/*/ 星団暦3070年・ノウラン基地 司令室 /*/
舞踏会の報告書は、まだ机の上にあった。
旧ノウラン、オータ市政評議会。
ボルサ列島諸島代表団。
黒豹騎士団。
国家騎士団。
AP騎士団スバース隊支隊長、ランド・アンド・スパコーン卿。
その名が書かれた箇所だけ、ジィッドは何度も読み返していた。
いや、読み返したくて読んでいたわけではない。
目が勝手にそこへ戻る。
「結論から言う」
ジィッドは司令室に集まった面々を見た。
ラド。
ノエル。
ニナリス。
ヨシワラ・シズナ。
カラスマ・ゲンロウ。
管理官。
さらに銀月と国家騎士団の作戦参謀が数名。
全員が、舞踏会後のAP騎士団スバース隊分析会議だと理解していた。
ジィッドは、実に嫌そうな顔で言った。
「絶対にスバース隊の支隊長とは戦わない」
沈黙。
ラドが、少しだけ目を細める。
「ランド・アンド・スパコーン卿ですね」
「そうだ」
ジィッドは即答した。
「あれは駄目だ。剣でどうこうする相手じゃない」
ノエルが確認する。
「総督大将。それは、戦術的に避けるという意味ですか」
「戦術でも戦略でも政治でも避ける」
ジィッドは地図を指した。
スバース市。
市外縁。
シーゾス王国方面。
カッツェー公国方面。
AP騎士団スバース隊の活動圏。
その全部が、細い赤線で繋がっている。
「ランド公が出てきたら、何十騎いても死ぬわ」
ラドが苦笑した。
「そこまでですか」
「そこまでだ」
ジィッドは真顔だった。
「ランド公は、デコーズ隊長みたいに“斬り殺される”怖さだけじゃない。場を見て、相手の未熟さを見て、どこを押せば血を流さずに崩れるかを分かっている。ああいう相手と正面から盤面を作った時点で負けだ」
ゲンロウが低く頷いた。
「剛の騎士でありながら、外交も分かる。厄介ですな」
「厄介どころじゃない」
ジィッドは舞踏会記録を指で叩いた。
「本人は丁寧だった。威圧もしていない。だが、市政、ボルサの港湾、黒豹再編、一通り見て帰った。あれで“知らなかった”はない。次に動く時は、こちらの構造を見た上で動いてくる」
シズナが静かに言う。
「では、スバース隊そのものへの直接工作は避けますか」
「避ける」
ジィッドは頷いた。
「ランド公の周囲を直接突くな。AP騎士団スバース隊に雑な挑発をするな。あの人が前に出てくる口実を作るな」
ラドが地図を見る。
「では、どこを動かします?」
ジィッドは地図上の別の二点を指した。
「シーゾス王国とカッツェー公国だ」
ノエルが眉を上げる。
「そちらですか」
「ああ」
ジィッドは低く言った。
「裏工作を密にして、シーゾス王国とカッツェー公国の足の引っ張り合いを加速させる」
管理官が即座に端末を開いた。
「既存の不和を増幅する形ですね」
「そうだ。ない火をつけるな。ある火を風で煽る」
ニナリスが静かに補足する。
「ランド卿を直接敵対正面に立たせず、AP側周辺勢力の調整負荷を増やす方針です」
「そういうことだ」
ジィッドは机に両手を置いた。
「スバース隊が強いなら、スバース隊に戦わせるな。ランド公が強いなら、ランド公に剣を抜かせるな。あの人が“出るべき場”を散らす」
ゲンロウが目を細める。
「名誉ではなく、手間で縛る」
「そうだ」
ジィッドは頷いた。
「シーゾス王国にはシーゾス王国の面子がある。カッツェー公国にはカッツェー公国の利権がある。補給路、通行税、港湾使用権、旧領境界、騎士派遣の優先順位。揉める種はいくらでもある」
ノエルが記録する。
「ただし、やりすぎると地域全体の緊張が上がります」
「だから密にやる」
ジィッドは言った。
「表では穏やかに。商人の噂、契約条件、通行許可、補給優先順位、貴族の招待順、報告書の表現。その程度でいい。軍を動かすな。騎士を動かすな。ランド公を動かすな」
シズナが少しだけ頷いた。
「黒豹ニンジャ部門で、両国間の既存不満を洗います」
「洗うだけだ。作るな」
「承知しました」
「それと、アーリィの件で使ったような端末偽装工作は慎重にしろ。あれは黒豹の傷に触れる」
シズナの表情が一瞬だけ硬くなった。
「はい」
ニナリスがジィッドを見る。
「マスター。シズナ様への負荷が上がります」
「分かっている」
ジィッドはシズナへ向く。
「シズナ。お前一人で握るな。第一系で外を洗い、第二系で漏洩を見て、第三系は封印線だけ確認。ゲンロウには騎士側の反応だけ共有。総督府防諜班と二重記録だ」
「はい」
「俺に直接全部持ってくるな。まず防諜班とノエルに通せ」
シズナは一瞬だけ寂しそうにしたが、すぐに頷いた。
「……任されましたので」
「そうだ。任せている」
その一言に、シズナの姿勢が少しだけ安定した。
ラドが地図を見ながら言う。
「しかし団長、相手はランド卿ですよね。裏工作を見抜かれる可能性は」
「ある」
「では」
「だから“見抜かれても困らない程度”にする」
ジィッドは淡々と言った。
「シーゾスとカッツェーが元から揉めていることを、少しだけ表に出す。商人が勝手に騒ぐ。貴族が勝手に機嫌を悪くする。役人が勝手に書類を遅らせる。その程度なら、ランド公が見抜いても“バッハトマの謀略”と断じるには弱い」
ノエルが苦笑する。
「嫌なやり方ですね」
「ランド公と戦うよりマシだ」
ジィッドは即答した。
「剣で勝てない相手には、剣を抜かせない。これが一番安い」
管理官が目を輝かせる。
「名言ですね。総督府戦略方針に――」
「使うな」
「記録は」
「最低限にしろ」
ニナリスが淡々と言う。
「記録しました」
「最低限と言っただろう」
「必要最低限です」
「その必要最低限がいつも重いんだよ」
ゲンロウが静かに笑った。
「総督大将閣下。黒豹としては、その方針に賛成です。ランド卿を前に出させるより、周辺の足並みを乱す方が安全でしょう」
「黒豹はランド公とやり合いたい奴を抑えておけ」
「承知しました」
「特に若手だ。舞踏会であの人を見て、変に血が騒いだ奴がいるはずだ」
ゲンロウは重く頷いた。
「いますな」
「いるのかよ」
「剛の騎士を見ると、自分の腕を試したくなる馬鹿はどこにでもおります」
「黒豹にもか」
「当然です」
ジィッドは天井を見た。
「本当に戦場より面倒だな」
ニナリスが言う。
「軍務です」
「便利すぎる」
ラドが小さく笑う。
「でも、団長がここまで“戦わない”って明言するの、珍しいですね」
「珍しくない。俺は勝てない戦は嫌いだ」
「ランド卿には勝てない?」
「勝ち筋が見えない相手とは、まず戦わない」
ジィッドは少しだけ間を置いた。
「しかも、あの人と戦って仮に勝っても、損が大きすぎる。AP騎士団、A.K.D.、フロート・テンプル、ハスハ側、全部に余波が出る。勝っても地獄。負けたら当然死ぬ」
ノエルが乾いた声で言う。
「最悪ですね」
「だから、戦わない」
司令室に沈黙が落ちた。
それは臆病ではなかった。
恐怖を言葉にした上で、盤面を変える判断だった。
ジィッドは地図上のシーゾス王国とカッツェー公国に小さな印を置いた。
「こっちを揉ませろ」
シズナが静かに答える。
「はい」
「ただし、火事にするな。煙でいい」
「承知しました」
「ランド公が煙の向こうを見る前に、別の煙を出せ」
「はい」
管理官が確認する。
「作戦名は」
「つけるな」
「必要です」
「つけるな」
「では便宜上、“外縁調整工作”として」
「つけてるじゃないか」
「便宜上です」
ジィッドは深く息を吐いた。
「もういい。それで進めろ。ただし、ランド公を名指しで対象にするな」
「承知しました」
会議が終わりに近づく。
ジィッドは最後にもう一度、スバース市の印を見た。
落とし難い都市。
いや。
落とした後が面倒な都市。
そして、その面倒さを正確に理解して帰ったAP騎士団支隊長。
「……絶対に戦わない」
ジィッドは、もう一度低く言った。
ラドが頷く。
「了解です」
ノエルも記録する。
「AP騎士団スバース隊との直接衝突回避を最優先」
ゲンロウが腕を組む。
「黒豹にも徹底します」
シズナが目を伏せる。
「影の方も、静かに動かします」
ニナリスが静かに告げた。
「マスター。今回の判断は適切です」
「勝利判定か」
「いえ」
「違うのか」
「生存判定です」
ジィッドは一瞬黙り、そして苦く笑った。
「それで十分だ」
司令室の窓の外には、ノウラン基地の夜が広がっていた。
遠く、スバース方面の街道灯が細い線になって続いている。
その先に、ランド・アンド・スパコーンがいる。
剣で勝てない相手。
礼儀正しく、正確に、こちらの未熟さを見抜く相手。
ジィッドはその名を、作戦地図の中央ではなく、避けるべき危険域として記憶した。
戦わない。
戦わせない。
そのために、総督府の影が静かに動き始めた。