 やがて手前の男性は手のひらで相手を制し、一人でこちらに歩いてきた。

 「——お待ちしていました。氷薙ルイさん、ですね」

 ルイは息を詰めた。この確認からわかることは二つ。名前を知られている。そして、相手は面識のない他人。

 「どちら様ですか」

 すぐには答えず、彼は形だけの微笑を口元に佩いた。

 「烏麻家の代理として参りました。後ろの男は付き添いなので、捨て置きくださって結構」

 烏麻家の代理。それが意味することを測りかねて、ルイは眉をひそめた。

 「当家の蝶が、こちらの把握していない間に、お世話になったようですね」

 「亜蝶のことですか」

 代理と名乗った彼は、軽くうなずいた。

 「彼は現状が窮屈なようで、よく籠から抜け出してしまうのです。結果、どれだけこちらが気をつけても、野の花の蜜をこっそり吸いに行ってしまう。困ったものですね」

 婉曲表現の羅列だが、言いたいことはかろうじて掴めた。

 「……亜蝶に、近づくなということですか」

 「さすが、弘徳大学の院生さんともなれば話が早い」

 相手が笑みを深めた。

 大学まで調べられているのか、と思う。おそらくルイの情報を、彼はほとんど把握しているということだ。

 「近づかないというのは、どの範囲で?俺の研究をご存知なら、完全に関わりを絶つのは難しいこともご理解いただけるはず」

 「テーマを変更したらいいでしょう」

 こともなげに言い放たれる。

 「もちろん強制はいたしません。研究とやらも、烏麻に関わらない範囲ならご自由に。ですが、当家から預かったを秘蔵っ子を俗世の穢れに染まらせないのが、私の仕事でもあるので」

 勘違いしないでいただきたいのですが、と代理人は言った。

 「これはあなたのためでもあります、氷薙ルイさん。亜蝶(かれ)とは、関わるべきではないのですよ」

 声が柔らかくなる。少し身をかがめて、のぞき込むように見つめられた。

 「スキャンダルをハイエナのように狙う記者に、取り巻く熱狂的なファン。そして生まれという圧倒的な特別性。彼は非常に危うい綱渡りをしています。万が一火種になってしまえば、誰もあ なたを守れません。ご自分と、そしてご家族を、危険に晒していいのですか?」

 「!」

 「今日一緒に歩いていたのは末の弟さんですか。受験生ですね。もう一人の弟さんも、社会人野球の選手として活躍中。烏麻と関わり続ければ、彼らの将来も保証はできません。弟さんたちが大事でしょう?」

 弟たちが大事なのかと言われると、わからない。

 そう感じる機能が自分には備わっていない。だが。

 「……大事にしたい、とは、思っています」

 「よいお兄さんですね」

 代理人は姿勢を戻した。

 「ですが、亜蝶次第です」

 「というと?」

 「亜蝶が俺に関わらないなら、俺はこれ以上干渉しません」

 もっとも、と付け足す。

 「心配なさらずとも、亜蝶が俺に関わる理由はもうありません。彼はプロの俳優です。リスクを冒して俺と接触したのは、亜蝶が誇り高く、なにより役に忠実だったからです」

 監督や教授の代替品。ルイにはそれ以上の価値はないと、亜蝶はあの時はっきりと示した。

 そのことに異論はない。どれだけルイが彼を「     」と思おうと——。

 (……?)

 何かを掴みかけ、——しかし、それはうまく思考にならずに霧散した。

 (俺は今、何を考えた?)

 

 問うても答えはわからなかった。

 だが、なんとなく——探し求めていたものを、ほんの僅かな距離で掴み損ねたような。

 そんな据わりの悪い感覚が、いつまでも尾を引いていた。

 

 

 扉を叩く硬質な音がして、亜蝶は浅い眠りから覚めた。

 「亜蝶。起きていますか」

 「……今起きました」

 気怠く身体を起こすと同時に扉が開く。入ってきた声の主は夜風の匂いをまとっていて、直前まで出かけていたことを亜蝶に教えた。

 「呼びつけておいて待たせるとは、僕も舐められたものですね」

 「すみません、亜蝶。思いのほか用事が長引いてしまいまして」

 収録帰りに事務所へ連行された挙句、待たされるとは。思い出して沸々と怒りが湧く。

 「……それで、わざわざ事務所に僕を連れてきた理由はなんでしょう」

 「あなたの今後の身の振り方について、改めて確認しておきたいのです」

 「——……、まさか説教のために、僕は呼び出されたというんですか」

 かっと頭の芯が熱を持つ。息を長く吐いて、冷静に言葉を絞り出した。

 「いいですか、亜蝶。烏麻先生はついに内閣官房長官の座を手にされました。総理大臣の地位はもはや秒読みと言っても過言ではない」

 「誰がそんなことを聞かせろと!」

 虫唾が走る。憎み、嫌悪してやまない男の話など、これ以上一言でも耳に入れたくなかった。

 「落ち着きなさい。あなたのキャリアとて無関係ではいられません。今後はさらに身辺の管理が重要になってきます。これまではあなたが勝手をしても、多少は目こぼしがききましたが……そろそろそれも時間切れです」

 

 

 世界が閉じていく音がする。

 

 

 「差し出がましいことは承知の上ですが、こちらが把握していなかった人間関係も整理させていただきました。コートと傘を貸してくれた善良な一般人にも、丁重にお引き取りを。何度もあなたのお気に入りの場所で会っていたようですしね」

 「——、ルイに何を言ったんです!」

 蒼白になって詰め寄った亜蝶とは対照的に、マネージャーは顔色一つ変えなかった。

 「やはり彼でしたか。安心してください、あなたのイメージダウンに繋がることは言っていません。一般人の分際で俳優、それも政治家の息子と関わるのがどれほど危険かを説明しただけです。幸い理解を示してくれましたよ。あなたが関わろうとしない限り、干渉する気はない、と」

 (……あいつらしい)

 主体性のない言い方は相変わらずだった。どんな「説明」をされたか知らないが、あの通りの淡泊な表情でぼんやりした答えを返していたに違いない。

 少しだけ落ち着いた亜蝶に、マネージャーは続ける。

 「ですから、このタイミングであなたには釘を刺しておこうかと。記者たちはあなたを俳優としてだけではなく、烏麻先生の弱点としてもつけ狙っている。特に今後はほんの些細な綻びすら大穴として喧伝しようとするでしょう。そんな連中に、あなたのことが万が一明るみになったら」

 「——何が、言いたいんです」

 足を組む。

 凍てついた声で、亜蝶は言葉を重ねた。

 「僕の生まれがあいつの、あの聖人君子を装った屑の瑕になる。あなたはそう言いたいのですか」

 「亜蝶」

 「そうだとも。それがどうした。それを承知で、あいつは俺を芸能界に放り出したんだろうが!」

 目の前の机を蹴り飛ばし、立ち上がった。湯呑が絨毯に転がり、冷めた中身を撒き散らす。

 「本気で隠蔽したいなら、一生閉じ込めておけばいいものを。目障りになって俺を家から出したなら、死ぬ気で隠し通すくらいしてみせろ!」

 「落ち着いてください!」

 「何が総理大臣だ!妾を囲い、子まで産ませ、それをひた隠しにし続ける下衆のくせに!あいつの、あいつらのせいで、俺は!」

 扉が開く。声を聞きつけたスタッフたちが亜蝶を総出で抑えにかかった。羽交い絞めにされ、膝をつかされる。途方もない惨めさに脳が沸騰した。

 嗤う声がする。物心ついてからずっと、亜蝶を指さし、嘲笑う声。

 ——生まれてきてはいけなかった、日陰の子。

 一族の恥。情けで烏麻の名を与えられた、出来損ない。

 呪いのように付きまとう言葉と嘲笑が耳元でさざめいた。銀砂を撒いたように視界が明滅し、急速に視界が暗くなる。

 何を思う暇もなく、意識はぷっつりと途切れた。

 

 

 

 鳥の声が遠くから聞こえてきて、ルイは首を巡らせた。

 相変わらずの暑さとはいえ、鱗雲が見られるようになった秋の晴れ渡った空を見上げる。キャンパスの梢の中にでもいるのか、鳥影は見当たらない。

 学部生は受講中なのか、人気のないテラスで佇んだ。学会発表の資料も期限内に提出できた今、やることは特にない。

 静かだった。

 思えば自分の世界はずっとこうだった。彩りもなく、特別な事件もない。時折触れる他者の温度も、肌を淡く撫でて消えていく。それだけだった。それだけの、はずだった。

  

 亜蝶と出会ってから、凪いでいた世界に、確かにさざ波が立った。

 

 初めて亜蝶を見たとき、あの苛烈なまなざしが中空を見据えたと同時、世界の深層すらも震わせたというのだろうか。あるいは雨の中響いた声の、刃のような鋭さが?

 異国情緒溢れるカフェで吐露された痛烈な問いかけ。エレベーターの中で、服を通して伝わってきた体温と息遣い。

 

 全てが五感を通して残響し、ルイを捕えて離さない。

 

 だが邂逅はほんの一瞬で、二人の道は再び分かたれた。元に戻ったと形容するのが正しいのだろう。

 『亜蝶(かれ)とは、関わるべきではなかったのですよ』

 代理人の言葉が意味することは理解できる。

 違う世界の住人。政治家の息子として生まれ、華やかな芸能界で生きる亜蝶。いち庶民に生まれ、とりたてて変化のない環境でただ漫然と生きてきたルイとでは、生きる場所が違う。

 そして不都合が起きれば真っ先に標的にされるのは自分だ。その影響はおのれ一人では済まないかもしれない。代理人の言う通り、何も知らない家族にまで危険が及ぶ可能性も否定はできない。

 

 『万が一スキャンダルの火種になってしまえば、誰もあなたを守れません』

 

 紛れもなく事実で、正論だった。それに従うのが道理なのだろう。

 時折感じた微かな胸の痛みもいつか風化して、色のない日常に戻るのだろうか。

 (それが、……正しいことなんだろうか)

 眼前に広がる中庭を見下ろしたときだった。

 「氷薙君。どうしたの、こんな場所で黄昏れて」

 「高崎先生」

 振り向いた。教授はコンビニの袋を提げている。買い物帰りなのだろう。

 「少し、考え事をしていただけです」

 「考え事?研究で行き詰ったことでもあった?」

 「いえ……俺は」

 正直に話すべきか悩んで、ルイは口ごもった。亜蝶は教授の知己でもある。ルイが亜蝶と知り合うきっかけであり、ルイを通した亜蝶の願いにも応えてくれた。プライベートなこととはいえ、 亜蝶との交流を隠す理由もない。

 それに、あの代理人にも亜蝶に積極的には接触しないことを明言している。それが研究にも影響を及ぼすのなら、共有しないわけにはいかないだろう。

 「……相談させていただいても、いいですか。少し、込み入った話になりそうですが」

 教授は腕時計を見て、頷いた。

 「構わないよ。ちょうどこの後は講義が入ってないんだ。私の研究室でゆっくり話そう」

 

 

 「うーん、面倒だね」

 音を立ててお茶を啜り、教授はそうぼやいた。

 「まあ、……その代理の人?は強制しないと言ったんだし、研究については特にテーマ変更の必要はないと思うよ。烏麻君に直接話を聞くような予定もないでしょう」

 「はい」

 「烏麻君側からこちらに対して、正式に抗議や要請が来たら考えよう。君の研究は私と大学が責任を持って守る。だから、研究の心配はしなくていい」

 「ありがとうございます」

 思わず息をついた。ひとまず研究について、立場が保証されたのは大きい。

 「ただ、……烏麻君は確かに非常に特殊な立場になってしまったね。もともとメディアでも私生活は秘匿されがちで、それゆえにイメージ管理も厳しいと聞いている。デビュー当初から名家の御曹司であることがブランドでもあったから、友人関係であっても一般人と関与することが印象悪化に繋がりかねない」

 なるほど、とルイは頷いた。

 「だから俺が、『俗世の穢れ』だと」

 「……そんな言葉は気にしなくていいよ。その人は聖俗で境界を測るのが選ばれた者の特権だと思っているだけだ。その見方には何の価値も意義もない」

 教授にしては強い口調だった。表情も苦々しさを帯びているようにも思える。

 「……もしかして、怒っていますか」

 「当たり前だよ。私の大事な教え子に向かって、穢れだなんて」

 「大事……」

 『弟さんたちが大事でしょう?』

 代理人の言葉が脳裏に蘇った。人生の中で、時折耳にしてきた言葉だった。

 「大事にする」やり方は学んできた。「大事にすべき」関係も概ね把握できる。

 だが——「大事」という感情だけは、どうにも実感がわかなかった。

 「大事とは、どういう感情ですか」

 教授はわずかに目を瞠った。一拍ののち、苦笑する。

 「……感情って、表現するのは容易いけど、聞かれると難しいね」

 唸って、教授は立ち上がった。

 「説明するには本が楽だけど、本に頼りすぎてもいけないんだよね」

 でもつい探しちゃうよ、と教授は独り言ちる。

 「自分の考えがあるんだし、それを説明できるほうがきっといいんだろうけど」

 「『答えはすでに、当人の中にある』ということですか」

 「そうそう。言ったねえ、そんなこと」

 本を引き抜いてはめくって閉じ、棚に戻す。それを数度繰り返して。

 「——本は鍵だけど、扉は自分で開けるものだと思うんだけどね。さて、これがいいかな」

 ルイに差し出されたのは心理学の理論書だった。この大学で一般に使われているもの。

 「ここの欄。構成主義的情動理論ってところね。我々の研究分野では頻繁に見かける概念だけど、あらためてここに立ち返ろうと思う」

 テキストの一部を、教授の指が軽く叩く。

 「喜怒哀楽といった『基本的な感情』があらゆる人間の中に生まれつき存在するという論は、医学・社会学・哲学などあらゆる分野において当然のものとされてきた。心理学でも長らくそう言われてきたね。でもこの理論ではそれを否定する」

 「感情とは外部刺激にたいする反応、あるいは内面で発生した感覚を、それまで構築されてきた当人の認知でもって、『感情』として意味づけや名前づけをするとされる。そう理解しています」

 「その通り。つまるところ私の『大事』という感情は、私の中に自然発生したというより、君への愛着という体験にその名前をつけたんだね。君が教え子で、学部生だった頃から四年ほど共に過ごしてきた年月があって、それが君を『大事』という存在として定義せしめている」

 そう、なのだろうか。

 だったら自分にとって、教授は「大事」な存在なのだろうか。弟たちを、両親を、自分は「大事」だと定義しているのか?

 もう一度提示された部分を指で辿る。

 『基本的感情について、その本質存在は否定される。また認知評価説や古典的感情理論が想定するような、特定の感情に専有される認知処理システム及び神経基盤も実在しないとされる。すなわち感情とは、感覚・身体状態に社会的・認知的な概念を意味づけすることによって知覚されるのである』

 

 だが——本当にそうなら、どうして自分以外の誰もがその情動を生まれながらに扱えるのか。

 言葉を話せるようになった弟たちは、同じ環境で育ちながら、あっと言う間に感情を理解して主張し始めたというのに。

 (それができないから、俺はまともな人間にはなれないということなのだろうか)

 鍵がどれほど優れていても、扉がなくては開かない。

 

 『答えは、当人の中にある』。

 教授の言葉を、声に出さないまま反芻する。

 しかし、答えが存在しないことがあるのだとすれば——やはり自分は、非人間であるということなのだろう。

 

 

 門を出たルイは、強い西日に目を細めた。

 色づき始めた葉を橙色の光が照らし、ぬるい風が枝を揺らす。

 終鈴が響く学校を背に、足早に帰途についた。

 

 

 撮影再開の正式なスケジュールがルイに届くのは、それからしばらく経った十月の半ば頃。

 ——新総理の電撃辞任が世間を騒がせるのは、そのさらに一週間後のことだった。

 

 

Light, my light, the world-filling light, the eye-kissing light, heart-sweetening light!

 

 税関を抜けた先の通路には、日本文化を紹介する展示やパネルが配置されていた。

 左手側の壁一面を紅に染めた大きな複製画に観光客が歓声を上げる。右手側は深青の海と輝く白い漣に映える紅葉。横山大観『紅葉』を大胆に活かした構図に亜蝶は目を細めた。ショーケースに入れられた紅葉の友禅、菊模様の西陣帯でわかりやすい華美さで日本文化が誇示され、これにもこぞってシャッターが切られる。奥に「源氏物語図屏風 紅葉の賀」の等身大パネルが飾られ、英文で解説がされている様は、美術館さながらだ。

 外国人観光客だけでなく、日本への帰国者とおぼしき面々も展示に見入り、あるいは足早に到着ロビーへと歩き去っていくのを見送りながら、亜蝶は視線だけで後方を見やった。つかず離れず彼について歩く二人の日本人。展示を見るどころか、亜蝶から視線を離す様子が微塵もない。こうして亜蝶が目を向けているのには——きっと気づいている。

 (——さて)

 あの不審者たちをどう見なすか。

 これまでにも後をつけられた経験はあった。熱狂的なファン、記者、あるいは探偵。

 だが連中は亜蝶に気づかれることを喜ぶか、もしくは必死に身を隠した。粘着質な目と後ろめたさが滲む身のこなしをしていたが、この二人は違う。無機質な視線と堂々たる振る舞いは、亜蝶の知るどれとも対照的だ。むしろ近いのは——。

(警備員。だが、なぜ今)

 父が官房長官だからか。しかし出国したとき、私服警備員がつけられた記憶はない。

 

 嫌な予感に、息を詰めた。

 知らないところで何かが起きている。

 

 「亜蝶。お待たせしました、警備体制の確認に時間がかかりまして」

 「それは、あの二人と関係が?」

 少しして姿を見せたマネージャーは、亜蝶の問いに頷いた。

 「ええ。彼らは貴方の安全を守るSPです。今後しばらくは、この体制が常態化すると思ってください」

 「……どういう意味ですか」

 「詳しい説明は後で。猶予がありません。あなたの帰国がSNSで拡散され始めています。鼻が利く報道陣に場所を特定されれば厄介なことになる」

 マネージャーの目配せを受けて、SPが亜蝶の前と右手側に一名ずつ回り込んだ。人感センサーが反応してゲートが開く。両脇にカメラが複数——レンズが一斉に亜蝶を捉えた。

 「亜蝶、質問が来ても一切反応しないでください」

 「わかりました」

 マネージャーの声に被せるように、記者が声を上げた。

 「Dr.甲斐のχ(カイ)法:ミラノ編』の撮影、手応えはいかがでしたか!」

 「見どころについても教えてください!」

 SPが詰め寄る記者をいなしながら、亜蝶を振り向いた。

 「急いで。出口に車を回してあります!」

 フラッシュが焚かれ、雨音にも似たシャッター音がロビーに響き渡る。

 SPとマネージャーに急き立てられて出口に向かった。自動ドアをくぐり抜け、待ち構えていた車に飛び乗った亜蝶の背中に被せるように、声が追いかけてきた。

 

 「父である烏麻新総理に向けて、何か一言!」

 

 

 音を立てて閉まった扉の向こうで、その言葉がいつまでも反響していた。

 

 

 

 父の総理就任のネット記事を、亜蝶は見るともなしにスクロールしていた。

 覚悟はしていたつもりだった。だが、実際父が総理大臣になった今、現実に起きていることとは思えなかった。

 (悪い夢を、見ているみたいだ)

 「亜蝶。突然のことで驚いたでしょうが……」

 マネージャーの言葉も、心なしか歯切れが悪かった。それが滑稽で、亜蝶は薄く笑った。

 「あなたにとっては、喜ばしいことでしょう」

 「それは……ええ。ですが亜蝶、あなたは思ったより落ち着いていますね」

 「僕が取り乱すとでも思いましたか」

 前首相辞任の情報は、ちょうどイタリアでのドラマ撮影中に公表されたらしい。周到なことに、現場では口止めを徹底していたようだった。だからこそ、亜蝶の冷静さが奇妙に映っているに違いない。

 「正直に言えば。ですが取り乱さずにいられるなら早めに共有しておきましょう。今後のスケジュールについてですが、来月初頭に大幅な変更が出るはずです。あなたが熱心に取り組んでいた 『来航』——」

 ぴく、と肩が跳ねたのが、自分でもわかった。

 「——あれは今のあなたが演じるには問題が多い作品となりました。現総理の息子が、国に恨みを持つ神を鎮める。現政権が反政府勢力を鎮圧する構図にも見えるでしょう。プロパガンダの印象を与えることは容易に想像できます」

 「……」

 「おそらく製作委が撮影に否を唱えますから、続行はまず見込めないと考えておいてください。来週にはきっと進退が正式に公表されているので、正式なスケジュールはその後に共有します」

 返事をしない亜蝶に、マネージャーは付け加えた。

 「亜蝶。あなたはどんな映画にも真剣に向き合っていた。この映画の撮影でも、一切の努力を惜しまなかったのを、私は知っています。……ですがこういったことは、よくあることでもありま す。これから先も、必ず同じようなことはあるでしょう。いちいちショックを受けていては、身が持ちませんよ」

 あまり、気落ちしないように。

 

 マネージャーから目を逸らす。

 空々しい慰めの言葉をよそに、亜蝶はただ窓の外を眺めた。

 

 

 ようやく帰りついた自室の中は暗く、しんと冷えた夜の空気が室内を満たしていた。

 電気をつけてからしばらく玄関に立ち尽くし、そういえばジュゼはペットホテルに預けていたのだと思い出す。

 「……は。間抜けだな」

 コートをハンガーにかける気も起きなかった。ラックの角に引っかけて、リビングに足を踏み入れる。同時に入口が開き、マネージャーがトランクを持って入ってきた。

 「亜蝶。荷物は玄関に置いておくので、荷解きは自分でしてください。食材はハウスキーパーが冷凍庫に食べ物を入れておいたそうなので、それを食べるように」

 「わかりました」

 「外出の際は必ずSPが警護につきます。無駄な外出はしないように。どこかへ行くなら、原則私に連絡をください。それと、スマートフォンの通信は全てこちらでも把握しています。これまでのように無断での行動は今後一切許されませんし、不可能です」

 「立場は理解しています。あなたがたの手を煩わせることがないように努めます」

 「あなたに烏麻家の一員という自覚が芽生えたのは、素晴らしいことです」

 マネージャーは亜蝶を見た。探るような目つきだった。

 「……亜蝶。私はあなたのマネージャーです」

 「はい」

 「信用して欲しいなどとは言いません。私の雇用主が烏麻先生である以上、あなたよりも先生の立場を優先せざるを得ない。ですが、それでも……あなたには、どうか少しでも幸福な未来があってほしいと思っています」

 「いたみいります」

 以前なら鼻で笑うか激高していただろうが、ひどく凪いだ心持ちで亜蝶は口を開いた。

 「僕の幸福は、父の役に立ち、父を支えるために力を尽くすことです」

 亜蝶が望もうと望むまいと、結局のところ自分には、最初からその道しかなかった。

 芸能界で成功すれば、あの窮屈な家から、生まれという軛から逃れられる。

 (そう勘違いしたのが、間違いだったんだ)

 「……わかりました」

 マネージャーがため息をついた。

 「もしも行きたい場所ややりたいことがあれば、……SPはつきますが、可能な限り叶えましょう。今日と明日はオフですし」

 「いえ——」

 断りかけて、少し考えた。

 どうせもう自由行動ができない身なら、マネージャーが珍しく譲歩している今のうちに堪能しておくのも悪くない。

 「でしたら、一つ行きたい場所があります。無理にとは、言いませんが」

 

 

 アールグレイを一つ。

 久しぶりにこのカフェにやってきた亜蝶は、何とはなしにそれを頼んでいた。

 いつもと同じように、店の最奥、店主が中国からわざわざ買ったという深紅の大花瓶が他の客の視線を遮る席に腰を下ろす。そこでようやく、大きくため息をついた。

 今だけ、かれはただの「亜蝶」でいられる。

 スマートフォンを取り出そうとして——やめた。インターネット記事は見る気にもなれない。動画や電子書籍を見たところで、どうせ今は集中できるはずもなかった。

 手持無沙汰に目線を上げる。亜蝶以外に客の姿はなく、場違いなほど軽快なラテン音楽だけが響く店内。一見雑然として見える内装は店主がこだわって配置していると聞いたことがある。船の 模型はスペインで買ったもの、魔除けの置物はアフリカに行った常連の土産物。飾り皿はスウェーデンで自作したもの……。

 「お待たせいたしました」

 ほどなくして店主がアールグレイを運んできた。静かに亜蝶の前にティーカップが置かれる。湯気を立てる紅茶から、ベルガモットがほのかに香った。

 「ありがとうございます」

 砂糖壺から、角砂糖を一つ水面に落とす。ティースプーンを取って混ぜれば、ほろりと砂糖の塊が崩れて溶けていった。完全に溶けたのを確認してから添えられたミルクを注ぐ。

 撹拌し、表が完璧なミルクティー色になったところでスプーンを引き揚げた。カップの把手を指先でつまみ、口に運ぶ。

 イギリス仕込みのティー・ブリューイングの技術で淹れられた紅茶というだけあって、品格と茶葉の風味が損なわれていない。高級喫茶店の看板を掲げる店でもないのに、値段に見合わないほど洗練された味だった。

 ふと視線を感じて顔を上げれば、じっと亜蝶を見る店主と目が合った。

 「……何か」

 「今日は、お連れ様はいらっしゃいますか」

 「連れ?」

 一瞬、外で待機させているSPのことかと思いかけたが、すぐに店主の言わんとすることに思い至った。

 (最近、毎度呼び出していたからか)

 この半年、亜蝶が店に行くと必ず——といってもたった三度のことだが——ルイが来ていたから、その確認に来たのだろう。

 「あいつはもう来ません」

 呼ぶような用事もすでになく、マネージャーにも釘を刺された。ここにわざわざ来る理由はこの先ない。

 (それでいい)

 見透かしたような目と口ぶりで、こちらの神経を逆撫でしてくる男だった。従順に見せかけて、ひとたび弱みを握れば施しや手助けでマウントを取ってくる。最後には迂闊にもそんな奴の前で醜態を晒し、あまつさえ介抱される愚を犯した。

 

 ——完璧な「烏麻亜蝶」には、必要のない男だ。

 

 未熟な蛹を知る他人がいるべきではない。

 「完璧」の裏側に土足で踏み入ろうとする人間がいなくなって、せいせいする。

 

 「では、店の入り口でずっと立っている二人組に、心当たりはありますか」

 「あれは、……」

 言いあぐねて視線をさまよわせた。カウンター席の上にあるアンティーク時計の文字盤が目に入る。時刻は午後七時を目前にしている。

 『もう夜なので、二時間以上の滞在は認められません。それでもよければ』

 そう条件を出したマネージャーが指定した刻限まで、およそあと一時間。

 一時間後にこの居心地のいい場所を出れば、監視と管理の鎖に繋がれたペットとしての日々が始まる。

 ここを出たら——自分はいつ、ここに帰ってこれるだろうか?

 

 「もし心当たりがなければ、いつでも裏の従業員入口を開放します。電話が必要であれば、店のものをお使いください」

 「!」

 

 脱走、の二文字が頭に浮かんだ。

 それはあまりにもリスキーで、非現実的で。

 だが、理性を上回るほどに魅力的な考えに思えた。

 (馬鹿馬鹿しい。逃げたところで、檻の扉は開かない)

 だというのに心臓は熱くなる一方だ。思考が明滅し、現状を脱する一手としての正当性を弾き出そうとしている。

 

 Get busy living, or get busy dying!

 

 耳元で高らかに声が響いて、笑い出したくなった。

 「そうだな。人生を無駄にするのは——罪だ」

 「?」

 「いえ。こちらの話です」

 肚は決まった、と亜蝶は深く息を吸った。

 どうせなら、徹底的に抵抗してやろうではないか。

 (とはいえ、一人で店を出たところでインパクトは薄い。だったら……)

 断たれた糸を手繰り寄せてみるのも、悪くない。

 くすりと口の端で笑って、亜蝶は立ち上がった。

 「それでは、電話を借りていいですか。迎えを呼びますので」

 

 

 ピーッと高い音がキッチンに響き、ルイは開いていた本を閉じた。

 音を立てて煮える鍋の蓋を開ける。こちらも火が通った頃合いだろうか。竹串を手に取って芋に刺す——奥まで抵抗なく通った。火を止める。

 米も炊けたことだし、夕食にしよう。

 茶碗を取り出したところでコール音がリビングから聞こえてきて、ルイは振り返った。

 食器棚を閉めてテーブルに寄った。スマートフォンは鳴り続けている。

 電話番号は知らない番号。国際電話でないことを確認し、通話ボタンを押した。

 『思ったより、早く出たな』

 「……亜蝶?」

 聞き覚えのある声に、目を瞠る。

 「何かあったのか。おまえがわざわざ俺に電話をかけるなんて」

 『ああそうだ。父が総理大臣になったのは知っているだろう。俺は父の人気を集めるアクセサリーとして、厳重に管理される立場になったということだ』

 そして、と亜蝶は続けた。

 『総理の息子のイメージにそぐわない番組や映画のオファーは今後全て却下されるだろうな。出演中の作品も見直しの措置が取られている。当然「来航」もその対象になった』

 「!」

 『映画の撮影中止は、ほぼ確実。論文には使えまい。お前が俺にこだわる理由は一切ない』

 「亜蝶……」

 『その上で、頼みがある』

 

 ——蝶を捕える籠の扉を解放しろ。

 頼みという名目にはそぐわない、支配者然とした声だった。

 

 

 時計が午後七時半を指した。

 時計上部の小窓が開き、絡繰りの人形がくるくると踊る。その様を眺めながら、残り僅かになったアールグレイを口に含んだ。

 (そろそろ来るか)

 

 『わかった。おまえが望むのなら』

 

 ほとんど即答し、場所だけ聞いて電話を切ったルイを思い出す。

 正直、承諾されるとは、あまり期待していなかったが。

 ——本当に、理解しがたい奴だ。

 「来航」で論文を書くため。亜蝶に関わる理由はそれだけのはずだ。

 だというのにどうして、それが立ち消えた今、何のメリットもないのに亜蝶の頼みに応えるのか。

 人気俳優に取り入ることで、恩恵を受けるつもりなのか。それとも、亜蝶そのものになんらかの価値を見出したのか。

 分からないが、今は利用させてもらおう。

 もう一度紅茶を飲んだとき、店の電話が鳴り響いた。受話器を取った店主が亜蝶に目配せする。ルイが到着したらしい。

 店舗の裏に来いと言っておいたから、おそらくそこから電話をかけているのだろう。

 ポケットからスマートフォンを取り出す。通信履歴が把握されているとは言われたが、他に何が仕掛けられているかわからない。GPS機能がつけられた時計も外し、机の角に揃えて置いた。立ち上がる。

 「お連れ様は、裏口で待機されているそうです」

 「ありがとうございます」

 「机の上のものは?」

 「忘れ物です」

 「……かしこまりました。こちらで大切に預からせていただきます」

 察した様子で頷いた店主に紙幣を渡した。店主が釣銭を取りにいっている間にコートを羽織る。時計もスマートフォンもないのが心許なく、だが、身体は軽い。

 「お待たせいたしました。裏口はあちらです」

 戻ってきた店主に案内されて、バックヤードに入る。奥の扉を開ければ夜の住宅街が広がっていた。ひんやりした風が顔を撫でる。

 トレーの上に載せられた硬貨を取って、財布に入れた。

 「お気をつけて。またのご来店をお待ちしております。今度はお連れ様も一緒に」

 「ぜひ」

 答えたのはルイだった。夜闇に溶けるような風体で、いきなり声を出されると心臓に悪い。

 「……、来ていたなら言え!」

 小声で叱ったが、何が悪いのかもよくわかっていない顔で悪い、と言う。

 「まったく……。今何時だ」

 「十九時三十七分だ」

 「そうか。時間がない。行くぞ」

 「どこへ?」

 どこへ?——わからない。どうせどこに行っても結果は同じだった。

 だから今なら、どこへでも行ける。気の向くままに。

 「そうだな。……とりあえず、あっちだ」

 家の方向とは反対の道を指す。

 家やSPとは関係ない場所へ行きたかった。できるだけ遠くへ。

 「走るぞ」

 亜蝶が店から出てこなければ、SPは店を確認するはずだ。亜蝶がいないのはすぐに判明する。捜索が始まるのも時間の問題だった。

 「わかった」

 街灯がまばらに点く、細い路地をひた走る。

 ルイは何も聞かない。なぜこんなことをさせられているのかも、この行為に何の意味があるのかも。

 だから、訊いてみた。

 「お前はどうして、こんなことをしているんだ?」

 少し高い位置にある瞳が瞬いたのが見えた。

 「おまえがそう望んだからだ」

 「なんだそれは」

 そういえば、電話口でも似たようなことを言っていた。

 「まるで人任せだな。自分の意志はないのか」

 ルイは口を噤んだ。二人分の呼吸と、不規則な足音だけがしばらく聞こえていた。

 答えは返ってこないのかと思いかけたとき、ルイの声がした。

 「……おまえが望めば、必ず応える。それが俺の意志だ」

 「……。なんだそれは」

 呆然とした拍子に、僅かにペースが緩む。

 一歩ぶん空いた距離を、速度を落としたルイが埋め、またかれらは並走した。

 きっと上り坂に差し掛かったからだ。そう思った。遅れたら置いて行かれる。先に行くなら振り切る。いつだってそれしか選択肢はなかった。

 (そのはずなのに)

 亜蝶の知らない世界、知らない基準で生きている男。

 そろそろそれを、認めざるを得なくなりそうだった。

 

 

 道の突き当たりに、急な石階段が続いていた。

 上りきった先はどうやら公園らしい。街灯で照らされた入口の向こうに、うっすらと遊具の影が見える。

 息を切らして走る亜蝶を見た。一度、ここで止まったほうがよさそうだ。

 「亜蝶。あの公園で少し休もう」

 返事はなかったが、亜蝶に異論はないようだった。二人で足を止め、階段を登っていく。

 「亜蝶。暗いから、手を」

「いらん」

 差し出した手は、そっけなくはたき落とされた。

 荒く息をつきながら、急き立てられるように進む亜蝶の後方を歩いた。必然的に見上げることになる背中を注視する。

 一度はもう見られないと思った光景。凛と伸びた背中で、ひたむきに前を見据えて歩む姿は不屈の意志を湛えている。細い肩に見合わないほどの重圧を背負いながらも、崇高なほどに芯の通っ た後ろ姿は、そこにだけ光が当たるようだった。

 公園に入っても、亜蝶は足を止めなかった。暗い園内の奥へと進んでいく。

 だが、さして広くはない公園だ。敷地を囲う高いフェンスを前に、亜蝶はついに立ち止まった。

 「ここまでか」

 吐息のように呟いて、亜蝶は金網の隙間に五指を絡めた。仄白い横顔が眼下に広がる夜景を見つめる。

 しばしの沈黙の後、ぽつりと声が落ちた。

 「お前、『来航』が論文に使えなくなるんだろう。どうするつもりだ」

 「実際のところは教授に相談してから決定することになるが、もし本当に撮影中止になるとすれば、別のテーマに変更するしかなさそうだ」

 「間に合うのか」

 「心配いらない。定例報告はあれど、論文に明確な期限があるわけじゃない。計画書の要旨から大幅にずれなければ、細かい研究対象の調整は問題にならない」

 「だったら、お前にはやり直す余地があるんだな」

 「……亜蝶」

 返しに詰まったルイから亜蝶は視線を外した。

 「『完璧』はやり直しなど必要としない。遥かな高みへ辿り着き、親の七光りなどと謗る凡愚どもを本物の実力でねじ伏せ、大衆を圧倒する。誰も手の届かない至高へ到達すれば、親も、家も、手出しできない場所へ行くことができれば……」

 俺は、真に自由になれると思っていた。

 零れた言葉が夜風に散った。

 「馬鹿馬鹿しいな。俺は所詮、父や家を盛り立てる装飾品。正統な血を持たない出来損ないは、政治の表舞台には決して出せない。芸能界で烏麻の名を売る意外に使い道はない」

 訥々と独白が響くのを、ルイはただ聞いていた。

 「俺はそれでよかった。政治に興味はない。居心地の悪い本家から出て、ようやく自分の人生を歩み出せたと思った。なのに……」

 大きく息を吸って、亜蝶はフェンスに額を押し当てた。

 「だというのに、俺はいつまで経っても、あいつらの引く糸に踊らされるマリオネットでしかないというのか!」

 フェンスが大きく音を立てた。関節が白く浮き出るほどに強く金網を握りしめる指に手を伸ばす。晩秋の空気に晒される手先に触れた瞬間、火傷したように亜蝶が手を引っ込めた。

 「ッ触るな!どうしてお前はいちいちと!」

 「……そんなに強く掴んでは、おまえの指に傷がつく」

 「余計なお世話だと言っている!」

 苛立ったそぶりで亜蝶がフェンスを殴りつけた。

 「何を企んでいる。俺の弱みを見つけて週刊誌にでも売りつけるのか。それとも恩を売って俺をいいように操ろうとでも?」

 「亜蝶」

 「そんな程度で俺の築き上げるものは揺らがない。何があっても、俺は必ず完璧を手にしてみせる。永遠に大衆を魅了し、世界にこの名を刻み付けるまで、絶対に屈するものか!」

 「『完璧』……」

 

 彼が何度も口に出すその言葉の意味も、イメージも、自分は決して共有できない。

 永遠と同様に、完璧も多くの人間が求め、そしていまだ達成できずにいる。実体のない抽象概念。成立には多くの矛盾と逸脱を必要とする、現実的には到達不可能な事象。

 

 だが亜蝶は、きっとそれを本気で実現しようとしている。

 

 その傲慢と熱情は、あまりにも苛烈で、危うい。

 痛々しいまでに純粋で歪な執念が、強烈な眩さでもってルイを射抜いた。

 亜蝶から放たれる光は熱となって心臓を()き焦がし、痛みとして知覚される。酩酊にも似た陶酔にため息をこぼした。亜蝶を中心に、視界が輝かしく、鮮やかに色づいていく。

 (ああ、これは)

 今までずっと掴み損ねていた感覚の名前。

 ようやくわかった。これがきっと——。

 

 「——うつくしい」

 

 形容が、口を衝いて出た。

 「亜蝶。——おまえは本当に、……うつくしいな」

 

 

even thus in the depth of my unconsciousness rings the cry⁠ —

 

 足底が床につけられ、亜蝶はふっと息をついた。宙吊りにされていたのは十分にも満たないとはいえ、地面を踏みしめる感触は落ち着きをくれる。

 おさまりがいい姿勢を探す亜蝶に助監督が駆け寄り、ワイヤーを外していく。締め付けから解放されると同時に、僅かに浮いていた身体が完全に重力に従った。ふらつきかけた足を前に出し、モニター前まで歩くことで重心の安定を取り戻す。

 つかつかと歩み寄る亜蝶を、山本監督が振り向いた。スタッフに師事して即座に撮影シーンのプレイバックを再生して見せながら、監督が説明する。

 「烏麻さん。修正ありがとう。技術スタッフからはNG出ていません」

 「……僕としても、異論はありません」

 全ての映像の姿勢や表情、細部の動作にノイズはなかった。この後派手なシーンが続くのであえて表現は控えめにしたが、地味にもなっていない。調和は取れている。

 「じゃあ次のシーンに入ります!」

 監督の呼びかけに、一斉にスタッフが動き出す。衣装を整えていたスタッフの横からスタイリストの手が伸びて、髪とメイクの乱れを直し始めた。彼らの指示通り顔や手足を動かしながら、監督の言葉を聞く。

 「それで次のカットなんですが、恵比寿神と常磐がついに宝船の中で向かい合う場面ですね。宝船の中は何があるかわからない。危険がないか気を配りながら、目の前の恵比寿神という脅威を警戒してください。恵比寿神は通常の人間より大きいので、目線はあのボールの高さを意識して」

 クレーンで吊られたボールを見上げる。高さは地面からおよそ三メートル。

 普通の人間の二倍近くの大きさがあると考えれば、その体格や手足の長さはだいたい掴めた。次のリハーサルに向けて動きを頭の中で確認する。

 「……わかりました」

 脳内で予行演習を完了し、モニターから背を向けようとして——亜蝶の目は、紺のジャケットを着た男性の姿を捉えた。

 (高崎教授!)

 反射的に視線をその背後に走らせた。あいつは、あの達観した面差しの男は——。

 「いやあ、お待たせしてすみません。電車が遅延してしまって」

 「とんでもない。お忙しい中、わざわざありがとうございます」

 監督に軽く頭を下げた教授が、亜蝶に向き直る。

 「烏麻君も、お久しぶりです。前回の撮影以来かな」

 「はい。直接お会いできて喜ばしい限りです」

 「こちらこそ。せっかくアポを取ってくれたのに、時間を割けず申し訳ない」

 「恐縮です。本についても、あらためてお礼の機会を設けさせていただきたいのですが」

 「丁寧なメールを送ってくれただけでも十分なんですが、もちろん。私としても、教え子がお世話になっているようですし、もっと君と話してみたいと思っていたんです」

 「セット、終わりました!」

 助監督の声が響いて、教授がそちらを向いた。

 「っと……主演の邪魔をしてはいけないね。私はここで見ています」

 一歩引いた教授に一礼して、最後にちらりと奥を見た。教授が来て以降、一度も開いていない扉。

 ——だったら、ルイは来ていないんだな。

 あの夜の公園で別れたきりだ。マネージャーとSPが到着した途端に保護者面で亜蝶を引き渡して帰って行ったきり。

 『亜蝶に偶然会ったので、随伴しました。俺の役目は終わったようですし、身内が到着した以上、ここに留まる理由もありません』

 『……忠告したはずです。亜蝶に関われば、あなたのキャリアも、ご家族の未来も保障はできないと』

 数秒、ルイは黙っていた。

 『俺は自分のキャリアに興味はありません。弟たちのことは大事にすべきで、守るべきだとも思っていましたが……子供扱いするなと言われるので、そろそろ俺は兄の役目から降りてもいいのかもしれない』

 『はい?』

 『なので、俺は亜蝶の望みを一番「大事」にします』

 聞いているこちらが気恥ずかしくなる台詞を、臆面もなく言ってのけた。

 『聞きたいことはそれだけですか。だったら俺は帰ります』

 そうして最後に亜蝶を見た。

 『おまえが望むなら、いつでもおまえの元へ行こう。他の誰もがおまえを利用し、辱めようとも、俺はおまえに応え続ける』

 (戯言だ。くだらない!)

 長い袖の陰で、拳を握りしめる。何を勘違いしているのか知らないが、利用するのは亜蝶のほうだ。マネージャーも、父も、家も。全てを踏み台にして、誰よりも高い頂へ辿り着いてみせる。

 「リハーサル、開始します。位置についてください!」

 (あいつには、一度わからせてやらないといけないな)

 高みへ羽ばたくために、逆風すらも上昇気流に変えてみせる。

 己という蝶には、憐れみも施しも、一切必要ないのだということを。

 

 「撮影、お疲れ様でした」

マネージャーに手渡されたペットボトルを受け取って、亜蝶は蓋を開けた。低温だが冷たすぎない水が、火照った体にはちょうどいい。

 「烏麻さん。今日はありがとうございました。マネージャーさんも、日中ご挨拶できず申し訳ありません。撮影を承諾してくださって本当に感謝しています」

 「監督の作品は、多くの人を引き付ける力を持っていますし、クランクアップは烏麻たっての望みでしたので。公開不可は前提ですが、今後の作品に再び烏麻がお役に立てるなら幸いです」

 監督が何度も制作委員会やスポンサーと交渉した結果、撮影だけなら、という条件で続行は事実上黙認された。

 制作委員会は一切関与せず、SNSや公式サイトは当然閉鎖。野外撮影でもなくグリーンバックで全て完結させることを条件に、もともと撮影予定だった五日間を使って撮りきること。

 そして現総理の在任中は絶対に公開せず、情報が漏れた時点で撮影は即中止、かつフィルムは全て破棄。事務所が出した条件を全て呑んでようやく、撮影再開のカードが戻ってきた。

 (そうだ。時間がない。この機会を無駄にしないためにも、早くヒルコが憎しみを手放した理由を理解しなければ……)

 数日前に送られた新たな脚本は、確かに変更が加わっていた。だが——ヒルコの憎悪を、屈辱を晴らすには、まるで足りない。

 だというのに、何がどう足りないのかすら霧の中だ。

 「では、次の用事がありますので」

 マネージャーの声に、意識を引き戻す。

 「引き留めてすみませんでした。それでは烏麻さん、また明日」

 会釈をして去っていく監督に頭を下げた。問題のシーンの撮影まで、あと四日。

 それまでに、完璧な演技と解釈を構築しておかなければならない。

 (何度も撮影やり直すなんて醜態を、今度こそ晒してなるものか……!)

 

 「烏麻亜蝶」は常に、進化し続ける。

 脱皮を繰り返して完全な姿になるように。

 

 

 

 ぽつ、と水滴が瞼に落ちて、ルイはかるく眉を寄せた。

 乾いていたアスファルトに黒い染みが点描のように落ちていき、車のヘッドライトで照らされた道には細かい雨粒が映り始めていた。

 足を止めて鞄の底を探った——折り畳み傘のストラップを指先が引っ掛ける。傘を開いて柄を握った。

 冷ややかな金属を手の中に感じるたびに、亜蝶に傘を握らせた時の、濡れた蒼白な指先を思い出す。世界にたった一人きりと見まごうような、寄る辺のない立ち姿。

 (だがそれでも、決して折れない気高さがある)

 

 その矜持は確かに、……美しい。

 

 微かな心臓の疼きと高揚に目を伏せた。あの公園での一幕から一週間。その余韻はいまだ冷めず、熾火のように胸の底を炙っている。

 再び目を開ければ、雨でけぶる視界に、「来航」の撮影風景が重なった。荒れた海辺。遠く響いた雷の音が、脱ぎ捨てられた黒の袖と、翻った単衣の白を瞼の裏に蘇らせた。

 (亜蝶は……)

 今頃、映画の撮影中だろうかと空を見上げた。

 『僕は彼を説得しなければならない。ですが、たった一度の説得で、二千年の恨みが消えるとでも?』

 かつての言葉の意味が、今なら少しだけ分かる気がした。親の過ちのせいで捨てられた神。親の都合に翻弄される亜蝶。自分ではどうにもできない理由で、人生において取り返しのつかない部分を奪われた——それが亜蝶の言っていた「屈辱」なのかもしれなかった。

 

 (おそらくは)

 亜蝶はヒルコに彼自身を重ねている。

 

 亜蝶がそのことに気づいているかはわからない。

 だが、ヒルコを陰陽師として説得する行為は、亜蝶にとって鏡に向かって語るようなものだろう。

 亜蝶があれほど安易な赦しを厭うのも、憎しみは手放せないと頑なに言い続けるのも、彼の深い部分でその結末を拒否しているのだとすれば。

 「完璧に、か」

 皮肉なことに、そう意気込むほどに、亜蝶は自分の役を見失っていく。

 外敵にばかり目を向け、その手が持つ鎖に気を取られれば、もう一つの敵から伸びる見えない糸に気づけない。

 

 己を縛る糸の出処をよく辿れば、行き着いた先は自分自身。

 

 往々にして、それはよくあることだった。

 

 

 

 |The weak can never forgive. Forgiveness is the attribute of the strong.《弱い者ほど相手を許すことができない。許すということは、強さの証だ》

 非暴力を掲げたインドの「国父」ガンジーはこの言葉を残したが、じつに綺麗事だと亜蝶は思う。

 受けた屈辱に対してただ飲み込めと言うのは、獣から牙を抜き去る行為に等しい。

 正義が必ず執行されるとは限らない。加害者が正しく罰を受けず、のうのうと生きているなら、報復は唯一残された尊厳回復の手段のはずだ。

 屈することなく憎しみを持ち続けることこそが、強者としての正しい在り方。

 許すことが強さなどという言説は、加害者に都合のいいテーゼでしかない。

 

 二日目に撮影しきるはずだったヒルコ説得のシーンは、亜蝶の意気込みとは裏腹に難航を極めた。

 五回リテイクを繰り返したところで監督がリスケを決定し、急遽最終日に撮る予定だったシーンとの入れ替えが実行された。こちらは問題なく撮影が終了し、三日目、四日目と日々が慌ただしく過ぎていく。

 

 「では亜蝶。今日も撮影お疲れ様でした。明日はいよいよ最終日です。午前中はオフですが、くれぐれも烏麻の家名に泥を塗る行為は厳に慎むように」

 「……心得ています」

 忌々しさを隠さずため息をついた。あの脱走を経てからというもの、事あるごとに釘を差されてうんざりすることこの上ない。

 SPは倍に増やされ、隣の部屋とマンション前で常に動向を厳しく見張られている今、勝手に外に出るのは不可能だ。融通が利いたあのカフェとは違う。何より——。

 (明日の撮影が最後だ。明日を逃せば、不完全な映像が残されることになる)

 監督を心から満足させ、観客に圧倒的なカタルシスを刻み付ける演技にできるのは明日しかない。たとえ公開されないとしても、フィルムに、そして自分の記憶に消えない汚点となる演技な ど、到底許せるわけがなかった。

 だったら、残された明日の午前中に考え尽くすほかない。

 沈みかけた思考を、神経質な声が遮った。

 「亜蝶?聞いていますか」

 「——なんでしょう」

 「今、あなたがたが形だけでも『来航』の撮影ができているのは、烏麻先生の寛大さがあってのことです。思うところがあるのは理解しますが、子供ではないのだからいつまでも反抗をせず——」

 今一番聞きたくない名前に、反射的に浅く息を吸った。拳を握りしめる。

 「生まれ持った立場にふさわしくありなさい、亜蝶」

 「ッ‼」

 噛み千切る勢いで唇に歯を立てた。微かな血の味が舌先を浸す。

 (大人しく聞いていれば!)

 どれだけ人を侮辱すれば気が済むのか。眩むほどの激情に全身が震える。

 詰まりそうになる呼吸を強制的に深く吐き出して、亜蝶は腕を組んだ。

 「……、ご高説、拝聴しました。ですが僕は、父に反抗したつもりは一度もありません」

 「なんですって?」

 「公園にいた件については、以前丁寧に説明した通り、外の空気を吸いに行っただけです。いわれのない中傷はやめていただきたい」

 「我々に一切の連絡もなく、追跡手段を全て断った上で、ですか」

 一段低くなった声に、右頬が吊り上がる。

 「重くて邪魔でしたし、すぐに戻るつもりだったので。それにこのエリアは高精度の監視カメラが各所に設置されていますし、夜間でも警備員が巡回しています。探そうと思えばすぐに辿れますし、実際あなたがたは僕たちの居場所をすぐに突き止めた」

 「そういう問題ではありません!」

 「僕の行動を封じきれなかったのはそちらの怠慢だ。その責任を押しつけるな!」

 怒鳴りつけて、強引に扉を閉めた。オートロックの鍵が回る音が無機質に響く。

 壁に背中を預けて、ため息をついた。

 「……クソ」

 リビングに通じるドアの陰から、黒い毛が覗いているのが見えて、亜蝶はふと口角を緩めた。指先で招いたが、動きがない。

 「大声を出して、悪かった。もう大丈夫だ」

 頭だけ出して亜蝶を見上げた後、ジュゼはぺたりと尻を床に下ろした。毛繕いを始めた愛猫にゆっくりと近づいてしゃがみこむ。丸いグレーの目が亜蝶の動きを追いかけた。

 「は。……たかが生まれごときで何が決められる」

 ふかりと柔らかい毛並みに指を沈めた。生まれ持った立場。何より忌まわしい言葉だ。

 そんなもののために、自分は、ジュゼは、——ヒルコは。

 もう一度深く息を吐いた。暗唱できるほど諳んじた新しい台詞。

 「『復讐で、過去の因縁から真に決別できることはありません』」

 (……だとしても)

 受けた屈辱を返すことでしか晴らせないものが、確かにある。

 「はぁ……ジュゼ。お前ならどうする」

 去年の今頃、当時使っていたスタジオからほど近い路地裏に転がっていた段ボールの中、か細い声で鳴いていた姿を思い出す。

 鳥に突かれて血を流し、虫に集られていたこいつは、そんなふうに説得されれば納得するんだろうか?

 

 ジュゼが答えることはない。

 丸まって無心で背中を舐めるジュゼを眺めてから、亜蝶は爪先でその頭を掻いてやった。

 

 

 筆が目尻にラインを引き直し、刷毛が頬を撫でる。

 瞬きや視線移動は作業の邪魔になる。見るともなしに亜蝶は正面の景色を観察した。

 いよいよ残すところあと一カットとあって、現場の雰囲気には独特の緊張感が漂っていた。温度の下がった指先を握りしめる。焦燥にも近い心拍の上昇を落ち着けるべく、深呼吸で自身を宥めた。

 「烏麻さん。ラストカットを残すのみとなった心境はどうですか」

 「監督」

 メイクを直していた手が離れ、横から監督の声がする。乾燥した目の痛みを瞬きで散らしつつ、監督に向き直った。

 「顔が強張っていますね。ほら、リラックスしてください。まだ撮影再開まで十分以上ありますし」

 「……はい」

 「そうだ。さっき、ヒルコの声優さんが来てくれたんですよ。せっかくですし、本番で君の相手をしてもらえるようにお願いしたんです」

 「それは、ッ」

 息を呑んだ。

 一番最後に残されたヒルコの説得シーン。偶然の可能性もありうるが、何度もリテイクを繰り返したカットを前にピンポイントで声優が現れるのは——。

 おそらくこのために声優にまで声をかけてくれたのだろうことは察しがついて、自然に頭が下がった。

 「必ず……、最高のシーンにすることをお約束します、監督」

 一晩考えて、納得は脇に置いて演技の質を高めることだけに集中した。表情、動き、台詞の言い方。徹底的に見直して反映した結果、直前のリハーサルでもすんなりゴーサインが出た。この調子でいけば、個人的に不満は残るが最低限のクオリティは死守できるはずだ。

 (は、妥協とは。……無様だな)

 顔を見られないのをいいことに、唇を引き結んだ。

 「ああ、烏麻さん。そんなにかしこまらないで」

 もっと力を抜いていいんですよ、と監督に肩を叩かれる。

 「これまでの撮影は、申し分のない——いえ、期待以上のシーン揃いです。さっきのリハーサルでも十分に説得力が出ていたと私は思いますし、万が一本番で残念な仕上がりになったとしても、完成度は大きく損なわれないでしょう」

 「ッですが」

 「ええ。もちろん君がそれを良しとしないのは知っています」

 そんな君だから言うんですよと、監督は亜蝶の目を覗き込んだ。

 「映画が公開できなくなったのは、誰の責任でもありません(・・・・・・・・・・・)」

 「!」

 目を見開いて黙り込んだ亜蝶の前で、監督が後方を振り返った。

 監督を呼ぶ助監督の声がする。

 「今さら難しく考えなくたっていいんです。やってみましょう。大丈夫、私たちは君の努力を知っています」

 もう一度肩を叩いて、監督は助監督に手を振った。

 

 「亜蝶。……亜蝶、本番直前に呆けている場合ではないでしょう」

 マネージャーの声が聞こえた。

 水が入ったペットボトルを手に握らされて、ふっと周囲の喧噪が戻ってくる。

 「もしかして、体調でも悪いとか」

 「いえ」

 簡潔に否定して、亜蝶はペットボトルの蓋を開けた。一口嚥下する。

 「努力を知っていると、言われたので」

 「————」

 「結果が伴わなければ意味がないのは分かっていますが……、観能(かんの)?」

 苛立ち以外、滅多に顔に出さないマネージャーにしては珍しい。

 驚きとも戸惑いともつかない顔で亜蝶を見つめていた彼は、やがて我に返ったように咳払いをした。

 「すみません、私のほうが呆けていました。……そう、ですね。言われなければわからないことは、世の中には数多くあるのでしょう」

 亜蝶は半眼になった。

 「はっきり言ってください。僕は迂遠な問答を好まない」

 「では一つ教えましょう、亜蝶。以前私が氷薙ルイに『忠告』をしたとき、彼は言いました——リスクを冒して自分と接触したのは、あなたが誇り高く、なにより役に忠実だったからだ、と」

 「あいつが……」

 「どうやら彼は、私が思っていたより、あなたをよく見ていたんでしょう。彼の言葉は正しい。デビューから十年かけて、『烏麻亜蝶』は数多のファンからの信頼と熱狂を獲得してきた。それは間違いなく、あなた自身が掴み取った成果です」

 ほんの微かに、マネージャーは口の端を上げたのがわかった。

 「さあ。いつも通り、完璧にこなしてきてください。公開できないからと腑抜けた演技をすれば、烏麻の名誉を汚すことになりますよ」

 「……はぁ。わかっています」

 ため息をついて、ペットボトルを返す。

 パンパンと手が鳴らされる音がした。

 「はい皆さん、ポジションに戻ってください!」

 「!」

 肺一杯に空気を吸って、吐いた。

 (力を抜いて、頭をクリアにする)

 セットに向かって歩き出す。静まっていく現場に、自分の足音だけが響いていた。

 目印に貼られたテープの位置で足を止めれば、フル点灯している数千ワットの照明が、光の壁となって視界を真っ白に染め上げる。

 

 「これがラストです。気を引き締めていきましょう!本番、いきます!」

 

 

 このシーンは激しい戦闘を経て、主人公が決死の覚悟で放った術により、動きを封じられた恵比寿神との対話から始まる。

 曙光が地平線を照らす港で、満身創痍の陰陽師は、動きを止めた恵比寿神に呼びかけた。

 「『貴方がこの国を恨みに思う気持ちは……、よく、わかりました』」

 「『知ったような口を。最初の百年で親や弟妹からの迎えを諦めた。次の百年で名前を捨てた。千年かけて恵比寿として信仰を集めた。福を与え続けた。だが、だが……、日ノ本はわたしをこの国の神だとは認めなかった。この二千年の間、一度も!』」

 重々しい咆哮が、広くはない宝船の中にこだました。

 「『永劫恨んでやろう。わたしを捨てた者どものために富など齎すものか。わたしを顧みない者どもには災いが似合いなのだ。これまでの恩を仇で返してきた罪、一人残らず贖ってもらう ぞ!』」

 陰陽師は一歩前に踏み出した。

 「『恵比寿神。……いいえ、貴子ヒルコよ。貴方の怒りはもっともです。神々は貴方の犠牲を知りながら、一度も手を差し伸べることはありませんでした』」

 その怒りと憎しみはよく知っている。陰陽師の演技を超えて、亜蝶は言葉を重ねた。

 「生まれたばかりの貴方を川に流し、自分たちの罪ごと貴方に押しつけて見ないふりをした。貴方の受けた屈辱は、はかり知れません」

 ここからが何度もリテイクを重ねた説得のシーンになる。静かに息を吸い込んで、前を見据えた——ヒルコの目の位置に吊られたボールを。

 「『そう。貴方が神々を、日本を恨むのは何も間違ってはいない。ですが、復讐で、過去の因縁から真に決別できることはありません。憎しみを募らせるほど、貴方は過去に縛られ続けることになるのです』」

 「『それは……』」

 太い声が、迷いを帯びて揺らいだ。そこに畳みかけるように言葉を紡いでいく。

 「『許せなどとは言いません。ですが憎しみを手放し、完全に過去と決別する道が、貴方にはあるはずです』」

 「『うるさい。詭弁は聞き飽きたぞ、陰陽師よ!』」

 怒声。恵比寿神が身を起こし、巨大な釣り竿を振るのを術で弾く。一閃、二閃と扇をひらめかせて使いの魚を躱した。テープが貼られた次の場所へ走り、神の面前に肉迫する。

 「『恵比寿神、いい加減に目を覚ませ!この先ずっと、自分の神話の主役を親に譲り渡すつもりか!』」

 「『……なんだと?』」

 「『貴方の人生は貴方のものだ。だというのに、いつまでも自分を顧みない奴らを登場させるな!見捨てて、楽に、なればいい!』」

 ここで拳で殴りつけて、最後の台詞を言う。

 それが正しい流れだ。いつもと同じように、さっきリハーサルで通したように。ただ腕を振り上げて——。

 だが、躊躇した。❘それでいいのか《・・・・・・・》。本当に?

 最後の台詞を言いきって清々しく終わるのは、似合わない。直感的にそう思った。

 腕を振り上げる代わりに、両手を広げた。

 

 「貴方の価値は、生まれによって決められるものなんかじゃない」

 祈るように、語りかけていた。

 そうだ。俺もジュゼも、そして目の前のヒルコも、決してそんなもので価値を決めつけられてはならない。

 『大丈夫、私たちは君の努力を知っています』

 『デビューから十年かけて、「烏麻亜蝶」は数多のファンからの信頼と熱狂を獲得してきた。それは間違いなく、あなた自身が掴み取った成果です』

 二つの言葉が脳裏にこだまする。

 

 生まれを憎み、外野の声を否定し、足掻いたからこそ掴んだもの。

 「貴方が持っている力と信仰は、間違いなく、貴方自身が積み重ねてきた成果です」

 ——そうでしょう?

 

 しんと現場が静まり返っていた。

 「わたしが、持っているもの……」

 亜蝶のアドリブに応えた声優の——ヒルコの声が震える。その瞬間に、確かな手応えがあった。

 

 完璧への道が、ついに開けた。

 

 「『この二千年は、捨てられて、惨めに彷徨った時間ではありません』」

 最後の台詞を囁いた。

 「『貴方が神として完成するための、試練だったのです。こう解釈することは、できませんか——』」

 

 

And deluge the world with the flood of the assurance "I am!"

 

 弘徳大学では、博士課程に進学した学生には学部ごとに研究室が与えられる。

 研究室のある棟は三つあり、ルイが所属する心理学部映像芸術研究科に割り当てられた棟は、駐車場と隣接するキャンパスの西端だった。

 講堂や研究棟、図書館の集中するメインエリアからは最も遠く、自然ここに寄りつく学生はほとんどいない。ルイとて先達が残した膨大な資料や高精度の再生機器がなければ、行く意義を見出せない場所だ。

 ——だが最近は、事情が少し変わった。

 学生証を認証機にかざす。緑色に画面が変わって鍵が開いた。ドアを開ければ、正面の机に突っ伏す青年が一人。

 「来ていたのか、亜蝶」

 「……」

 「寝るならソファに。そんなところでは体を痛める」

 頭がゆらりと動き、そのまま静止するが、それ以上声をかけはせずに荷物をデスクに置いた。カーテンを開け、換気がてら窓も解放する。室内に併設されたコンパクトキッチンへ行き、電気ケトルの電源をオンにした。

 その間に亜蝶が身体を起こしていた。横目に見つつスマートフォンを取り出し、彼のマネージャーとのトーク画面を開く。

 「今、紅茶を淹れよう。今日は現場からそのまま直行してきたんだな。体調はどうだ」

 「マネージャーの真似事のつもりか。鬱陶しい」

 「亜蝶。必要なことなんだ」

 「チッ、……いつも通りだ。見ればわかることをいちいち聞くな!」

 「わかった」

 現在位置、目視で窺える範囲の亜蝶の体調と、滞在予定時間を送信する。

 亜蝶と関わるにあたっての約束事——亜蝶と会ったときは必ず連絡を入れること、亜蝶の行動と体調を報告すること——これを怠った場合、亜蝶が得た肩書きも、ルイが亜蝶と関わる機会も失うことになる。

 今、ルイと亜蝶を繋ぐか細い糸は、亜蝶のマネージャーが結んでくれたとはいえ。

 (もう二度と、関わりを禁止されるわけにはいかない)

 不完全な蝶の羽ばたきが、凍てついた器に微熱を灯した。

 奇跡のような邂逅を、もはや一過性で終わらせる気は毛頭ない。

 

 画面を消してポケットに入れた。ノルマを果たした以上、これは不要だ。

 テーブルに置いてある本を物色する亜蝶に歩み寄る。熱すぎない温度で淹れた紅茶を置いた横で、若木のような腕が一冊の本を取り出した。

 「ん……詩集?珍しいな」

 「ぁ、……それは。教授に借りたものだ」

 「借りた?お前が。ついに詩心にでも目覚めたか」

 「いや。俺にはやはり理解できなかった」

 皮肉げに頬を吊り上げた亜蝶の横に腕をついた。細い肩越しに、ぱらぱらとめくられるぺージを見るともなく眺める。

 「タゴールの詩か。支配者が被支配者側の苦しみを美化し、祭り上げた象徴だな」

 「そうとも言えるかもしれない」

 ふんと鼻を鳴らして、亜蝶はまたぺージをめくった。章題は『ギタンジャリ』十二番。

 「だが……。詩としては、鑑賞に堪える価値がある。見ろ——」

 

「——"The traveller has to knock at every alien door to come to his own, and one has to wander through all the outer worlds to reach the innermost shrine at the end."——」 

 

 柔らかく響く声が、抑揚豊かに一節を読み上げる。

 

 My eyes strayed far and wide before I shut them and said “Here art thou!”

 

 亜蝶が読むのを聞きながら、詩を指で辿った。

 きっと亜蝶ほどには、この詩が言わんとするところを理解できはしない。「鑑賞に堪える価値」を解することもない。おそらく——この先も、ずっと。

 

 (だが……)

 この歪でうつくしい存在だけが、空の箱に中身を与えてくれる。

 その体験は眩暈がするほど甘美で、心地良い。

 

 亜蝶の放つ輝きを、いつまでも隣で見ていたい。死がこの瞼を閉ざすまで。

 ——あるいはその苛烈な魂から、永遠に温度が喪われるまで。

 生まれて初めて湧き上がるこの感慨は、祈りと呼ぶべきものだろうか。

 

 そう思いながら、亜蝶と呼吸を合わせて、続きを口ずさんだ。

 

 「「——The question and the cry "Oh, where?" melt into tears of a thousand streams——」」

 

 二人の声が溶け合って、うららかな外の空気に揺蕩った。

 

 

 




作中引用詩 『Gitanjali』 12番


私の旅路は長く、その道のりも、また遠い。
The time that my journey takes is long and the way of it long.


始まりの光が宿る乗り物で、私はあまたの星々と宇宙に軌跡を残し、
世界の荒野を越えてきた。
I came out on the chariot of the first gleam of light, and pursued my voyage
through the wildernesses of worlds leaving my track on many a star and planet.


内なる魂には、最も遠回りをして辿り着けるのだ。
原初の音色は、最も複雑な修行によって響くのだ。
It is the most distant course that comes nearest to thyself,
and that training is the most intricate which leads to the utter simplicity of a tune.


旅人は、見知らぬ扉を叩いて回り、その最果てで、自分の家に帰りつく。
そして、見知らぬ世界を放浪し、その最も奥の、聖なる場所にいだかれる。
The traveller has to knock at every alien door to come to his own,
and one has to wander through all the outer worlds to reach the innermost shrine at the end.


私の目線は遠く遥かにさまよい続け、ついに視界が閉じたとき、言った——
「あなたはここにおられた!」と。
My eyes strayed far and wide before I shut them and said “Here art thou!”


「ああ、どこに?」と問う叫び声は、千々に流れる涙に溶けて
「私はここ」という確信の奔流となり、世界は満たされていく。
The question and the cry "Oh, where?" melt into tears of a thousand streams
and deluge the world with the flood of the assurance "I am!"


     各章タイトル


第一章 『Gitanjali』 27番
己の内に動き出したものを、私は知らない。それが何なのか——その意味が何なのかも
I know not what this is that stirs in me⁠—I know not its meaning.

第二章 『Gitanjali』 11番
扉をすべて閉ざした寺の、ひっそりと暗い片隅で、あなたは誰を拝んでいるのか?
Whom dost thou worship in this lonely dark corner of a temple with doors all shut?

第三章 『Gitanjali』 20番
あの蓮の花が咲いた日に、悲しいかな、この心はうわの空で、私はそれに気づかなかった
On the day when the lotus bloomed, alas, my mind was straying, and I knew it not.

第四章 『Gitanjali』 57番
光よ、わが光よ、世界を満たす光よ、瞳に口づけする光、心を甘く溶かす光よ!
Light, my light, the world-filling light, the eye-kissing light, heart-sweetening light!

第五章 『Gitanjali』 38番
わが無意識の最奥で、こだましている 叫びがある——
In the depth of my unconsciousness rings the cry—


出典:Rabindranath Tagore, Gitanjali (Macmillan and Company, 1916)
参照:Project Gutenberg
(https://www.gutenberg.org/ebooks/7164)
                                     
※訳文は筆者によるものです。

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