青年アルスの研究日誌〜全てを失った魔物学者は竜の力で理不尽な世界を調停する〜   作:SK43

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拙い作品ですが、どうぞよろしくお願いします。





1.青年アルス

 窓の隙間から滑り込む冷たい空気が、部屋の淀んだ空気をそっと押し流していく。

 チュン、チュンと、小鳥のさえずりが澄み切った青空へ溶けていく静かな早朝。

 

「大丈夫? そろそろ出る時間だけど」

 

 散らかったデスクの前で頭を抱えるアルスの頭上から、呆れ半分、心配半分の声が降ってきた。

 

 遠足前の子供をあやすような口調だが、振り返ったアルスは濃紺のジャケットに糊の効いたシャツを着込んだ、立派な青年の姿をしている。

 しかし、その顔は情けないほど青ざめており、額にはじわりと嫌な汗が滲んでいた。指先は微かに震え、今にも泣き出しかねない表情は、服の立派さとはひどく不釣り合いだ。

 

「えーっと。講義資料持った、メモ帳持った、予備のペン持った……」

 

 ぶつぶつと呪文のように唱えながら、アルスは前夜に何度も確認したはずの持ち物リストを、穴が開くほど睨みつけている。

 手元のペンでチェック欄をぐりぐりと黒く塗りつぶしているが、同じ項目に印をつけるのはこれで実に五回目だ。カバンの中身を出しては入れ、また出しては入れを繰り返している。

 

「前日にあんだけ徹夜で準備してたんだから、絶対大丈夫よ。もっとどっしり構えなさいっての」

 

 パタン、とアルスの手からリストが抜き取られた。

 呆れと慣れが混じった、鈴を転がすような凛とした声。

 

 目の前に立つ彼女は「もう」と腰に手を当てて、やれやれと小さくため息をつく。

 本当なら、彼女だって今日という大一番に胸をすり減らして緊張しているはずなのだ。それでも、こういう本番前に限って、彼女はいつも背筋をぴんと伸ばし、不思議なほどの頼もしさでアルスを包み込んでくれる。

 

「そ、そうなんだけど……いくら確認しても心配でさぁ……」

 

 情けない声が漏れる。極度の緊張で喉がカラカラに乾き、声はひどく掠れていた。胃の奥がぎゅっと縮み上がり、心臓の音が耳元でうるさいほど鳴っている。

 

「もーほら、ネクタイ曲がってる。こっち向いて」

 

 彼女がアルスの胸元へすっと手を伸ばす。

 きゅっと襟元を締め直す指先の微かな温もりと、ふわりと漂う甘い香りが、アルスの強張った身体を少しだけほぐした。

 

「あとで、お弁当持って応援に行ったげるから。大勢の前で、あんまり恥ずかしいとこ見せないでよ?」

 

 いたずらっぽく片目を閉じて笑うその顔に、アルスは肩からふっと息を吐き出した。

 

「……はい」

 

 アルスはとうとう一人で完璧に身支度を整えるのを諦め、されるがままに腕を下ろした。

 

 最近に始まった話ではないが、昔から肝心な時にはいつも彼女の方がしゃんとしている。威厳というか、頼り甲斐というか。

 本当なら、自分が彼女を安心させるくらい立派な姿を見せたかったのに、まだまだ敵わないらしい。そんな不甲斐なさも、今は不思議と心地よかった。

 

「──やっとだね」

 

 ネクタイの結び目を整え終え、彼女がぽつりと呟く。

 

「……うん」

 

 主語のない、短いやり取り。

 その言葉の裏にある、今日この日を迎えるまでの途方もない時間。誰にも理解されず、何度も心が折れそうになった眠れない夜たち。

 言葉にしなくても、そこに込められた想いと覚悟は、二人の間で確かに共有されていた。

 

「──よし! カッコいい!」

 

 彼女は一歩下がり、アルスの全身を満足げに見渡してから、にこりと満面の笑みを浮かべた。

 

「自信もって行ってきなさい!! アルス!」

 

 最後に、どんっ! と両手で胸の中心を強く押される。

 思わずむせ返りそうになるほど容赦のない物理的な激励だったが、押し込まれたその場所から、熱い力が全身へ巡っていくのが分かった。

 

「……ありがとう」

 

 込み上げる想いは山ほどあった。伝えたい言葉も数え切れない。

 けれど今は、それらすべてを胸の奥、力強く鳴る鼓動の中へ押し込める。

 アルスは顔を上げ、もう震えていない手でカバンの取っ手をしっかりと握り直した。

 

「じゃあ、行ってきます!!」

 

 朝日が差し込むドアを押し開け、魔物研究家アルスは世界を変えるための長く険しい最初の一歩を、力強く踏み出した。








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