青年アルスの研究日誌〜全てを失った魔物学者は竜の力で理不尽な世界を調停する〜 作:SK43
翌朝。
昨夜の宴の熱気が嘘のように、ヒヒイロの村には澄んだ朝の空気が満ちていた。
山間から吹き下ろす風は少し冷たく、朝露を含んだ木々の香りが鼻をくすぐる。遠くでは鳥の鳴き声が響き、昨晩遅くまで賑わっていた酒場通りも、今は静かなものだった。
そんな穏やかな朝とは裏腹に、アルスは非常に居心地の悪そうな顔をしていた。
「……ねぇねぇガーディ」
「ヘイヘイ、なんすかアルス博士」
「僕昨日なんかやらかした? すっっごい。すっごいよ。エスカさんがすんごい」
半泣きになりながら声を潜めるアルスの視線の先では、エスカがじっとりとした目でこちらを睨んでいる。
正確には、アルスとソフィアを交互に監視するような視線だ。
宴と騒動のあった翌日。
ソフィアに案内され、写真館へ向かっている最中なのだが、エスカは出発してからずっと機嫌が悪かった。
昨夜の一件を思い出しているのか、時折むすっと頬を膨らませている。
「一応何もなかった。らしい。あの状況で何もなかったお前は凄いと俺は思うけどな」
「どういう事~」
酒のせいで終盤の記憶が曖昧なアルスとしては、泣きながら首をかしげる事しかできない。
むしろ何も覚えていないからこそ恐ろしい。
そんなアルスを見て、ガーディールは呆れ半分に肩をすくめた。
「まぁ安心しろ。お前の貞操は守られた」
「本当に何があったの!? ねぇ!!」
「何もなかったんだ。何も。なぁ?」
「あたしに聞くな!」
ガーディールに話を振られれば、エスカはついにぷいっとそっぽを向いてしまった。
話を聞いていたソフィアの耳も少しだけ赤かった気がしたアルスだったが、それにも益々困惑するしかない。
「あちらが写真館です。少し埃っぽい場所ですが、すみません」
ソフィアが指し示した先には、木造の小さな建物がひっそりと佇んでいた。
年季の入った壁板には風雨に晒された跡が残り、窓硝子もどこか曇っている。
けれど、その古びた外観には不思議と味わいがあった。
「あっいえいえ! 全然、とっても楽しみです」
アルスは目を輝かせながら即答する。
その反応に、ソフィアもどこか嬉しそうに微笑んだ。
細い指先で扉に触れる。
ぎぃ、と古ぼけた蝶番が軋みを上げ、ゆっくりと扉が開かれた。
館内には電気は通っていないらしく、薄暗い室内を照らしているのは壁際に置かれた蝋燭だけだった。
揺らめく橙色の火が、古い写真立てや木製の棚をぼんやりと浮かび上がらせる。
少し湿った紙と埃の匂いが鼻をくすぐり、まるで時間そのものが閉じ込められているような空間だった。
「なんというか雰囲気あんなぁ」
「僕、たぶんここで1日過ごせる……いや、1週間はいける……」
「父の、村長の唯一の趣味で。おそらく20年分程撮りためた魔物や動物の写真がありますわ」
ぐるりと一望して目に映るのは写真、写真、写真。
その圧巻の光景に、さしものエスカもしばし怒りを忘れて感嘆の声を漏らす。
「20年……そこまで行くとすごいわねぇ」
「宝の山だぁ……!」
アルスは完全に目の色が変わっていた。
壁一面に飾られた写真へ吸い寄せられるように歩み寄り、次々と目を通していく。
森に棲む獣。
雪原を駆ける魔物。
川辺に現れる珍しい鳥類。
写真の一枚一枚から、この村で積み重ねられてきた時間が伝わってくる。
そんな中──
「あっ! ねぇこれってもしかしてソフィア?」
エスカの弾んだ声が響いた。
アルスが別の写真に気を取られている間に、面白い一枚を見つけたらしい。
そこに写っていたのは、ぬいぐるみを抱えた幼いソフィアの姿だった。
ふわふわした髪に、むすっと不機嫌そうな表情。
けれど小さな両手でぬいぐるみをぎゅっと抱き締めている様子が年相応で、なんとも愛らしい。
「ふふっカメラが気になってるのかな。かわいい~」
「えぇ!? あっあのあのっ待ってくださいなんでそんな物がここに……っ!?」
ソフィアの顔が一瞬で真っ赤になる。
普段は落ち着いた彼女がここまで狼狽えるのは珍しかった。
「なになに、見られちゃ恥ずかしいの? ふっふっふっ昨日のお返しよ! たんまり愛でてやるわー!」
「もうっ! もうっエスカさん! 大人げないですことよ!」
「ふーんだ! どうせあたしはまだ子供だもーん!!」
蝋燭の薄明かりの中でも分かるほど真っ赤になったソフィアが、写真を取り返そうとぴょんぴょん跳ねる。
その必死さが妙に可笑しく「俺にも見せろよ」とガーディールも輪の中に入っていく。
「はぁ……はぁ……観念してくださいまし……!!」
「傭兵は身軽なのよ~……って、あれ?」
写真を眺めていたエスカが、ふと何かに気づいたように目を細める。
その一瞬の隙を、ソフィアは見逃さなかった。
「隙ありですわっ!」
「あー!」
ぱっと写真を奪い返し、腰から下げていたポーチにそそくさとしまい込んでしまう。
肩で息をして、絶対に見せないよ! とでも言いたげな雰囲気だ。
「これだけはお許しくださいましっ」
「ちぇ~~」
そんな二人のやり取りを横目に見ながら、アルスは小さく首を傾げる。
(あの二人、いつの間に仲良くなったんだろ)
女の子同士というのは不思議だな、と少しだけ感心しながら、アルスは改めて別の写真へ視線を向けた。
そこで、彼の手が止まる。
他の写真はどれも鮮明に撮影されている。
だが、その一枚だけ妙にピントがぼやけていた。
写っているのは、小柄な何か。
人間の子供ほどの大きさだろうか。
森の木々の間を飛び回っている瞬間を無理やり切り取ったような構図で、全貌ははっきりしない。
だが、その輪郭だけでも妙な違和感があった。
「なんだ、こいつ……?」
アルスの呟きに、場の空気がわずかに静まる。
写真を持つ彼の指先が、無意識に紙の縁をなぞっていた。
多分、
だが、すぐにその考えは否定される。
──森にインプは生息していない。
なにより、あの種族には特徴的な蝙蝠の翼がある。
しかし、この写真の魔物には翼が見えない。
それに。
「体毛があるようにも見える」
そちらもやはりインプにはない特徴の、ごわごわとした体毛。
考えてみる。
だが、アルスの膨大な知識にも一致する存在は浮かばなかった。
その瞬間、背筋に小さな震えが走る。
未知。
未確認。
未発見。
それは研究家にとって、恐怖であると同時に──抗い難い誘惑だった。
「こ、こほんっ。今日見てほしかったのはそれですわ、博士様。それは父が消える数日前に撮った、最近の写真なのです」
ソフィアが咳払いをしながら話題を戻す。
先ほどまで逃げ回っていたとは思えないほど、今は真剣な表情だった。
後ろではまだエスカが「ねー写真~」「見せてよー」と騒いでいたが、ソフィアは完全に無視していた。
「わたくしは魔物には明るくないのでわかりませんが……少なくとも、ヒヒイロにいるはずのない魔物、ということは分かります」
アルスは思わず「僕も見た事ない」と口にしかける。
だが、それでは余計に不安を煽るだけだと気づき、寸前で飲み込んだ。
代わりに静かに頷く。
「わたくしは、その魔物こそが今回の事件を起こしたんじゃないかと思っているのですけれど……博士様、どうでしょうか」
新種の魔物。
もしそうなら、使う魔法も生態も未知数だ。
確かに、ソフィアの推測には一理ある。
敵の正体はリリス。
そう考えていたが──別の可能性も考慮すべきかもしれない。
アルスは写真を見つめながら、小さく唸った。
「でもこれ、本当に未発見種かも……いやいや一旦他の論文をさらって見ないと分かんないか……」
不安はあった。
だが、それ以上に。
胸の奥で、研究者としての興奮が膨れ上がっていく。
未知の魔物。
それは学術的価値だけでなく、場合によっては国を動かすほどの発見だ。
正式な調査隊が派遣される可能性だってある。
アルスの瞳には、既に好奇心の火が灯っていた。
「ほんとかよ……そんなん蓋開けてみたら見間違いでした~とかよくあるオチじゃねぇか?」
「いや! わかんないけど……っ! 調査する価値はあるよ!」
興奮気味に言い返しながらアルスは写真を丁寧に机へ戻して、改めてソフィアへ向き直る。
「ありがとうソフィアさん! これ、本当にすごいです! 村長さんにもお礼を伝えたいな……」
「は、はい。お役に立てたなら嬉しいですわ」
気持ちが前のめりになり、自然と距離が近くなるがアルス自身はまるで気づいていない。
頭の中は既に未知の魔物の事でいっぱいだった。
この依頼を成功させる。
村長へ礼を伝える。
そして、正体を突き止める。
やりたい事が一気に膨れ上がったような気持ちだ。
「……あ、とはいえなんだけど」
ふと熱を冷ますように咳払いし、アルスは仲間たちへ向き直る。
「未知の魔物ってことは、使う魔法や危険性も未知ってことなんだ。……油断はしないで、気を引き締めよう」
「オッケー。もちろん」
「おう。頼りにしてるぜ」
二人の返答に、アルスも小さく頷く。
その後もしばらく写真館を見て回ったが、他に目ぼしい手掛かりはそれ以上見つからなかったので解散となった。
(依頼が終わったら、絶対もう一回来よう……)
そんな事を考えながら、アルスの調査は続いていく。