/*/ 星団暦3071年 総督府執務棟 医療面談室 /*/
部屋は、執務室ではなかった。
黒豹再編室でもない。
医療区画に隣接した、小さな面談室。
机は丸く、椅子は五つ。
壁には武器も、軍旗も、作戦図もない。
それだけで、シズナは少し落ち着かなかった。
ヨシワラ・シズナは、膝の上で指を重ねて座っていた。
黒豹影務部門暫定統括としての姿勢は保っている。
だが、視線はわずかに揺れている。
部屋には、ジィッド・マトリア大将。
ニナリス。
カラスマ・ゲンロウ。
そしてハルマ・レイ軍医中佐。
全員がいる。
一対一ではない。
それが、今のシズナにとっては、少し怖く、少しだけ救いでもあった。
ジィッドは、軍医から受け取った紙を一度だけ見た。
それから、紙を伏せた。
「シズナ」
「はい」
「これは恋愛の返事じゃない」
最初にそう言った。
シズナの肩が、ほんの少しだけ沈む。
ジィッドはそれを見たが、続けた。
「だが、お前を不要だと言う話でもない」
シズナの指が止まった。
ハルマ軍医が静かに頷く。
ジィッドは、ゆっくり言葉を選んだ。
「シズナ。お前の仕事は使える。黒豹の港湾防諜も、緘口令も、密輸照会も、お前とお前の班の判断で回っている」
シズナは、顔を上げなかった。
ただ、呼吸だけが浅くなる。
ハルマ軍医が、横から穏やかに言った。
「はい。今の言葉は、任務評価です。大将閣下個人の所有や情愛の表明ではありません。まず、そこを分けて聞いてください」
「……はい」
ジィッドは続けた。
「だからこそ、お前を壊す使い方はしない。夜中の長文、私物回収、自己否定、嫉妬で周りを睨むこと。あれは任務を壊す。お前も壊す。だから禁止だ」
シズナの喉が小さく鳴った。
「はい」
「トモエ姐さんやアーリィの代わりになれとは言わない」
その名が出た瞬間、シズナの目の奥が揺れた。
だが、ジィッドは逃げなかった。
「今の黒豹を回している、シズナの仕事を評価する」
ハルマ軍医がまた頷いた。
「良いです。シズナさん。これは死者との比較ではありません。現在のあなたの働きへの評価です」
シズナは、ようやく小さく顔を上げた。
「現在の、私の」
「そうだ」
ジィッドは短く答えた。
「これは恋愛の返事じゃない。だが、お前を不要だとは思っていない。任務を続けるなら、規定を守れ。飯を食え。寝ろ。苦しくなったら俺に直通する前に、ニナリスかゲンロウか軍医を使え」
シズナは唇を噛んだ。
「大将に、直接ではなく」
「ああ」
「それは、拒絶ではなく」
「線だ」
ジィッドは言った。
「お前を壊さないための線だ」
沈黙が落ちた。
シズナは、その言葉を何度も飲み込むように黙っていた。
線。
拒絶ではない。
受容でもない。
けれど、消されないための境界。
ジィッドは立ち上がった。
「俺がいると、これ以上は刺激が強い」
ラドがいれば変な顔をしただろう。
ノエルがいれば苦笑しただろう。
だが、この場の誰も笑わなかった。
ハルマ軍医が頷く。
「はい。ここから先は、こちらで引き受けます」
ジィッドはシズナを見た。
「次の報告書、通常通り出せ」
「……はい」
「精度は落とすな」
「はい」
「それと、昼は食え」
シズナは、一瞬だけ目を見開いた。
それから、かすかに頷いた。
「はい、大将」
ジィッドはそれ以上言わなかった。
言えば、余計な言葉になる。
だから退室した。
扉が閉じる。
その音が、シズナの胸に小さく響いた。
/*/ 同 医療面談室 /*/
ジィッドが退室した後、部屋の空気が少し変わった。
張り詰めた糸が一本緩む。
だが、切れてはいない。
シズナは扉を見つめたままだった。
ハルマ軍医が、穏やかな声で言った。
「シズナさん」
「はい」
「大将閣下は、本当はあなたのことを思えば、一度後方に送って静養してもらうのがよいのではないか、と考えていました」
シズナの顔色が、さっと変わる。
「後方に」
「ええ」
ハルマ軍医は慌てなかった。
「ですが、それをすれば、あなたは“不要と判断された”と受け取る可能性が高い。大将閣下はそこを心配していました」
シズナの指が震える。
「私は、不要では」
「ありません」
軍医は、はっきり言った。
「軍務上、あなたの仕事が急になくなるのは困る。替えが効かない部分がある。だから大将閣下は、あなたをただ処分したり、遠ざけたりするのではなく、カウンセリングの機会を作ってくださいました」
シズナは、何かを言おうとして失敗した。
ハルマ軍医は続ける。
「ただし、それは“無理をして働け”という意味ではありません。あなたが壊れれば、仕事も壊れます。だから治療と支援を入れるのです」
「治療」
「はい。苦しくて辛い時は、私のところへ来てください。夜でも構いません。長文でも構いません。ただし、大将閣下へ直接投げる前に、まずこちらへ」
シズナは俯いた。
「軍医殿へ、そのようなものを送っても」
「仕事です」
ハルマ軍医は少しだけ笑った。
「それに、あなたの苦しさは危険物ではありません。扱い方を間違えると危険になるだけです」
ニナリスが静かに言った。
「本当です。マスターはシズナ様の仕事を高く評価しています」
シズナがニナリスを見る。
ニナリスの顔はいつも通り無表情だった。
だからこそ、その言葉は妙に重かった。
「マスターは、シズナ様の報告書、港湾防諜、密輸照会、黒豹内部の緘口令維持を高く評価しています。先ほどの言葉は、軍医中佐と相談して選ばれたものです」
「相談して」
「はい。マスターは、シズナ様を不用意に傷つけないため、また不用意に依存を強めないため、軍医中佐に相談しました」
シズナの目が、少しだけ濡れた。
「私のために」
ニナリスは一拍置いた。
「シズナ様のためでもあり、黒豹のためでもあり、マスター自身が線を間違えないためでもあります」
「……はい」
「ですが、そこにシズナ様を軽んじる意図はありません」
ゲンロウが、低く言った。
「シズナ」
「はい、ゲンロウ殿」
「黒豹を縫い留めているのは、お前の力あってだ」
シズナは息を止めた。
「トモエ団長の代わりではない。ブラスト副団長の代わりでもない。お前はお前のやり方で、黒豹の影を縫っている」
「私は……まだ、あの二人に」
「勝たなくていい」
ゲンロウは即答した。
「死者と勝負するな。勝てん。俺も勝てん。大将も勝てん」
シズナの顔が歪む。
「では、私はどうすれば」
「生きて仕事をしろ」
ゲンロウの声は重い。
「飯を食え。眠れ。苦しければ、俺でも女衆にでも打ち明けろ。黒豹の影が、黒豹の中で孤立するな」
シズナは震える声で言った。
「私は、迷惑ではありませんか」
「迷惑だ」
ゲンロウは言った。
シズナの肩が跳ねた。
だが、ゲンロウは続けた。
「仲間とは、迷惑を持ち込むものだ。倒れれば運ぶ。血を流せば縛る。狂いそうなら押さえる。それを迷惑だから捨てるなら、最初から騎士団など名乗らん」
シズナは、何も言えなくなった。
「俺たちは仲間だろう」
その一言で、シズナの目から涙が落ちた。
今度は、自分を罰するための涙ではなかった。
何かが、少しだけ緩んだ涙だった。
ハルマ軍医は、そっと布を差し出した。
「泣いて構いません。ただし、泣いた後は水を飲みます」
「はい」
「それから、今日の夕食は?」
シズナは布を受け取りながら、かすかに首を振った。
「まだ」
ニナリスが即座に言う。
「黒豹女衆との夕食を設定済みです。ゲンロウ殿が同行します」
ゲンロウが頷く。
「逃げるな」
「……逃げません」
「食え」
「食べます」
ハルマ軍医が記録する。
「本日の面談後行動、食事、休養、夜間直通私信禁止。苦痛時は医療区画連絡」
「はい」
シズナは布で目元を押さえた。
その姿は、黒豹の影務統括というにはあまりにも脆かった。
だが、誰も彼女を外へ追いやらなかった。
ジィッドは退室した。
それでよかった。
彼が残っていれば、シズナはまた彼の視線だけを探してしまう。
彼が退室した後に、軍医が受け止める。
ニナリスが事実を渡す。
ゲンロウが黒豹の仲間として縫い留める。
それが、今のシズナに必要な支点だった。
/*/ 同日夜 黒豹食堂 小部屋 /*/
夕食は、黒豹の女衆二人と、ゲンロウと一緒だった。
豪華なものではない。
粥。
焼き魚。
温かい汁。
小さな漬物。
シズナは、最初、箸を持ったまま止まっていた。
女衆の一人が言った。
「まず三口」
「三口、ですか」
「そう。三口食べたら、今日は勝ち」
シズナは少しだけ困った顔をした。
「勝ち」
ゲンロウが低く言う。
「大将も、飯を食えと言った」
その言葉で、シズナは箸を動かした。
一口。
二口。
三口。
温かい汁を飲む。
胃が驚いたように動いた。
涙がまた出そうになった。
だが、今度は泣かなかった。
女衆が小さく笑う。
「勝ち」
シズナは、少しだけ笑った。
「はい」
その夜、シズナはジィッドへ私信を送らなかった。
かわりに、医療区画へ短い報告を送った。
/*/
食事、三口以上。
夕食完了。
夜間追加私信なし。
苦痛はありますが、行動化していません。
/*/
ハルマ軍医はそれを読み、返信した。
/*/
良好です。
水を飲んで、眠る準備をしてください。
明日、十分でよいので面談します。
/*/
シズナは、その返信を見て、端末を伏せた。
ジィッドからの返事ではない。
だが、返事だった。
世界が、ジィッド一人ではなくなる。
それは小さなことだった。
だが、今のシズナには、小さなことからしか始められなかった。