異世界猫物語 作:道草
"……ここは?"
深い、深い森の中。
辺りは暗くて星明かりだけが光源だった。
"夢か"
気が付いたら見覚えのない場所にいた。
意識は何処かぼんやりとして、現実感がない。
"喉が渇いた"
だからなのだろう。恐れも不安もなく、内側に生じた欲求を満たす為に動き出す。
幾つも違和感はあった。
月明かりしか無い鬱蒼とした森。その暗闇でも夜目が利き、特に不自由は感じなかったこと。
騒めく草葉の音に混じる微かな水音や匂いを感じ取り、目に見えない物すら手を取るように把握できること。
自然と四つん這いになり移動した自分に比べて、辺りに生える木や草がとても大きく感じたこと。
「…………」
緩やかな流れの川に辿りつき、覗き込んだ水面に写る姿は異形だった。
夜闇に紛れる漆黒の毛皮。
黄金色に輝く縦に裂けた瞳孔。
ふさふさとした三角形の耳。
「ナオーン」
子猫だこれ。
吾輩は猫である。
名前は忘れた。
……いや決して巫山戯ているわけではなく、本当に思い出せなかった。
靴紐の結び方や箸の持ち方等は思い出すことが可能であり、日本語は分かるが他言語はさっぱり分からぬことからして、恐らく日本人だった筈である。
しかし自分は何者であったのか。名前は。どこに住んでいたのか等はとんと分からぬ。
「……」
エピソード記憶の喪失。それに伴うアイデンティティの崩壊に対する不安を表明するべく唸ってみたが、出てくるのは何処かで聴いたようなゴロゴロという小さな唸り声のみであった。
……因みに己が雄なのか雌なのかも気になったため、股間を覗き込んだりゴロゴロ体勢を変えたりしてみたが結局分からなかった。
翌日、多分これは夢ではないと気が付いてから暫く経った。
「フシャー!」
マズローの欲求5段階説をご存知だろうか。
簡単に説明すると、生理的欲求が満たされて初めて、社会的欲求などの上位欲求が現れるというものだ。
つまり……生きるか死ぬかという環境で、アイデンティティなんか気にしてる余裕無えよ!ということだ。
むしゃむしゃ
喉の渇きが癒えたら、次は食欲だった。
だが当然、森の中で皿に盛られたキャットフードが置いてある訳もなし。
自分で餌を調達する必要があった。
けぷ
まあ、森の中で子猫が自分で調達出来そうな餌といったらこうなる。意外と味は悪くない、うん。
ーーそんな事を考えながら、海老の殻のようなものを飲み込むのであった。
"実は元々猫だったのかもしれない……こう、長靴を履いてる感じの"
思わずそう感じるほど抵抗を感じなかった食事を済ませ、これからのことを考える。
つまり今後、野生で生きるのか。人と共に生きるか、である。
ーーいやちょっと待って頂きたい。猫生受け入れるの早すぎだろとか、人に戻りたくないのかよお前とか、言いたいことは分かる。
だが自分としては、人として生きた記憶がないのでなんともコメントに困る。
先程の昆虫ーーではなく海老食だって、日本人にとってはあまり一般的ではないという知識しかないのだ。嫌悪感とかも特にない。
"まあ、どちらにせよ人が居そうな方に行ってみるか。まだ人間の姿は見てないし、街の場所は把握しておいて損はない"
人と共に生きるとは言っても、何もペットになる必要はない。猫なんて何処にでもいるだろうし、少なくとも街中ならこんな森の中よりは安全な筈だ。少し様子を見て、嫌ならいつでも出ていけばいい。
「ニャッ」
そんな事を考えながら川を下るように動き出した。
"なんぞあれ"
最初は順調だった。
夜の鬱蒼とした雰囲気は打って変わり、木漏れ日が差す美しい森。
咽せ返るような濃い緑の匂いを嗅ぎ、緩やかな川の流れる音を聴きながらのハイキング。疲れを感じ無いほど軽やかに動く身体のこともあり、上機嫌に尻尾を振りながら進んでいた。
「ゴフッゴフッ」
そして奴に出会った。
二対四本の牙を持つ体高2m程の超巨大なイノシシ。ボスファ◯ゴが実写化したらあんな感じかもしれない。
"とりあえず逃げるべし"
カラフルなキノコっぽいものを食べてるそいつの視界に入らないよう気をつけて、ダッシュでその場を離れた。
さて、改めて状況を整理しよう。
多分吾輩は元日本人であった。しかし何故か黒猫になってしまった。これだけでも摩訶不思議である。
そしてどうやらここが地球かどうかも怪しくなった。あんな怪物みたいな猪、現代日本どころか古代にすら生息していたか分からない。ジ◯リに出てきそうな雰囲気だった。
"さて、どうするかニャー"
ーー再び現実感が消失し、やっぱり夢かもしれないと思った。
「ニャーー!!」
あれから3日程経った。
どうやら自分はかなり察知能力が高いらしい。嫌な匂いや変な音を避けて移動を繰り返した結果、一度もファンタジー生物には遭遇しなかった。お陰で凄い動き回ったが。
ゴロンゴロン
……いや、今転げ回っているのは訳がある。
ここ数日、色々考えた。
現代日本でないとして、ここはいったいどこなのか。
古代、未来、異世界。
この世界に、そもそも人間はいるのか。いたとして、果たしてそれは自分の知っている人間と同じなのか。
そういった不安が何度も頭をよぎり、その都度脚が止まりそうになった。
でも何度悩んでも、やっぱり人里を探すことにした。
ーー独りは、怖かったのだ。
誰も守ってくれない。
何も知らない。何も分からない。
命に溢れたこの森で
でも、自分にとっては全てが敵だったのだ。
「ウニャー!」
だから森を抜け、街道と人間を見かけてテンションが上がってしまっても仕方がないと思う。