ちゃんと軍人教育受けてるジィッドくん   作:ぶーく・ぶくぶく

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恋愛計画は凍結

/*/ 星団暦3071年 基地 総督府執務棟 黒豹再編室 夜 /*/

 

 

 

 封印記録に移されたシズナの私信は、もう通常端末からは開けない。

 

 だが、消えたわけではない。

 

 消してしまえば、なかったことになる。

 

 なかったことにすれば、また同じ穴に落ちる。

 

 だから、残した。

 

 裁くためではない。

 

 晒すためでもない。

 

 次に彼女が落ちそうになった時、誰かが手を伸ばすための記録として。

 

 ジィッド・マトリア大将は、黒豹再編室の窓際に立っていた。

 

 窓の外には基地の灯が見える。

 

 遠くでは港湾倉庫の照明。

 

 オータ方面へ向かう輸送列。

 

 黒豹の影務班が交代する気配。

 

 そのすべてが、いつも通り動いている。

 

 だが、室内だけは重かった。

 

 ヨシワラ・シズナは椅子に座っていた。

 

 背筋は伸ばしている。

 

 黒豹影務部門暫定統括としての姿勢は崩していない。

 

 だが、顔色は悪い。

 

 目の奥に、底の見えない空洞がある。

 

 トモエ団長。

 

 アーリィ・ブラスト副団長。

 

 もう、この世にはいない二人。

 

 あるいは、届かない場所へ消えた二人。

 

 彼女はずっと、その二人と戦っていた。

 

 死者は失敗しない。

 

 死者は取り乱さない。

 

 死者は弱みを見せない。

 

 死者は老いず、醜くならず、裏切らない。

 

 思い出の中のトモエは、いつまでも強く、美しく、黒豹の頂点にいる。

 

 思い出の中のアーリィは、いつまでも出来の良い姉で、シズナの少し前を歩いている。

 

 生きているシズナだけが、泣き、嫉妬し、失敗し、ジィッドの紙コップを拾い、そんな自分にまた絶望する。

 

 カラスマ・ゲンロウは腕を組み、重く言った。

 

「大将。シズナは、トモエ団長とブラスト副団長を自分を責めるための刃にしている」

 

 シズナの肩がわずかに震えた。

 

 ゲンロウは続ける。

 

「元々、ブラスト副団長と自分を比べて自責する傾向はありました。あの方には届かない。トモエ団長にも選ばれきれない。そう思い続けていた」

 

 ジィッドは黙って聞いた。

 

「だが、生きている相手なら、まだ憎める。追える。怒れる。勝てないと認めることもできる。けれど、二人は思い出になった。思い出は、もう崩れない」

 

「思い出には勝てないからな」

 

 ジィッドが低く言った。

 

 シズナは唇を噛んだ。

 

 涙は流さなかった。

 

 流したら、それすらまた自分を罰する材料にしてしまうと分かっているようだった。

 

 ニナリスが静かに言う。

 

「現在のシズナ様は、好意、忠誠、喪失、自己否定、承認欲求を分離できていません。マスターが恋愛的応答を行った場合、依存対象の固定化が進みます」

 

 ノエルが苦い顔をする。

 

「つまり、大将が好きだと返したら」

 

「一時的には安定します」

 

 ニナリスは淡々と答えた。

 

「ただし、その後はマスターの視線、言葉、接触、返信速度が強力な報酬になります。報酬が途切れた時、反動が出ます」

 

 ラドが低く言った。

 

「麻薬みたいなものか」

 

「はい」

 

 その言葉で、部屋が静まった。

 

 シズナは俯いた。

 

 ジィッドは、ゆっくり椅子に戻った。

 

「シズナ」

 

「はい」

 

「俺は、お前の気持ちを汚いとは思わない」

 

 シズナの指が、膝の上で硬く握られる。

 

「だが、今のまま受け取れば、お前は俺に全部を預ける」

 

 ジィッドは逃げなかった。

 

 目を逸らさなかった。

 

「俺の返事ひとつで笑い、沈み、壊れるようになる。俺が忙しくて返せなければ、お前はまた自分を削る。俺が秘書と話せば、その女を敵に見て、自分を罰する。俺が使った紙コップをまた拾う」

 

 シズナの喉が小さく鳴った。

 

「……はい」

 

「それは恋人じゃない」

 

 ジィッドは言った。

 

「俺の言葉で呼吸する人形になるだけだ」

 

 シズナの目が揺れた。

 

「では、私は」

 

「お前の気持ちは没収しない」

 

 ジィッドはすぐに続けた。

 

「慕うなとは命令しない。そんな命令で消えるものなら、最初から苦労していない」

 

 シズナは顔を上げる。

 

「なら」

 

「だが、俺は今、それを女として受け取らない」

 

 沈黙。

 

「受け取れば、救いじゃなくなる。強い薬になる。俺はお前を楽にしたつもりで、壊すことになる」

 

 ジィッドは、自分の言葉が彼女に刺さるのを見ていた。

 

 刺すしかなかった。

 

 甘く撫でれば、傷口が熱を持つだけだ。

 

 突き放せば、血が止まらない。

 

 なら、線を引くしかない。

 

「俺が今、できる返答は一つだ」

 

 シズナは息を止めた。

 

 ジィッドは作戦卓の上に置かれた黒豹再編資料を叩いた。

 

「部下として、お前を信頼する」

 

 シズナは何も言えなかった。

 

「黒豹の影務部門に、お前の代わりはいない。ゲンロウは表の騎士たちをまとめる。だが、港湾帳簿、船員名簿、密輸線、黒豹内部の緘口令、影の再配置。そこはお前が縫っている」

 

「私が」

 

「そうだ」

 

 ジィッドは書類を一枚取った。

 

「この三か月、黒豹の密輸照会線は崩れていない。ボルサ便の偽装船荷を二件拾った。オータ工場への部品横流しも、国家騎士団の酒場経由の情報漏れも、お前の班が先に見つけた」

 

 シズナは、自分の書いた報告書を見た。

 

 そこには、彼女の仕事があった。

 

 感情ではない。

 

 泣き言でもない。

 

 実務。

 

 成果。

 

 線。

 

「お前が女としてどうこうではなく」

 

 ジィッドは言った。

 

「俺の隣で黒豹を支える影として、お前は必要だ」

 

 シズナの顔が歪んだ。

 

 嬉しい。

 

 苦しい。

 

 足りない。

 

 それでも、何かが足元に置かれた。

 

 泥のような、重い足場。

 

 甘い救いではない。

 

 だが、踏める。

 

「私は、女としては」

 

「今は答えない」

 

「……はい」

 

「だが、部下としては答える。信頼している。必要としている。手放す気はない」

 

 ニナリスが少しだけ目を伏せた。

 

 ゲンロウは黙っている。

 

 シズナは、湯呑みを持つように自分の袖を握った。

 

「手放さない」

 

「ああ」

 

「黒豹の影として」

 

「そうだ」

 

「それでも、今は……十分と、思うべきなのですね」

 

「思うべき、ではない」

 

 ジィッドは少し顔をしかめた。

 

「思えない日もあるだろう。だから、書類を作れ」

 

 シズナが瞬きをした。

 

「書類、ですか」

 

「そうだ」

 

 ジィッドは資料を指で叩いた。

 

「お前が俺に惚れているなら、完璧な書類を作れ。帳簿を揃えろ。黒豹の影を縫え。生き残って、俺の足元を支えろ」

 

 ノエルが小さく息を呑む。

 

 ラドは目を伏せた。

 

 ゲンロウが低く笑った。

 

「大将らしい」

 

 ジィッドはシズナを見た。

 

「俺たちが並んで立つ場所は、今は寝台の上じゃない。執務室の机の前だ。作戦卓の前だ。港湾帳簿の前だ。黒豹の慰霊碑の前だ」

 

 シズナの頬に、一筋だけ涙が落ちた。

 

 だが、彼女は崩れなかった。

 

「はい」

 

「お前が俺のために何かしたいなら、まず飯を食え。眠れ。ゲンロウや黒豹の連中と話せ。秘書を睨むな。俺のゴミを拾うな。完璧な報告書を出せ」

 

「はい」

 

「それが今の返答だ」

 

 シズナは、深く頭を下げた。

 

 恋人として抱かれたわけではない。

 

 女として選ばれたわけでもない。

 

 だが、完全に拒まれたわけでもなかった。

 

 彼女の好意は没収されなかった。

 

 ただし、その炎はジィッド一人へ向かうことを許されなかった。

 

 黒豹へ。

 

 任務へ。

 

 ゲンロウへ。

 

 ニナリスへ。

 

 医師へ。

 

 書類へ。

 

 食事へ。

 

 休日の予定へ。

 

 生きるための、複数の支点へ流された。

 

 ジィッドは続けた。

 

「トモエ姐さんもアーリィも凄かった」

 

 シズナの肩が揺れる。

 

「それは変わらん。思い出になった二人には勝てない。俺も勝てん」

 

 ゲンロウが静かに目を伏せた。

 

「だが、今の軍政圏の泥を回すのは、あの二人じゃない」

 

 ジィッドは、黒豹再編図を指した。

 

「港湾防諜。孤児保護線。密輸照会。黒豹内部の再配置。国家騎士団との衝突回避。ボルサ便の裏線。これは、生きている俺たちの仕事だ」

 

 シズナは顔を上げた。

 

「生きている、私たちの」

 

「ああ」

 

「トモエ団長とアーリィ姉様が遺した黒豹を」

 

「お前とゲンロウが維持する。俺はその責任を背負う」

 

 ジィッドは短く言った。

 

「死者を、お前を殴る棒にするな。俺も持つ。ゲンロウも持つ。黒豹全体で持つ」

 

 シズナの中で、何かが少し動いた。

 

 トモエとアーリィ。

 

 完璧な死者。

 

 自分を責めるための刃。

 

 それが、ほんの少しだけ位置を変える。

 

 自分だけの胸の中で燃える北の星ではなく、黒豹全体が見上げる方角へ。

 

 届かないものではある。

 

 だが、ひとりで焼かれるものではない。

 

「私は、二人に勝てません」

 

「勝たなくていい」

 

 ジィッドは即答した。

 

「生き残れ。仕事をしろ。黒豹を割るな。それでいい」

 

 シズナは、ゆっくり頷いた。

 

「はい」

 

 ニナリスが端末に新しい項目を作る。

 

「シズナ様支援線、更新します」

 

 ジィッドが嫌な顔をする。

 

「また線か」

 

「はい」

 

「言え」

 

「第一。部下としての信頼を明文化。黒豹影務部門の任務達成を定期評価し、シズナ様の自己効力感を補強」

 

「自己何とかはやめろ」

 

「自分で立つための記録です」

 

「それなら分かる」

 

「第二。トモエ団長、ブラスト副団長の記憶を、シズナ様個人の自責材料から、黒豹全体の継承財産へ移行」

 

 ゲンロウが頷く。

 

「黒豹側で慰霊と記録を整える。シズナ一人に抱えさせん」

 

「第三。支点の複数化。ニナリス、ゲンロウ、医師、黒豹女衆、任務班、休日食事会を接続」

 

「人の心を補給線みたいに言うな」

 

「類似しています」

 

「言葉で殴るな」

 

「第四。ジィッド様との一対一接触は規定時間内に限定。恋愛段階は凍結。好意は否定せず、行動境界を維持」

 

 シズナは小さく言った。

 

「恋愛段階は凍結」

 

 ジィッドは頷く。

 

「凍結だ」

 

「いつか、解除されますか」

 

「俺に選ばれるために解除を目指すな」

 

 シズナが息を呑む。

 

「自分で立て。黒豹を支えろ。飯を食え。眠れ。俺以外の人間とも話せ。その先に、まだ俺を慕っているなら、その時にもう一度来い」

 

「それは、待っていてよいということですか」

 

「違う」

 

 ジィッドは言った。

 

「俺を待つな。自分を立て直せ。その先に俺がいるなら来い」

 

 シズナは長く黙った。

 

 それから、深く頭を下げた。

 

「はい」

 

 その「はい」は、以前のように全てを差し出す声ではなかった。

 

 まだ危うい。

 

 まだ震えている。

 

 だが、少しだけ、自分の重さを自分で持とうとする声だった。

 

 

 

/*/ 数日後 黒豹影務部門 報告室 /*/

 

 

 

 シズナは報告書を提出した。

 

 表紙には、いつもの黒豹書式。

 

 

/*/

 

 

 黒豹影務部門再編進捗

 港湾防諜線・密輸照会線・内部緘口令維持

 提出者:ヨシワラ・シズナ

 

 

/*/

 

 

 

 ジィッドはそれを読んだ。

 

 誤字はない。

 

 数字は揃っている。

 

 感情的な余白もない。

 

 ただ、最後に一行だけ、小さく追記があった。

 

 

『本報告書は、任務として提出します』

 

 

 ジィッドは少しだけ笑った。

 

「よし」

 

 シズナは背筋を伸ばす。

 

「不備は」

 

「ない。よくできている」

 

 彼女の目が揺れた。

 

 だが、崩れなかった。

 

「ありがとうございます」

 

「褒められたからといって、俺に私信を書くなよ」

 

「書きません」

 

「ゴミも拾うな」

 

「拾いません」

 

「秘書を睨むな」

 

「睨みません」

 

 ノエルが小声で言う。

 

「規定確認がだいぶ具体的になりましたね」

 

 ラドが頷く。

 

「具体的な方が守れる」

 

 ニナリスが静かに言う。

 

「良好です」

 

 ゲンロウは、シズナを見て言った。

 

「シズナ」

 

「はい」

 

「明日の昼、黒豹の女衆と飯だ。逃げるな」

 

「逃げません」

 

「食え」

 

「食べます」

 

 ジィッドが頷く。

 

「俺に惚れているなら、飯を食え」

 

 シズナは一瞬固まり、少しだけ笑った。

 

「はい。食べます」

 

 ノエルが天井を仰ぐ。

 

「恋愛の返答が食事命令になった」

 

 ラドが低く笑う。

 

「大将らしい」

 

 ジィッドは書類に判を押した。

 

「俺は甘い言葉で人を救えるほど器用じゃない」

 

 ニナリスが答える。

 

「ですが、泥の足場は組めます」

 

「それは褒めてるのか」

 

「はい」

 

「分かりにくい」

 

 シズナはそのやり取りを見ていた。

 

 胸の中の空洞は、まだある。

 

 死者の思い出は、まだ眩しい。

 

 ジィッドへの想いも、消えていない。

 

 だが、今日は紙コップを拾わなかった。

 

 今日は秘書を睨まなかった。

 

 今日は報告書を出した。

 

 今日は昼食の約束がある。

 

 それは恋ではない。

 

 救済でもない。

 

 だが、足場だった。

 

 泥でできた、不格好で、重くて、踏める足場。

 

 ジィッドは報告書を閉じ、短く言った。

 

「次もこの精度で出せ」

 

 シズナは、少しだけ息を吸ってから答えた。

 

「はい、大将」

 

 その声は、まだ震えていた。

 

 けれど、もう足元だけを見てはいなかった。

 

 作戦卓の上に広がるノウランの線を、彼女は見ていた。

 

 黒豹の影として。

 

 生きている者として。

 

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