青年アルスの研究日誌〜全てを失った魔物学者は竜の力で理不尽な世界を調停する〜   作:SK43

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40.レッドソウル

 

「なに……っ!?」

 

 エスカの長い髪が、下から吹き上げる乱気流に激しく煽られた。

 ただの風ではない。森の空気そのものが悲鳴を上げ、悲痛な音を立てて軋んでいる。

 

 巻き上がった土砂と落ち葉が、アルスを中心に竜巻となって天へ昇る。

 だが、本当に恐ろしいのは風ではなかった。

 大気の『重さ』だ。

 致死量の魔力が空間を埋め尽くし、肺に直接鉛を流し込まれたような圧迫感が周囲を支配していた。

 

「っ……!」

 

 エスカは咄嗟に腕で顔を庇い、息を呑む。

 

 バチィッ! と大気が爆ぜた。

 アルスの身体から、青白い紫電が狂ったように奔走している。

 そして、その異変は誰の目にも明らかな形となって現れ始めた。

 

 内側から皮膚を食い破るように。あるいは人間の皮の下で眠っていた本当の姿が浮き上がるように。

 アルスの頬に、腕に、足に、血よりも深い赤色をした硬質な鱗が次々と現現していく。

 

「この魔力は──!」

 

 ソフィアが戦慄に目を見開いた。

 周囲一帯の空間を完全に制圧する、暴力的でそれでいてひどく神聖な魔力の奔流。

 その圧倒的な格の違いを一番理解したのは、魔物であるソフィアと──眼前の化け物だった。

 

「ゥ……」

 

 先ほどまで殺戮の衝動に駆られていた異形の怪物が、初めて怯えたように一歩後ずさった。

 生物としての絶対的な本能が理解したのだ。

 今、目の前で目覚めようとしている存在は、自分など足元にも及ばない頂点の捕食者であると。

 

 紫電がアルスの胸元──脈打つ心臓の直上へ集束していく。

 小さく吐き出された吐息は、高熱を帯びた赤い陽炎となって夜の空気を揺らした。

 

 そして。

 

「ぉおおおおおおおおッ!!!!」

 

 アルスが咆哮した。

 

 空気が物理的に砕けたかのような轟音が炸裂する。

 音の壁を破壊する凄まじい衝撃波が森を薙ぎ払い、木々がへし折れ、エスカは思わず地面に膝をついた。

 

「なに……? なんなの……?」

 

 エスカは呆然と呟く。

 そこに立っているのは、間違いなくアルスだ。

 だが、その内側にいる何かが決定的に違う。

 

 幾多の死線を潜り抜けてきた傭兵としての本能が、頭より先に最大級の警鐘を鳴らし続けている。

 

 知っている人間の顔をした、神話の怪物。

 そんな理不尽な恐怖が、氷のように冷たく背筋を這い上がっていく。

 

「あいつの心臓は──ドラゴンの心臓なんだ」

 

 強風を腕で凌ぎながら、ガーディールが低く口を開いた。

 

「は……?」

 

「受け継いだんだとよ──魔物の心臓を」

 

 何を言っているのか分からない。

 なぜガーディールがこんなにも落ち着いているのかも分からない。

 理解が完全に追いつかないまま、事態は極限へと加速していく。

 

「ゥゥ……グギャアアアアー──!!!!」

 

 化け物が絶叫した。

 死の恐怖を振り払うための、自暴自棄な特攻。森の地面を重機のように抉り飛ばしながら、巨大な肉塊が一直線にアルスへ突進する。

 

「ぉぉおおおお!!」

 

 だが、赤い鱗を輝かせたアルスは避けない。

 真正面から両腕を広げ、迫り来る何トンもの質量をその場に立ったまま迎え撃った。

 激突した瞬間、隕石が落ちたような轟音が響きアルスの足元の岩盤が粉々に砕け散る。

 

 土煙が晴れた後、エスカは信じられないものを見た。

 

「止まれ……!!」

 

 凄まじい突進の直撃を受け止めたアルスの両足は、一歩たりとも、ただの一ミリすらも後ろへ下がっていなかったのだ。

 化け物はそれでもなおアルスを打倒しようと、その巨岩のような拳を打ち付ける。

 しかしやはり、それでもアルスは揺るがない。傷つかない。

 

「おおおおお、りゃあ!!!!」

 

「グ……ギィイイイイー──!?」

 

 次の瞬間、巨体が宙を舞った。

 アルスが腕を振り抜いただけで、化け物の身体が紙屑のように吹き飛ばされる。何本もの大樹を薙ぎ倒しながら森の奥へ凄まじい勢いで転がり、轟音と共に巨大な土柱が上がった。

 

 化け物自身、何が起きたのか理解できず、ひっくり返ったまま大きな一つ目を瞬かせる。

 

「ソフィア!」

 

 巨体が起き上がろうともがく中、アルスは振り返りもせず叫んだ。

 

「はいっ!」

 

 その一声だけで、ソフィアの身体は既に躍動していた。

 

「イーヴィル・スネアー──!!」

 

 銀の拘束から解放された、本来の魔物(リリス)としての力が発現する。

 黒紫の茨が幾重もの鎖となって地を這い、見る間に化け物の四肢と首へと巻き付いた。

 

「ゥゥゥ──グゥウウウウ!!」

 

 巨体が暴れるが、拘束はびくともしない。

 リリスの専売特許である魔力の鎖が、もがくほどに深く獲物の肉を締め上げる。

 

「博士様──!!」

 

「──どぉおおおりゃああああ!!!!」

 

 アルスが地を蹴った。

 クレーターを残して跳躍したその身体は、木々の頂すら軽々と飛び越え、人間には到底不可能な高度へと到達する。

 夜の月を背負い、紫電を極限まで圧縮した右拳を天高く掲げた。

 

「こいつで──どうだぁああああ!!!!」

 

 そして、隕石と化して振り下ろす。

 

 技術ではない。武術でもない。

 ただ純粋な、世界を圧倒する『竜の膂力』。

 

 紫電を纏った拳が、無防備な化け物の頭部へ吸い込まれるようにめり込んだ。

 一瞬の静寂。

 直後、内部で魔力が爆発し、大地全体を跳ね上げるような衝撃波が炸裂した。

 周囲の木々が放射状になぎ倒され、視界の全てが凄まじい土煙に飲み込まれていく。

 

 やがて、重い静寂だけが残った。

 

「どっどうなった……!?」

 

 ガーディールが目を細め、煙の奥を睨みつける。

 数秒後、森を抜ける夜風が、分厚い土煙をゆっくりと押し流していった。

 

「──ふぅ!」

 

 そこにいたのは──いつの間にか元の姿へと戻っていたアルスだった。

 頬を覆っていた赤い鱗も、空間を歪ませていた紫電の魔力も、跡形もなく消え失せている。

 

 さっきまで森を支配していた神話的な気配は嘘のように消え去り、ただ、原型を留めないほどにひしゃげた化け物の死体の上で、少し疲れたように息を整えているだけだった。

 

「再生するのは……カルネナリアが使う魔法だ」

 

 アルスは肩で息をしながら、誰へともなく呟く。

 

「斬ったり叩いたりして損傷すると分裂する魔物……その再生力の根源は、頭部のどこかにあるコアを潰すことで絶たれる」

 

 そう言って足元の残骸を見下ろし、小さく息を吐いた。

 

「色んな魔物の魔法を使うなんて──僕以上に化け物だったよ」

 

 戦いが終わった安心感からか、アルスの肩はわずかに上下している。

 額には汗が滲み、ジャケットのあちこちも破れていた。

 

「無事かー?」と気安く駆け寄るガーディールを横目に、エスカは口元を押さえたまま何も言えなかった。

 最大の脅威が去ったというのに、心臓の早鐘が鳴り止まない。

 

 この人は、本当に人間なのか。

 異能と呼ぶべきあの力は、一体何なのだろう。

 

 力を出し切ったアルスの顔は、どこか遠い──過去の空に向いている気がした。

 

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