/*/ 星団暦3071年 民政局別棟 合同朝食会 /*/
朝食会、という名前がついていた。
だが、ヨシワラ・シズナにとっては訓練だった。
休日や朝に一人で沈まないための予定。
黒豹の影務から離れすぎず、かといって任務だけに閉じこもらないための、軍医とニナリスとゲンロウが決めた新しい線。
民政局職員。
黒豹の女衆。
保育所の職員。
孤児院の世話役。
難民登録所から回された子供たち。
そして、黒豹影務部門暫定統括、ヨシワラ・シズナ。
食堂には、焼いたパンと薄いスープ、乳製品組合から回された柔らかいチーズ、少量の果物が並んでいた。
民政局の若い職員が、明るい声で言う。
「今日は孤児院の子たちも一緒です。みんな、ちゃんと食べてね」
子供たちは頷いた。
行儀が良かった。
良すぎた。
シズナは、パンを手に取ったまま、その動きを見ていた。
一人の少年が、配給されたパンをすぐには食べなかった。
皿の上に置く。
職員が目を離した瞬間、袖口へ滑り込ませる。
見事な手つきだった。
盗み慣れている、というより、隠し慣れている。
別の少女は、甘い匂いのする粉薬を混ぜた牛乳を前にして、顔を強張らせていた。
民政局職員は優しく言う。
「大丈夫よ。栄養剤だから」
少女は笑った。
作った笑顔だった。
飲まなければならない相手の前で、飲んでいるふりをする笑顔。
シズナは、その笑顔を知っていた。
黒豹の訓練生が、叱られないために作る顔。
敵地で捕まった者が、殴られないために作る顔。
自分が、昔、作っていた顔。
黒豹女衆の一人が、シズナの横に座って小声で言った。
「食べてください。三口」
「分かっています」
シズナはパンを小さく千切った。
一口。
二口。
三口。
規定通り。
それから、皿を見下ろしたまま、目だけを動かした。
孤児院の世話役が、台帳を民政局職員へ渡している。
「寝具の追加申請です。冬前に少し足りなくなっておりまして」
民政局職員が苦笑する。
「またですか。先月も二十組出しましたよ」
「子供が増えていますから」
「食器も?」
「割れますので」
言葉は普通だった。
だが、数が合わない。
シズナの頭の中で、朝食会の席数、孤児院の登録児童数、寝具の申請数、食器の破損報告が並ぶ。
増えすぎている。
消えているものがある。
あるいは、記録にない子供がいる。
または、記録にある子供が、もういない。
シズナは、チーズに手を伸ばした。
食べるためではない。
指先を動かし、袖の内側に仕込んだ小型端末へ触れるためだった。
だが、送信はしない。
ジィッドへは送らない。
規定。
まず、観察。
次に、ゲンロウ。
それから、ニナリス。
自分一人で抱えない。
シズナは呼吸を整えた。
民政局の倉庫係が、別の職員に小さな声で話している。
「医療用鎮静剤の在庫、数字が合わないんですよ」
「また帳簿の付け漏れ?」
「だといいんですけど。孤児院向けの支給分だけ、戻りが妙で」
シズナの指が止まった。
鎮静剤。
甘い匂いのする粉薬。
牛乳を怖がる少女。
パンを袖へ隠す少年。
数が合わない寝具と食器。
孤児院の台帳。
民政局倉庫のズレ。
線が見えた。
細く、汚く、生活の泥の中に沈められた線。
ニナリスなら、帳簿の異常は拾う。
民政局の倉庫番号と医療物資の配給記録、孤児院の申請量、黒豹の裏社会監視線。
それらを照合すれば、いつか数字は引っかかる。
だが、子供がパンを袖へ隠す手つきは、帳簿には出ない。
薬を前にして、良い子の顔を作る目は、数字にならない。
怯えを隠すために背筋を伸ばす子供の肩は、書類に残らない。
同じ生身で、同じような泥を知っている者にしか見えないものがある。
民政局職員が明るく言った。
「シズナさん、どうしました? 顔色が」
シズナは答えなかった。
向かいの少年と目が合った。
少年はすぐに笑った。
行儀よく。
大人に迷惑をかけないように。
何も起きていないように。
その笑顔を見た瞬間、シズナの胸の奥で、何かが冷たく沈んだ。
「……あの子たち」
声は小さかった。
だが、黒豹女衆が反応した。
「どうしました」
シズナは、少年から目を逸らさないまま言った。
「あの子たち、怯え方が黒豹の訓練生と同じです」
食堂の空気が変わった。
民政局職員の笑顔が止まる。
黒豹女衆の目が細くなる。
孤児院の世話役が、ほんの一瞬だけ、台帳を持つ手に力を入れた。
それを、シズナは見た。
確信ではない。
まだ断定ではない。
だが、線は見えた。
シズナは静かに立ち上がった。
「失礼します。食事は三口済ませました」
黒豹女衆が頷く。
「規定達成」
「はい」
シズナは端末を開いた。
送信先は、ジィッドではない。
ゲンロウ。
文面は短い。
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民政局朝食会にて違和感。
孤児院児童の行動、医療用鎮静剤在庫、寝具・食器台帳にズレ。
私情ではなく、黒豹第三線で確認願います。
子供の怯え方が訓練生に酷似。
/*/
送信。
すぐに返信が来た。
/*/
受けた。
動くな。
ニナリスへ回せ。
民政局職員を刺激するな。
帳簿を押さえる前に相手を走らせるな。
/*/
シズナは小さく息を吐いた。
動くな。
以前なら、もう動いていた。
地下へ潜る準備をし、誰にも言わず、ひとりで線を追っていた。
今は違う。
線を使う。
支点を使う。
自分だけで抱えない。
シズナはニナリスへ同じ報告を回した。
数秒後、ニナリスから返信が来る。
/*/
民政局倉庫記録、孤児院台帳、医療鎮静剤支給記録、ボルサ便経由の薬剤流通を照合します。
シズナ様は現場観察を継続。
子供との直接接触は黒豹女衆同席で行ってください。
/*/
シズナは端末を伏せた。
食堂では、まだ朝食が続いている。
子供たちは食べている。
笑っている。
良い子の顔で。
シズナは、その中の一人が袖に隠したパンを、指先で押さえているのを見た。
奪われないように。
あとで誰かに渡すために。
あるいは、食べられない誰かのために。
シズナは、自分の胸に手を当てた。
ジィッドへの長文を打ちたい衝動はなかった。
褒めてほしい、という気持ちはある。
見てほしい、という気持ちもある。
だが、それより先に、目の前の子供たちがいた。
泥の中に沈んだ線がある。
それを拾うのは、黒豹の仕事だ。
そして今、その線を見つけたのは自分だった。
シズナは、民政局職員へ静かに言った。
「本日の朝食会、児童ごとの着席表をいただけますか」
「着席表、ですか?」
「はい。食物アレルギーと薬剤配布確認の照合に使います」
嘘ではない。
全部ではないだけだ。
職員は少し戸惑いながら頷いた。
「分かりました」
孤児院の世話役が、こちらを見る。
シズナは微笑んだ。
黒豹の笑みではない。
民政局の朝食会にいる、少し無口な若い女の笑み。
だが、その目だけはもう、影に戻っていた。
食堂の窓から、朝のノウランが見える。
街は動いている。
子供たちは笑っている。
その笑いの裏で、何かが腐っている。
シズナは、端末に短く記録した。
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黒豹第三線。
ノウラン孤児院周辺、泥の中に異常あり。
確認を開始する。
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その瞬間から、朝食会はただの食事ではなくなった。
ノウラン孤児院・密輸潜入作戦の最初の線が、静かに引かれた。