/*/ 星団暦3071年 総督府執務棟 医療区画 軍医面談室 /*/
ジィッド・マトリア大将は、妙な顔で椅子に座っていた。
戦傷の治療ではない。
GTM酔いでもない。
魔薬中毒兵の報告でもない。
相談内容は、ヨシワラ・シズナのことだった。
向かいに座る軍医は、年配の女医だった。
前線神経症、騎士の依存症状、ファティマ喪失後の精神崩壊、忍び部隊の解離症状まで見てきた、バッハトマ軍医療局でもかなり嫌な現場をくぐってきた人物である。
名を、ハルマ・レイ軍医中佐。
彼女はジィッドの話を最後まで聞き、眼鏡の奥で静かに目を細めた。
「つまり、大将はこう言いたいわけですね」
「はい」
「ヨシワラ・シズナは、任務上では替えが効かない。手放すには惜しい。だが、それを今の本人にそのまま伝えると、劇薬になりかねない」
ジィッドは深く頷いた。
「その通りです」
「よく分かっていますね」
「分かっているだけで、どうすればいいのかが分からない」
ジィッドは額を押さえた。
「俺は、あいつを女として受け入れる気はない。今それをやれば依存が進むだけだ。だが、あいつが仕事上、替えが効かないほど有能なのも事実です。そこを伝えないと、あいつはずっとトモエ姐さんとアーリィの思い出に殴られ続ける」
ハルマ軍医は、卓上の記録をめくった。
シズナの深夜私信。
使用済み物品の回収。
秘書への嫉妬反応。
休日不安定化。
黒豹影務部門の業務成果。
全て、必要範囲だけが医療記録として整理されている。
「まず、大将。言葉を分けましょう」
「分ける?」
「はい。シズナさんにとって、今もっとも危険なのは、評価と言葉が全部“愛情の証拠”として吸い込まれることです」
「……でしょうね」
「ですので、“手放すには惜しい”は危険です」
「やっぱりか」
「かなり危険です」
軍医は赤鉛筆で紙に書いた。
『危険語』
『手放したくない』
『お前しかいない』
『俺にはお前が必要だ』
『そばにいろ』
『惜しい女だ』
ジィッドはそれを見て、苦い顔をした。
「全部、言いそうな言葉ですね」
「だから止めに来たのでしょう」
「はい」
軍医は次に、別の欄を書いた。
『変換語』
『現在の黒豹影務部門において、君の担当能力は高い』
『この任務は君の判断を前提に組んでいる』
『君の報告書は軍政判断に使える』
『君の仕事は、黒豹全体の安定に寄与している』
『君自身を壊す行動は、任務能力を損なうため認めない』
ジィッドはしばらくそれを読んだ。
「……硬い」
「硬くていいんです」
ハルマ軍医は即答した。
「甘くすると、彼女は全部飲み込みます。硬くして、咀嚼しないと入らない形にしてください」
「薬みたいですね」
「薬です」
ジィッドは黙った。
「肯定の言葉も薬です。今のシズナさんには、甘い言葉を一気に飲ませると中毒になります。だから、投与量、投与経路、投与間隔を管理します」
「褒め言葉に軍医の処方が要るのか」
「要ります」
「最悪だな」
「最悪にしないためです」
軍医は淡々としていた。
/*/ 処方 /*/
ハルマ軍医は、紙を一枚ジィッドの前に置いた。
「まず、評価は必ず任務成果に結びつけてください」
「任務成果」
「はい。たとえば、こうです」
軍医は読み上げた。
「“今回の港湾照会線はよく整理されている。黒豹影務部門の判断材料として十分だ。次もこの精度で出せ”」
ジィッドは頷く。
「それなら言える」
「次に、存在評価は、個人所有に見えないように言ってください」
「個人所有」
「“俺にはお前が必要だ”は危険です。“黒豹影務部門には、現在の君の能力が必要だ”に変換してください」
「俺を抜くんですね」
「はい。大将個人ではなく、黒豹、総督府、軍政圏という複数の受け皿へ分散します」
ニナリスが同席していれば、きっと頷いただろうとジィッドは思った。
「では、“手放すには惜しい”は?」
「まだ言わない方がいいです」
「いつかは言う必要があると思っています」
「その場合は、こう変換します」
軍医は少し考え、書いた。
/*/
君を後方へ退ける案も検討した。
だが、現在の黒豹影務部門を維持する上で、君の実務能力は大きい。
だからこそ、君自身を壊す運用は認めない。
任務を続けるために、休養、相談、境界規定を守れ。
/*/
ジィッドはその文を見つめた。
「……なるほど」
「“惜しいから手元に置く”ではありません。“能力が大きいから、壊れない運用をする”です」
「かなり違いますね」
「彼女には、その違いが命綱になります」
ジィッドは、深く息を吐いた。
「俺が言いたかったことに近いのに、毒が抜けてる」
「完全には抜けません」
軍医は静かに言った。
「大将の口から出る時点で、彼女にとっては刺激です。ですから、最初は私かニナリス様、あるいはゲンロウ殿の同席が望ましい」
「一対一で言うな、と」
「言わないでください。特に夜は駄目です」
「夜は駄目」
「夜間、私室、個別、感情語。この四つが揃うと危険です」
ジィッドは頭を抱えた。
「恋愛小説なら盛り上がる条件なのに」
「治療現場では事故条件です」
「言葉で殴るな」
/*/ 死者の扱い /*/
ジィッドは、少し沈黙してから言った。
「シズナは、トモエ姐さんとアーリィに勝てないと思っている」
「はい」
「思い出には勝てない」
「はい」
「そこは、どう言えばいい」
軍医は、少しだけ表情を和らげた。
「死者を否定しないことです」
「否定はしません」
「ですが、死者をシズナさん個人の比較対象に置いたままにしない」
ジィッドは眉を寄せる。
「黒豹全体の記憶にする?」
「そうです」
軍医は頷いた。
「“トモエ団長もブラスト副団長も凄かった。だが、今の黒豹を動かしているのは生きている者たちだ”という形にしてください」
「前に近いことは言いました」
「良い方向です」
「では、こうか」
ジィッドは考えながら言った。
「トモエ姐さんとアーリィは、黒豹の北極星みたいなものだ。だが、星は手元の帳簿を処理してくれない。今の港湾防諜線を縫っているのはお前だ」
軍医は少しだけ目を細めた。
「悪くありません。ただし、“北極星”は少し詩的すぎます。彼女が過剰に抱え込む可能性があります」
「そこまでか」
「はい」
「なら、硬くする」
ジィッドは言い直した。
「トモエ団長とブラスト副団長は黒豹の記録に残る。だが、現在の黒豹影務部門を維持しているのは、君と君の班だ」
軍医は頷いた。
「それでいいです」
「硬い」
「硬くていいんです」
/*/ 身体への言及 /*/
ジィッドは、少し気まずそうに口を開いた。
「もう一つ」
「はい」
「シズナは、自分の肉体をかなり嫌悪している。女としても、影としても、見苦しいと言う」
「はい」
「そこを肯定するのは?」
「今は避けてください」
即答だった。
「やっぱりか」
「肉体的魅力への肯定は、現時点では恋愛的・性的受容として受け取られる可能性が高いです」
「では、外見を褒めるのは全部禁止?」
「完全禁止ではありません。ただし、当面は“整っている”“礼装として問題ない”“公的場面に適している”程度に留めてください」
「似合っている、は?」
「状況次第です。一対一の私信では高刺激。公的準備でニナリス様同席なら許容範囲」
ジィッドは顔をしかめた。
「褒め言葉に戦闘規定みたいな条件が付く」
「付けてください」
「分かりました」
軍医はさらに続けた。
「ただし、身体嫌悪に対しては、こう言えます」
「何と?」
「“君の身体は任務の道具ではない。誰かに差し出す代金でもない。休ませ、食わせ、怪我を治すべき君自身のものだ”」
ジィッドは黙った。
しばらくして、低く言った。
「それは言います」
「はい」
「それは必要だ」
/*/ 実際の言葉 /*/
軍医は最後に、ジィッド用の短い文案を作った。
シズナ。
君の黒豹影務部門での実務能力は高い。
現在の港湾防諜線、内部緘口令、密輸照会は、君の判断を前提に維持されている。
だからこそ、君自身を壊す運用は認めない。
深夜私信、私物回収、自己否定、嫉妬による監視は、任務能力を損なう。
君はトモエ団長やブラスト副団長の代替ではない。
現在の黒豹影務部門を維持する者として、君の仕事を評価する。
その評価は、恋愛の返答ではない。
だが、君を不要だとは判断していない。
任務を続けたいなら、規定を守り、飯を食い、眠り、相談線を使え。
ジィッドはそれを読んで、しばらく黙っていた。
「……軍医殿」
「はい」
「これ、俺が言うと、最後だけ口調が硬すぎる」
「では、大将の言葉に直してください。ただし意味は変えないでください」
ジィッドは紙を見ながら、言い換えた。
「シズナ。お前の仕事は使える。黒豹の港湾防諜も、緘口令も、密輸照会も、お前とお前の班の判断で回っている」
軍医は頷く。
「はい」
「だからこそ、お前を壊す使い方はしない。夜中の長文、私物回収、自己否定、嫉妬で周りを睨むこと。あれは任務を壊す。お前も壊す。だから禁止だ」
「はい」
「トモエ姐さんやアーリィの代わりになれとは言わない。今の黒豹を回しているシズナの仕事を評価する」
「良いです」
「これは恋愛の返事じゃない。だが、お前を不要だとは思っていない。任務を続けるなら、規定を守れ。飯を食え。寝ろ。苦しくなったら俺に直通する前に、ニナリスかゲンロウか医師を使え」
軍医は少しだけ満足そうに頷いた。
「それでいきましょう」
「本当に大丈夫ですか」
「大丈夫ではありません」
「おい」
「危険はあります。ですが、何も言わない危険の方が大きい。今の文なら、肯定を任務評価として渡し、境界も同時に示せます」
ジィッドは紙を折った。
「医師立ち会いで?」
「初回は私が同席します。ニナリス様、ゲンロウ殿も可能なら」
「シズナは嫌がるかもしれない」
「嫌がっても構いません。これは密会ではなく、安全管理です」
ジィッドは苦笑した。
「恋愛の返事じゃなく、安全管理か」
「今はそうです」
「いつか、恋愛の返事になる日が来ると思いますか」
軍医は少しだけ間を置いた。
「来るかもしれません」
ジィッドは顔を上げた。
「ただし、それはシズナさんが、大将の言葉なしでも呼吸できるようになってからです」
「……でしょうね」
「今は、大将の言葉が酸素になりすぎています。まずは、自分の肺で呼吸できるようにしなければ」
ジィッドは深く息を吐いた。
「面倒ですね」
「人間ですので」
「その言葉は強いな」
軍医はカルテを閉じた。
「大将。最後に一つ」
「何でしょう」
「彼女を救おうとしすぎないでください」
ジィッドは黙った。
「大将一人が救いになると、結局同じです。大将は線を引く人であって、彼女の全世界になってはいけません」
「分かっています」
「分かっていても、情で踏み込みます」
「……否定しにくい」
「だから、ニナリス様とゲンロウ殿を同席させてください」
ジィッドは折った紙を懐に入れた。
「分かりました」
/*/ 面談室を出て /*/
廊下に出ると、ニナリスが待っていた。
「マスター」
「ああ」
「処方は」
「褒め言葉にも処方が要るらしい」
「妥当です」
「妥当なのか」
「はい」
ジィッドは懐の紙を軽く叩いた。
「言葉を硬くする。評価を任務に結びつける。身体は褒めない。死者は否定しないが、比較対象にしない。一対一で夜に言わない」
「適切です」
「恋愛じゃないな」
「現在は安全管理です」
「冷蔵庫も軍務。シズナの褒め言葉も安全管理。俺はどこへ向かっているんだ」
「軍政です」
「便利な言葉で殴るな」
ニナリスは静かに首を傾けた。
「ですが、マスターはシズナ様を不要とは判断していません」
「していない」
「それを伝える必要があります」
「ああ」
「ただし、壊さない形で」
「分かっている」
ジィッドはノウラン基地の窓の外を見た。
夕方の光が、港湾倉庫の屋根を鈍く照らしている。
船は動く。
灯は点く。
飯は作られる。
人もまた、壊さず動かすには線がいる。
ジィッドは低く呟いた。
「褒め言葉ひとつで軍医に相談か」
ニナリスが答える。
「はい」
「記録するなよ」
「既に医療記録として格納済みです」
「記録はいつも残酷だな」