ようこそ、『人間合格』を貰いに来た人よ。   作:knob人

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この話を書くためだけに、中島敦の『山月記』を読み返した。

家の中探して、見つけた時はメッチャはしゃいだ。


エピローグ『人間合格』――椎名ひよりの独白

 

 春の柔らかな光が、静まり返った図書室の窓辺を黄金色に染めていた。

 

 中学校の卒業式を終え、校舎は歓声と涙、そして別れを惜しむ喧騒に包まれている。けれど、行き止まりの場所にあるこの図書室だけは、三年前と変わらない懐かしい静寂を保ったまま、私たちを迎え入れてくれていた。

 

 天道真希くんと私は、かつて本当の意味で初めて言葉を交わしたあの窓際の席に、並んで腰掛けていた。

 

「ふふ、本当に行き止まりの場所ですね、ここは。でも、私にとっては、世界で一番大好きな場所なんです」

 

 私が本に囲まれた世界の愛おしさを語ると、隣に座る彼はいつものように、私を全肯定してくれる優しい眼差しを向けてくれた。

 

「俺にとってもさ。あの日、ひよりが声をかけてくれなかったら、俺の頭は今頃どうにかなっていたと思う。……『太宰治、好きなんですか?』って、あの鈴の鳴るような声は、一生忘れられないよ」

 

 真希くんが大らかに笑う。その爽やかで淀みのない笑顔を見るだけで、私の胸の奥が、じんわりと心地よい熱を帯びていく。

 

「もう、真希くんったら、からかわないでください。あの時の私は、心臓が壊れてしまうのではないかと思うくらい、緊張していたのですから。でも、あの小さな勇気が、私の世界をこんなにも鮮やかに変えてくれました」

 

 少しだけ赤くなった頬を隠すように、私は視線を落とした。

 

 本当に、奇跡のような三年間だったと思う。私たちはそれから、この場所で積み重ねてきたかけがえのない思い出の頁を、愛おしむように一つずつ手繰り寄せた。

 

 放課後、お互いのお気に入りの本を交換し合って、その感想をいつまでも語り明かしたこと。

 

 雨の日に、小さな相合い傘の中で、本に出てくる異国の料理について楽しそうに語り合ったこと。

 

 真希くんに手を引かれて初めて行った、街の大きな本屋さんの、あの独特な紙とインクの匂い。

 

 私にとって、真希くんと過ごしたすべての瞬間が、まるで一冊の美しい短編集のように、胸の奥に大切に、大切に綴じられていた。

 

(ずっと、独りだと思っていました)

 

 舞い散る桜の花びらが窓の外を通り過ぎていくのを見つめながら、私は己の胸の内にある、誰にも言えない想いにそっと指先を触れる。

 

(誰も私を知らない新生活の中、流行りの会話にも馴染めず、ただ独りで閉じこもっていた私の図書室。外界から心を隠すための避難所だったその場所に、真希くんは当たり前のような顔をして入ってきてくれました。私の拙い言葉を全部、百パーセント以上の解像度で受け止めて、私よりも深く、同じ温度で物語を愛してくれた。

 真希くんの隣にいると、冷たくて退屈だった私の世界に、いつも温かなひだまりが差すのです。

 読書仲間から、読書友達へ。そして……いつからでしょう。真希くんが他の誰かと楽しそうに話しているだけで、胸の奥が少しだけ、きゅうと痛むようになったのは。

 本の中のどんな美しい王子様よりも、私の隣で爽やかに笑ってくれる真希くんのことが、狂おしいほどに愛おしいのです)

 

 三年間で静かに降り積もった恋慕の情は、すでに私の心という器から溢れんばかりに膨らんでいた。この人を、絶対に手放したくない。その静かな、けれど絶対的な執着の苗床は、もうとっくに完成していた。

 

 やがて、話題はこれからの未来――卒業後の進路へと移る。

 私たちが共に進むのは、政府が鳴り物入りで設立した完全全寮制の進学校『高度育成高等学校』。外の世界との連絡すら絶たれるというその異質な学校へ、私たちは一緒に、未来を約束して進むことが決まっていた。

 

「……ひより。高校へ行く前に、これだけは話しておかなきゃいけないと思ってたんだ」

 

 真希くんの声のトーンが、ふっと変わった。いつになく真剣な、どこか怯えるように寂しげな瞳が、私を真っ直ぐに見つめている。

 

 そして彼は、今まで決して口にしなかった、彼自身の血塗られた過去を静かに語り始めた。

 

 大正末期から続く政財界の巨頭、天道家。そのあまりにも歪んだ環境。

 

 利権に群がる大人たちに神輿として担ぎ上げられ、実の親からすら無償の愛を注がれず、ただの便利な道具としてしか見られていなかった幼少期。そのせいで、周囲への怨嗟と純粋な殺意だけを抱えて生きていたこと。

 

 そして十一歳の冬、祖父に連れられた過酷な雪山で遭難し、飢えたエゾヒグマと二日間に及ぶ死闘を繰り広げたこと。生き残るために能力の限界を超えて稼働させ、肉体のリミッターすら最適解除して戦ったにもかかわらず、野生の圧倒的な暴威の前に勝てず、ボロボロになって死にかけたこと。

 

 その日以来、ブレーキの壊れてしまった超統合的共感覚器官――『ISP能力』のせいで、日常に戻ってもなお、世界中の悪意や嘘のノイズが強制的に脳内に流れ込み続け、今もなお、頭を灼き尽くすような激痛の暴走に苛まれていること。

 

「俺は、自分が神様か何かって勘違いして、最後は熊にすら勝てずにボロボロになって生き延びた、ただの傲慢な化け物なんだ。……これまで、本当に醜い人生を送ってきた」

 

 真希くんは静かに、自嘲するように笑った。その姿を見た瞬間、私の脳裏に、かつて図書室で彼と読んだ一冊の短編が鮮烈に浮かび上がった。

 

 ――中島敦の『山月記』。

 

 己の尊大すぎる羞恥心と、臆病な自尊心のせいで、虎という化け物になり果ててしまった男、李徴の物語。

 

(あぁ、そうだったのですね、真希くん……)

 

 私の鋭い観察眼と洞察力が、真希くんの告白という最後のピースを得て、激しく火花を散らした。まるで、極上のミステリー小説の伏線が、最後の最後で完璧な一つの絵へと収束していくかのように、私の脳内で恐ろしいほどの速度で「解答」が導き出されていく。

 

 私は、自分が心のどこかに抱えていた小さな暗影を思い出す。

 

 私はミステリー小説が好きだ。散らばったパズルのピースがピタリと嵌まる瞬間が、心地よくてたまらないから。けれど現実の私は、高い知性や鋭い観察眼を持っていても、荒事には向かず、身体能力も高くない。もし大切な人が傷つけられそうになっても、物理的な暴力の前には、私は何もできずにただ立ち尽くすしかない。そんな「大切な人をいざという時に守れない無力さ」を、私は自分の弱さとして、自己肯定感の低さとして、ずっと心の奥底に隠し持っていた。

 

 けれど――それは違ったのだ。

 

 散らばっていたピースが、今、完璧に嵌まった。

 

 目の前にいる天道真希くんという少年は、世界中の悪意に脳を灼かれ、頭痛に耐えかねて、いつかあの白い山に還って自分を終わらせようとすらしていた。

 

 そんな彼の、暴走する灼熱の痛みを。世界から押し寄せる悪意の嵐を――。

 

 私がただ側にいるだけで。私の、彼を想う純粋な感情だけで。完璧にシャットアウトして、彼の命を、心を、今日まで救い続けていたのだ。

 

 あの日、図書室で彼が私の声を聞いた瞬間にノイズが消えたのも。

 

 本を読むときだけ、彼が安息を得られていたのも。

 

 本に感情(ノイズ)がないからではない。私の言葉の裏に、彼を切り刻むような悪意が、ただの1ミリも存在しなかったからだ。

 

 私は、ただ守られるだけの、無力な存在などではなかった。

 

 大好きな真希くんの全てを、私の存在そのものが、守り、救っていた。

 

 李徴は虎という化け物になり果て、己の咆哮で周囲を脅かすことしかできなかった。けれど真希くんは、冬山という狂気の中で化け物の力を手に入れながらも、私の前ではただの優しい男の子で在り続けてくれた。

 

 彼のおかげで私は孤独の図書室から連れ出されて救われ、私のおかげで彼は化け物から人間の領域に留まることができた。

 

 真希くんの前でだけ、私は「大切な人を守れる一人前の人間」になれる。

 

 押し寄せる圧倒的な幸福感と、これ以上ない究極の自己肯定感が、私の胸を至純の愛で満たしていく。彼への愛おしさが限界を超えて、静かな狂気すら孕んでいくのを感じる。この人の隣は、私の絶対の聖域だ。誰にも、指一本触れさせない。

 

 真希くんは、まるで太宰治が遺したあの有名なフレーズのように、自嘲気味に、けれどどこか怯えるように、私の瞳を見つめ返した。

 

「恥の多い生涯を送ってきた俺は……ひより、君の隣にいる資格すらない、人間失格ですか?」

 

 真希くんの言葉が終わるか終わらないかのうちに、私の小さな、白い手が、真希くんの大きな手をそっと包み込んだ。

 

 私の瞳には、哀れみも、恐怖も、引き裂かれるような悲しみもなかった。ただ、深い、深い、濁りのない慈愛の光だけが満ちていた。

 

「いいえ、真希くん。それは絶対に違います」

 

 私は、真希くんの手をぎゅっと握りしめ、彼の瞳をまっすぐに見つめた。

 

「真希くんがどんな過去を背負っていても、どれほど能力の暴走に苦しんでいても……私の前で見せてくれたその優しさは、大らかさは、絶対に嘘ではありません。真希くんのそのお力は、誰かを傷つけるためのものではなく、私の隣でお茶を淹れて、静かに本を読むための、優しいお力なのですから。冬山でご自分の無力さを知った貴方は、誰よりも人の痛みが分かる、ただの人間です」

 

 一歩、私は真希くんの体へと近づく。

 

 春のひだまりのなかで、私の純度百パーセントの善意が、愛が、彼の脳を灼くすべてのノイズを完全にシャットアウトしていく。私の存在が、彼の世界を静寂で満たしていく。

 

「読書仲間から、読書友達へ。私はずっと、真希くんの隣で救われてきました。……だから、ここから先は、もう一つの関係へ進みたいのです。天道真希くん、私は、貴方のことが大好きです。お友達としてではなく、一人の男の子として、生涯の伴侶として、愛しています」

 

 それは、私が人生で初めて口にした、至純の告白。

 

 私の不器用な十三年間の孤独を氷解させてくれた、私の白馬の王子様への、永遠の誓い。

 

「私の世界を見つけてくれた貴方が、ご自分を人間失格だと仰るのなら。――私がいま、貴方にその言葉を贈りましょう」

 

 私はおっとりと、けれどこれ以上ないほど美しく、大好きな愛しい人に向けて微笑んだ。

 

「『私の図書室』を開けてくれた。貴方は――『人間合格』です」

 

 その瞬間、真希くんの胸の奥で、長年彼を縛り付けていた冷たい冬山の鎖が、音を立てて崩れ去るのが分かった。脳を灼き続けていた激痛が、私の言葉によって、嘘のように穏やかな静寂へと書き換えられていく。彼の手が、かすかに震えていた。

 

「……っ、あぁ、ありがとう、ひより」

 

 真希くんは、私の体を優しく、けれど絶対に離さないという強い意志を込めて、きつく抱きしめた。

 

 その腕の強さに、愛の重さに、私の胸は甘やかな幸福で満たされる。

 

 全能感を粉砕され、己を怪物だと呪っていた少年は、私の言葉によって、ようやく本物の「人間」になることができた。そして、大切な人を守れないと思っていた私もまた、彼の命を救うことで、本当の「一人前の人間」になれたのだ。

 

 二人の物語の第一章は、この図書室でこれ以上なく美しく完結した。

 

 けれど、ここから先は、何者にも脅かされない無敵の日常編。

高度育成高等学校という新しい舞台へ、私たちは手を繋いで進む。何が起きようとも、私が彼の隣で微笑み続ける限り、天道真希くんは無敵であり、私もまた、彼を救う唯一の存在であり続けるのだから。

 

 私たちの生涯をかけたエピローグが、今、新しく幕を開ける。

 




椎名ひよりをメインヒロインにするならば、やはり文学作品は外せない。でも、ミステリー小説はなんか狙いすぎだから、自分の好きなジャンルというか作品を絡めた。

次の話はヤンデレの椎名ひより爆誕話を投稿する予定。
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