青年アルスの研究日誌〜全てを失った魔物学者は竜の力で理不尽な世界を調停する〜 作:SK43
森の調査が始まってから、数日が経っていた。
アルスたちは慎重に、それでも可能な限り速度を落とさぬよう森の調査を続けていたが、その中で少しずつ確実に分かってきたことがあった。
この森には、“何か”がいる。
それも、ただ危険なだけの魔物ではない。
森の奥へ進めば進むほど、景色は目に見えて異様さを増していった。
無理やり捻じ折られたような倒木。
地面を深く抉る巨大な爪痕。
何か重いものが引きずられたような土の裂け目。
自然の営みでは到底説明できない痕跡が、あちこちに残されている。
湿った森の空気は重く、昼だというのに木々の隙間から差し込む光は弱々しかった。
鳥の鳴き声も少ない。
まるで森全体が、何かを恐れて息を潜めているようだった。
「まただ。なんなんだこの痕跡……」
アルスはしゃがみ込み、折れた木の断面を指でなぞる。
繊維が裂けている。
またしても純粋な膂力だけで、へし折られていた。
「熊……? いや、そんな規模じゃないわよね」
エスカが眉をひそめながら周囲を見回す。
「クマ科の魔物もいるけど……こんな所にいるはずがないよ」
アルスの声には、隠しきれない緊張が滲んでいた。
背筋を冷たい汗が伝う。
嫌な予感だけが、森の奥へ進むほどに膨れ上がっていく。
そして、異常なのは破壊痕だけではなかった。
「……なにこれ?」
エスカの声に視線を向けた瞬間、全員の表情が強張る。
そこに転がっていたのは、動物の死骸だった。
猪と、鹿か。
身体の半分が無惨に引き裂かれている。
そして、その中には――
「……おいおい、マジかよ」
ホロウガルムの死体も混ざっていた。
昨日、自分たちを苦しめた危険な魔物。
本来ならこの森のもっともっと奥、山の上位捕食者であるはずの存在。
その胴体は大木に叩きつけられたように潰れ、鋭い牙は根元から砕け散っていた。
山へと続く森の奥。
木々はなぎ倒され、無数の獣や魔物が逃げ惑った痕跡が広範囲に広がっている。
まるで森そのものが、巨大な何かから逃げ出そうとしているようだった。
「異常だ……異常過ぎる……! どうなってるんだ……!?」
アルスは震える声で呟く。
「どう……って、お前が分かんなきゃ誰もわかんねぇぞ……!?」
ガーディールですら額に汗を浮かべていた。
普段は豪胆な彼の顔にも、明らかな焦りが見える。
アルスは低く呟き、周囲を見渡した。
ホロウガルムは逃げていた。
何者かに縄張りを追われ、山から叩き出されていたのだ。
アルスは呼吸を整えながら、地面や木々へ次々と
しかし、倒木や破壊痕には依然として明確な反応が出ない。
だが――
ある物に
プー、と。
少し高い警告音が、不穏な森の静寂を裂いた。
「っ……!?」
アルスの顔色が変わる。
反応を示したのは、地面に散らばったホロウガルムの体毛。
その一部にだけ、明らかに異質な魔力反応が宿っている。
アルスの喉がごくりと鳴った。
「Eだ」
ぽつり、と呟かれた声は、妙に乾いていた。
「はぁ?」と、この状況の中では間の抜けた声でガーディールが目を丸くする。
「おいおいおいアルスさんよ……EとかFとか出たら、お前なんつったっけ?」
「……軽く国の軍隊出動レベル」
その場の空気が凍った。
「な、なんでそんなヤバい奴がこんな森にいるのよ……ねぇ、壊れてない? それ……」
「壊れてないよ。残念ながら。……ちょっとこれは」
アルスがそう言いかけた、その時だった。
ぐらり、と。
森が揺れた。
否。
正確には、森の一部が歪んだ。
陽炎のように景色がぶれ、木々の輪郭が溶ける。
「……っ」
全員の呼吸が止まる。
そこにいた。
森の奥。
木々の隙間に収まりきらないほど巨大な影。
白銀の体毛に、異様に長い腕。
歪んだ巨体。
それはまるで、“毛に覆われた巨人”だった。
だが何より異様だったのは、その存在感だ。
森と同化するように輪郭が揺らぎ、見えたと思えば消え、消えたと思えばまた現れる。
そして。
その暗がりの奥から、一つの目だけがじっとこちらを見つめていた。
冷たい。
暗い。
まるで感情の底が抜け落ちたような目だった。
「~~~~っ!?」
エスカが反射的に鉄剣へ手を伸ばす。
だがその腕を、アルスが慌てて掴んだ。
「慌てないで……! 後ろを向かずに、ゆっ……くり。ゆっくり下がるんだ」
声が震えている。
アルス自身も恐怖を押し殺しているのが分かった。
魔物の全貌が分からない。
少なくとも、すぐ名前が浮かぶような種ではない。
だが景色に同化する性質は、ホロウガルムの魔法に酷似している。
しかし、あれはホロウガルムではない。
あれかこれかと仮説が出ては消えていく。
何かが決定的に違う。
知識が引っかからない。
それが何より恐ろしかった。
「戦おうと思っちゃダメだよ。ゆっくりだ。ゆっくり……」
幸い、巨体は追ってこない。
ただ陽炎のように揺らめきながら、こちらを観察しているだけだった。
一歩。
また一歩。
呼吸を殺しながら距離を離す。
やがて木々の陰に完全に隠れたところで、一行はようやく走り出した。
「……はぁっ……!! はぁっ……はぁっ」
エスカが荒く息を吐く。
心臓の鼓動が耳にうるさい。
「なっ……んだったんだ今のバケモン!? アルス、なんか分かるか……!?」
「わ、分からない。図鑑を引けば分かるかもだけど、少なくとも僕は見たことないよ。何科の魔物かさえ検討もつかなかった……!!」
アルスの顔は青ざめていた。
知識こそが彼の武器だ。
その彼が理解できない。
それはつまり、文字通りの“未知”を意味していた。
「二人とも聞いて。正直これは、手に負えない」
アルスは強く言い切る。
「今すぐ森から出て、村の人たちを避難させるべきだ」
「それって……! 消えた男の人たちはどうするのよ!?」
エスカが食ってかかる。
それは当然の反応だったし、アルスも理解している上で首を振った。
「それも含めて手に負えないんだよ! 言ったでしょ、
その声には焦燥が滲んでいた。
あれは危険だ、関わってはいけないと本能が全力で警鐘を鳴らしている。
それを同じように感じているのだろう、エスカは悔しそうに歯を食いしばった。
「急に襲われなかっただけ良かったよ。あの目は……冷たい、冷たい暗い目だった。本当に魔物なのか疑うくらいの……」
アルスは自分の腕を抱くようにして呟いた。
あの目を思い出すだけで、全身が粟立つ。
獣とも違う。
魔物とも違う。
あれはもっと別の何かだ。
アルスの言葉に、誰も反論できずに俯くしかない。
森の奥では今もなお、何か巨大なものが動くような音が微かに響いていた。