十月の放課後は、いつも妙に間が抜けている。
霧島麗一はそう思いながら、校門を出た。夕暮れの光が制服の肩に斜めに差し込み、長い影を石畳に落としている。彼はメガネのブリッジを人差し指で押し上げ、視線を手帳に落とした。今日の観察記録だ。走り書きのような文字が、几帳面な罫線の上に並んでいる。
――対象・空条承太郎。高校二年。身長百九十センチ超。近接格闘において異常な身体能力を発揮。不良集団複数名を瞬時に制圧。その際、対象の背後に「何か」が出現したとの証言複数あり。
麗一は手帳を閉じた。
「何か」。
その二文字が、ここ数日の彼の脳を焼き続けていた。正確には、「何か」ではない。彼にはわかっている。あの噂に漂う気配の質感が、自分の中に棲みついているものと同じだと、直感が告げていた。
校門を出てすぐの坂道を下りると、前方に人だかりができていた。不良グループだ。しかし彼らは誰かを囲んでいるわけではなく、むしろ左右に割れるように道を空けていた。まるで潮が引くように。
その中心を、空条承太郎が歩いていた。
麗一は立ち止まった。
噂通りの男だった。いや、噂は正確ではなかった。「怖い」「近づくな」という言葉では、この男を説明しきれない。承太郎が纏っているのは暴力の予感ではなく、もっと根源的な何か――世界と折り合いをつけることを、最初から諦めているような、静かな断絶だった。
麗一には、その感覚に覚えがあった。
「空条承太郎」
気づいたら、声に出していた。
承太郎が足を止め、ゆっくりと振り返った。帽子の下の目が、値踏みするように麗一を見る。周囲の不良たちが、ざわりと後退した。
「……誰だ、お前」
低い声だった。それだけで空気が変わる。麗一は表情を動かさず、手帳を上着の内ポケットにしまった。
「同じ学校だ。霧島麗一。二年三組」
「知らねえな」
「知らなくていい。私もお前に興味はなかった」
承太郎の眉がわずかに動いた。麗一は続けた。
「先週までは、の話だが」
沈黙。
夕風が坂道を吹き上がり、二人の間を通り抜けた。周囲の不良たちは、完全に黙っていた。霧島麗一という人間を、彼らは知っていた。
成績は常に学年トップ。教師にも生徒にも媚びず、誰とも群れず、いつも一人で分厚い本か手帳を持ち歩いている。変わり者だが、絡んでも面白くない。そういう共通認識があった。
「何の用だ」と承太郎は言った。
麗一はメガネを光らせ、静かに答えた。
「お前の『悪霊』が、研究対象として非常に興味深い」
一瞬の間があった。
次の瞬間、承太郎の表情が変わった。それまでの静かな断絶が、別の何かに塗り替えられた。怒りとも屈辱とも違う。もっと複雑な、内側を直接掴まれたような感情が、あの目の奥に揺れた。
麗一はそれを見逃さなかった。
承太郎にとって、「悪霊」という言葉は単なる噂話ではなかったはずだ。誰にも理解されない重さとして、ずっと内側に抱え込んでいた何かだったはずだ。
だから他の誰でもない、この男に向かって平然と「研究対象」などと言い放った人間の存在が、怒りよりも先に、理解を超えた驚きとして刺さったのだろう。麗一にはそれが手に取るようにわかった。
「……あ?」
声のトーンが下がった。麗一はそれを正確に感知しながら、退かなかった。
「ここ数日、お前の噂を集めていた。複数の証言を照合した結果、お前の背後に現れる『何か』は、私が知っている超常現象の類型と一致する。研究者として、直接確認したかった。それだけだ」
「研究対象」と承太郎はゆっくり繰り返した。「俺が、お前の」
「そうだ」
承太郎が一歩踏み出した。周囲の不良たちが、さらに後退した。しかし麗一は動かなかった。
「ふざけんな」
低く、しかしはっきりとした声だった。
「俺が何日間、あれに悩まされてると思ってる。お前みたいな奴に、研究対象とか言われる筋合いはねえ」
その言葉の奥に、麗一は疲弊を見た。
眠れない夜が何日も続いたような、じりじりとした消耗。誰かに話そうとしても、信じてもらえないとわかっているから黙り続けた時間の重さ。承太郎はそれを怒りに変換してぶつけてきているが、本当に吐き出したいのは怒りではないだろう。麗一は静かにそう考えた。
「……そうだな」と麗一は言った。声のトーンが、ほんの少し変わった。
「言い方が悪かった。訂正する」
承太郎が眉をひそめた。謝罪を予期していたのかもしれない。しかし麗一が次にしたのは、上着の袖をまくり、右腕を持ち上げるという、全く予想外の動作だった。
その瞬間、承太郎の目が変わった。
麗一の隣に、それは現れた。長いまつ毛。ぷっくりとした唇。ドレッドヘアのように揺れる無数の触手。背中から伸びた、真鍮の針のような尻尾。日本の雑誌から切り抜いたような、ギャルの姿をした何かが、麗一の隣に実体を持って立っていた。
承太郎は、固まった。
それは確かに実在していた。悪夢でも幻覚でも錯覚でもなく、夕暮れの坂道に、質量を持って存在していた。自分の背後に現れるものと同じ種類の何かが、目の前の変人の隣で、触手をひらひらとはためかせていた。
喉の奥で、何かが解けるような感覚があった。
ずっとそこにあった緊張が、名前のつかない形で、ほんの少しだけ緩んだ。
「れいくん! この人めっちゃガン飛ばしてくんだけど! ウチ的にちょっとドキドキしてるんだけどー!」
甲高い、しかしどこか人外の響きを持つ声が、夕暮れの坂道に響いた。
承太郎の固まった表情が、微妙に歪んだ。
麗一はため息をついた。
「……静かにしていてくれ」
「えー! れいくんひどくない!? せっかく出てきてあげたのに!」
「今は私が話している」
「もー!」
その少女ような者が頬を膨らませ、触手をぶんぶんと振った。麗一はそれを完全に無視して、承太郎に向き直った。
承太郎は、まだ固まっていた。その両目が、クイーンショットと麗一の間を往復している。
「……なんだ、こいつは」
「私のスタンドだ。クイーンショットと名付けている。正確な定義はまだ研究中だが、人間の精神エネルギーが具現化したものだと考えている」麗一は言った。
「お前の『悪霊』も、同じものだ。お前は病気でも呪われてもいない。ただ、普通の人間には見えないものが見えるようになっただけだ」
沈黙が落ちた。
夕風が、また吹いた。
承太郎は黙っていた。麗一の言葉を反芻するように、帽子の鍔を少し下げた。怒りはもう、その表情から消えていた。代わりにあったのは、長い時間をかけて積み上げてきた何かが、静かに崩れていくような、そういう気配だった。
病気ではない。
呪われてもいない。
承太郎がその言葉をどう受け取ったか、麗一には正確にはわからなかった。しかし、あの目の奥にあった疲弊が、ほんのわずか、薄くなったように見えた。それだけで十分だと麗一は思った。救いたかったわけではない。ただ、事実を告げただけだ。だが事実というものは、時として何よりも人の力になる。
「……お前は」と承太郎はゆっくり言った。「それを、最初から知ってたのか」
「ああ」
「だから、怖くなかったのか」
麗一は少し考えてから、答えた。
「怖いと思う前に、面白いと思った」
承太郎がまた黙った。
それから、小さく鼻で笑った。笑い、というよりは、呆れと何かが混ざった、複雑な吐息だった。しかしその吐息の中に、かすかな温度があった。怒りでも諦めでもなく、もう少し別の何かが、確かに混じっていた。
「……変な奴だな、お前」
「よく言われる」
「れいくーん! ねえ! ウチのこと紹介してよー!」
クイーンショットが麗一の腕に触手を絡めながら揺らした。麗一は無表情のまま、その触手を静かに引き剥がした。
承太郎は、その様子を見ていた。
値踏みするような目だった。しかしさっきとは違う。敵意ではなく、もっと別の何かが混じっていた。この男は今、自分の中に長い間溜め込んでいたものを、どこに置けばいいかを探しているのかもしれない。麗一はそう感じた。
「……一つ聞く」と承太郎は言った。「俺の『悪霊』を、お前は制御できると思うか」
麗一はメガネを押し上げた。
「わからない。だが、制御できない理由もない」
「根拠は」
「私がそれをやったから」
承太郎の目が、その瞬間だけ、鋭く光った。
それは希望とも確認とも違う、もっと静かな何かだった。ずっと暗い水の底に沈んでいた人間が、初めて水面の光の在処を知ったような。それでもまだ手が届かないとわかっていても、光がそこにあると知るだけで、息の仕方が変わるような。そういう目だった。
麗一はクイーンショットを見た。クイーンショットは触手をくるくると巻きながら、承太郎に向かってひらひらと手を振っていた。
「……やれやれだぜ」と承太郎は呟いた。
それが、二人の始まりだった。
その夜、麗一は手帳に一行だけ書き加えた。
――空条承太郎。スタンド使いであることをほぼ確信。本人は制御に難あり。悪霊と呼んでいる段階。接触、完了。
ペンを置いてから、麗一はしばらく天井を見た。
研究対象、と書こうとして、やめた。
理由は自分でもよくわからなかった。ただ、あの目の奥にあった疲弊を思い出すと、その二文字が、今夜に限ってはうまく書けなかった。
「れいくーん、今日の子カッコよかったねー! またあえる?」
クイーンショットがベッドの端に腰掛けながら、触手をゆらゆらと揺らした。
「会える。というより、また会いに行く」
「えっ、れいくんから会いに行くの!? めずらしー! もしかして気に入った?」
「研究対象として、だ」
「ほんとにー?」
麗一は返事をしなかった。
窓の外に、静かな夜が広がっていた。