摂食障害
/*/ 星団暦3072年 総督府執務棟 休憩室 昼前 /*/
ヨシワラ・シズナは、かなり落ち着いてきていた。
完治、という言葉はまだ早い。
だが、深夜の長文私信は消えた。
ジィッドの紙コップも拾わない。
秘書課の女性職員とも、必要な書類の受け渡しなら普通に話せるようになっている。
孤児院の朝食会にも出る。
民政局の台帳も見る。
黒豹第三線の報告書は、以前よりさらに読みやすくなった。
何より、ラドやノエルと、仕事の合間に雑談ができるようになっていた。
それは大きな変化だった。
休憩室の卓には、軽食が置かれている。
パン。
スープ。
薄切り肉。
チーズ。
果物。
ノウラン乳製品組合の小さな焼き菓子。
ラドは自分の皿を見てから、向かいのシズナの皿を見た。
少ない。
明らかに少ない。
パンは半分。
スープも半分。
肉には手を付けていない。
ラドは眉を寄せた。
「シズナさん」
「はい」
「食事、また少ないですよ」
シズナは少しだけ目を伏せた。
「業務に支障はありません」
「支障が出る前に言ってるんです」
ラドは医療班も見ている。
戦傷、疲労、薬物中毒、栄養失調。
そういうものを見慣れている目だった。
「摂食障害っぽくなってます。ちゃんと食べた方がいいですよ。黒豹の影務って、頭も身体も使うんですから」
シズナは困ったように微笑んだ。
「努力します」
「その言い方、食べない人の言い方です」
ノエルが横から口を挟む。
「ラド。言い方」
「いや、だって本当にがりがりじゃないか」
ラドは遠慮がなかった。
だが、悪意はない。
シズナも、それは分かるようになっていた。
以前なら、この言葉ひとつで「見苦しい」と受け取って崩れていただろう。
今は、少し傷つく。
だが、崩れはしない。
「体重は、医療区画で管理されています」
「管理されてても食べなきゃ駄目です」
ラドはパンを指差した。
「せめて肉とスープは全部」
「ラド大佐」
「はい」
「私は、その……太ると、見苦しくなりませんか」
ノエルが目を閉じた。
踏み込んだ。
ラドも一瞬止まった。
だが、ラドはラドだった。
「見苦しくないです」
「そう、でしょうか」
「むしろ以前の写真の方が健康的でしたよ」
シズナの手が止まる。
「以前の、写真」
ノエルの顔色が変わった。
「ラド」
「いや、だから。あの時の自撮り写真、ジィッド団長――」
「おい」
ノエルが低く止めた。
だが、少し遅かった。
ラドは言ってしまった。
「男として、ぐっと来たって言ってましたよ。やれるならやりたいくらいには反応してたって」
休憩室が凍った。
ノエルがラドの襟首を掴んだ。
「お前、何を言ってるんだ」
「いや、だって、がりがりじゃないか! 食べないと戻らないだろ!」
「言い方があるだろ!」
「でも本当だろ!」
「本当を全部出すな!」
シズナは動かなかった。
視線を落とし、皿を見ている。
パン。
スープ。
薄切り肉。
チーズ。
焼き菓子。
その上に、ぽた、と涙が落ちた。
ノエルが慌てた。
「シズナさん、すみません。今のはラドが」
シズナは首を振った。
「違います」
声は震えていた。
だが、以前のように壊れる震えではなかった。
「違います。大丈夫です」
ラドも黙った。
シズナは両手で口元を押さえた。
「そうですか」
涙が落ちる。
「ジィッド様が……私を……見苦しくなかったんですね」
ノエルは言葉を失った。
ラドも、さすがに軽口を失った。
シズナは泣いていた。
だが、それは自己否定の涙ではなかった。
惨めさでもない。
羞恥と安堵と、長く胸に刺さっていた棘が少し抜けるような涙だった。
「良かった……」
彼女は小さく言った。
「私は、あの時、ただ見苦しいものを送ってしまったのだと思っていました」
ラドは、ゆっくり手を離した。
「いや。あれは……少なくとも、団長はそう思ってなかったです」
ノエルが額を押さえる。
「もう少し慎重に言え」
「分かってる。分かってるけど」
ラドは真面目な顔になった。
「シズナさん。ジィッド団長が止めたのは、あなたの身体が見苦しかったからじゃないです。あれは、あなたが自分を削って、反応を引き出そうとしていたからです」
シズナは涙のまま頷いた。
「はい」
「だから、食べてください。あの時のあなたを見苦しいと思ってなかった人がいる。少なくとも、あの人はそうじゃなかった」
シズナは皿を見た。
薄切り肉。
スープ。
パン。
食べること。
それは、身体を戻すこと。
自分の肉体を敵にしないこと。
ジィッドに見られるためだけではない。
黒豹として働くため。
孤児院の子供たちの線を見るため。
民政局の朝食会へ出るため。
そして、生きている自分を、少しだけ許すため。
シズナは、フォークを取った。
肉を小さく切る。
一口。
噛む。
飲み込む。
喉が詰まりそうになる。
だが、飲み込めた。
ラドが小さく頷く。
「一口」
シズナはスープを飲んだ。
温かい。
「二口」
パンをちぎる。
「三口」
ノエルが少し息を吐いた。
「今日は勝ちですね」
シズナは涙を拭って、少しだけ笑った。
「はい。勝ちです」
/*/ 同日午後 医療区画 ハルマ軍医面談室 /*/
その報告を聞いたハルマ・レイ軍医中佐は、眼鏡を押し上げた。
「ラド大佐」
「はい」
「非常に危険な発言です」
「はい」
「本来なら、事前に医療側と相談すべき内容です」
「はい」
「ただし」
ラドは身構えた。
ハルマ軍医は記録を見た。
「今回に限っては、結果として食事再開のきっかけになっています」
ラドは少しだけ肩の力を抜いた。
「良かった……」
「良くはありません。再現禁止です」
「はい」
ノエルが横で深く頷いた。
「当然です」
ハルマ軍医はシズナを見る。
「シズナさん。今日の食事量は?」
「昼食、パン半分、スープ全量、肉を三切れ、チーズを一切れ、焼き菓子を半分です」
「良好です」
シズナは目を伏せた。
「ラド大佐の言葉を、都合よく受け取っているだけかもしれません」
「それでも構いません」
軍医は静かに言った。
「ただし、“大将閣下に見苦しいと思われなかったから食べる”だけでは、また依存になります」
「はい」
「ですから、理由を増やしましょう」
「理由を」
「黒豹のために食べる。孤児院の子供たちを見るために食べる。傷を治すために食べる。寒い日に倒れないために食べる。大将閣下の軍政を支えるために食べる。そして、あなた自身の身体を維持するために食べる」
シズナは、ひとつずつ聞いていた。
「私自身の身体」
「はい。あなたの身体は、誰かに差し出すためのものではありません。任務の道具でも、罰する対象でもありません。あなたが生きるための身体です」
シズナは、ゆっくり頷いた。
「はい」
ニナリスが同席していたなら、きっと「良好です」と言っただろう。
ハルマ軍医は記録に書き込む。
「食事規定を更新します。いきなり大量には食べないこと。三食の最低量を設定。黒豹女衆または民政局朝食会で確認。体重は週一回。評価は医療区画が行います」
ラドが小声で言う。
「怒られつつ、成果は出た」
ノエルが睨む。
「二度と同じやり方はするな」
「分かってる」
シズナは二人のやり取りを見て、少しだけ笑った。
雑談ができる。
叱られる。
食べろと言われる。
自分が少し面倒な人間として、そこに置かれている。
それが、以前よりずっと生きやすかった。
/*/ 数日後 民政局別棟 合同朝食会 /*/
シズナは、朝食会に出ていた。
皿にはパンが一つ。
スープ。
少量の肉。
チーズ。
果物。
以前より多い。
黒豹女衆が横から見ている。
「食べられそう?」
「はい」
子供の一人が、シズナの皿を見て言った。
「黒いお姉さん、今日はいっぱい食べるの?」
シズナは一瞬固まった。
それから、少しだけ笑った。
「はい。今日は食べます」
「なんで?」
子供の質問は容赦がない。
シズナは少し考えた。
ジィッド様が、私を見苦しくないと思ってくださったから。
その答えは、胸の中にある。
消えない。
嬉しい。
だが、それだけではない。
「倒れると、あなたたちの台帳を見られなくなります」
子供は首を傾げた。
「だいちょう?」
「あなたたちが、ちゃんとご飯をもらえているか見る紙です」
「じゃあ、食べて」
「はい」
シズナはパンを食べた。
一口。
二口。
三口。
もう、それだけで止まらなかった。
スープも飲む。
肉も食べる。
少し苦しい。
だが、食べられる。
黒豹女衆が小さく頷く。
「勝ち」
シズナは、今度は自然に答えた。
「はい。勝ちです」
/*/ 同日夕方 大将執務室 /*/
ラドは、シズナの食事量改善の報告を出した。
ジィッドはそれを読んで、片眉を上げた。
「お前、余計なことを言ったな」
ラドは目を逸らした。
「言いました」
「医師に怒られたか」
「怒られました」
「当然だ」
「でも、食べるようになりました」
ジィッドは黙った。
ニナリスが端末を確認する。
「シズナ様の食事量は改善傾向。自己否定文なし。深夜私信なし。朝食会出席継続。孤児院台帳照会も安定しています」
「そうか」
ジィッドは少しだけ息を吐いた。
「良かった」
それだけだった。
だが、その声は本音だった。
ラドが小さく笑う。
「団長、その一言、本人に言えたらいいんですけどね」
「まだ早い」
「ですよね」
「だが、いつかは言う」
ジィッドは書類を閉じた。
「今は、飯を食っているならそれでいい」
ニナリスが静かに言う。
「食事も軍務です」
「人の飯まで軍務にするな」
「シズナ様の場合、現状では軍務です」
「……否定しにくい」
ジィッドは窓の外を見た。
ノウランの夕方。
孤児院の子供たちが、民政局の庭を走っている。
その端で、黒い影のような女が、皿を持って座っている。
パンを食べている。
それは小さなことだった。
だが、確かに回復だった。
ジィッドは低く呟いた。
「食え。寝ろ。仕事しろ」
ニナリスが記録しようとした。
「記録するな」
「必要です」
「記録はいつも残酷だな」
それでも、ジィッドは少しだけ笑っていた。