/*/ 星団暦3069年・ノウラン=オータ=ボルサ軍政圏 総督府執務棟 /*/
「……なぜだ」
ジョー・ジィッド・マトリアは、鏡の前で固まっていた。
軍服ではない。
礼装だった。
銀月騎士団の白銀を基調にした総督中将用の正装。
肩章が重い。
飾緒が重い。
襟が硬い。
剣帯が妙に格式張っている。
しかも、今日から正式に肩書が増えたせいで、徽章の数まで増えている。
王都ベイジ。
ノウラン市。
オータ市。
ボルサ諸島列島。
周辺軍政地域。
総督。
中将。
銀月騎士団団長。
その全部が、服に乗っている気がした。
「なぜ、夕食が軍務になる」
ジィッドは低く呟いた。
背後で、ニナリスが静かに答える。
「マスターが総督に任じられたためです」
「総督は飯も普通に食えないのか」
「はい」
「はい、じゃない」
「本日の夕食は、ベイジ、ノウラン市、オータ市、ボルサ諸島列島、周辺衛星都市の行政代表、商業組合、酒造組合、乳製品加工組合、工房組合、街道警備代表、医療栄養品工場代表、旧ミグノシア議会系の名士、ならびにバッハトマ軍政管理官庁との会合会食です」
ジィッドは鏡の中の自分を見た。
「多い」
「総督就任後、最初の顔合わせです」
「俺は書類で済ませたい」
「無理です」
「なぜ」
「人間は書類だけでは服従しません」
「痛いことを言うな」
ニナリスは、ジィッドの襟元を整えながら、淡々と言った。
「ただし、礼儀作法については問題ありません」
「問題あるだろ。俺はこういう場が苦手だ」
「私が教えます」
ジィッドは少しだけ振り返った。
「今から?」
「はい」
「間に合うのか?」
「最低限は」
「最低限」
「本日の目標は、失礼にならず、相手に過剰な期待を抱かせず、かつ総督としての威厳を損なわず、余計な約束をせずに退席することです」
「戦術目標みたいに言うな」
「会食は戦場です」
「嫌な真理を出すな」
ニナリスは小さな卓に置かれた食器を示した。
皿。
杯。
ナイフ。
フォーク。
スプーン。
布巾。
小さな焼き菓子。
なぜか空の酒杯まである。
「まず、席に着く前に椅子を引かれても、驚かないでください」
「驚くか」
「前回、酒造組合との小会合で、椅子を引いた給仕を警戒されました」
「背後に立たれると反応する」
「総督晩餐会では、背後に給仕が立ちます」
「最悪だ」
「反応してはいけません」
「軍務か?」
「はい」
ジィッドは深く息を吐いた。
「次」
「乾杯時、杯は一口だけで構いません。飲み干す必要はありません」
「酒造組合がいるのに?」
「酒造組合がいるからです。飲み干すと、次々と注がれます」
「罠か」
「会食です」
「同じだ」
「また、蒸留組合の代表が“総督閣下にぜひ”と特別樽を出してくる可能性があります」
「飲まない」
「正解です。ただし、拒絶ではなく評価を保留してください」
「どう言えばいい」
「“この香りは、戦場帰りの舌で雑に扱うべきではない。後日、正式に検分する”」
ジィッドは目を細めた。
「それ、飲む予定が増えないか?」
「増えます」
「駄目じゃないか」
「しかし、その場で酔わされるより安全です」
「なるほど。撤退戦だな」
「はい」
ニナリスは続ける。
「乳製品加工組合からは、総督就任記念の新作氷菓が出ます」
「アイスか」
「はい」
「それは食べる」
「食べ過ぎてはいけません」
「なぜ」
「子供向け配給品との比較を求められます」
「求められたら答える」
「答えると、新たな総督監修商品が生まれます」
ジィッドは固まった。
「……食べ過ぎない」
「賢明です」
その時、控室の扉が開き、ラドとノエルが入ってきた。
二人とも礼装だが、ジィッドほど重くはない。
ラドはジィッドを見るなり、口元を押さえた。
「総督閣下」
「言うな」
ノエルも真顔で敬礼する。
「マトリア中将閣下、晩餐会場の準備完了です」
「お前まで言うな」
「軍務ですので」
「便利に使うな」
ラドが卓上の食器を見る。
「礼儀作法講習ですか」
「そうだ」
「大丈夫ですよ、団長。ニナリスさんがついてますし」
ジィッドは、わずかに安心しかけた。
だが、ラドは続けた。
「問題は礼儀作法じゃなくて、団長が会食中にうっかり実務回答することです」
「どういう意味だ」
ノエルが真剣に言う。
「商業組合が“今後とも総督府のご支援を”と言った時に、“では税率と補助金の再計算を明朝までに”などと返すのが危険です」
「駄目なのか」
「会食で仕事を増やさないでください」
「向こうが仕事の話を振るんだろ」
「会食では仕事の形をした挨拶が飛びます」
「卑怯だな」
「社交です」
「同じだ」
ニナリスが静かに補足した。
「本日は“検討する”“承った”“後ほど担当官に確認させる”の三つを使い分けてください」
「便利だな」
「便利ですが、使いすぎると何も決めない総督に見えます」
「ならどうしろと」
「重要なものだけ“明日、書面で持ってこい”です」
ラドが小さく笑った。
「結局仕事になりますね」
ジィッドは額を押さえた。
「会食とは何なんだ」
「戦場です」
ニナリスが再度言った。
ジィッドは反論しなかった。
/*/ 晩餐会場 /*/
会場は、かつてスバース市議会系の迎賓館だった建物を改修したものだった。
天井が高い。
照明が多い。
壁には旧時代の装飾が残り、その上にバッハトマ軍政旗と銀月騎士団旗が並んでいる。
長い卓。
白い布。
銀器。
酒杯。
皿の列。
そして、人。
多すぎる人。
ジィッドが会場へ入ると、一斉に視線が向いた。
「ジョー・ジィッド・マトリア総督中将閣下」
司会役の管理官が、実に良い声で告げた。
ジィッドは内心で思った。
やめろ。
だが顔には出さない。
ニナリスが半歩後ろにいる。
彼女の存在だけで、ジィッドの背筋はどうにか保たれていた。
礼。
歩幅。
視線。
椅子。
杯。
全部、ニナリスが事前に教えた通りに処理する。
ジィッドは席に着いた。
右にスバース商業組合長。
左にノウラン乳製品加工組合の代表。
正面に旧ミグノシア議会系の名士。
少し離れて酒造組合。
さらにその向こうに軍政管理官庁。
完全に包囲されていた。
ジィッドは小声で言った。
「これは布陣が悪い」
ニナリスが背後で囁く。
「中央突破は不要です」
「撤退路は」
「ありません」
「最悪だ」
司会が乾杯を告げる。
全員が杯を上げた。
「総督閣下のご就任と、ベイジとノウラン=オータ=ボルサ圏のさらなる繁栄を祝して」
ジィッドも杯を上げる。
飲む。
一口。
飲み干さない。
酒造組合長が目を光らせている。
危ない。
飲み干していたら、次が来ていた。
ニナリスの教えは正しかった。
会食が始まる。
最初に来たのは、乳製品加工組合の代表だった。
「総督閣下、本日は就任記念として、新作の氷菓をご用意いたしました」
来た。
ジィッドは皿に載せられた白い氷菓を見る。
香りは良い。
牛乳の質も良い。
多分うまい。
だが、食べ過ぎると商品になる。
ジィッドは一口だけ食べた。
うまい。
顔に出そうになる。
危ない。
「よい出来だ」
代表の顔が輝いた。
ジィッドは続けた。
「ただし、これは戦場帰りの舌で雑に評価すべきものではない。後日、配給品と市場品の区分を含めて正式に検分する」
代表は感激した。
「ありがとうございます!」
ジィッドは内心で思った。
仕事が増えた。
次に来たのは酒造組合長だった。
「総督閣下、こちらは蒸留所の特別樽でして――」
「この香りは、戦場帰りの舌で雑に扱うべきではない。後日、正式に検分する」
酒造組合長も感激した。
「光栄です!」
ジィッドは内心で思った。
同じ手で仕事が二つ増えた。
ニナリスが背後で静かに言った。
「上手です」
「褒めるな。被害が増えている」
ベイジの商業組合長が、滑らかな声で言う。
「総督閣下。商業区は、閣下のご裁量により大きく息を吹き返しました。今後とも、総督府のご支援を賜れればと」
ジィッドは一瞬、税率表を思い浮かべた。
危ない。
口に出すところだった。
「承った」
短く返す。
商業組合長は微笑む。
「ありがたきお言葉」
ジィッドは背後へ小声で言う。
「今のは?」
ニナリスが答える。
「良い対応です」
「何も決めていないぞ」
「会食では、それが正解です」
「難しいな」
旧ミグノシア議会系の名士が、静かに言った。
「総督閣下。三十八年前、ここがこのような形で復興するとは、誰も思っておりませんでした」
会場の空気が、少しだけ変わった。
軽い挨拶ではない。
ジィッドも、それは分かった。
名士は続ける。
「我々はバッハトマを歓迎したわけではありません。今も、心から受け入れているとは言えません」
周囲がわずかに緊張する。
ラドが壁際で息を呑む。
ノエルの手が剣帯へ行きかけ、止まる。
ジィッドは名士を見た。
「だろうな」
短い返答だった。
会場が静かになる。
ジィッドは続けた。
「俺たちは占領軍だ。歓迎されると思っていたら、それは馬鹿だ」
ニナリスは止めなかった。
ジィッドは杯を置く。
「だが、畑は焼かせない。市場は動かす。働ける者には仕事を回す。働けない者は保護する。破壊活動は許さない。税は取る。だが、税を取るなら街道と水路と倉庫を守る」
名士は黙って聞いていた。
「俺に言えるのは、それだけだ。忠誠を求める場ではない。飯が食える街を維持する。そのために、総督になった」
言ってから、ジィッドは思った。
違う。
総督にされた。
だが、ここで訂正すると格好がつかない。
名士は、ゆっくり頭を下げた。
「十分でございます、総督閣下」
ジィッドは困った顔をしそうになった。
どう返せばいい。
背後からニナリスの小さな声。
「礼を受けてください」
ジィッドは頷いた。
「承った」
会場の空気が、少し緩む。
ラドが壁際で小さく息を吐いた。
ノエルがぼそりと言う。
「今のは、総督っぽかったですね」
ラドが返す。
「言うな。本人が傷つく」
/*/ 会食後 控室 /*/
ジィッドは控室に戻った瞬間、椅子に沈んだ。
「戦場より疲れた」
ラドが茶を差し出す。
「お疲れさまでした、総督閣下」
「やめろ」
ノエルが記録板を見ながら言う。
「会食中に発生した追加案件は、氷菓検分、蒸留酒検分、商業区支援確認、旧議会系名士との定期会談、街道税率の再調整要望、産院寄付制度の整備、以上です」
「多い」
「少ない方です」
「嘘だろ」
ニナリスが静かに言った。
「マスター、本日の礼儀作法は問題ありませんでした」
ジィッドは顔を上げる。
「本当か」
「はい。椅子を引いた給仕を警戒しませんでした」
「そこからか」
「乾杯で飲み干しませんでした」
「助かった」
「氷菓を食べ過ぎませんでした」
「かなり耐えた」
「蒸留酒もその場で飲みませんでした」
「命拾いした」
「旧議会系名士への返答も、総督として適切でした」
ジィッドは目を逸らした。
「俺は総督になったつもりはない」
「任命されています」
「記録はいつも残酷だな」
「今回は任命です」
「もっと残酷だ」
ラドが笑った。
「でも、礼儀作法は大丈夫でしたね」
ジィッドは、深く息を吐いた。
「ああ。ニナリスが教えてくれるからな」
ニナリスは、少しだけ目を伏せた。
「はい。必要であれば、次回は舞踏会作法も」
ジィッドの動きが止まった。
「舞踏会?」
ノエルが記録板を見た。
「商業組合から、総督就任記念舞踏晩餐会の提案が来ています」
ジィッドは、ゆっくり天井を見上げた。
「……撤退していいか」
ニナリスが静かに答える。
「会食からの撤退は、手順が必要です」
「教えてくれるか」
「はい」
ジィッドは目を閉じた。
「なら、大丈夫か」
ラドが小さく笑う。
「大丈夫です。総督閣下」
「やめろと言った」
控室に、短い笑いが広がった。
戦場から戻った男は、今度は食卓で戦っていた。
そして白銀の騎士の隣には、今日もニナリスがいた。
礼儀作法も。
撤退の手順も。
必要なら、全部教えてくれる。
だからジィッドは、嫌そうな顔をしながらも、次の書類へ手を伸ばした。