ちゃんと軍人教育受けてるジィッドくん   作:ぶーく・ぶくぶく

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一人ずつ消える恐怖

/*/ 星団暦3071年 総督府執務棟 大将執務室 夕方 /*/

 

 

 

 シズナが規定を受け取り、ゲンロウと共に退出してから一時間後。

 

 執務室には、まだ重い空気の残滓が漂っていた。

 

 机の上には、シズナが置いていった小箱がある。

 

 紙コップ。

 

 プラスチックボトル。

 

 ジィッドが使い捨てたはずのもの。

 

 だが、シズナの私室ではそれが、祈るように保存されていた。

 

 ジィッド・マトリア大将は椅子に深く背を預け、こめかみを大きな指で揉んでいた。

 

 ニナリスはすでに、更新された「シズナ休日連絡暫定規定」と「境界回復記録」を総督府の安全管理サーバーへ暗号化して格納し、いつもの無表情で直立している。

 

 部屋のソファには、ラドとノエルが所在なさげに座っていた。

 

 二人は軍議の顔ぶれとして同席していたが、あまりにも生々しい人間の執着を目の当たりにし、口を挟むタイミングを完全に失っていた。

 

 しばらく沈黙が続いた。

 

 やがてラドが、頭の後ろで手を組み、緊張をほぐすような軽い口調で言った。

 

「でも、団長」

 

 ジィッドは目だけでラドを見た。

 

「何だ」

 

「シズナさん、めちゃくちゃスタイル良いじゃないですか。ファティマとは違う、その……生身の女の人としての肉感っていうか。あの最後の写真とか、ぶっちゃけ男として、ぐっと来たりしなかったんですか?」

 

 ノエルが即座にラドの脇腹を小突いた。

 

「おい」

 

 ラドは肩をすくめる。

 

「いや、男の本音としてさ」

 

 ジィッドは揉んでいた手を止め、天井を仰いだ。

 

 それから、ひどく疲れた声で笑った。

 

「そりゃ、あるさ」

 

 ラドが少し目を丸くした。

 

 ジィッドは視線を天井に向けたまま続けた。

 

「俺だって生身の男だ。目の前であんな肉体を晒されて、何も感じないわけじゃない」

 

 部屋が静かになる。

 

 ジィッドは今度はラドへ視線を戻した。

 

 その目には、疲労と、冷えた判断があった。

 

「だがな、ラド。そこで手を出してみろ。受け入れてみろ。次の日から、総督府の秘書課の人間が一人ずつ消えていくぞ」

 

「え……」

 

「冗談じゃねえ」

 

 ジィッドは低く言った。

 

「さっきの嫉妬の質量を見ただろう。あれは、恋敵が女だけで済む段階じゃない。仕舞いには、俺が他の男と軍務の話をしているだけでも嫉妬し始める。俺をどこかの地下室に閉じ込めて、外界との接続を全部切れば安心できる、そういう方向へ行きかねない」

 

 ラドの顔から、軽さが消えた。

 

「あー……確かに、あの目の据わり方は、愛が重いっていうか、ちょっと危ない領域でしたね」

 

 ノエルも苦い顔で頷いた。

 

「影の技術を持った人間の女性が本気で監禁に走ったら、総督府の防壁なんて内側から簡単に無力化されます。笑えません」

 

「笑えないんだよ」

 

 ジィッドは冷めきった珈琲に手を伸ばしかけ、止めた。

 

 使用済みのカップを見るだけで、さっきの小箱が視界に入る。

 

 彼は手を引っ込め、代わりに書類を一枚取った。

 

 シズナが処理した港湾帳簿だった。

 

 数字は揃っている。

 

 照会線も美しい。

 

 偽装船荷の痕跡を拾った注記まである。

 

 完璧だった。

 

「本当はな」

 

 ジィッドは低く言った。

 

「一度前線から外して、後方に送って、専門の医師にきっちり見てもらった方がいいんだろう」

 

 ノエルが小さく頷く。

 

「安全管理だけ考えれば、その方が」

 

「ああ。だが、あいつは今、俺を、この黒豹の椅子を、心の支えにして生き延びているところもある」

 

 ジィッドは書類の端を指で弾いた。

 

「下手に後方へ送ったら、その瞬間に支柱を抜かれたみたいに折れる。あいつはそれを命令として受け取るだろう。大将に不要とされた。黒豹からも外された。なら、私はもう要らない、と」

 

 ラドが黙る。

 

 ノエルも黙った。

 

 ジィッドは書類を見下ろす。

 

「それに何より、手放すのが惜しいと本気で思えるくらい、仕事に関しては出来る女なんだよ。トモエ姐さんが残した黒豹の泥臭い影務を、今あいつ以上に回せる奴は、この基地にはいない」

 

 その言葉は、先ほどシズナにかけたものよりも、さらに生々しい本音だった。

 

 ノエルが少し真面目な顔で言う。

 

「大将。今の言葉、そのままシズナさんに言ってやったらいいんじゃないですか。『お前は手放すのが惜しいくらい出来る女だ』って。死んだ二人と自分を比べてるシズナさんにとって、大将からのその評価は救いになると思います」

 

 ジィッドは一瞬、黙り込んだ。

 

 たぶん、それは本当だった。

 

 シズナはその言葉を欲しがっている。

 

 必要とされている。

 

 手放したくないと言われる。

 

 それは彼女の空洞に、確かに何かを満たす。

 

 だが。

 

「……駄目だ」

 

 ジィッドは首を横に振った。

 

「言えば一時的な支えにはなる。だが、『大将にそこまで言わせた』って事実が、今度は別の薬になる」

 

 ラドが眉を寄せる。

 

「薬」

 

「そうだ」

 

 ジィッドはニナリスを見る。

 

「だろ?」

 

 ニナリスは静かに頷いた。

 

「はい。対象は現在、肯定的な言葉を肉体的・精神的な全面受容のシグナルとして過剰解釈する傾向があります。『手放すのが惜しい』という表現は、任務評価ではなく、個人的所有欲として解釈される危険があります」

 

 ノエルが呻く。

 

「言葉一つが地雷ですね」

 

「地雷どころじゃない」

 

 ジィッドは重く息を吐いた。

 

「私の何が惜しいのですか。どこが必要なのですか。女としてですか、影としてですか。では私はどこまで差し出せばいいのですか。そうやってまた夜中に長文が降ってくる」

 

 ラドが目を逸らした。

 

「ありそうですね」

 

「あるんだよ」

 

 ニナリスが淡々と続ける。

 

「肯定そのものは必要です。しかし、医療的・組織的な枠を通して、任務評価として段階的に提示すべきです。マスターからの直接的で情緒的な肯定は、現時点では高刺激です」

 

「だそうだ」

 

 ジィッドはラドとノエルに向き直った。

 

「だから、まず医師と相談だ。どの程度の言葉なら、あいつの足を引っ張らず、足元を固める薬として機能するか。その境界線を見極める」

 

「薬として」

 

 ノエルが呟く。

 

「そうだ。褒め言葉も薬だ。量を間違えれば毒になる」

 

 ラドは感心したように、あるいは呆れたように息を漏らした。

 

「……なんか、本当にデムザンバラの出力調整より面倒くさいことになってますね、大将」

 

「ああ。お前らの想像の十倍は神経を使うぞ」

 

 ジィッドは冷めきった珈琲のカップを見た。

 

 少し考えて、手を伸ばさなかった。

 

「ニナリス」

 

「はい」

 

「今後、俺の使用済みカップとボトルは、秘書課じゃなく安全管理の廃棄箱へ直接入れろ。回収記録付きで」

 

「承知しました」

 

 ラドが眉を上げる。

 

「そこまでやるんですか」

 

「やる」

 

 ジィッドは即答した。

 

「線を引くってのは、本人に言うだけじゃ足りない。拾える場所に置かない。拾わせる状況を作らない。こっちの管理も変える」

 

 ノエルが頷く。

 

「人だけじゃなく環境も変える」

 

「そうだ」

 

 ジィッドは机上の小箱を見る。

 

「これは、あいつを罰するための箱じゃない。俺たちが油断していた証拠でもある」

 

 ニナリスが静かに記録する。

 

「大将執務室の使用済み私物処理規定、更新します」

 

「規定が増えたな」

 

「必要です」

 

「必要なのが腹立たしい」

 

 ラドが小さく笑った。

 

「でも、少し安心しました」

 

「何がだ」

 

「大将が、あの写真に何も感じなかったわけじゃなくて」

 

 ジィッドが睨む。

 

「そこか」

 

「いや、そこです。何も感じない聖人みたいな対応だったら、逆に怖いです。感じた上で踏み越えないなら、まだ分かります」

 

 ノエルも小さく頷いた。

 

「欲がないんじゃなくて、欲があるから危険を理解している。そっちの方が、確かに大将らしいです」

 

 ジィッドは渋い顔をした。

 

「褒めてるのか、それ」

 

「一応」

 

「一応か」

 

 ニナリスが静かに言う。

 

「マスターは、欲望よりも被害予測を優先しました。判断としては適切です」

 

「ファティマにそう評価されると、余計に疲れるな」

 

「はい」

 

「そこは否定しろ」

 

「疲労値は高いです」

 

「事実で殴るな」

 

 窓の外では、ノウランの夕闇が街を包み始めていた。

 

 港の灯が点く。

 

 オータへ向かう輸送車列の光が、細い線になって動いている。

 

 ボルサ便の入港予定が、端末に小さく点滅する。

 

 街は動いている。

 

 工場も動いている。

 

 黒豹も動いている。

 

 そして、シズナもまた、明日から動かなければならない。

 

 ただし、昨日までとは少し違う線の上で。

 

 ジィッドは、シズナの港湾帳簿に目を落とした。

 

「手放すのは惜しい、か」

 

 ノエルが顔を上げる。

 

 ジィッドは首を振った。

 

「今は言わん。医師と相談してからだ」

 

 ニナリスが頷く。

 

「はい」

 

「だが、いつかは言う」

 

 ラドが少し驚いた顔をした。

 

「言うんですか」

 

「言う」

 

 ジィッドは書類を閉じた。

 

「言わないままだと、あいつは自分の価値をずっと死者に奪われたままになる。だからいつかは言う。ただし、恋愛の餌じゃなく、足場になる形でだ」

 

 ニナリスが静かに言った。

 

「表現案は、医師およびゲンロウ殿と協議します」

 

「また会議か」

 

「必要です」

 

「褒め言葉ひとつに会議が要るのか」

 

「現状では、要ります」

 

 ジィッドは深くため息を吐いた。

 

「デムザンバラの調律より面倒だな」

 

 ラドが笑う。

 

「さっき俺が言いました」

 

「俺も言いたくなった」

 

 ノウランの夕闇は深くなる。

 

 引かれた線の上で、明日もまた、生きるための軍務が始まる。

 

 それは港湾税でも、街道警備でも、黒豹再編でもない。

 

 一人の女が、自分を壊さずに誰かを慕うための、ひどく泥臭い軍務だった。

 

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