/*/ 星団暦3070年・総督府執務棟 夜間報告室 /*/
ヨシワラ・シズナは、報告を終えても退室しなかった。
黒豹ニンジャ部門の再配置。
旧トモエ直属線の二重記録化。
アーリィ・ブラスト元副団長に関する独断追跡の抑止。
全て、必要な仕事だった。
報告も悪くなかった。
だからジィッドは、書類に承認印を置いた。
「悪くない。明朝、ゲンロウにも共有しろ」
「はい」
シズナは頭を下げた。
だが、動かない。
ジィッドは顔を上げた。
「まだあるのか」
「あります」
声が、少し硬い。
ニナリスが斜め後ろで静かに視線を向けた。
シズナは一歩前に出た。
黒い外套の裾が、床に小さく擦れる。
「ジィッド様」
「総督大将閣下でなくなったのか」
「今は、そう呼ばせてください」
ジィッドは嫌な予感がした。
こういう時の人間は、だいたい厄介なことを言う。
シズナは、まっすぐジィッドを見た。
「抱いて下さい」
部屋の空気が止まった。
ラドが息を呑む。
ノエルが記録端末を閉じかけて固まる。
ニナリスだけが、表情を変えない。
ジィッドは、ゆっくりと目を細めた。
「……何を言っている」
シズナは震えていなかった。
むしろ、覚悟を決めた顔だった。
「それで私の忠誠と愛と全ては、ジィッド様のものになります」
ジィッドはしばらく黙った。
それから、低く言った。
「極端すぎないか」
シズナは即答した。
「極端な方が、話が早い時もあります」
「早くない」
「早いです。私は、迷わなくて済みます」
「それが駄目だと言っている」
ジィッドの声が少しだけ鋭くなった。
シズナの肩が揺れる。
しかし、引かない。
「私はアーリィ姉様にはなれません。トモエ様の代わりにもなれません。黒豹を縫い合わせる糸だと、あなたは言いました」
「ああ」
「なら、私を結んでください」
その言葉に、ジィッドは顔をしかめた。
あまりに痛い言葉だった。
忠誠。
愛。
全て。
それは甘い言葉ではない。
シズナにとっては、自分をどこかへ固定するための杭だった。
ジィッドは椅子から立ち上がった。
「シズナ」
「はい」
「それは忠誠じゃない」
シズナの表情が強張る。
「では、何ですか」
「逃げだ」
鋭い言葉だった。
シズナの目が揺れた。
ジィッドは続ける。
「自分で判断するのが怖い。黒豹を背負うのが怖い。アーリィと比べられるのが怖い。だから、俺に全部渡して楽になろうとしている」
「違います」
「違わない」
「違います!」
初めて、シズナの声が荒れた。
「私は、あなたに選ばれたいだけです!」
言ってから、シズナ自身が息を呑んだ。
それが本音だったからだ。
ジィッドは黙っていた。
ニナリスも何も言わない。
シズナの瞳が濡れる。
「トモエ様は、私を捨てませんでした。でも、選んだのはアーリィ姉様でした。私はいつも後ろでした。記録。連絡。後始末。影。糸。刃にはなれなかった」
「だから俺に選べと?」
「はい」
「身体ごと?」
「はい」
「馬鹿だな」
シズナの顔が歪む。
ジィッドは一歩近づいた。
だが、触れない距離で止まった。
「俺がここでお前を抱いたら、お前は安心するかもしれない」
「はい」
「その夜だけな」
シズナは何も言わない。
「翌朝から、お前は俺の顔を見る。命令を見る。褒められるかを見る。捨てられないかを見る。黒豹じゃなく、俺を見る」
シズナの指が震えた。
「それの何が悪いのですか」
「黒豹が死ぬ」
ジィッドは即答した。
「お前が俺のものになったら、黒豹ニンジャ部門は俺の私物になる。そう見える。お前自身もそう動く。黒豹の傷を縫う糸ではなく、銀月の紐になる」
シズナの顔から血の気が引いた。
「私は……そんなつもりでは」
「つもりじゃなく、結果だ」
ジィッドは静かに言った。
「だから、抱かない」
シズナは唇を噛んだ。
悔しさと恥と、捨てられたような痛みが、全部顔に出ていた。
「では、私はどうすればいいのですか」
「立て」
「立っています」
「違う。俺に寄り掛からずに立て」
「無理です」
「無理でもやれ」
「ひどい」
「ひどくていい」
ジィッドは、そこで少しだけ声を落とした。
「俺はお前の育ての親じゃない。トモエ団長の代わりでもない。アーリィの代わりにお前を選ぶ男でもない」
シズナの目から、涙が一つ落ちた。
「では、なぜ私を立てたのですか」
「黒豹を割りたくない顔をしていたからだ」
「それだけですか」
「それだけだ」
シズナは泣きながら、少し笑った。
「ひどいですね」
「よく言われる」
「でも……それなら、私の仕事はありますか」
「ある」
ジィッドは机の上の書類を指した。
「明朝、第三系統の再配置をお前の名で出せ。俺の承認は付けるが、判断者はお前だ。ゲンロウと協議しろ。ニナリスに依存度を見られろ。ラドとノエルに記録を噛ませろ」
「監視ですか」
「支柱だ」
「支柱……」
「俺一本にするな。折れるぞ」
シズナは、涙を拭わずに立っていた。
その顔は、まだ苦しい。
だが、少しだけ戻っていた。
ニナリスが静かに口を開いた。
「シズナ様」
「……はい」
「マスターへの個人的依存は、現時点で危険域に入りつつあります」
シズナはびくりとした。
「はっきり言うのですね」
「はい」
「嫌ではないのですか」
「マスターの負荷が増えることは望ましくありません」
「私が邪魔だと?」
「いいえ」
ニナリスは淡々と答えた。
「あなたが自立すれば、黒豹は安定します。あなたが依存すれば、黒豹は不安定になります」
シズナは苦笑した。
「ファティマは、怖いですね」
「よく言われます」
「誰にですか」
「マスターに」
ジィッドが顔をしかめた。
「俺を引き合いに出すな」
シズナは、涙を残したまま、ほんの少し笑った。
それは壊れた笑みではなかった。
まだ危うい。
だが、戻ってこれる笑みだった。
ジィッドは言った。
「シズナ」
「はい」
「忠誠は受け取る。愛は預からない。全ては渡すな。黒豹に残せ」
シズナは、深く頭を下げた。
「……承知しました」
「それと、次に同じことを言ったら、休職命令を出す」
「軍務ですか」
「軍務だ」
シズナは目元を拭った。
「便利な言葉ですね」
「俺も嫌いだ」
彼女はもう一度頭を下げ、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
しばらく誰も喋らなかった。
やがてラドが、小さく息を吐く。
「団長」
「なんだ」
「よく断りましたね」
「当たり前だろ」
ノエルが真顔で言う。
「でも、かなり危なかったですね。あれは、忠誠の形をした心中です」
「分かっている」
ジィッドは椅子に戻った。
深く座り、天井を見た。
「俺は黒豹を預かっただけだ。人間の全部まで預かってたまるか」
ニナリスが静かに言う。
「ですが、シズナ様はしばらく観測が必要です」
「ああ」
「マスターの直接承認回数を減らします。代わりに、ゲンロウ様、総督府防諜班、黒豹内部補佐を経由させます」
「そうしてくれ」
「また、シズナ様がマスターへの個人的接触を増やす場合、私が調整します」
「頼む」
ジィッドは目を閉じた。
「……本当に、悲しむ暇もねぇな」
ニナリスは静かに答えた。
「はい」
記録端末には、ただ一行だけが残された。
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ヨシワラ・シズナ。
黒豹ニンジャ部門暫定統括。
個人的依存傾向、要観測。
任務継続可。支柱分散を要する。
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記録はいつも残酷だった。
だが、その夜の記録は、黒豹を割らせないために必要な残酷さだった。