/*/ 星団暦3071年 市街 支援物資倉庫地下 /*/
地下への入口は、穀物袋の裏にあった。
表向きは、孤児院向けの支援物資倉庫。
古い保存食の木箱。
擦り切れた毛布。
割れた食器を詰めた籠。
民政局の検印。
孤児院の受領印。
どれも、ただの復興都市の物資管理に見える。
だが、シズナには見えていた。
木箱の積み方が綺麗すぎる。
埃の積もり方が、入口の前だけ薄い。
床板の釘が、一本だけ新しい。
倉庫番の男が、黒豹女衆の視線を怖がっていない。
怖がっていない者ほど、危ない。
シズナは膝をつき、床板の隙間へ細い刃を差し込んだ。
音はほとんどしない。
黒豹の女衆が、背後で灯りを隠す。
鉄の取っ手が現れた。
地下への扉。
湿った空気が、隙間から上がってきた。
薬品。
腐った布。
古い血。
子供の汗。
シズナは、その匂いを知っていた。
記憶の奥で、誰かが泣いた。
だが、今は泣く時間ではない。
「黒豹第三線、地下入口を確認」
シズナは低く通信した。
耳元でゲンロウの声が返る。
「突入判断は」
「児童反応あり。すすり泣きが聞こえます」
「生存者優先。敵の数は」
「不明。足音、最低四。奥に鉄扉。薬品箱あり」
「単独で深く入るな」
「承知」
嘘ではない。
だが、子供の泣き声は、奥へ奥へと続いていた。
シズナは扉を開けた。
暗い。
湿っている。
臭い。
階段は狭く、壁は水を吸って黒ずんでいる。
華やかな騎士戦ではない。
GTMの咆哮もない。
剣の名誉もない。
あるのは、腐った木箱、薬品臭、鼠の気配、すすり泣く子供、鉄扉、汚れた毛布。
シズナは、黒豹の短刀を抜いた。
刃は長くない。
狭い地下で振るうには、それでいい。
一歩。
二歩。
三歩。
足元の泥水が、靴底で小さく鳴る。
音を殺す。
呼吸を殺す。
感情を殺す。
だが、奥の泣き声だけは殺せない。
壁際に、汚れた毛布が積まれていた。
その隙間から、小さな目がこちらを見ている。
子供。
シズナは刃を下げた。
「黒豹です」
声は、できるだけ低く、静かにした。
「助けに来ました。声を出さないで」
子供は震えたまま、頷かない。
頷くことすら、誰かに許可されなければできない顔だった。
シズナの胸が痛んだ。
その顔を知っている。
トモエ団長に拾われる前の自分。
アーリィ姉様の背中を見る前の自分。
何者でもなく、ただ震えていた小さな影。
あの頃の自分は、助けに来た者を信じることさえできなかった。
信じた瞬間、また奪われるかもしれないから。
シズナは、少しだけ膝をついた。
「大丈夫。今は信じなくていいです。動かなくていい。私が合図したら、黒い服の女の人たちについて行って」
子供の目が揺れた。
その時、奥の通路で靴音がした。
「誰だ」
男の声。
シズナは立ち上がった。
子供の前に身体を置く。
男が灯りを掲げて現れた。
倉庫番ではない。
腕が太い。
腰に短銃。
左手に鍵束。
後ろにもう一人。
さらに奥、鉄扉の前に二人。
最低四。
報告通り。
男がシズナを見て、笑いかけた瞬間、その笑いが止まった。
黒豹の目を見たからだ。
「侵入――」
声は最後まで出なかった。
シズナの短刀が、喉ではなく、口元を塞ぐ手と同時に男の腕を裂いた。
叫ばせない。
殺すより先に、音を殺す。
もう一人が短銃を抜く。
シズナは踏み込んだ。
泥水が跳ねる。
肘が肋骨に入る。
短銃の銃口が天井へ逸れる。
発砲。
地下に轟音が跳ねた。
子供が悲鳴を上げかける。
黒豹女衆が飛び込む。
「児童保護!」
「入口確保!」
「奥、鉄扉!」
通信が走る。
作戦は、静かな潜入から、泥臭い制圧へ変わった。
シズナは二人目を壁に叩きつけた。
完璧ではない。
肩を打つ。
息が詰まる。
敵の膝が腹に入る。
苦いものが喉に上がる。
それでも刃を離さない。
トモエ団長なら、もっと鮮やかにやった。
アーリィ姉様なら、傷一つ負わなかった。
そんな思いが、反射の隙間に差し込む。
私は、泥の中で息を切らしている。
私は、美しくない。
私は、遅い。
私は、完璧ではない。
奥の鉄扉の向こうで、子供が泣いた。
小さな声だった。
それでも、地下全体を裂くように聞こえた。
シズナは歯を食いしばった。
完璧な死者ならどうしたか。
そんなことは、もうどうでもよかった。
この泥の中にしか、子供たちはいない。
「第三線、奥へ進みます」
ゲンロウの声が飛ぶ。
「待て。支援を――」
「児童移動音あり。今、動かされます」
一拍。
「行け。ただし、生きて戻れ」
「はい」
シズナは走った。
狭い通路。
腐った木箱。
倒れた薬品棚。
甘い匂いの粉が床に散っている。
吸わないよう袖で口元を覆う。
鉄扉の前の男が、子供の腕を掴んでいた。
幼い少女。
朝食会で、牛乳を怖がっていた子。
男は少女を盾にした。
「来るな!」
シズナは止まった。
短刀を下げる。
男の目は走っている。
薬か、恐怖か、あるいは両方。
少女は泣いていなかった。
泣いたら怒られることを知っている顔だった。
それが、シズナの中の何かを静かに焼いた。
「その子を離してください」
「黙れ! こいつらは商品だ。上が買ってる。軍も民政も分かってて――」
「嘘ですね」
シズナは静かに言った。
「民政局全体は噛んでいない。噛んでいるのは倉庫線と孤児院の一部。あなたは運び屋。帳簿を作っている者は別にいる」
男の目が揺れた。
その瞬間、少女がシズナを見た。
助けて。
声にはならない。
だが、目が言った。
シズナは、短刀を床へ落とした。
金属音。
男の注意が、一瞬だけ刃へ落ちる。
その一瞬で、黒豹女衆の投げた細い針が男の手首に刺さった。
握力が抜ける。
少女が前へ倒れる。
シズナは踏み込んだ。
敵ではなく、少女へ。
男の肘がシズナの頬を打つ。
歯が唇を切る。
血の味。
だが、少女の身体を抱きとめた。
柔らかい。
軽い。
熱い。
人間の子供の体温。
シズナはそのまま身体を丸めた。
背中に蹴りが入る。
肩に刃が掠める。
痛い。
生身だから痛い。
肉があるから切れる。
骨があるから軋む。
血があるから流れる。
その身体で、少女を抱え込む。
「大丈夫」
シズナは言った。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
「私がここにいます」
少女が、初めて泣いた。
声を押し殺すような泣き方だった。
シズナは、抱く力を少しだけ強めた。
「もう、誰もあなたたちを捨てません」
その言葉は、地下倉庫の湿った空気に落ちた。
そして、過去のどこかへも落ちた。
トモエに拾われる前の自分。
アーリィの背中を見る前の自分。
何者でもなく、ただ震えていた小さな影。
あの時、誰かに言ってほしかった言葉。
それを今、シズナ自身の口が言っていた。
黒豹女衆が男を制圧する。
奥の鉄扉が開けられる。
中には、子供がいた。
一人ではない。
汚れた毛布。
木箱。
薬品の甘い匂い。
袖にパンを隠した少年もいた。
彼はシズナを見て、今度は笑わなかった。
良い子の顔を作らなかった。
ただ、震えた声で言った。
「本当に……帰れる?」
シズナは少女を抱いたまま、頷いた。
「帰れます」
「また、別のところに売られない?」
言葉が、刃のように胸に刺さった。
シズナは、ゆっくり首を振った。
「売らせません」
少年はまだ疑っている。
当然だ。
信じろと言われて、信じられるものではない。
だから、シズナは言葉を変えた。
「今は信じなくていいです。私たちが、あなたたちを外へ出します。信じるかどうかは、その後で決めてください」
少年は、少しだけ目を見開いた。
その言い方なら、受け取れたのだろう。
黒豹女衆が子供たちを一人ずつ誘導する。
医療班への連絡。
憲兵待機線。
民政局保護班。
外の世界へつながる線が、次々と動き始める。
シズナは立ち上がろうとして、膝が崩れた。
少女がしがみつく。
「お姉さん?」
「大丈夫です」
大丈夫ではなかった。
肩が痛い。
唇が切れている。
背中が痺れる。
だが、腕の中の少女は生きている。
奥の子供たちも生きている。
完璧ではない。
鮮やかでもない。
傷だらけで、泥だらけで、息も切れている。
それでも、ここに来た。
死者ではなく、生きている自分が。
ゲンロウの声が通信に入る。
「シズナ。状況」
シズナは、少しだけ息を整えた。
「児童、複数名保護。敵、制圧中。薬物箱確認。人身売買線、確定」
「負傷は」
「軽傷です」
黒豹女衆が横から言った。
「嘘です。肩と背中、出血あり」
ゲンロウの声が重くなる。
「医療班を入れる。動くな」
「まだ奥が」
「動くな。これは命令だ」
シズナは、動こうとした足を止めた。
命令。
線。
支点。
一人で全部抱えない。
「……承知しました」
少女が、シズナの服を握っていた。
シズナはその手を、そっと包んだ。
自分の手は、泥と血で汚れている。
綺麗ではない。
だが、温かい。
少女の手も温かい。
その温かさが、シズナの胸の空洞へ、ゆっくり染み込んでいく。
トモエ団長なら。
アーリィ姉様なら。
そんな声は、まだ消えない。
だが、その声より少しだけ強く、腕の中の少女の呼吸が聞こえた。
この子は、生きている。
私が、抱いている。
シズナは初めて、泥の中で深く息を吸った。