青年アルスの研究日誌〜全てを失った魔物学者は竜の力で理不尽な世界を調停する〜 作:SK43
森を抜け、見慣れた村の入り口の景色が視界に開けた、その瞬間だった。
「アルスー! エスカー!! おーい!! 死んでねぇかー!!」
肺の底から絞り出したような大音声と共に、ガーディールが千切れるほど大きく手を振りながら駆け寄ってくる。
巨体の男が本気で地面を蹴って走ってくるものだから、本当に足元の大地がドスドスと揺れているようにすら感じられた。
「ガーディ!!」
死線を越えて張り詰めていたアルスの心の糸が、その声でわずかにほどける。
泥と汗に塗れた顔を上げ、思わず安堵の声を漏らした。
「こんなとこで死ぬもんですか」
エスカも強気な笑みを浮かべてみせたが、その声は掠れ、隠しきれない疲弊が深く滲み出ていた。
「マジかよオイ!! よく無事だったなーおめぇらぁ!!」
アルスのそばまで駆け寄ったガーディールは、バンバンと乱暴にその背中を叩く。痛いほどのその力強さが、今はたまらなく温かかった。
彼の目尻にはうっすらと涙が浮かび、鼻の頭が少し赤くなっている。
「ふざけやがって、森がどっかんどっかん揺れまくったかと思ったら爆発してよ……正直、クソ。ダメかと思ったぜ……!」
ガーディールは心底肝を冷やしたというように、ガシガシと頭を掻きむしった。
森の奥から響いていたこの世の終わりかと思うような轟音を思えば、残された者がそう思うのも当然だった。
「ぼ、僕は大丈夫。エスカさんを見てあげて」
アルスはひどく肩で息をしながら、隣の少女を示す。
エスカの額からはまだ一筋の血が滲み、衣服のあちこちが焼け焦げ、むき出しの腕には痛々しい火傷の痕がいくつも刻まれていた。
「おう、もちろんだ。エスカ、頭見せろ。もう血は止まってんなー──骨は無事か?」
「エスカ! エスカぁ!! よかった、ぶっ無事……生きてるよぉ……」
ガーディールの応急処置を受けようと座り込んだエスカの胸に、半泣きのミーティアが弾かれたように飛びついた。
その勢いに押され、エスカが「いててて」と顔をしかめる。
「あははっ、ごめんねミティ、心配かけちゃったね……」
「いいよぉ~~~~……」
恐怖から解放されたミーティアは、涙も鼻水も構わず全部垂流しながら、エスカの胸にぐりぐりと顔を押し付ける。
間違いなく服がびしょびしょになると察し、エスカは苦笑いと共に諦めの表情を浮かべて、小さな背中を優しく撫でた。
「……博士様──」
その、温かく平和な空気を切り裂くような声だった。
少し離れた場所で、静かに地面に座り込んでいたソフィアが、小さく口を開いた。
アルスはゆっくりと、彼女の方へ視線を向ける。
「ソフィアさん」
短いが、ひどく重たい沈黙が流れる。
もはや隠し立ては出来ないだろう、あの森に一人で入った理由も、魔法を使おうとしていた理由も。もはや知らぬ存ぜぬで突き通せる状況ではなくなっているのだから。
「……いや、リリス。だよね」
「えっ……!?」
エスカが素っ頓狂な驚きの声を上げ、さっきまで再会の安堵で満ちていた空気が一瞬にして凍り付いた。
吹き抜ける風の音も、遠くの鳥の声すらも消え去ったような、絶対的な静寂がその場を支配する。
「リリス……ってオイ!」
ガーディールも思わず声を荒げ、応急処置の手が止まる。
だが当のソフィアだけは、微動だにせず、静かに澄んだ瞳でアルスを見返していた。
「……いつから?」
「確信したのは、写真館だよ」
アルスは写真館のある方角を真っ直ぐに見据えながら、静かに答える。
「あの日、写真館で少しだけ見えた、小さなころのソフィアさん」
沢山の魔物や風景の写真に囲まれた中で、ひと際異彩を放っていたあの写真。
恐らくあの一枚だけだろう。本物の村長の娘の、幼い頃の姿。
「本物のソフィアさんの瞳は、純粋な青色だった。でも、君の瞳は青みがかった緑だ」
「あ……」
ソフィアの細い喉が、小さく震えた。
言われて、エスカもはっと息を呑む。
確かにあの写真を見た時、自分も言葉にできない違和感を覚えた。だが、目の前の村長の娘が『化けている魔物』だと断言するほどには、思考が結びついていなかったのだ。
「それと、それよりも前に僕は君に一つ細工をしてたんだ。森で魔法が撃てなかったのはそれが原因だよ。結果的に君を傷つける事になっちゃったのは……本当にごめん」
「細工……?」
「君が持ち歩いてるポーチに、僕の持ち物を一つ仕込んだ。宴の日、酔っ払って宿まで送ってもらった時だ」
「……まさか」
ソフィアはゆっくりと、自分の腰のポーチを探る。
その中に入っていた、自分のものではない冷たい硬骨な感触に触れ、彼女はまた大きく目を開いた。
「そう、銀だ。銀は反魔導体。近くにあれば、魔力がうまく流れなくなるんだよ」
ソフィアが細い指で震えながら取り出した物は、アルスが持っていた古ぼけた銀の指輪だった。
「最初から、わたくしを怪しいと思っておいででしたのね」
「勘だけどね。僕、君とは違うリリスに会ったことがあったんだ。その時の記憶を思い出したんだよ」
アルスは胸元からメモ帳を取り出し、ずっと埋まらなかった『リリス』の項目の空白のページを静かに見つめる。
違和感として心の奥に引っかかっていた小さなパズルのピースが、ようやく一つの絵として繋がった。
アルスは顔を上げ、真っ直ぐにソフィアの瞳の奥を見据える。
「ソフィア、僕は
「っ──!!」
その瞬間。
ソフィアの緑がかった瞳が、激しく揺らいだ。
母に誓う。
それは人間にとってはただの言葉の綾かもしれないが、魔物であるリリスにとっては大きな意味を持つ宣誓の言葉なのではないか。
ヒヒイロでもう一度聞くまではぼんやりとした仮説に過ぎなかったそれが、宴の時に聞いたソフィアの言葉ではっきりと輪郭を帯びたという事だ。
「あなたは、本当に……なんと、なんと聡明な方でしょう」
そこまで聞いたソフィアは力なく、小さく笑った。
その笑みは全てを見透かされたことへの諦観と、どこか安堵が入り混じったような、酷く美しいものだった。
「ソフィアがリリスだったってわけ……? 一体どういう事なのよ……」
「えっ……? えっ……?」
エスカは応急処置を受けながらも、その目に明確な警戒と敵意の色を宿す。ミーティアは未だ状況が飲み込めず、アルスとソフィアの顔を何度も見比べて戸惑っていた。
「分かりましたわ──わたくしも母に誓い、貴方に全てを語ります」
こくりと頷き、ソフィアは静かに立ち上がった。
その時疲労からか僅かに身体がふらついたが、彼女は気丈に振る舞い、反射的に手を伸ばそうとしたアルスを手のひらで静かに制した。
「王都で、ひとつの事故がありましたの」
様々な疑問と、刃のような戸惑いが渦巻く中。ソフィアは遠い過去の情景をなぞるように、静かに語り始める。
「三年前、個人飛空艇の一機が定期メンテナンスの欠如によって墜落した事故を知っていますか? 当時王都にいたわたくしは……その凄惨な現場にいました」
アルスを含め、王都にいた者たちの脳裏に、当時の記憶が鮮明に蘇る。
法律で定められた一年に一回の定期メンテナンスを怠らない限り起こり得ない、あまりにも痛ましく、理不尽な事故。
黒煙が立ち上り、十人以上の死傷者を出したあの地獄のような光景は、連日ニュースやラジオで報道されていた。
「燃え盛る火炎と鉄屑の中、気まぐれで……そう、本当にほんの気まぐれで、唯一即死していなかった一人の少女を助け出したのです」
ソフィアの視線が、虚空を彷徨う。
それが全ての運命の始まりだったと言わんばかりに。
「傷を治すなんて高度な芸当はできませんが。助けを呼んで、せめて痛みを和らげる魔法をかけるくらいはしましたわ。するとその子、血を吐きながらうわ言のように言うんですのよ」
『お父さん、勝手に出て行ってごめんなさい』……って。
「それって……」
「そ、ソフィアちゃん……急に出て行っちゃったの。ある日、王都に突然。……い、家出……だったんだって」
エスカが絶句する横で、ミーティアが震える声でパズルのピースを繋ぎ合わせる。
村の閉鎖的な環境に嫌気が差した、年頃の少女のほんの些細な反抗期。それは、冷たい鉄塊の下敷きになるという最大の不幸で幕を下ろしていたのだ。
「そう。結局病院に運ぶことも間に合わず、わたくしの腕の中で冷たくなっていったその子が──本物のソフィア」
冷たい風が吹いた。
ソフィアの長い銀髪が、悲しげに揺れる。
「王都ではなく別の場所を棲家にしたかったわたくしは、その子の持ち物から故郷の情報を得て……」
「ソフィアとして、ヒヒイロに帰って来た」
ソフィアの言葉を、アルスが静かに引き継ぐ。
そこからは、宴の時に彼女の口から聞いた通りだろう。
ソフィアことリリスは、王都で人間にまつわる色々な事をどん欲に吸収していた。その中でも選りすぐりの知識を使って村に恩恵をもたらし、見事に人間の輪の中へ溶け込んだのだ。
「その通りですわ」
「あんた……なんてこと……! じゃあ、あの魔物もあんたの仕業!?」
エスカの声には、騙されていたことへの激しい怒りと警戒が滲む。
だが、それに対してはソフィアは頑として首を横に振った。
「この村の人たちは、本当に優しかったですわ」
慈しむような、ひどく優しい声色で、ソフィアは村の家々を見つめる。
「特に父は……村長は、わたくしが娘の偽物だとすぐに見抜いた」
「なっ……」
エスカの目が、信じられないものを見たように丸くなる。
「その上で、わたくしがこの村にいられるように手配してくれたのです。ソフィアが帰って来た。王都で立派に勉強をして、村のために帰って来た……と」
村長は最初から気付いていたのだ。
それでも怪物を追い出さず受け入れたのは、その姿が愛する娘と酷似していたからか、それとも、娘の最期を看取ってくれたこの魔物へのせめてもの情だったのか。
「ふふっ……変身がバレた理由も、博士様と同じですわ。あの子は見る角度によって瞳の色が変わる、とても特異で美しい子だったそうですの。完全に騙しきれないのは当然でしたわね」
自らの目元にそっと触れ、ソフィアは自嘲気味に笑う。
きっとそこだけは高位の魔物であるリリスの魔法を以てしても、完全に再現することはできなかったのだろう。
「わたくしは、わたくしを受け入れてくれたみんなと、ずっと共に暮らしたかった。でも……」
そこで、ソフィアの表情が急激に暗く曇る。
「あいつが、急に森に現れた……」
あいつ。
あの化け物。
生命の理を無視して森に現れた、あのいびつで冒涜的な肉の塊。
アルスの背筋に、再び冷たい悪寒が走る。
「必死に近づいて、不慣れな写真を撮って父に見せても、危ないと警鐘を鳴らしても、すぐには聞き入れてもらえなかった! 早く逃げないと、みんなあの怪物に殺されてしまうと思って……!」
ずっと張り詰めていたソフィアの感情が、決壊したように初めて外へと溢れ出した。
「だから魔法で、みんなを無理やり逃がそうとしたんだね」
「……焦って、いたのですわ。わたくしの魔法は女性には効きにくいですから」
それが、すべてのすれ違いの結末だった。
ソフィアは、村人を化け物から守るために連れ去っていたのだ。
けれどその判断が少し早すぎた。焦って、魔法の効きやすい村長たち男衆だけを先に村から逃がしてしまい。
「んで、残された女連中にも魔法をかけて逃がそうとしていた最中に……俺らがここに来たってわけか」
ガーディールが腕を組み、重いため息をついた。
男の人が突然いなくなったと村では大騒ぎになり、アルスたちが介入するほど事が大きくなりすぎてしまった。
ソフィアは肯定の意味で、ただ黙って首を縦に振る。
「ま、ほんとかはさておきスジは通ってるな」
「スジもなにもないわよ……!」
納得しかけたガーディールを押しのけ、エスカは鋭く噛み付いた。
その瞳に渦巻いているのは、怒りか、戸惑いか、それとも裏切られた悲しみか。
「こいつは! 死んだ人間になり替わって村に寄生しようとした魔物でしょ!? あたしは簡単に騙されないんだから!!」
その言葉の刃に、ソフィアの肩がわずかに震える。
「それは……」
「え、エスカ……」
「ミティは黙ってて。あんたもこいつに騙されてたんだからね!」
「ぅ……」
縋り付くような声でエスカの袖を引いたミーティアが、ビクッと肩を跳ねさせて俯く。
両親を魔物に殺され、魔物を狩るために傭兵となったエスカの過去と信条を察すれば、自分の感情だけで彼女を否定する事が忍びなかったのだろう。それ以降の言葉は、ミーティアの小さな喉の奥で震えるだけだった。
「人型の魔物ってのはね、良い人間のフリができるだけなの。助けるために魔法を使った? 本当は洗脳して、自分用の食料として別の場所へ運ぶつもりだったんじゃないの!?」
「そんな……そんな事は! わたくしは……」
胸に手を当て、ソフィアは必死に首を横に振る。
「……何を考えていたのかは、僕にもわからないけど」
すると、それまで静観していたアルスが、落ち着いた声で口を開いた。
「母に誓うと言ったリリスの言葉は、恐らく絶対だよ。少なくともここまで、彼女はウソを言ってないはずだ」
「……それも、どこまで信じられるんだか」
吐き捨てるように言ったエスカの指先は、小刻みに震えていた。
怒っているのか、戸惑っているのか、それとも、自分が信じてきた正義が揺らぐのが怖いのか。
自分でも分からないまま、やり場のない感情だけが胸の中でどす黒く渦を巻いていた。
「どうしても、信じろっていうなら……!!」
エスカは半ば自暴自棄に叫び、
「今ここで……あたしに斬られなさい!」
「エスカ……っ!!」
ミーティアが悲鳴のような声を上げ、ガーディールも「おいおい」と顔をしかめて一歩前に出る。
だが、アルスは動かなかった。止めに入ることなく、ただその場で静かに二人を見つめている。
魔物によって家族を奪われたエスカの持つ価値観もまた、決して否定してはならない「正しい人間の感性」だと理解していたからだ。
苦しく、息が詰まるような沈黙が流れる。
エスカはナイフを突きつけたまま、刃先を震わせながらソフィアの返答を待つ。
ソフィアの長いまつげが、かすかに揺れた。
「……ミーティア」
ソフィアはナイフを一瞥もせず、努めて穏やかな声で、泣き震える少女へと語りかけた。
「お父様たちの……村長たちがいる場所は、森から離れた村の古い倉庫ですわ。……そこに、誰も知らない地下への隠し通路があります」
その言葉の意味を理解して、ミーティアが大きく目を見開いた。首を横に振り、ポロポロと流れる涙を拭う事すら忘れている。
「わたくしが死ねば、彼らをそこに繋ぎとめている魔法も完全に解けるでしょう。どうか、迎えにいってあげてくださいまし」
「っ……!!」
遺言にも似たその言葉に、エスカがギリッと奥歯を噛み締め、ナイフの柄を握り直す。
そして。
「どうぞ」
ソフィアは抵抗の意志がないことを示すように静かに目を閉じ、白く細い首を、刃の前へと無防備に差し出した。
「あたしがビビると思ってるでしょ。それとも、斬られる直前に逃げる?」
「いいえ。何もしませんわ。そのまま……わたくしの首を落としてくださいまし」
「はっ……なによそれ。それも母に誓ってウソじゃないって?」
魔物の流儀など信じる気は更々ないというエスカの苛立った詰問に対して、返ってきたのは短い一言だった。
「……はい」
ソフィアは微かに震える声で首を差し出し続け、はっきりとそう言い切った。
伏せられたままの表情は見えない。
「……あっ、そ!」
それ以上聞くつもりはないと、エスカが腕を振り上げる。
冷たい白刃が空気を裂き、ソフィアの細い首元へ容赦なく迫り――
「……なんで」
刃は、ソフィアの肌に触れる数ミリ手前で、ピタリと止まっていた。
「なんで止めるの、ミティ」
エスカの振り下ろした右腕を、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしたミーティアが、全体重をかけて必死に抱きしめ、しがみついていたのだ。
「えっエスカ……もうやめよ? もう、いいよぉ」
震える声と小さな身体で、エスカの腕を必死に押し留める。
「わたし、だっだまされたって、魔物だったって……でも、ソフィアちゃんは……村のために、いっぱいがんばってくれたよ……」
ソフィアが帰ってきてから三年。彼女が村に与えた活気と功績は計り知れない。
それを抜きにしても、きっと村人と共に暮らすためにソフィアは見えないところで血の滲むような努力をしたのだろう。人間の慣習や礼儀を学び、不器用ながらも村の空気や文化に染まろうとした。
ミーティアは、そんな彼女の優しさを一番間近で見てきた友人の一人なのだ。
「ソフィアちゃんが、ほんとのソフィアちゃんじゃなくても……!! すっごく良い子だよぉ……殺さないであげて。お願いだから、こ、殺さないで……」
「……ミーティア」
ソフィアがゆっくりと目を開け、泣きじゃくる友を見て困ったように顔を歪めた。
自分は、かばわれるべき存在ではない。ミーティアが言う言葉の全ては、自分には全く勿体ない物だ。
「エスカ」
今度はアルスが、静かな凪のような声でナイフを握る少女へ言葉をかけた。
「知能の高い魔物は狡猾な敵になりうる。でもだからこそ、人間と同じように心を持つ可能性がある。君の目には……どう映ってる?」
その事実は、外ならぬアルスが誰よりもよく知ることだった。
それでも、エスカがそれを受け入れがたいとする気持ちもまた、痛いほど理解できる。
「僕は最後まで君の判断に任せる。僕の思想を君に押し付けるのは違うし、君がどちらを選んだとしても……それは間違ってないと思うからだ」
そうして、アルスはまた口を噤んだ。
魔物と人間の未来という重い結末を、一人の傷ついた少女にゆだねる。
アルス自身が悩み考え抜いたように、彼女にもまた自分の目で見て考えて欲しいと願ったからだ。
「……」
深い沈黙。
森の木々を揺らす風の音だけが、静かに吹いていた。
やがて。
カチャリ、と。
エスカはゆっくりとナイフを下ろし、鞘へと収めた。
「あたしは、まだあんたを信じない」
戸惑いと、それから冷たく突き放すような声。
誰もいなければ、あるいはいつもの自分であったならば、意に介す事無く刃を振り下ろしただろう。
「今ここであんたを斬れば、ミティが悲しむわ」
それは、頑なだった傭兵の心が示した確かな譲歩だった。
「あんたが人に少しでも危害を加えた時──その時が、あんたの最後よ」
ソフィアの目をまっすぐに見据え、エスカは鋭く指を突きつける。
「母に誓ってみなさい! 絶対に人間に危害を加えないと!」
「……もちろん、誓いますわ。その誓いは……」
ソフィアは小さく目を伏せ、胸に手を当てた。
「三年前に、お父様としておりますもの」
その誇り高い言葉を聞いて、エスカはようやく張り詰めていた警戒を解いた。
ふんっと鼻を鳴らして腕を組み、納得がいかなそうにそっぽを向く。
「……あっそ。じゃあ後は好きにすれば」
「エスカぁ……ありがとう、ありがとぉ……」
「うっ、も、もう。ごめん、ごめんねミティ。怖かったわよね? もうしないから……」
緊張の糸が切れ、再び泣きじゃくって縋り付いてくるミーティアに、エスカは心の底から慌てて謝った。
自分の意地を通そうとした事で、何よりも大切な親友にあんなにも怖い思いをさせてしまった。自分もまだまだ子供だと、エスカは心の中でひっそりと自戒した。
「よかったな」
全てを見届けたガーディールが、ぽん、とアルスの肩を叩く。
アルスは静かに頷いた。
「うん。……凄いことだよ。ここでは……ヒヒイロでは、魔物と人間が互いに寄り添っていたんだ」
雲の切れ間から差し込んだ光が村を照らす中、アルスは晴れやかな表情でソフィアを見る。
ソフィアもまた深い安堵の息を漏らし、そして──ずっと堪えていた涙を、目尻から一筋だけ、光の帯のように流していた。