別系統です
/*/ 星団暦3072年末 総督府執務棟 ニナリス私室兼調整室 /*/
ヨシワラ・シズナは、深刻な顔で座っていた。
任務の顔ではない。
黒豹副団長としての、港湾防諜線や孤児院台帳や密輸照会の顔でもない。
もっと個人的で、もっと健全で、しかし本人にとっては非常に重大な顔だった。
ニナリスは、茶を淹れている。
ファティマも食事を取る。
味も分かる。
だから、ニナリスの茶は普通に美味い。
そのことも、シズナを少し困らせていた。
「ニナリス様」
「はい」
「ご相談があります」
「承ります」
シズナは膝の上で指を組んだ。
以前のように震えてはいない。
自己否定もない。
深夜の長文私信でもない。
昼間、約束を取り、茶を前にして、相手の目を見て相談している。
それだけで、かつてを知る者なら胸を撫で下ろすほどの進歩だった。
「私は、ジィッド大将をお慕いしております」
「はい。記録上、継続しています」
「記録しないでください」
「既存記録です」
「……はい」
シズナは少しだけ頬を赤くした。
「ですが、もう以前のように、大将の痕跡に縋るつもりはありません。大将を困らせるつもりもありません。私は黒豹副団長として、自分の場所で立つと決めました」
「良好です」
「その上で」
シズナは、真剣に言った。
「健全に、口説きたいのです」
ニナリスは茶を置いた。
「口説く」
「はい」
「対象はマスター」
「はい」
「方法についての相談ですね」
「はい」
ニナリスは少しだけ思考した。
「承りました」
シズナは、そこで一気に言った。
「ですが、問題があります。ニナリス様がいます」
「私ですか」
「はい。ニナリス様は常に大将の傍にいます。食事も作れます。茶も美味しいです。大将の健康状態も把握しています。軍務も補佐できます。デムザンバラも扱えます。つまり、手料理や気遣いや補佐能力で女子力を示そうとしても、ニナリス様という絶対防壁があります」
「絶対防壁」
「はい」
シズナは大真面目だった。
「私は黒豹副団長としては立てるようになりました。ですが、女として大将の心を動かすとなると、何をどうすればよいのか分かりません。料理を作ろうにも、ニナリス様の方が正確です。茶を淹れようにも、ニナリス様の方が美味しいです。大将の疲労を読むにも、ニナリス様の方が早い」
「それは事実です」
「事実で殴らないでください」
「申し訳ありません」
ニナリスは少しだけ首を傾けた。
「ただし、前提に誤りがあります」
「誤り」
「私はマスターの道具ですので、シズナ様の恋敵にはならないと思います」
シズナは目を瞬かせた。
「道具」
「はい。マスターを補佐し、保護し、必要なら食事を作り、戦闘を支え、記録を管理する存在です。恋愛上の競合対象として扱う必要は薄いかと」
「ですが、大将はニナリス様をとても信頼しています」
「はい」
「大切にしています」
「はい」
「それは、恋とは違うのですか」
ニナリスは、少しだけ沈黙した。
「ファティマとマスターの関係は、通常の男女関係とは異なります。近く、深く、不可分ですが、シズナ様が望む“人間の女性として選ばれる”関係とは別系統です」
シズナは茶を見た。
「別系統」
「はい」
「では、私はニナリス様に勝たなくてよいのですか」
「勝敗ではありません」
「……それは少し、安心しました」
シズナは息を吐いた。
ニナリスは淡々と続ける。
「マスターの食の好みについては、情報提供できます」
シズナが顔を上げる。
「お願いします」
「マスターは庶民的なものを好みます」
「庶民的」
「はい。格式のある会食、高級な料理、複雑な作法を伴う料理は、現在やや負担になっています」
「負担」
「会食が増えていますので」
ニナリスは淡々と言った。
「上等な料理ばかりで肩が凝る、と零していました」
シズナは真剣に頷いた。
「肩が凝る」
「はい」
「では、煮込みや焼き魚のような家庭料理でしょうか」
「それも悪くありません。ただ、最近の発言では、より明確です」
「明確」
「はい」
ニナリスは、まったく表情を変えずに言った。
「ハンバーガーとポテトとコーラが食べたい、と」
シズナは固まった。
「……はい?」
「ハンバーガーとポテトとコーラです」
「大将が」
「はい」
「大将が、ハンバーガーとポテトとコーラを」
「はい」
「それは、あの、大将の威厳としては」
「威厳と食欲は別系統です」
「別系統が多いですね」
「はい」
シズナは、しばらく茶碗を見つめていた。
ニナリスは続ける。
「会食で供される上等な料理は、味そのものよりも、相手、席次、政治的意味、返答、酒量、警戒が伴います。マスターにとって、純粋に食事として休めるものではありません」
「なるほど」
「その点、ハンバーガー、ポテト、コーラは、手で持てる。味が分かりやすい。作法が少ない。短時間で食べられる。会話も軽く済む」
「庶民的というより、かなり雑ですね」
「はい。マスターは雑な休息を求めています」
「雑な休息」
シズナは真剣にメモを取り始めた。
/*/
ハンバーガー
ポテト
コーラ
作法が少ない
手で持てる
雑な休息
会食疲れ対策
/*/
ニナリスは少しだけ首を傾ける。
「ただし、注意点があります」
「はい」
「“大将のためだけに特別な高級ハンバーガーを用意しました”は避けてください」
「それは駄目ですか」
「高級化すると本来の目的から逸れます」
「なるほど」
「黒豹食堂、総督府職員、ラド様、ノエル様なども含め、軽い食事会として実施する方が自然です」
「大将だけに出さない」
「はい」
「皆で食べる」
「はい」
シズナは少しだけ笑った。
「以前の私なら、大将だけに特別な皿を作ろうとしました」
「はい」
「今は、皆でハンバーガーを食べればいいのですね」
「良好です」
「思ったより、口説き方が庶民的です」
「マスターには地味で庶民的な方が効きます」
「なるほど」
ニナリスはさらに続けた。
「身体的な好みに関しても、観測情報があります」
シズナの手が止まった。
「身体的」
「はい」
「……お聞きしても、よろしいのでしょうか」
「シズナ様が健全な範囲で参考にするなら」
「健全に参考にします」
「以前のシズナ様の外出着写真、特に不安定化前の一枚について、マスターは端末閲覧時につばを飲み込む反応を示しました」
シズナは固まった。
「つばを」
「はい」
「飲み込む」
「はい」
「それは、どういう」
「身体的魅力に対する反応と推定されます」
シズナの顔が、一気に赤くなった。
だが、以前のように崩れない。
呼吸を乱して、自己否定にも走らない。
ただ、両手で茶碗を持ち、しばらく湯気を見つめた。
「……見苦しくは、なかった」
「はい」
「むしろ、反応はあった」
「はい」
「ニナリス様」
「はい」
「その情報は、強すぎます」
「投与量を誤りましたか」
「いえ」
シズナは少しだけ背筋を伸ばした。
「今の私なら、受け取れます」
「良好です」
「ただし、今後の服選びに影響します」
「過度な露出は推奨しません」
「しません」
シズナは真面目に言った。
「以前のように、自分を削って大将の反応を引き出すのではなく、健康的に、仕立ての良い服で、姿勢よく立つ方向にします」
「適切です」
「そして、ハンバーガー」
「はい」
「ポテト」
「はい」
「コーラ」
「はい」
「黒豹副団長としての報告書」
「それも重要です」
「庶民的な食事、落ち着いた服、完璧な書類、普通の会話」
「はい」
シズナは、ふっと息を吐いた。
「思ったより地味ですね」
「マスターには地味な方が効きます」
「なるほど」
その時、部屋の外で足音がした。
ジィッドだった。
扉が開く。
「ニナリス、港湾防諜の――」
そこでジィッドは止まった。
シズナがいる。
茶がある。
机の上には、なぜか「ハンバーガー」「ポテト」「コーラ」「過度な露出禁止」「つばを飲み込む反応」と書かれたメモがある。
ジィッドは、ゆっくり目を細めた。
「……何の会議だ」
シズナは瞬時にメモを伏せた。
「黒豹副団長としての、生活改善相談です」
「最後の単語だけ怪しくなかったか」
「気のせいです」
ニナリスが淡々と答える。
「シズナ様の健全な求愛行動に関する相談です」
「ニナリス」
「はい」
「そういうのは言葉を選べ」
「事実です」
「事実で殴るな」
シズナは真っ赤な顔のまま立ち上がった。
「大将」
「なんだ」
「今度、食堂で、ハンバーガーとポテトとコーラを出してもよろしいでしょうか」
ジィッドは、完全に止まった。
「……何?」
「ハンバーガーとポテトとコーラです」
「誰に聞いた」
シズナは、ニナリスを見ないようにした。
「信頼できる情報源です」
ジィッドはニナリスを見た。
ニナリスは静かに答えた。
「私です」
「やっぱりか」
「マスターが会食後に、ハンバーガーとポテトとコーラが食べたい、と零していたため、嗜好情報として共有しました」
「共有するな」
「食事提供上、必要と判断しました」
「求愛支援に使うな」
「シズナ様は健全な範囲で使用しています」
「健全な範囲って何だ」
シズナは、少し頬を赤くしながらも、落ち着いて言った。
「大将専用ではありません。食堂全体の献立として出します」
「……全体で?」
「はい。大将だけに特別な皿を作ると、重くなりますので」
ジィッドは黙った。
以前のシズナなら、「大将のためだけに」と言った。
命がけで作りました、と言ったかもしれない。
今は違う。
皆で食べると言える。
「高級化もしません」
シズナは続けた。
「庶民的にします。手で持てる、作法の少ない、雑な休息として」
「雑な休息まで聞いたのか」
「はい」
「ニナリス」
「はい」
「お前、本当に何を教えた」
「マスターの嗜好情報です」
「広げるな」
「すでに共有済みです」
「記録はいつも残酷だな」
シズナはさらに続けた。
「それと、次回の黒豹月次報告書は、前回より二割ほど読みやすくします」
「それは助かる」
「大将が読みやすいように」
「仕事としてなら歓迎する」
「はい。仕事としてです」
ニナリスが静かに言った。
「求愛行動としても有効です」
「ニナリス」
「はい」
「黙れ」
「承知しました」
シズナは笑いを堪えた。
ジィッドはその顔を見て、少しだけ眉を動かした。
まともな顔になった。
前にそう思った。
今は、さらに違う。
黒豹副団長として立ち、女としての好意も隠さず、しかし相手を縛らない顔。
ジィッドは、わずかに目を逸らした。
「……まあ、無理はするな」
「はい」
「飯も食え」
「食べています」
「ハンバーガーも、皆で食うならいい」
「ありがとうございます」
「ただし、会食の直前には出すな。匂いが残る」
「承知しました。作戦日程と会食予定を照合します」
「ハンバーガーに作戦日程を組むな」
「総督府案件ですので」
「その言葉で殴るな」
シズナは一礼し、部屋を出る。
背筋は伸びている。
足取りは静かだが、沈んではいない。
扉が閉じた後、ジィッドはニナリスを見た。
「お前、どこまで教えた」
「食は庶民的なものを好むこと。会食疲れによりハンバーガー、ポテト、コーラを欲していること。身体的反応として、以前のシズナ様の写真に対し、つばを飲み込む反応があったこと」
ジィッドは額を押さえた。
「最後は教えるな」
「シズナ様は情報を受け取っても不安定化しませんでした。寛解後の自己制御は良好です」
ジィッドは黙った。
それは、確かに大きい。
以前なら危険だった言葉。
今は、顔を赤くして、しかし笑って受け取れる。
ジィッドは扉の方を見た。
「健全に口説く、か」
「はい」
「俺はどうすればいい」
「逃げすぎず、受け入れすぎず、ただし過去の危険状態と同一視しないことを推奨します」
「難しいな」
「はい」
「また線か」
「はい」
ジィッドはため息を吐いた。
「ハンバーガーくらいなら、食う」
「良好です」
「判定するな」
その頃、廊下を歩くシズナは、胸の中で小さく計画を立てていた。
ハンバーガー。
ポテト。
コーラ。
落ち着いた服。
読みやすい報告書。
普通の会話。
そして、焦らない。
ジィッド様を困らせるのではなく、少しだけ笑わせる。
縋るのではなく、隣の机に仕事を置く。
愛を叫ぶのではなく、食堂で同じ紙包みを開き、書類を整え、普通の顔で隣に立つ。
それが、今のシズナにできる、健全な口説き方だった。
彼女は小さく呟いた。
「まずは、ハンバーガーですね」
黒豹副団長の恋は、思ったよりジャンクなところから再開した。