青年アルスの研究日誌〜全てを失った魔物学者は竜の力で理不尽な世界を調停する〜 作:SK43
大量のアルコールに着火した炎は、まるで爆発したかのような勢いで燃え上がった。
轟、と空気を裂く音と共に青白い炎が森を舐める。
一瞬で熱風が吹き荒れ、湿った森の空気を押し流した。
逆巻く青い炎に包まれたホロウガルムたちは、狂ったように咆哮を上げながら地面を掻きむしる。
漆黒の毛皮が焼け、焦げ臭い臭気が辺りに広がっていく。
「グルルゥゥッ!!」
「ォォオオオンッ!!」
悲鳴とも怒号ともつかない遠吠えが、森中に反響した。
炎を避けようと暴れ回る巨体が泥を跳ね上げ、木々へ体当たりする。
火に包まれた狼達の姿は、まるで地獄絵図そのものだった。
そんな混乱の中心で、唯一火の手を免れていたのは障壁の中にいるエスカだけだった。
青白い障壁越しに炎が反射し、彼女の呆然とした横顔を照らしている。
「クク……はーっはっはっ!! ぃやったぜどーだ犬畜生共が! これから毎日森を焼こうぜ!?」
木の上から高笑いを響かせるガーディールの背中を、しかしアルスはぽかぽかと叩いた。
「焼こうぜ!? じゃないよ!! なんてことしてんだガーディ!! バカ! 森でこんな事したら大火事に……!!」
そのまま叩かれながらも、ガーディールは余裕そうに鼻を鳴らす。
アルスは半ば悲鳴じみた声を上げながら、火の海と化した地面を見下ろした。
のたうち回るホロウガルム達が泥を巻き上げ、草木へぶつかる。
火は周囲へ燃え広がって──
……いかない。
「あれ?」
拍子抜けしたようにアルスが目を瞬かせる。
「ブァーカ、冷静になれよ。ここは水はけ最悪、湿気たっぷりの炎にとっちゃクソ環境だぜ。高濃度の消毒用アルコールっつったって限度がある。つまる所結論としては──」
ガーディールの解説が続く間にも、炎は徐々に勢いを失っていく。
湿った泥。
水分を含み切った腐葉土。
重たい湿気を帯びた空気。
ホロウガルムを包んでいた炎も次第に小さくなり、やがて黒焦げになった獣達は散り散りに森の奥へ逃げ去っていく。
戦意を喪失したようなその後ろ姿を見送りながら、ガーディールは肩をすくめた。
「こういうこった」
その言葉を最後に、炎は完全に鎮火する。
残されたのは、ところどころ黒く焼け焦げた森の地面に、煙を燻らせる草木。
そして障壁の中で呆然と立ち尽くすエスカだけだった。
森には再び静寂が戻っていた。
ただ湿った風だけが、焼け跡の間を静かに吹き抜けていく。
「おぉ……」
アルスは思わず感嘆を漏らす。
そういえばコイツ、
そんな複雑な感情が脳裏を過ぎる。
魔物の対処には慣れていたはずだった。
だが今回は早々に負傷し、何もできなかった。
頭では理解していても、実戦では冷静でいられなかったのだ。
(……なんか、すごく悔しいな!)
胸の奥にじわりと熱い感情が滲む。
研究室で理屈を並べるだけでは足りない。現場では、一瞬の判断が生死を分ける。
そんな当たり前の事実を、アルスは嫌というほど思い知らされていた。
「たす、かった……」
障壁を解除したエスカが、ようやく力なく呟く。
膝がわずかに震えていたが、なんとか一人で立ち上がる。
アルスは息を吐き、慎重に木から降りた。
「無事でよかった、エスカさん。ケガはありませんか、ぁあいててて……」
着地した瞬間、脇腹に痛みが走る。
思わず顔をしかめたアルスに、ガーディールが呆れたように鼻を鳴らした。
「ケガ人お前だけな。ってもビビったぜ、エスカお前……すげぇ強いじゃねぇか」
辺りを見渡せば、ナイフや鉄剣で仕留めたホロウガルムが何体か転がっているのが見える。
文字通りの人食い魔物にたった一人で囲まれて無事だったのだ。
「あたしは、全然。結局助けてもらっちゃったわ。アルス、これありがとう」
疲労を隠しきれない表情のまま、エスカは
だが、全然なんて事はない。
十数体のホロウガルムを相手に立ち回った姿は、二人の脳裏に焼き付いていた。
普通の傭兵ならとっくに食い殺されているというのに、それでも勝った顔をしない辺り、彼女がどれほど高い場所を見ているのかが分かった。
「ガーディールも、ありがと。最後のアレがなかったら、持ってきた魔機全部使っちゃうとこだった」
「アルコールをこんな使い方したってバレたら、色んな所にクソ怒られそうだけどな。ま、全員無事でよかったぜ」
ガーディールは苦笑しながら頭を掻く。
本来なら治療や消毒用に持ち込んでいた備品だ。
怒られるどころでは済まないかもしれない。
それでも、あの状況では最善だった。
特にガーディールは今回が初めてのフィールドワークだったはずだというのに、咄嗟にあれだけ動けたのは純粋に凄い事だろう。
アルスとしても改めて感心せずにはいられなかった。
「それにしても……」
ふと、アルスの表情から笑みが消える。
頭の中に浮かんだのは、先ほどの戦闘で抱いた違和感だった。
「どうしてホロウガルムがここに……?」
「お前でもわかんねぇのかよ?」
本気で不思議そうにガーディが眉をひそめる。
アルスはゆっくり首を横に振った。
仮説はいくつかある。
だが、どれも決定打に欠けていた。
「……ひとまずこの辺に軽く
「そうね……ミティが森の調査をした時に出くわさなくてほんとに良かった……」
エスカの声には、今さらながら恐怖が滲んでいた。
アルスは焼け焦げた地面へ魔機を向けながら、慎重に周囲を調べ始める。
焦げた毛。
泥に残る爪痕。
踏み荒らされた草木。
その一つ一つを確認しながら、彼の思考は別の疑問へ沈んでいく。
(ホロウガルムの群れはこの季節、もっと山の奥の方にいるはずだ──それに、妙に数が多かった……)
普通ではない。
あれほどの規模の群れが、人里近くへ下りてくる理由が分からない。
(食料が豊富なこの季節に、群れごと人里近くまで下りてくる理由……?)
生息地域の明らかな相違。群れに感じた違和感。
リリスの仕業ではない。全く別の何かがここにはあるのではないかという疑念。
「なんか、嫌な予感……」
アルスは森の奥を見つめる。
鬱蒼とした木々の向こうには、ただ深い闇が口を開けているだけだった。
何かが潜んでいる。そんな不気味さだけが、静かに肌へまとわりつく。
湿った風が吹き抜ける。
その冷たさに背筋を撫でられながら、三人はひとまず森を後にするのだった。