/*/ 星団暦3070年・ノウラン基地 総督私室 夜 /*/
久しぶりに、食事が食事だった。
会食ではない。
晩餐会でもない。
商業組合の顔色を読む席でも、旧議会系名士の言葉尻を拾う席でも、酒造組合の試飲に税率の話が混じる席でもない。
ただの飯。
それだけで、ジィッドには十分すぎるほど贅沢だった。
卓の上には、ボルサ諸島列島から届いた魚が並んでいる。
北海の冷たい潮で締まった白身。
脂の乗った赤身。
薄く透けるように切られた貝。
塩。
柑橘。
それに、A.K.D.産の酒。
刺身を切っているのは、ニナリスだった。
ファティマの手つきは、戦場でも厨房でも揺れない。
包丁が魚の身に入り、繊維を潰さず、薄く、均一に引かれる。
白い皿に置かれる一切れ一切れが、整備記録の数字のように正確だった。
ジィッドは一切れを箸で取り、口に入れた。
しばらく黙る。
そして、深く息を吐いた。
「ボルサ諸島列島を取って良かったのは、美味い刺身が食える事だな」
ニナリスが次の一切れを皿に置く。
「はい。脂の状態も良いです」
「分かるのか?」
「分かります」
ニナリスは、自分の皿にも一切れ取った。
口に運び、静かに味を見る。
「……美味しいです」
その声は、いつもの報告口調より少しだけ柔らかかった。
ジィッドは少し笑う。
「だろう」
「はい。塩でも良いですが、柑橘を少し合わせた方が香りが立ちます」
「お前、普通に食通だな」
「食事は必要ですし、美味しいものは美味しいと分かります」
「そうだったな」
「はい」
ジィッドは酒を口に含んだ。
澄んだ香りが、魚の脂を綺麗に流す。
「A.K.D.の酒にも合う」
そう言ってから、ふと舞踏会を思い出した。
迎賓館。
白銀の礼装。
重い視線。
ボルサ代表団。
そして、AP騎士団スバース隊支隊長、ランド・アンド・スパコーン。
「ランド公にも勧めれば良かったかな……」
ジィッドはそこで止まった。
想像する。
ランド公が、あの重厚な礼節で刺身を口にし、酒を飲み、静かに「よい魚だ」と言う。
その上で、スバースとボルサの流通、港湾鮮度管理、北海の航路、保存氷、税率、島嶼住民の扱いまで一瞬で読み取る。
ジィッドは顔をしかめた。
「いや、そんな事したら、俺の方が味が分からんくなる」
ニナリスは小さく頷いた。
「ランド卿は、食材から補給線を推測される可能性があります」
「だろうな」
「ボルサの港湾管理精度、鮮魚輸送の速度、氷の供給、輸送艦と商船の混用率も推測対象になります」
「だから嫌なんだよ、あの人は」
ジィッドはもう一切れ食べた。
今度は、少し厚めに切られた身だった。
噛むと、甘い。
脂と潮の匂いが広がる。
会食では絶対に分からない味だった。
誰も横から税率の話をしない。
誰も「総督監修商品に」と言わない。
誰も舞踏の順番を見ていない。
ただ、魚が美味い。
それだけだった。
ニナリスが、ジィッドの皿に次の一切れを置いた。
「美味しいですか、マスター?」
「ああ、美味い」
「良かった」
ニナリスも同じ魚を自分の皿に取り、少しだけ酒を含む。
「こちらも合います。A.K.D.の酒は香りが強すぎないので、白身の味を消しません」
「本当に食通じゃないか」
「味覚評価は可能です」
「評価じゃなくて、感想でいい」
ニナリスは少し考えた。
「では、美味しいです」
「うん。それでいい」
ジィッドは、少しだけ満足そうに頷いた。
私室だからこそできる食事だった。
総督大将とファティマ。
公的な場では、どうしても役割が先に立つ。
ニナリスはデムザンバラのファティマであり、ジィッドのパートナーであり、戦場の命綱であり、記録と判断の補佐だ。
だが今は、同じ卓で刺身を食べている。
それでよかった。
「A.K.D.の酒に、ボルサの魚か」
「はい」
「AP騎士団の支隊長に勧めるには、政治が濃すぎるな」
「はい」
「だが、純粋に飯としては美味い」
「はい」
ジィッドは皿の上を見下ろした。
ボルサを取った時は、港湾税、灯台、倉庫、海上警備、歩兵、管理官、密輸、反乱兆候、月次報告。
そんなことばかり考えていた。
今も考えている。
考えざるを得ない。
だが、その結果として、こうして魚が届く。
ノウランの自室で、静かに刺身を食える。
ニナリスと同じ卓で、美味いと言える。
そういう実感は、少しだけ報われる。
「便利な港ほど胃が痛いが」
ジィッドは小さく言った。
「美味い魚が来るのは悪くない」
ニナリスが次の魚へ包丁を入れる。
「では、次回もボルサ便から良いものを選びます」
「頼む。お前の分もな」
「はい」
「俺だけ食うと、味が偏る」
「では、二人分で手配します」
「そうしろ」
外では、総督府の夜間警備が交代している。
遠くでは、書類が待っている。
港湾収支。
ボルサ交易量。
黒豹再編。
シーゾスとカッツェーの外縁工作。
ランド公の動向。
全部、明日になれば机に戻ってくる。
だが今だけは、刺身と酒がある。
ニナリスが切ってくれる魚がある。
そして、ニナリスも同じものを食べて、美味しいと言う。
ジィッドはもう一切れ食べて、目を細めた。
「うん。やっぱり美味い」
ニナリスも同じ皿から一切れ取った。
「はい。美味しいです」
その夜、総督府の記録には残らなかったが。
ボルサ諸島列島は、ジィッドの胃痛だけでなく、ほんの少しだけ、彼とニナリスの静かな食卓にもなっていた。