/*/ 星団暦3070年・総督府執務棟 夜間控室 /*/
ヨシワラ・シズナは、泣いてはいなかった。
ただ、目が赤かった。
泣いた後ではない。
泣く前の目だった。
総督府の夜間控室には、誰もいない。
正確には、誰もいないはずだった。
だが、そこにはニナリスがいた。
ジィッドの書類を整え、黒豹再編関係の記録を確認し、シズナの報告経路を再調整していた。
シズナは、その横顔をしばらく見ていた。
ファティマ。
マスターを持つ存在。
選ばれ、結ばれ、役割を与えられている者。
シズナの胸の奥で、何かが小さく歪んだ。
「ファティマは」
声が漏れた。
ニナリスが顔を上げる。
「はい」
「ファティマは、マスターがいて良いですよね」
ニナリスは、すぐには答えなかった。
シズナは笑おうとした。
笑えなかった。
「私は、また選ばれなかった」
声が震える。
悔しいのか。
悲しいのか。
自分でも分からなかった。
「トモエ様は、私を捨てませんでした。でも選んだのはアーリィ姉様でした。ジィッド様は私を使ってくださる。でも、私を選んだわけではない」
ニナリスは静かに聞いていた。
否定しない。
慰めもしない。
それが、余計にシズナを刺した。
「自由なんていりません」
シズナは、低く言った。
「誰か私を選んでくれれば、それでよいのに」
その言葉は、あまりに幼かった。
黒豹ニンジャ部門暫定統括。
トモエ団長の遺した影を預かる少女騎士。
黒豹を割らせないために立てられた者。
その肩書の奥にいるのは、ただ選ばれたかった子供だった。
ニナリスは端末を閉じた。
「シズナ様」
「はい」
「ファティマは、マスターがいて良い、というのは正確ではありません」
シズナが顔を上げる。
「違うのですか」
「はい」
ニナリスは淡々と言った。
「ファティマは、マスターなしでは存在の意味を保ちにくいよう作られています」
シズナは黙る。
「選ばれて幸せなのではありません。選ばれなければ、生きる形が定まりません」
「……それでも、選ばれている」
「はい」
ニナリスは否定しなかった。
「私はマスターに選ばれました。それは事実です」
シズナの唇が歪む。
「羨ましいです」
「そうでしょう」
その返答があまりに平坦で、シズナは一瞬、怒ることも忘れた。
ニナリスは続ける。
「ですが、シズナ様が求めているものは、選ばれることではありません」
「違います。私は――」
「所有されることです」
空気が止まった。
シズナの顔が強張る。
ニナリスは静かに言った。
「自由がいらない。誰かに選ばれればよい。全てを渡せば迷わなくて済む。それは、選ばれたいのではなく、自分で立つ責任を誰かに預けたいということです」
「……ひどい」
「はい」
「本当に、ファティマはひどいことを言いますね」
「マスターにも言われます」
シズナは笑いかけて、笑えなかった。
目から涙が落ちた。
「私は弱いです」
「はい」
「また、はい、ですか」
「はい」
「少しは慰めてください」
「慰めが必要ですか」
シズナは黙った。
必要だった。
でも、欲しい慰めをもらったら、また寄り掛かる。
それも分かってしまった。
ニナリスは言った。
「シズナ様は弱いです。しかし、弱いことを自覚している者は、支柱を正しく置けば折れません」
「支柱」
「はい。ジィッド様だけを支柱にしてはいけません」
「では、誰を」
「ゲンロウ様。黒豹の大隊長たち。総督府防諜班。記録。職務。黒豹そのもの」
ニナリスは一つずつ置くように言った。
「支柱は人だけではありません。役割も支柱になります」
「役割……」
「あなたは、ジィッド様に選ばれるために黒豹を残すのではありません」
「では、何のために」
「黒豹を残すために、あなたが立つのです」
シズナは、涙を拭った。
「それは、苦しいです」
「はい」
「誰かのものになった方が、ずっと楽です」
「はい」
「それでも駄目ですか」
「駄目です」
ニナリスは即答した。
「あなたがマスターのものになれば、黒豹の影はマスターの私物に見えます。あなた自身も、マスターの承認なしに動けなくなります。それは黒豹再編にとって危険です」
「私は、ジィッド様にとっても危険ですか」
「はい」
シズナは苦く笑った。
「容赦がない」
「必要です」
「軍務ですか」
「はい」
シズナは俯いた。
少しの間、部屋には夜間空調の低い音だけがあった。
やがて、シズナが小さく言う。
「ニナリス様」
「はい」
「私は、ジィッド様に見捨てられたのでしょうか」
「いいえ」
「本当に?」
「はい。見捨てるなら、報告経路を整備しません。休職命令を出します」
「……それもひどいですね」
「はい」
シズナは、今度こそ少しだけ笑った。
涙の残った、危うい笑みだった。
「では、私は何をすればいいのですか」
「明朝、第三系統の再配置案を、あなたの名で出してください」
「ジィッド様の承認は」
「最終承認はあります。しかし判断者はあなたです」
「怖いです」
「はい」
「失敗したら」
「修正します」
「見捨てられませんか」
「失敗だけでは」
シズナは顔を上げた。
「では、何をしたら見捨てられますか」
ニナリスは、少しだけ間を置いた。
「黒豹を割るために、自分の痛みを使った時です」
シズナは息を呑んだ。
「……分かりました」
「はい」
「ニナリス様」
「はい」
「私は、ジィッド様を好きになってはいけませんか」
ニナリスは表情を変えなかった。
「感情は禁じても消えません」
「では」
「ただし、その感情を忠誠や任務に混ぜないでください」
「難しいです」
「はい」
「また、はい」
「難しいため、私が観測します」
シズナは涙を拭い、深く息を吸った。
「ファティマは、怖いですね」
「よく言われます」
「マスターに?」
「はい」
シズナは、小さく笑った。
今度は少しだけ、本当に笑えた。
「……少し、分かります」
ニナリスは端末を再び開いた。
「シズナ様」
「はい」
「あなたは選ばれなかったのではありません」
シズナの目が揺れる。
ニナリスは静かに言った。
「あなたは、任されました」
その言葉は慰めではなかった。
甘くもなかった。
だが、シズナの胸に残った。
選ばれることより、ずっと重い言葉だった。
「……任された」
「はい」
「トモエ様の後始末を」
「はい」
「黒豹の影を」
「はい」
「ジィッド様のものではなく」
「黒豹のものとして」
シズナは、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、ニナリス様」
「礼は不要です」
「それでも、言わせてください」
「はい」
シズナは扉へ向かった。
出る直前、振り返る。
「ニナリス様」
「はい」
「私は、また愚痴を言いに来てもよろしいですか」
ニナリスは少しだけ考えた。
「頻度が高すぎなければ」
シズナは目を丸くした後、ほんの少し笑った。
「厳しいですね」
「マスターの負荷管理もありますので」
「そこに入るのですね、私」
「はい」
「……分かりました」
扉が閉まる。
ニナリスは端末に短く記録した。
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ヨシワラ・シズナ。
個人的依存傾向、継続。
自己認識あり。
支柱分散、継続可能。
任務継続可。
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その最後に、ニナリスは一行だけ追記した。
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選ばれることへの渇望が強い。
「任された」という認識への移行を支援。
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記録はいつも残酷だった。
だが、その夜の記録は、少しだけ優しかった。