青年アルスの研究日誌〜全てを失った魔物学者は竜の力で理不尽な世界を調停する〜   作:SK43

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33.異変と青年

 森の調査が始まってから、数日が経っていた。

 

 アルスたちは慎重に、それでも可能な限り速度を落とさぬよう森の調査を続けていたが、その中で少しずつ確実に分かってきたことがあった。

 

 この森には、“何か”がいる。

 

 それも、ただ危険なだけの魔物ではない。

 森の奥へ進めば進むほど、景色は目に見えて異様さを増していった。

 

 無理やり捻じ折られたような倒木。

 地面を深く抉る巨大な爪痕。

 何か重いものが引きずられたような土の裂け目。

 

 自然の営みでは到底説明できない痕跡が、あちこちに残されている。

 

 湿った森の空気は重く、昼だというのに木々の隙間から差し込む光は弱々しかった。

 鳥の鳴き声も少ない。

 

 まるで森全体が、何かを恐れて息を潜めているようだった。

 

「まただ。なんなんだこの痕跡……」

 

 アルスはしゃがみ込み、折れた木の断面を指でなぞる。

 

 繊維が裂けている。

 またしても純粋な膂力だけで、へし折られていた。

 

「熊……? いや、そんな規模じゃないわよね」

 

 エスカが眉をひそめながら周囲を見回す。

 

「クマ科の魔物もいるけど……こんな所にいるはずがないよ」

 

 アルスの声には、隠しきれない緊張が滲んでいた。

 背筋を冷たい汗が伝う。

 嫌な予感だけが、森の奥へ進むほどに膨れ上がっていく。

 

 そして、異常なのは破壊痕だけではなかった。

 

「……なにこれ?」

 

 エスカの声に視線を向けた瞬間、全員の表情が強張る。

 そこに転がっていたのは、動物の死骸だった。

 

 猪と、鹿か。

 身体の半分が無惨に引き裂かれている。

 

 そして、その中には――

 

「……おいおい、マジかよ」

 

 ホロウガルムの死体も混ざっていた。

 

 昨日、自分たちを苦しめた危険な魔物。

 本来ならこの森のもっともっと奥、山の上位捕食者であるはずの存在。

 

 その胴体は大木に叩きつけられたように潰れ、鋭い牙は根元から砕け散っていた。

 

 山へと続く森の奥。

 

 木々はなぎ倒され、無数の獣や魔物が逃げ惑った痕跡が広範囲に広がっている。

 

 まるで森そのものが、巨大な何かから逃げ出そうとしているようだった。

 

「異常だ……異常過ぎる……! どうなってるんだ……!?」

 

 アルスは震える声で呟く。

 

「どう……って、お前が分かんなきゃ誰もわかんねぇぞ……!?」

 

 ガーディールですら額に汗を浮かべていた。

 普段は豪胆な彼の顔にも、明らかな焦りが見える。

 

 アルスは低く呟き、周囲を見渡した。

 

 ホロウガルムは逃げていた。

 何者かに縄張りを追われ、山から叩き出されていたのだ。

 

 アルスは呼吸を整えながら、地面や木々へ次々と澱みの検査(ディテクト)をかけていく。

 

 しかし、倒木や破壊痕には依然として明確な反応が出ない。

 

 だが――

 

 ある物に澱みの検査(ディテクト)をかけた瞬間だった。

 

 プー、と。

 

 少し高い警告音が、不穏な森の静寂を裂いた。

 

「っ……!?」

 

 アルスの顔色が変わる。

 

 反応を示したのは、地面に散らばったホロウガルムの体毛。

 その一部にだけ、明らかに異質な魔力反応が宿っている。

 

 アルスの喉がごくりと鳴った。

 

「Eだ」

 

 ぽつり、と呟かれた声は、妙に乾いていた。

「はぁ?」と、この状況の中では間の抜けた声でガーディールが目を丸くする。

 

「おいおいおいアルスさんよ……EとかFとか出たら、お前なんつったっけ?」

 

「……軽く国の軍隊出動レベル」

 

 その場の空気が凍った。

 

「な、なんでそんなヤバい奴がこんな森にいるのよ……ねぇ、壊れてない? それ……」

 

「壊れてないよ。残念ながら。……ちょっとこれは」

 

 アルスがそう言いかけた、その時だった。

 

 ぐらり、と。

 森が揺れた。

 

 否。

 

 正確には、森の一部が歪んだ。

 陽炎のように景色がぶれ、木々の輪郭が溶ける。

 

「……っ」

 

 全員の呼吸が止まる。

 

 そこにいた。

 森の奥。

 木々の隙間に収まりきらないほど巨大な影。

 

 白銀の体毛に、異様に長い腕。

 歪んだ巨体。

 

 それはまるで、“毛に覆われた巨人”だった。

 

 だが何より異様だったのは、その存在感だ。

 森と同化するように輪郭が揺らぎ、見えたと思えば消え、消えたと思えばまた現れる。

 

 そして。

 

 その暗がりの奥から、一つの目だけがじっとこちらを見つめていた。

 

 冷たい。

 暗い。

 

 まるで感情の底が抜け落ちたような目だった。

 

「~~~~っ!?」

 

 エスカが反射的に鉄剣へ手を伸ばす。

 だがその腕を、アルスが慌てて掴んだ。

 

「慌てないで……! 後ろを向かずに、ゆっ……くり。ゆっくり下がるんだ」

 

 声が震えている。

 

 アルス自身も恐怖を押し殺しているのが分かった。

 魔物の全貌が分からない。

 少なくとも、すぐ名前が浮かぶような種ではない。

 

 だが景色に同化する性質は、ホロウガルムの魔法に酷似している。

 しかし、あれはホロウガルムではない。

 

 あれかこれかと仮説が出ては消えていく。

 何かが決定的に違う。

 知識が引っかからない。

 

 それが何より恐ろしかった。

 

「戦おうと思っちゃダメだよ。ゆっくりだ。ゆっくり……」

 

 幸い、巨体は追ってこない。

 ただ陽炎のように揺らめきながら、こちらを観察しているだけだった。

 

 一歩。

 

 また一歩。

 

 呼吸を殺しながら距離を離す。

 

 やがて木々の陰に完全に隠れたところで、一行はようやく走り出した。

 

「……はぁっ……!! はぁっ……はぁっ」

 

 エスカが荒く息を吐く。

 心臓の鼓動が耳にうるさい。

 

「なっ……んだったんだ今のバケモン!? アルス、なんか分かるか……!?」

 

「わ、分からない。図鑑を引けば分かるかもだけど、少なくとも僕は見たことないよ。何科の魔物かさえ検討もつかなかった……!!」

 

 アルスの顔は青ざめていた。

 知識こそが彼の武器だ。

 その彼が理解できない。

 

 それはつまり、文字通りの“未知”を意味していた。

 

「二人とも聞いて。正直これは、手に負えない」

 

 アルスは強く言い切る。

 

「今すぐ森から出て、村の人たちを避難させるべきだ」

 

「それって……! 消えた男の人たちはどうするのよ!?」

 

 エスカが食ってかかる。

 それは当然の反応だったし、アルスも理解している上で首を振った。

 

「それも含めて手に負えないんだよ! 言ったでしょ、澱みの検査(ディテクト)のEなんて人間が生身で戦ってまともに勝てる相手じゃないんだ」

 

 その声には焦燥が滲んでいた。

 あれは危険だ、関わってはいけないと本能が全力で警鐘を鳴らしている。

 

 それを同じように感じているのだろう、エスカは悔しそうに歯を食いしばった。

 

「急に襲われなかっただけ良かったよ。あの目は……冷たい、冷たい暗い目だった。本当に魔物なのか疑うくらいの……」

 

 アルスは自分の腕を抱くようにして呟いた。

 あの目を思い出すだけで、全身が粟立つ。

 

 獣とも違う。

 魔物とも違う。

 

 あれはもっと別の何かだ。

 

 アルスの言葉に、誰も反論できずに俯くしかない。

 森の奥では今もなお、何か巨大なものが動くような音が微かに響いていた。

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