青年アルスの研究日誌〜全てを失った魔物学者は竜の力で理不尽な世界を調停する〜 作:SK43
「おい! おいおい待てよアルス!!」
「ちょっと待ってアルスさん!」
事情聴取を終えたアルスは半ば逃げるような勢いで宿を飛び出し、そのまま森へ向かって足早に歩き始めていた。
村を包む空気は重い。空はまだ明るいはずなのに、山々に囲まれたヒヒイロの景色はどこか薄暗く、村全体が沈鬱な不安を抱え込んでいるようだった。
アルスは無意識のうちに肩へ掛けた鞄を握り締める。
胸の奥が妙にざわついていた。
初めてだからだ。自分が中心となって調査を進めるのは。
これまでは教授や先輩の背中を追っていればよかった。指示を受け、知識を披露し、結果をまとめればよかった。
だが今回は違う。
失敗すれば、村人たちの命に関わる。
そんな考えが頭をよぎり、アルスは小さく息を吐いた。
弱気を振り払うように握った鞄へさらに力を込める。
「いいのかよ、もっと色々聞かなくて。ラチあかねぇ雰囲気だったのはなんとなく分かったがよ」
後ろから追いついてきたガーディが、呆れたように言った。
その頃には、森の入口がすぐ目の前まで迫っていた。
湿った土の匂い。
草木の青臭さ。
風に混じる微かな魔力の気配。
大学時代、研究に没頭していた頃に何度も嗅いだ空気だ。アルスはそれだけで少し気持ちが落ち着いていくのを感じた。
「みんな不安そうにしてたじゃない……じゃなくて、してましたよ。あんまりにも肩透かしな感じだったから」
エスカも追いつきながら言う。
慣れない敬語が少しだけぎこちない。
けれどアルスは二人の言葉にすぐ返事をしなかった。
「おい聞いてんのかアルス!」
「アルスさん!?」
「うん、もう大丈夫かな」
森の入口で、アルスはようやく立ち止まった。
村人たちが捜索した範囲には、布切れが木々へ結びつけられている。風に揺れるそれを眺めながら、アルスは視線を細めた。
「二人とも、聞いて」
鞄の中を探りながら、静かに言う。
人気のない場所まで来るのを待っていた。
これから話す内容を、村人たちに不用意に聞かせたくなかったからだ。
「この村にいる魔物の正体が分かったよ」
「……えっ、は?」
エスカの口から間抜けな声が漏れる。
アルスが取り出したのは、弁当箱ほどの大きさをした板状の魔機だった。鈍い金属光沢を放つそれを片手に、彼はようやく二人へ振り返る。
その顔は、先ほどまでの気の抜けた雰囲気とは違っていた。
「その上で、実地調査中は僕の言う事を絶対に守って欲しい」
「ちょちょちょちょ待って、待って! その前にどういう事!? 本当にどういう事!?」
「……まぁ待て」
混乱するエスカを、ガーディールが片手で制する。
そして「説明しろ」とでも言うように顎をしゃくった。
アルスは小さく頷き、指を一本立てる。
「一つ。今回の魔物は男の人しか狙っていない」
森を吹き抜ける風が、ざわりと枝葉を揺らした。
「男を好んで食べる魔物自体は珍しくない。でも、今回は“連れ去っている”のが重要なんだ。その場で捕食せず、わざわざ生きたまま運べる魔物はかなり限られる」
「……確かに、喰われたとは誰も言ってなかったな。……死体が見つかってねぇだけかもしれねぇが」
「そう。二つ目。死体が見つかってない」
アルスはさらに指を立てた。
「つまり、その魔物は人間を食べるタイプじゃない。もし巨大な魔物なら隠密行動は難しいし、短時間で完全に痕跡ごと死体を消すのは、いくら魔物の魔法でも現実的じゃない」
論理を積み上げるごとに、彼の口調は滑らかになっていく。
その様はまるで講義中の研究者のようだ。非常勤講師としてたびたび大学の授業を受け持っていた恩師の姿が自分に重なるのを感じる。
「三つ目。足跡が途中で消えている事」
アルスは森の奥へ目を向けた。
「人間が痕跡を追うって事を理解してる魔物だ。つまり、人間社会をある程度知ってる。普段から人里へ紛れ込んでるタイプの可能性が高い」
そこまで言って、アルスは手にした魔機を掲げる。
「以上三つの点から導き出される答えは一つ。この森には──リリスがいる」
その名前が出た瞬間、空気が僅かに張り詰めた。
淫魔・リリス。
人間へ擬態し、精気を糧に生きる高知能の魔物。
時には人里へ溶け込み、数年単位で潜伏する例すらある危険種だ。
「リリス……」
エスカは反射的に剣の柄へ手をかけた。
対するガーディールは腕を組み、短く唸る。
「……まぁ、お前がそう言うならそうなんだろうな。で、どうすんだ。探してぶっ飛ばしゃ終わりか?」
「それも含めて調査しながら話すよ」
アルスは頷く。
「ただ、改めて言うけど調査中は必ず僕の指示に従って」
「あぁ、わーってる」
「エスカさんも。脅しじゃなく、本当に死んじゃうかもだから」
真面目な声音に、エスカも小さく息を呑んだ。
「……わかりました」
二人が頷いたのを確認してから、アルスは周囲を見回す。
村人の姿はない。聞かれる心配もないだろう。
「
短い起動キーと共に、板状魔機が低い駆動音を鳴らした。
淡い光が三人を順に走査していく。
「状態異常の検査は調査の前後に必ず行う」
「状態異常……ってなんだ? つか、それも何だその板」
ガーディールが露骨に眉をしかめる。
アルスは慣れた様子で説明を始めた。
「魔物の魔法による異常状態だよ。毒とか錯乱は分かりやすいけど、精神汚染とか呪いみたいに、自覚できないタイプが危険なんだ。これはそれを検査する魔機」
「あぁ、そういう……。でも俺らまだ魔物に会ってねぇぞ?」
「知能の高い魔物は隠密が得意だからね。遠距離から魔法を仕込まれて、気づいた頃には全員衰弱死寸前でした、なんて昔はよくあったんだよ」
さらりと告げられた内容に、ガーディの顔が引きつる。
脅しすぎたか、とアルスは少し苦笑した。
「今はこういう魔機があるから大丈夫。文明の進歩って偉大だよね」
「……やっぱ俺、村で待ってりゃよかったか」
「あ、それはダメ。この村にいる以上、なるべく一人にならないで」
「……襲われるからか?」
そこで口を開いたのはエスカだった。
「ヒヒイロ全体が状態異常に汚染されてる可能性があるからよ。そうなったら何が起きるか分からない」
「……マジか?」
「超マジ。……じゃなくて、マジですよ」
言い直したエスカに、アルスは思わず吹き出しそうになる。
「あの、エスカさん」
「な、なに」
「無理に敬語使わなくても大丈夫ですよ」
「うっ……」
エスカは気まずそうに目を逸らした。
「教養ないって思われたくないから頑張ってるんですけど……やっぱ変?」
「変じゃないです。でも、仲間なんですから喋りやすい方がいいですよ」
「むむむ……」
少しだけ頬を膨らませたあと、エスカは観念したように肩を落とした。
「……じゃあそうする。なんか気ぃ使わせてごめん」
「あはは、全然! まともに敬語使わない大卒もいますし!」
「あ? 使ってんだろが」
「そういう所だぞガーディ」
そんな軽口が交わされれば、張り詰めていた空気がほんの少しだけ和らいだ。
やがて魔機が小さな電子音を鳴らす。
三人とも異常なし。
「ともかく、エスカさんの言った通り村の人たちが既にリリスの魔法にかかってないとも限らない。いわゆるリリス・ネストってやつだね」
「ねすとってなんだ?」
「リリスの精神操作によって運営を管理されるようになってしまった集落の事だよ。かつてそれで滅んだ国だってあるくらいだ」
「……ぉーぅ」
小首を傾げていたガーディールの血の気が引いていく。
ネストと化した集落は外敵の侵入を防ぐために不自然なほど閉鎖的になるので、その心配は今のところは薄いだろうというのがアルスの見立てであるが、念には念を入れていくのもまたアルスの流儀だ。
アルスは森の奥を見据えた。
鬱蒼と生い茂る木々。
昼間だというのに薄暗く、陽光は木漏れ日程度しか届いていない。
静かな森だった。
静かすぎるほどに。
三人は互いに顔を見合わせ、小さく頷き合う。
そして誰からともなく、深い森の奥へと足を踏み入れた。