/*/ 星団暦3072年 春 総督府執務棟 安全管理記録室 /*/
ニナリスは、休日連絡ログを確認していた。
ヨシワラ・シズナ。
黒豹騎士団副団長。
大佐。
ノウラン孤児院・密輸潜入作戦以降、彼女の記録は明らかに変わっていた。
深夜の長文私信、なし。
ジィッド大将の私物回収、なし。
秘書課職員への監視行動、なし。
休日の孤立時間、規定内。
食事量、改善傾向。
民政局朝食会、継続参加。
孤児院台帳照会、月次化。
そして、ニナリスはある項目で手を止めた。
「自己否定文、ゼロ」
画面には、シズナの休日報告が並んでいる。
本日、民政局職員二名、黒豹女衆一名と商業区へ出ました。
外出着を一着購入。写真は一枚のみ添付。
昼食は麺料理を半量、果物を少量。
午後、孤児院の文具台帳を確認しました。
以上です。
以前なら、そこには必ずあった。
すみません。
私なんかが。
見苦しいものを。
お目汚しを。
その言葉が、消えていた。
ニナリスは報告をまとめ、ジィッドの端末へ送った。
数分後、大将執務室から呼び出しが来る。
/*/ 大将執務室 /*/
ジィッド・マトリア大将は、端末に表示された一枚の写真を見ていた。
シズナの休日外出着。
落ち着いた色の上着。
きちんと整えられた髪。
黒豹の影の鋭さは残っている。
だが、以前のように、誰かの視線を奪おうとして自分を削る危うさはない。
姿勢が違う。
目が違う。
顔が、違う。
「……まともな顔になったな」
ジィッドは、ぼそりと言った。
ニナリスが静かに答える。
「はい。自己否定語は四週連続で検出されていません」
「検出とか言うな」
「ログ解析ですので」
「人の心を検査機器にかけるな」
「必要でした」
ジィッドは端末を閉じた。
「で、写真への返信は」
「現時点では不要です。休日記録はハルマ軍医と黒豹女衆への共有で完結しています」
「そうか」
少しだけ、ジィッドは安心した。
昔なら、彼が一言返さないだけで、夜に崩れた。
今は違う。
シズナは写真を送る。
だが、それはジィッドの反応を引き出す罠ではない。
自分が休日を過ごせたという記録だ。
その差は大きかった。
「なら、俺は何もしない方がいいな」
「はい」
「何もしないのも軍務か」
「場合によっては」
「便利な言葉で殴るな」
/*/ 星団暦3072年 夏 黒豹慰霊碑前 /*/
慰霊祭は、シズナからの発議だった。
黒豹騎士団旧体制の一回忌。
トモエ団長。
アーリィ・ブラスト副団長。
黒豹が最も深く傷ついた日の記憶。
かつてのシズナなら、この時期は危なかっただろう。
思い出が美しすぎて、死者が強すぎて、生きている自分を許せなくなったはずだ。
だが、シズナは崩れなかった。
公式軍務として、慰霊祭の計画書を出した。
出席者。
警備線。
黒豹旧名簿。
表に出せない死者の扱い。
アーリィの名をどこまで読むか。
トモエ団長の記録をどう残すか。
すべて、淡々と整えられていた。
式が終わった後、慰霊碑の前には、ジィッドとシズナだけが残った。
少し離れた場所に、ニナリスとゲンロウが控えている。
完全な二人きりではない。
それでも、以前ほど危うくはなかった。
シズナは慰霊碑へ向かい、深く頭を下げた。
「トモエ団長。アーリィ副団長」
声は静かだった。
「私は、お二人のようにはなれませんでした」
ジィッドは何も言わなかった。
シズナは続ける。
「トモエ団長のように、黒豹全体を一振りで黙らせることはできません。アーリィ副団長のように、鮮やかに影を抜けることもできません」
風が吹いた。
慰霊碑の前の花が、かすかに揺れる。
「ですが、私は今、ジィッド大将の足元で、お二人が命を懸けて守ろうとした黒豹の影を、生身の人間として泥にまみれて縫い合わせています」
シズナは、自分の手を見た。
かつて嫌っていた手。
柔らかく、傷つき、血を流す、生身の身体。
だが、その手は地下倉庫の泥の中から子供を引き上げた。
孤児院の台帳をめくった。
黒豹の緘口令を守った。
民政局職員と買い物袋を持った。
食事の皿を持った。
「もう、自分のこの身体を無駄だとは思いません」
涙はなかった。
その代わり、声に芯があった。
ジィッドは、少しだけ目を伏せた。
「そうか」
「はい」
「なら、黒豹副団長として続けろ」
「はい」
「死者に勝つ必要はない」
「分かっています」
「だが、死者に恥じない仕事はできる」
シズナは、少しだけ笑った。
「はい。できます」
ゲンロウが遠くで静かに頷いた。
その時、黒豹はようやく、トモエの黒豹だけではなくなった。
アーリィの影だけでもなくなった。
ゲンロウが表を立て、シズナが影を縫う。
生きている者たちの黒豹へ、ゆっくり変わり始めていた。
/*/ 星団暦3072年 冬 基地 医療区画 合同メンタル審査室 /*/
審査は、淡々と行われた。
担当はハルマ・レイ軍医中佐。
同席はニナリス。
黒豹側証人として、カラスマ・ゲンロウ。
シズナは椅子に座り、少しだけ肩をすくめていた。
「審査という言葉は、緊張します」
ハルマ軍医は眼鏡を押し上げる。
「では、確認と呼びます」
「それでも緊張します」
「健康な反応です」
ニナリスが端末を開く。
「深夜私信、ゼロ。自己否定語、ゼロ。私物回収再発、なし。秘書課への監視行動、なし。食事量、基準内。睡眠、基準内。休日単独行動、許容範囲。民政局職員との非任務買い物、月二回継続」
ゲンロウが低く言う。
「黒豹副団長としての職務も問題ない。副担当二名の育成も進んでいる。孤児院線も、シズナ一人で抱え込んではいない」
ハルマ軍医がシズナを見る。
「ジィッド大将への好意は」
シズナは、少しだけ目を伏せた。
それから、まっすぐ答えた。
「あります」
誰も驚かなかった。
シズナは続ける。
「ですが、それを理由に深夜私信を送ることはありません。大将の私物を集めることもありません。秘書課の方々を敵視することもありません。食事を抜くこともありません」
「では、その好意は現在どう扱っていますか」
シズナは少し考えた。
「私の中に置いています」
「大将へ預けてはいない?」
「はい」
「黒豹の職務と混ぜていない?」
「混ざりそうな時は、ゲンロウ団長か黒豹女衆に相談しています」
ハルマ軍医は頷いた。
「良好です」
ニナリスが記録する。
「基準値クリア。寛解・安定運用段階への移行を提案します」
シズナが小さく息を吐いた。
「つまり」
ハルマ軍医が言う。
「新ルールは撤廃できます」
シズナは目を瞬かせた。
「撤廃」
「はい。ただし、支援線は残します。困った時に相談してよい、という線です」
「監視ではなく」
「監視ではなく」
シズナは長く黙った。
それから、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
以前のような、謝罪ではない。
礼だった。
/*/ 同日夕方 基地 総督府執務棟 大将執務室 /*/
シズナは、審査結果を持って大将執務室に入った。
ジィッドは報告書を読み、顔を上げた。
「新ルール撤廃か」
「はい」
「長かったな」
「はい」
「よく戻った」
その言葉に、シズナの胸は揺れた。
嬉しい。
今でも、とても嬉しい。
だが、もう壊れない。
その嬉しさを、彼女は自分の中に置けた。
「ありがとうございます」
「これで自由だと思って無茶をするなよ」
「しません」
「飯は」
「食べています」
「寝ているか」
「寝ています」
「秘書課とは」
「昨日、孤児院向け教材の発注で協力しました」
「よし」
ジィッドは報告書に判を押した。
「ヨシワラ・シズナ大佐。黒豹副団長として、今後も働け」
「はい、大将」
「それと」
ジィッドは少しだけ言いにくそうにした。
「外出着の写真は、もう俺に送っても構わん」
部屋の空気が、わずかに止まった。
ニナリスが横で目を細める。
シズナは一瞬だけ驚き、それから静かに微笑んだ。
「いいえ」
ジィッドが眉を上げる。
「いいのか」
「はい。必要なら送ります。ですが、見ていただくためだけに送る必要は、もうありません」
ジィッドは少し黙り、やがて苦笑した。
「そうか」
「はい」
「治ったな」
ニナリスが即座に言う。
「医学的には寛解です」
「うるさい。俺の軍政では完治でいい」
シズナは、そこで小さく笑った。
「では、完治ということで」
「いいのか」
「はい」
ジィッドは頷いた。
「なら、完治だ」
その言葉は、甘い愛の告白ではない。
だが、シズナには十分だった。
彼女はジィッドを慕っている。
それは変わらない。
けれど、もう彼に縋ってはいない。
彼の背中を、自分の場所から支える。
黒豹副団長として。
生身の人間として。
ヨシワラ・シズナとして。
「失礼します」
「ああ」
「孤児院の冬物台帳を見てきます」
「今日は非番だろ」
「買い物ついでです」
「仕事を混ぜるな」
シズナは少しだけ振り返った。
「大将に言われたくありません」
ラドが吹き出した。
ノエルも笑った。
ジィッドは額を押さえた。
「本当に治ったな」
シズナは、柔らかく笑った。
「はい」
扉が閉じる。
廊下の向こうで、黒豹女衆が彼女を呼ぶ声がした。
夕食の時間だった。
シズナはその声に、自然に答えた。
もう、夜にひとりで沈まない。
誰かの痕跡を集めない。
死者に自分を殴らせない。
好意を消さず、縋りにもせず、胸の中に置いたまま歩いていく。
それが、3072年の終わりにシズナが手に入れた、新しい日常だった。