バッハトマ軍・臨時格納区画
白い騎体が、格納区画の奥に立っていた。
いや、立っているというより、捕らえられていると言うべきだった。
拘束架。
解析用の魔導ケーブル。
仮固定された装甲。
整備兵たちの緊張した視線。
シュペルター。
剣聖騎。
その名だけで、場の空気が重くなる。
ジョー・ジィッド・マトリアは、格納区画の入口で一度足を止めた。
そして、わざと明るく言った。
「うわあ。これはまた、随分と身分不相応なものを見せられたな」
整備兵の一人が、笑っていいのか分からず口元を引きつらせる。
ジィッドはそれを見て、さらに軽く肩をすくめた。
「安心しろ。俺も笑うところか分からん」
朗らかな声だった。
若い騎士らしい、よく通る声。
部下の前で不安を見せないための声。
場が沈む前に、先に自分で冗談にしてしまう声。
だが、ニナリスだけは気づいていた。
ジィッドの右手が、ほんのわずかに握られている。
指先が白い。
彼は怯えている。
いや、違う。
怯えだけではない。
怒ってもいる。
どうして、今さら。
どうして、自分に。
どうして、血筋のある騎士たちが飾りの階段を上っていく時には、自分には扉さえ開かなかったのに。
そういう感情を、彼は笑顔で押し殺していた。
ジィッドは軍学校で優秀だった。
戦術も、指揮も、補給も、撤退判断も学んだ。
実地でもそれなりの戦果を挙げた。
銀月騎士団団長の地位も、飾りで得たものではない。
だが、そこまでだった。
名のある家の出ではない。
古い騎士家の血ではない。
強い後援者もいない。
だから、会議室ではいつも一段低い椅子に座らされた。
功績は「よくやった」で済まされ、失策は「やはり出自が」と見られた。
危険な任務は回ってくる。
華のある戦果は、上の家の若君に渡る。
それでもジィッドは笑ってきた。
笑っていれば、卑屈に見えない。
笑っていれば、妬んでいると悟られない。
笑っていれば、まだ自分は折れていないふりができる。
そのジィッドの背後から、低い声がした。
「乗れ」
黒騎士デコーズ・ワイズメルだった。
格納区画の空気が、さらに硬くなる。
ジィッドは振り返った。
「俺が、剣聖騎を……?」
声には喜びより先に、困惑があった。
それから、彼はいつものように笑おうとした。
だが、口元だけで失敗した。
「黒騎士殿。俺では持て余します」
言い切った。
周囲の整備兵が、わずかに息を呑む。
普通なら、栄誉に飛びつく場面だった。
剣聖騎。
シュペルター。
それを与えられるなど、騎士ならば一度は夢見る。
だが、ジィッドは夢を見なかった。
夢を見るには、彼は軍人として教育されすぎていた。
「機体性能、要求反応、精神負荷、いずれも俺の適性を超えています。運用するとしても、相当な出力制限が必要です。前線で見栄を張れば、俺だけでなく随伴機も落とします」
デコーズは黙って聞いていた。
ジィッドは続ける。
「それに、政治的にも危険です。鹵獲した剣聖騎を動かしたという事実は大きい。しかし失えば、戦果ではなく失態になる。俺が乗るには重すぎます」
「分かっているなら上等だ」
デコーズは短く言った。
「それでもお前が乗れ」
ジィッドは言葉を失った。
デコーズは、白い騎体を見上げる。
「それに意味がある」
意味。
ジィッドは、その言葉を理解した。
自分が最強だから選ばれたのではない。
自分が剣聖騎にふさわしいから選ばれたのでもない。
血筋のない若い騎士団長。
名門ではない。
だが軍教育を受け、現場を知り、扱いやすい位置にいる。
その男が剣聖騎に乗る。
それだけで、いくつもの意味が生まれる。
バッハトマは剣聖騎を奪った。
しかも、それを若手に回す余裕がある。
血筋のない者でも、戦果次第で旗印になれる。
兵に見せるための意味。
敵に見せるための意味。
そして、ジィッド自身に突きつけるための意味。
お前はここまで来た。
だが、お前のものではない。
ジィッドは一瞬、奥歯を噛んだ。
笑いたくなった。
いや、泣きたくなった。
今まで欲しかったものは、決して与えられなかった。
それなのに、欲しがってはいけないものだけが、突然目の前に置かれる。
血筋があれば、もっと早く別の騎体に乗れたのか。
家名があれば、もっと正しい段階を踏めたのか。
後ろ盾があれば、この任務も「栄誉」と呼ばれたのか。
その全部を、彼は飲み込んだ。
そして、明るく言った。
「いやあ、困ったな」
声が軽すぎた。
ニナリスが、わずかに顔を上げる。
ジィッドは笑っていた。
朗らかに。
若い騎士らしく。
いつものように。
「出世できない時はできないで腹が立つのに、いざ階段ごと投げつけられると、それはそれで困る。人間というのは勝手なものですね、黒騎士殿」
整備兵の誰かが、かすかに笑いかけて、すぐに黙った。
デコーズは表情を変えない。
「不満か」
「あります」
ジィッドは即答した。
その率直さに、格納区画の空気が少し揺れた。
「ですが、命令拒否の理由にはなりません」
彼は姿勢を正した。
「俺は軍人です。命令が戦略上必要で、実行可能性があるなら、受けます」
「実行可能か」
「現状のままでは不可能です」
ジィッドはシュペルターを見上げた。
「俺の腕では、この騎体は扱いきれません。ですから、扱える範囲まで落とします。俺に合わせるのではなく、任務に合わせます。華々しい戦果は捨てる。生還と示威を優先する」
「剣聖騎で逃げる気か」
「逃げるべき時は逃げます」
ジィッドは笑った。
「俺のような血筋のない騎士は、死んでも物語になりませんからね。死ぬなら、せめて戦術的価値を残して死にます」
明るい言い方だった。
だが、言葉の底は冷えていた。
デコーズの目が、少しだけ細くなる。
「卑屈だな」
「はい」
ジィッドは否定しなかった。
「ですが、卑屈な者は損得を見ます。損得を見る者は、時に生き残ります。部下を帰すには、そういう騎士も必要でしょう」
デコーズは、しばらく黙った。
それから言った。
「条件を言え」
ジィッドは一拍置いてから、軍人の顔になった。
「第一に、ニナリスの判断権限を拡大してください。出力制限、機体負荷、俺の反応遅延、精神負荷。すべて彼女に記録させます」
ニナリスが息を止めた。
「第二に、整備班を固定してください。剣聖騎を戦功の飾りにするなら、整備記録が要ります。毎回違う者に触らせるのは危険です」
「第三に、随伴機には撤退権限を明示します。俺が突っ込んでも、命令なしで下がれるようにする。俺が見栄で死ぬ時に、部下まで付き合わせる気はありません」
「第四に」
そこでジィッドは、少しだけ笑った。
今度の笑みは、先ほどより自然だった。
「この件を、名門騎士の方々にあまり自慢しないでください。刺されます」
整備兵の一人が、今度こそ小さく噴き出した。
ジィッドはそちらに視線を向け、軽く片手を上げる。
「笑っていい。事実だ」
場の緊張が、ほんの少しだけ緩む。
それも計算だった。
この場で誰も笑わなければ、自分が潰れる。
整備兵が怯えたままなら、事故が起きる。
ニナリスが責任を一人で背負えば、壊れる。
だからジィッドは笑う。
自分の屈折を、冗談の形にして外へ逃がす。
デコーズはその様子を見ていた。
「お前は、自分が嫌いか」
不意の問いだった。
ジィッドは少しだけ黙った。
それから、また明るく答えた。
「嫌いになれるほど、余裕のある身分ではありません」
「では、好きか」
「好きになれるほど、出来がよくもありません」
「なら、どう思っている」
ジィッドはシュペルターを見上げた。
「使える駒だと思っています」
その声だけは、笑っていなかった。
「血筋はありません。剣聖でもありません。名門の若君方のように、敗北を美談にしてくれる家もない。だから、使える間は使うしかない。俺自身も、俺の部隊も」
そこで、彼はニナリスの方を見た。
「ただし、使い潰す気はありません」
ニナリスの瞳が揺れた。
「ニナリス」
「はい」
「俺がこの騎体に酔ったら止めろ」
「……マスターを、ですか」
「そうだ」
ジィッドは苦笑した。
「俺はたぶん、酔う。剣聖騎だぞ。血筋がない、後ろ盾がない、会議室でいつも一段低く見られてきた俺が、これに乗るんだ。酔わないと言えば嘘になる」
それは、自分への警告だった。
「だから止めろ。俺が『もっと出せ』と言ったら、まず記録を見せろ。俺が怒鳴ったら、黒騎士殿に報告しろ。俺が部下を見捨てる判断をしたら、その判断が本当に任務上必要か問い直せ」
「そのようなことを、ファティマが申し上げてもよろしいのですか」
「よろしい」
ジィッドは、はっきり言った。
「これは俺の名誉ではなく、軍務だ」
ニナリスは目を伏せた。
その仕草は従順だった。
だが、その奥で何かが震えていた。
彼女は、この若い騎士の弱さを知っていた。
見栄を張るところも、褒められたがるところも、名門騎士への嫉妬も、夜に一人で作戦書を読み返していることも知っていた。
そして今、彼が初めてその弱さを軍務の中へ出した。
隠すのではなく、管理対象にした。
ジィッドは明るく言った。
「さて、ニナリス。俺の欠点一覧を作れ。遠慮はいらない。どうせ長くなる」
「……はい」
「長すぎたら要約版も頼む。黒騎士殿に提出する」
デコーズが低く言った。
「ボクにまで見せる気か」
「監督責任者でしょう?」
ジィッドはにこりと笑った。
「俺のような若造に剣聖騎を渡すのです。黒騎士殿にも、胃を痛めていただきます」
整備兵たちの間に、今度は明確な笑いが広がった。
デコーズは笑わなかった。
ただ、ジィッドを見ていた。
血筋のない若い騎士。
屈折を抱えた男。
朗らかに振る舞わなければ、自分の悔しさに呑まれそうになる男。
だが、軍人としての教育は入っている。
自分の弱さを知っている。
部下を数として見ながら、数で終わらせない程度の情もある。
そして何より、自分が剣聖ではないことを理解している。
「ジィッド」
「はい」
「その笑い方を戦場に持ち込むな」
ジィッドは一瞬だけ黙った。
それから、少し困ったように笑った。
「難しいですね。これがないと、俺はたぶん、もう少し嫌な男になります」
「もう十分嫌な男だ」
「では、これ以上悪化しないよう努力します」
デコーズは、そこでようやく背を向けた。
「乗れ。剣聖騎に選ばれたと思うな。お前は、バッハトマに使われる」
「承知しています」
「だが、使われるだけで終わるな」
ジィッドの表情が止まった。
デコーズは振り返らない。
「血筋がないなら、戦場で意味を作れ」
その言葉は、慰めではなかった。
激励でもない。
ただの命令だった。
だが、ジィッドには十分だった。
彼は深く頭を下げた。
「はい、黒騎士殿」
そして顔を上げると、いつもの明るい声で言った。
「では、皆。俺が剣聖騎を壊さないよう、全員で必死に支えてくれ。特に整備班。俺より君たちの方がたぶん重要だ」
整備兵たちが、今度ははっきり笑った。
ジィッドも笑った。
朗らかに。
若い騎士らしく。
屈折を、悔しさを、血筋への恨みを、全部その奥に押し込めて。
ニナリスだけが、その笑顔の裏にある痛みを見ていた。
だから彼女は、静かに答えた。
「ジィッド様。欠点一覧の作成を開始します」
「うん。できれば、少しは手心を加えてくれ」
「軍務ですので」
ジィッドは、少しだけ目を丸くした。
それから、楽しそうに笑った。
「そうか。軍務なら仕方ない」
白い剣聖騎の前で、若い騎士は笑っていた。
血筋に選ばれなかった男。
家名に守られなかった男。
それでも軍人として立つことだけは、まだ捨てていない男。
シュペルターは、その日から彼の栄誉ではなくなった。
彼の劣等感でもなくなった。
それは任務になった。
そして、任務である限り、ジィッドは逃げなかった。