/*/ 星団暦3071年 医療区画 作戦後三日目 /*/
シズナは、医療区画の窓辺に座っていた。
肩にはまだ包帯がある。
背中の打撲も、息を深く吸うたびに鈍く痛む。
唇の端の傷は塞がりかけていたが、まだ少し引きつった。
完璧ではない。
綺麗でもない。
生身の身体は、傷つけば痛む。
泥に沈めば汚れる。
血が出れば、拭わなければならない。
以前のシズナなら、その身体を嫌った。
柔らかく、弱く、邪魔で、見苦しいものだと思った。
トモエ団長なら、もっと鮮やかに敵を斬った。
アーリィ姉様なら、もっと速く、もっと美しく、傷ひとつ負わずに子供たちを救った。
そんな声は、まだ消えていない。
だが、その声だけではなくなっていた。
腕の中に残っている。
あの少女の体温が。
泥水の中で震えていた小さな手が。
「本当に帰れるの」と聞いた少年の声が。
シズナは、膝の上の紙を見た。
総督府公式記録の写し。
黒豹影務部門、ヨシワラ・シズナ。
ノウラン孤児院密輸線摘発、子供十七名保護、違法薬物五箱押収、人身売買線三本切断。
本件は、黒豹影務部門の判断と現場行動により成功した。
記録せよ。
名前は、表には出ない。
新聞にも載らない。
民政局の掲示にも出ない。
救われた子供たちの多くは、誰が自分たちを助けたのか、正確には知らない。
それでよかった。
黒豹とは、そういうものだ。
それなのに、シズナはその紙を、何度も読んでいた。
ジィッドの紙コップではない。
使い捨てのボトルでもない。
誰かの体温の残滓でも、口をつけた痕跡でもない。
自分が生きて、動いて、傷ついて、それでも守った結果が、そこに記録されていた。
長く苦しかった。
誰かに選ばれたくて、もがくように手を伸ばしていた。
答えが欲しかった。
ジィッドの胸の奥に、自分の価値を尋ねたかった。
でも、返ってきた答えは、甘い言葉ではなかった。
記録だった。
任務だった。
子供が生きたという事実だった。
扉が開いた。
ジィッド・マトリア大将が入ってきた。
ひとりではない。
ニナリスが後ろにいる。
ハルマ・レイ軍医もいる。
少し遅れて、カラスマ・ゲンロウも入ってきた。
一対一ではない。
だから、シズナは安心した。
少し寂しくもあった。
けれど、その寂しさに呑まれなかった。
「起きていたか」
ジィッドが言った。
「はい」
「寝ていろと言われてないのか」
ハルマ軍医が眼鏡の奥で目を細める。
「言いました」
シズナは小さく俯いた。
「申し訳ありません」
「謝罪より横になってください」
「はい」
シズナは寝台に戻ろうとした。
だが、その前に、膝の上の記録紙をそっと畳んだ。
ジィッドはそれを見た。
何も言わず、少しだけ頷いた。
「シズナ」
「はい」
「お前の仕事は報われにくい」
シズナの指が止まった。
「名前は出ない。勲章も似合わん。表に立って拍手を受ける仕事でもない」
ジィッドは、淡々と言った。
甘くはなかった。
だが、冷たくもなかった。
「だが、報われないわけじゃない」
シズナは顔を上げた。
「今日、子供が生きた」
部屋の空気が静かになる。
ニナリスも、ハルマ軍医も、ゲンロウも黙っていた。
ジィッドは続けた。
「それが黒豹の報酬だ」
シズナは、すぐには答えられなかった。
喉の奥が詰まる。
泣きそうになる。
だが、それは以前のような、自分を責める涙ではなかった。
欲しくて欲しくて、届かなくて、胸の奥を掻きむしるような涙でもなかった。
泥の中で伸ばした手が、確かに誰かの命に届いたのだと、遅れて身体が理解した涙だった。
「はい」
声が震えた。
それでも、言えた。
「名を出さずに、黒豹として残します」
ジィッドは短く頷いた。
「それでいい」
それだけだった。
抱擁はない。
甘い言葉もない。
恋人としての返答でもない。
けれど、シズナはその言葉を、以前のように飢えて飲み込まなかった。
胸の奥へ、ゆっくり置いた。
ジィッドの痕跡としてではなく。
黒豹の記録として。
自分の仕事が残した、命の証として。
ゲンロウが低く言う。
「孤児院の朝食会、しばらくは黒豹で見る」
シズナは頷いた。
「私が出ます」
ハルマ軍医が即座に言った。
「怪我が治ってからです」
「……はい」
ニナリスが端末を確認する。
「民政局台帳、孤児院支援物資、医療品配給記録は、今後黒豹第三線と定期照合します」
「私が見ます」
シズナは自然に言っていた。
ジィッドは眉を上げる。
「休んでからだ」
「はい。休んでから、見ます」
以前なら、彼女はこう言っただろう。
私は必要ですか。
私は見苦しくありませんか。
私を見てくださいますか。
だが今、口から出たのは違う言葉だった。
あの子たちの線は、私が見る。
孤児院の朝食会は、私が出る。
民政局の台帳は、黒豹で照会する。
ジィッドへの想いは、消えていない。
消えるはずもない。
けれど、その想いは彼の紙コップへ向かわなかった。
深夜の長文にもならなかった。
秘書への嫉妬にもならなかった。
作戦卓へ向かった。
台帳へ向かった。
子供たちの名簿へ向かった。
この人の軍政を支えるために、自分の場所で働く。
それは恋の終わりではない。
依存が、別の形へほどけ始めた音だった。
シズナは畳んだ記録紙を、枕元の小さな封筒に入れた。
かつてジィッドの痕跡を入れていた小箱ではない。
黒豹の記録保管用の封筒。
そこに、作戦記録の写しと、救われた子供から届いた短い礼状の写しを重ねる。
ハルマ軍医がそれを見て言った。
「保管しても構いません。ただし、聖遺物にしないこと」
シズナは少しだけ笑った。
「はい。これは、記録です」
ニナリスが静かに言う。
「良好です」
ジィッドは苦い顔をした。
「何でも判定するな」
「必要です」
「記録はいつも残酷だな」
シズナは、そのやり取りを聞いていた。
胸の奥の空洞は、まだ完全には埋まっていない。
トモエとアーリィの思い出も、まだ眩しい。
ジィッドへの好意も、まだ痛い。
だが、その痛みだけが自分の形ではなくなった。
泥の中から引き上げた子供の手。
公式記録に刻まれた任務。
黒豹として残すべき線。
それらが、少しずつ彼女の輪郭になっていく。
ジィッドは扉へ向かう前に、もう一度だけ振り返った。
「シズナ」
「はい」
「飯を食って、寝ろ。次の線を見るのは、その後だ」
シズナは、今度は迷わず頷いた。
「はい、大将」
その返事は、以前より少しだけ低く、落ち着いていた。
ジィッドはそれで十分だというように、部屋を出た。
扉が閉じる。
シズナは、枕元の封筒に手を置いた。
それは誰かの残り香ではない。
自分が生きて働いた証だった。
長い苦しさの果てに、ようやく胸に聞きたかった答えが、少しだけ形を持った。
私は、ここにいていい。
名を出さずに。
黒豹として。
生きている者として。