青年アルスの研究日誌〜全てを失った魔物学者は竜の力で理不尽な世界を調停する〜   作:SK43

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26.正体

 

 夕暮れの森は、不気味なほど静かだった。

 

 西の空を染める赤紫色の光が木々の隙間から差し込み、長く伸びた影が地面を覆っている。

 先ほどまでの激戦が嘘のように、森には風が葉を揺らす音しか残っていない。

 

 そんな帰路の途中、先頭を歩いていたエスカがふと振り返る。彼女は血を拭った鉄剣の柄に手を添えたまま、周囲への警戒を怠っていなかった。

 

「ねぇ、そういえば……リリスってどんな魔物なの?」

 

 問いかけられたアルスは、肩に掛けた鞄を軽く持ち直しながら答える。

 

「リリスは女の人の姿をした、人間の精気を餌にする高位の魔物です。色々な魔法が使えるって言われていて、その中の一つに雄の行動を操る魔法っていうのがあるんだけど……」

 

「雄の行動を操るってまさか」

 

 エスカの声がわずかに強張る。彼女の踏み抜いた枯れ枝が、乾いた音を立てて折れた。

 アルスはそんな反応に苦笑を浮かべつつも、すぐに真剣な表情へ戻る。

 

「と言っても……リリスはとっても臆病な魔物で、こんなに大規模な誘拐事件を起こした事例はないんですよね」

 

 その言葉には、ずっと胸の奥に引っかかっている疑問が滲んでいた。

 本来のリリスは人前に姿を現さない。人知れず獲物に近づき、気づかれぬまま精気だけを奪って去っていく。狡猾で、用心深く、決して自ら騒ぎを起こすような真似はしない魔物だ。

 

 にもかかわらず、今回の事件はあまりにも大胆すぎる。

 

「自分の存在が悟られるような行動はしないはず……なのに、こんなにも派手な事をしているのはなんでだろう?」

 

 アルスは考え込むように小首を傾げた。

 

 彼の頭の中では、いくつもの仮説が組み立てられては崩れていく。リリスである可能性は極めて高い。しかし生態とかけ離れた行動がある以上、それを断定するには至らない。

 

 もしかすると、自分たちの知らない新種の魔物かもしれない。

 あるいは――もっと厄介な何かが、この森の奥に潜んでいるのか。

 

「まぁ……目途が立っただけ良いじゃねぇか。そんで、どうやって捕まえんだ?」

 

 後ろを歩いていたガーディールが倒木を乗り越えながら言う。

 アルスは「う、う~ん」と唸りながら頭を掻いた。

 

「リリスは……見つけるだけならなんとか……僕が一回見つけた時は、すぐに逃げられちゃったから……」

 

「見つけるだけじゃダメだろ、捕まえて誘拐された男連中を戻させねぇと」

 

 その言葉はもっともだった。

 

 しかし、リリスの捕獲は研究家たちの間では半ば夢物語として扱われているほど困難だ。発見するだけならまだいい。問題はその後。

 

 リリスは精神操作や拘束魔法に長けている。さらに幻惑にも優れ、捕捉した瞬間には既に逃げ道を確保している事がほとんどだ。

 

 実際、アルス自身も一度逃げられている。

 偶然遭遇した際、魔法で拘束され何もできぬまま逃げられてしまった経験が脳裏をよぎった。

 

「あれは強力な魔法だったなぁ……とにかく、相手がリリスなら捕獲は本当に大変だ。村で少し方法を考えるよ」

 

「……了解。頼んだわよ」

 

 エスカの返事は、どこか重かった。

 

 森の出口が近づき、頭上の木々が少しずつ途切れていく。赤紫色に染まった空が視界に広がる頃には、三人の足取りにも僅かな疲労が滲んでいた。

 

 ◆

 

「ただいま戻りました」

 

 民宿の扉を開けた瞬間、暖かな灯りと煮込み料理の香りが三人を迎える。

 

 そして次の瞬間。

 

「あっおかえりなさ……ど、どうしたんですか!?」

 

 宿で三人の帰りを待っていたであろうミーティアの甲高い悲鳴が建物中に響き渡った。

 

 ホロウガルムとの戦闘を終えた三人の姿は、酷い有様だった。返り血で赤黒く染まったエスカの服。泥だらけのアルス。焦げ跡のついた装備。事情を知らない者が見れば、惨劇の生き残りにしか見えない。

 

「あ、そういえば……」

 

 アルスたちが今さら自分たちの姿を見下ろした頃には、ミーティアは顔を真っ青にして駆け寄ってきていた。

 

「え、え、ぇエスカ、大丈夫!? そんな血まみれで……アルスさんも、泥だらけで……!! あわわわわ、あわわあわ……!! おっおっお医者さんっ!」

 

 目を白黒させながら両手をぶんぶん振り回すミーティアの様子は、もはや半狂乱だった。

 

「医者……あ、俺か?」

 

 そんな様子を見る中、ガーディールが間の抜けた顔で自分を指差す。

 

「お、落ち着いてミティ! 全部返り血だから! ほら大丈夫!」

 

「かっかかか返り血っ!? きゅう……」

 

「きゃーーーー!! ミティ!?」

 

 言い終わるより早く、ミーティアはその場でくるりと倒れ込んだ。

 

 慌てたエスカが抱き留め、騒ぎを聞きつけた女将が駆けつける。しばらくしてようやく場が落ち着いた頃には、三人ともどっと疲労を感じていた。

 

 ◆

 

 風呂を借り、血と泥を洗い流した後。

 三人は宿の一室で、改めて向かい合っていた。

 窓の外では夜の帳が下り始めており、虫の鳴き声が静かに響いている。

 

「……大丈夫そうですか?」

 

 アルスが尋ねると、エスカは小さく息を吐いた。

 

「え、ええ、びっくりしただけみたい。あの子、ちょっと心臓弱いから」

 

「まぁ、久しぶりに会った幼馴染が血まみれで帰ってくりゃあ、誰でもああいうリアクションになるわな」

 

 ガーディールが苦笑しながら肩をすくめる。

 

「し、仕方ないじゃない。着替えもなかったし……」

 

 エスカは少し頬を膨らませて反論した。

 その姿を見て、アルスは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。戦闘の緊張がようやく解け始めている。

 

「そ、それで。これからどうするの? 打つ手あるのかしら」

 

「そうだねー」

 

 アルスは懐から小さな手帳を取り出した。

 長年使い込まれた研究日誌。角は擦り切れ、ページには細かな書き込みがびっしりと並んでいる。

 ぱらぱらとページをめくると、ある記録の場所で指が止まった。

 

 ――初めてリリスと遭遇した日の記録。

 

 それは、今でも鮮明に思い出せる出来事だった。

 

 危険区域で教授とはぐれた時。アルスは偶然、魔物に襲われている少女を見つけた。

 岩陰でうずくまり、肩を震わせていた小柄な影。背後には牙を剥いた魔物。そしてこちらを見る、怯えと戸惑いの入り混じった瞳。

 

 あの時の彼は、本気で普通の少女だと思っていた。

 助けた後に正体を知り、短い会話を交わし――最後には魔法で拘束され、そのまま逃げられたのだ。

 

「魔物と話したのかよ」

 

「あんたよく魔物と話すわね……」

 

 ガーディールは驚き、エスカは半ば呆れたようにため息をつく。

 アルスは苦笑しながら頷いた。

 

「本当に少しだけね。なんて言ってたか、確か……──なんとかに誓い、貴方を傷つけない。貴方もまた近づかぬように……彼女は最後にそう言ってた」

 

 かつて慌てていた中でメモを取ったせいか、その言葉の意味は今も分からない。

 だが少なくとも、リリスが会話可能な知性を持つ存在である事だけは確かだった。

 

 ならば、まだ道はある。

 アルスは静かに手帳を閉じる。

 

「打つ手はあるはず。捕まえてみせるよ、今度こそね」

 

 その瞳には研究者としての執念と、失敗を乗り越えようとする強い意思が宿っていた。

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