ノウラン市占領後
夜の野戦陣地に、薄い油と土と金属の匂いが漂っていた。
デムザンバラの再設定作業は一段落した。
ピーク領域を完全封鎖せず、警告領域として細く残す。
低中域のトルクを太らせながら、逃げ場を殺しすぎない。
言葉にすれば簡単だが、実際の調整は地味で細かい。
その地味さに疲れた整備班と、夜間警備交代前の騎士たちは、簡易テーブルの周りに集まっていた。
テーブルの上には、レーションの小袋が並んでいる。
クラッカー。
硬めのパン。
ピーナッツバター。
チーズペースト。
妙に濃厚なスプレッド類。
クッキー。
パウンドケーキ。
M&M'sのようなチョコレート。
袋入りのポテトチップス。
戦場の夜食としては、悪くない。
いや、むしろこういうものの方が落ち着く。
ジィッドはクラッカーにチーズペーストを厚めに塗り、ひと口かじった。
「……こっちの方が落ち着くな」
若い騎士が笑う。
「バランシェ邸の食事、そんなに凄かったんですか?」
「凄かった」
ジィッドは即答した。
「珈琲も菓子も、何もかも上等だった。美味いものは美味い。そこは否定しない」
「じゃあ、いいじゃないですか」
「だが、勘違いしそうになる」
ジィッドはクラッカーを見下ろした。
「上等な屋敷で、上等な博士たちに会って、銘入りのファティマたちがいて、アウクソー殿に知見をもらう。そういう場所にいると、自分も何か上等なものになったような気がする」
整備班長が、ピーナッツバターをパンに塗りながら言った。
「団長は、そういうところでちゃんと怖がるからまだ大丈夫です」
「怖がらないと危ないだろ」
「だいたいの人は、気持ちよくなります」
「だろうな」
ジィッドは苦笑した。
「だから、こっちの方がいい。土嚢の横で、チーズペーストを塗って、濃すぎるピーナッツバターを食ってる方が、俺には合ってる」
部下の一人が、パウンドケーキの袋を開けながら言った。
「ジィッドさん、わりと庶民派ですよね」
「血筋がないからな」
「またそれ言う」
「事実だ」
「でも、その事実をクラッカーに塗るのやめましょうよ」
周囲が笑った。
ジィッドも笑った。
少しだけ、自然に。
その時、別の若い騎士がふと思い出したように言った。
「そういや、ジィッドさんはなんでウェイトトレーニングなんかやってんすか?」
ジィッドは、手を止めた。
「ウェイト?」
「はい。朝、重り担いでスクワットしたり、引いたり押したりしてるじゃないですか。騎士って、普通の筋トレで強くなる感じでもないでしょう?」
「ああ」
ジィッドは納得したように頷いた。
「デムザンバラのピークに踏み込まない訓練だ」
若い騎士たちが顔を見合わせる。
「ウェイトが?」
「そうだ」
ジィッドは、クラッカーを置いた。
「自重じゃ負荷が小さすぎる。騎士の肉体で腕立てやスクワットをやっても、出力制御の練習にはなりにくい。だから重りを使う。高負荷をかけて、身体が本気で出力を上げたがる状況を作る」
整備班長が真顔で頷いた。
「騎士の身体だと、自重ではウォームアップにもならないですからね」
「そういうことだ」
ジィッドは自分の右腕を軽く回した。
「デムザンバラのピークパワーが出るトルクバンドは、針みたいに細い。そこへ踏み込めば、俺は機体に振り落とされる。下手をすれば、バックラッシュで腕を持っていかれる」
整備班長が、あっさり頷く。
「ありえますね」
「軽く言うな」
「軽く言わないと怖いので」
「それは分かる」
ジィッドは苦笑した。
「だから、ウェイトトレーニングそのものが目的じゃない。騎士としての筋力を鍛えるためじゃなく、自分の出力を一定の範囲で止める訓練だ」
「出力を止める?」
「ああ」
ジィッドはクラッカーを指で折った。
「重いものを持つ。身体が勝手に出力を上げようとする。もう一段、奥に入れたくなる。踏み込みたくなる。筋肉と神経が、もっと出せると言ってくる」
「まあ、ありますね」
「そこで入らない」
ジィッドの声が少しだけ真面目になる。
「最大出力の手前で止める。フォームを崩さない。余力を残す。限界まで引き絞らない。出したい力を、出さない。針のように細いピークバンドに踏み込まないように、自分の出力を制御する訓練だな」
若い騎士は、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「真面目っすねぇ」
「バックラッシュで腕を持っていかれたくないからな」
「現実的だった」
「現実的だぞ。俺は自分の腕が好きだ」
笑いが起きる。
ジィッドはその笑いの中で、少しだけ肩をすくめた。
「デムザンバラは怖い。鈍らせているのに、まだ怖い。アウクソー殿にも言われた。踏んではいけない道は、消してはいけない。なら、俺が踏まない訓練をするしかない」
整備班長が、チョコレートの袋を開けながら言った。
「カーバーゲンの方が気を遣わなくていいですね」
「ああ。カーバーゲンの方が気楽だ」
ジィッドは即答した。
「予備パーツもたくさんあるしな」
「団長、言い方」
「事実だろ」
「事実ですけど」
整備班長は苦笑した。
「カーバーゲンなら、多少無茶しても部品交換で済む範囲が広い。デムザンバラはそうはいかない。元が元だけに、どこを触っても怖い」
「整備班が怖がる機体に乗る俺の身にもなってくれ」
「乗る側が怖がってくれるだけ、整備班としてはありがたいです」
若い騎士がポテトチップスをつまみながら言った。
「普通、強い機体に乗ったら嬉しくなりません?」
「嬉しいぞ」
ジィッドは素直に言った。
「嬉しいから危ない」
その場が少し静かになる。
「俺は剣聖騎に憧れていた。デムザンバラに乗って七騎落とした時、胸の奥が熱くなった。もっといけるんじゃないかと思った」
ジィッドは、自分の掌を見た。
「そこで止まれないと死ぬ。俺だけならまだしも、お前たちまで巻き込む」
若い騎士たちは黙った。
ジィッドは、また明るい声に戻した。
「だからウェイトだ。地味だろ」
「地味っすね」
「剣聖騎対策がウェイトトレーニング」
「記事にしたら地味ですね」
「するな。黒騎士殿に笑われる」
「デコーズ隊長なら何て言いますかね」
ジィッドは少し考え、口調を真似た。
「“へえ、剣聖騎に乗る若造が重り担いで自制訓練かよ。泣かせるねえ。ボクちゃん涙が出ちゃう”」
似ていた。
部下たちが笑った。
整備班長も笑いをこらえきれなかった。
「似てますね」
「怒られるから本人の前ではやるなよ」
「団長が一番危ないです」
「確かに」
そこへ、静かにニナリスが歩いてきた。
端末を手にしている。
「何が危ないのですか」
全員が一瞬黙った。
ジィッドは咳払いした。
「デコーズ隊長の物真似の話だ」
「記録しますか」
「しなくていい」
「士気管理上、有効な可能性があります」
「ない。絶対にない」
若い騎士が笑いをこらえながら言った。
「ニナリスさん、ジィッド隊長がウェイトトレーニングはデムザンバラのピークに踏み込まない訓練だって話をしてました」
「はい。正確です」
「正確なんだ」
ニナリスはジィッドを見た。
「マスターの場合、筋力向上より出力制限の学習が優先です。自重負荷では騎士の肉体に対して刺激が不足します。外部負荷を用いる判断は妥当です」
「ほらな」
ジィッドは少し得意げに言った。
だが、ニナリスは続けた。
「ただし、最近は最終セットで規定重量を一段上げる傾向があります」
「ニナリス」
「ピークに踏み込まない訓練としては不適切です」
部下たちが一斉にジィッドを見た。
「隊長?」
「いや、それはだな」
「踏み込んでるじゃないですか」
「ウェイトの一段階とデムザンバラのピークは違う」
「同じ訓練だって今言ったのは隊長ですよ」
ジィッドは詰まった。
整備班長がパンにチーズペーストを塗りながら言った。
「明日から最終セットの重量追加は禁止ですね」
「整備班長まで」
「軍務ですので」
「便利に使うな」
ニナリスは淡々と端末に入力した。
「明朝より、出力制限制御訓練における終了条件を再定義します。最終セットでの重量追加は禁止。規定重量内で、余力を残した終了を確認します」
「本当に記録してる」
「必要です」
部下たちは笑っていた。
だが、その笑いは軽いだけではなかった。
ジィッドが怖がっていること。
それでも乗ること。
七騎落としても止まったこと。
ウェイトトレーニングひとつにも、デムザンバラを扱うための意味を持たせていること。
それを知った上での笑いだった。
若い騎士が、ピーナッツバターを厚く塗ったクラッカーを差し出した。
「隊長、これ食べます?」
「ありがとう」
「これ、めちゃくちゃ濃いです」
「戦場の味だな」
「美味いっすよ」
ジィッドは受け取り、かじった。
甘い。
重い。
喉に貼りつく。
だが、落ち着く。
「うん。美味い」
「バランシェ邸より?」
「味の方向が違いすぎるだろ」
「どっちが落ち着きます?」
ジィッドは、少しだけ笑った。
「こっちだな」
ニナリスが静かに言う。
「理由は」
「勘違いしないで済む」
「良い傾向です」
「記録するなよ」
「しました」
「早い」
夜の野戦陣地に、また笑いが起きた。
デムザンバラは整備区画で静かに膝をついている。
ピークへ向かう細い道を残したまま、まだ生まれようとしている。
そのそばで、剣聖ではない若い騎士は、濃すぎるピーナッツバターをかじりながら、翌朝の最終セットの重量追加を禁止されていた。
派手な話ではない。
記事にもならない。
だが、銀月騎士団の部下たちは、その夜の会話をよく覚えていた。
強い機体に乗っているから強いのではない。
強い機体に飲まれないよう、クラッカー片手に笑いながら、自分を止める訓練をしている。
それが、ジョー・ジィッド・マトリアという隊長だった。