バッハトマ軍・臨時格納区画
白い剣聖騎は、吊架の中で沈黙していた。
シュペルター。
かつて剣聖の名と共に語られた騎体。
その白い装甲には、いま黒い仮固定具と、解析用の魔導ケーブルが何本も這っている。
それを見上げながら、ジョー・ジィッド・マトリアは、やけに明るい声で言った。
「で、これを本当に俺が動かすわけか」
整備兵は笑わなかった。
誰も笑えなかった。
ジィッド自身も、本気で笑わせるつもりはなかった。
ただ、何か言っていないと、胃の底から上がってくる重さに潰されそうだった。
隣に立つニナリスが、淡々と端末を操作している。
「起動系統、仮接続完了。出力制御系、再計算中。反応炉と駆動伝達系の同期に問題があります」
「問題、というと?」
「ピークパワーが出るトルクバンドが狭すぎます」
ニナリスは、表示された曲線をジィッドへ見せた。
細い。
あまりに細い。
低域では眠っている。
中域ではまだ動きが重い。
だが、ある一点を越えた瞬間、獣のように跳ね上がる。
そこから先は、人が乗るものではなかった。
剣聖が踏み込むための領域。
剣聖が斬るための領域。
剣聖が、機体を押さえつけるのではなく、機体と同じ速度で考えるための領域。
ジィッドは、しばらくその曲線を見つめていた。
そして、ぽつりと言った。
「……俺が踏んだら、振り落とされるな」
「はい」
ニナリスは即答した。
手心がなかった。
ジィッドは苦笑する。
「少しは迷え、ニナリス」
「軍務ですので」
「そうだったな。軍務だった」
軽口を叩きながらも、ジィッドの顔から血の気は引いていた。
扱えない。
それは分かっていた。
だが、数字で突きつけられると、また別だった。
剣聖騎を与えられた。
だが、与えられたのは栄誉ではない。
これは、自分の不足を一秒ごとに証明する機械だった。
ニナリスが言った。
「エンジン出力を八十五パーセントまで落とします」
整備兵の一人が、思わず顔を上げた。
ジィッドも、彼女を見た。
「八十五?」
「はい」
「そんなもので扱えるのか」
「扱えるようにします」
ニナリスは、画面上の曲線を別の形へ変えていく。
鋭く尖った山が、低く、広く潰されていく。
最大値は下がる。
だが、中域が太くなる。
谷が消える。
踏み込んだ時の反応が滑らかになる。
「低中域バンドのトルクを太くします。ピークパワーは落ちますが、立ち上がりと姿勢制御を安定させます。ジィッド様の反応速度でも、機体の挙動を読める範囲に収めます」
「つまり、剣聖騎を鈍らせる」
「はい」
ニナリスは少しだけ間を置いた。
「鈍らせなければ、ジィッド様が死にます」
格納区画が静まり返った。
ジィッドは返事をしなかった。
自分が死ぬ。
それだけなら、まだ飲めた。
だが、ニナリスは続けた。
「随伴機も巻き込みます。整備班も機体負荷を読み切れません。出撃ごとの損耗率が跳ね上がります。シュペルター本来の出力を維持したまま運用することは、現在の部隊構成では推奨できません」
「シュペルター本来の、か」
ジィッドは白い騎体を見上げた。
「剣聖騎が泣いているな」
その声は、冗談の形をしていた。
だが、誰も笑わなかった。
ジィッド自身も笑わなかった。
ニナリスは、しばらく黙ってから答えた。
「泣いていても、動かさなければなりません」
「厳しいな」
「軍務ですので」
「そればかりだ」
「ジィッド様が、そう命じられました」
ジィッドは、軽く肩をすくめた。
「俺は余計なことを言ったらしい」
その時、格納区画の奥から、拍手のような軽い音がした。
ぱん、ぱん、と乾いた音。
「いやあ、泣かせるねえ」
黒騎士デコーズだった。
彼は白い騎体の前まで歩き、変換中の出力曲線を覗き込んだ。
「剣聖騎が泣いてる? 結構じゃねえか。泣かせとけよ」
軽い口調だった。
だが、目は笑っていなかった。
「剣聖様がいねえなら、剣聖騎として扱う意味なんざねえんだよ。泣こうが喚こうが、戦場で動く形にする。それが兵器ってもんだろ」
ジィッドは、わずかに眉を動かした。
「黒騎士殿」
「名前も剥ぐぜ」
デコーズは言った。
「シュペルターじゃねえ。これからこいつはデムザンバラだ」
整備兵たちの間に、ざわめきが走った。
ジィッドは白い機体を見上げたまま、呟いた。
「名まで奪うのですか」
「奪うんじゃねえよ。残してやらねえんだ」
デコーズの声は、軽いまま冷たかった。
「シュペルターに乗ってる、なんて思うな。剣聖騎を継いだ、なんて夢を見るな。そんな夢を見たら、お前はそこで終わりだ」
デコーズは、白い装甲を見上げた。
「こいつは鹵獲騎だ。バッハトマが使うために、性能を落として、癖を潰して、名前まで変える。そういうものにする」
「……兵器として扱う」
「そういうこった」
デコーズは、にやりと笑った。
「お前の夢じゃねえ。ボクちゃんらの持ち物でもねえ。戦場に出して、壊すか、殺すか、帰ってくるか。そのための道具だ」
ジィッドは目を閉じた。
それは、正しい。
あまりに正しい。
だからこそ、胸の奥が軋んだ。
剣聖騎に憧れなかった騎士などいない。
血筋がなくても、家名がなくても、軍学校の訓練場で泥を被っていた頃でさえ、ジィッドは一度くらい夢を見たことがある。
あの白に乗れたなら。
あの音を響かせられたなら。
自分も、誰かに選ばれたと胸を張れるのではないか。
だが、現実は違った。
彼は選ばれていない。
ただ、配置された。
そしてシュペルターは、彼のために切り刻まれる。
ニナリスが端末を操作した。
「出力制限、反映します」
格納区画の照明が一段落ちた。
白い騎体の内側で、反応炉が唸る。
最初に鳴ったのは、甲高い音だった。
細く、鋭く、耳の奥を刺すような高音。
まるで、空を裂く刃のような音。
それが本来の音だった。
剣聖騎の音。
選ばれた者だけが踏み込める領域の音。
ジィッドは、その音に一瞬だけ呑まれた。
美しい、と思ってしまった。
次の瞬間、ニナリスが制御を落とした。
音が沈む。
甲高い響きが消え、低い唸りが腹に響いた。
太い。
重い。
荒々しいが、扱える。
空を裂く音ではなく、地を踏みしめる音。
白い剣聖騎が、別の獣へ変えられていく。
ジィッドは息を吐いた。
「……もう別の機体だな」
ニナリスは答えなかった。
彼女の指は端末の上で止まっていた。
ジィッドは、その沈黙を責めなかった。
代わりに、いつものように少し明るい声を作った。
「剣聖騎が泣いている」
デコーズが肩をすくめた。
「泣く機体なら、戦場で泣かせりゃいいんだよ」
「黒騎士殿は容赦がない」
「容赦で動くなら、お前に回ってきてねえよ」
「それは、まあ」
ジィッドは笑った。
少しだけ、苦い笑いだった。
「まったく、その通りです」
「だろ?」
デコーズは軽く笑った。
「剣聖騎をそのまま扱える奴なら、最初からお前さんに乗れなんて言わねえ。扱えねえ奴に扱わせるから、意味がある。泣かせて、鈍らせて、それでも動かす。そこからが軍務ってやつだろ」
ジィッドは白い騎体へ一歩近づいた。
もうシュペルターではない。
デムザンバラ。
剣聖のための白ではなく、血筋のない若い騎士が、軍務で乗るために鈍らされた白。
ピークを殺され、音を変えられ、名を奪われた騎体。
だが、動く。
戦場に立つ。
部下を帰すために使える。
ジィッドは、白い装甲に手を置いた。
「悪いな」
誰に言ったのか、分からない声だった。
シュペルターにか。
デムザンバラにか。
それとも、かつて剣聖騎に憧れた自分にか。
「俺はお前を、本来のまま扱えない」
ニナリスが顔を上げた。
デコーズは黙っていた。
茶化さなかった。
ジィッドは続けた。
「だから、お前を俺のところまで落とす。剣聖騎としては屈辱だろうが、兵器としては働いてもらう」
彼は振り返った。
表情は明るかった。
けれど、目だけは笑っていなかった。
「ニナリス」
「はい」
「デムザンバラの運用基準を作れ。ピークパワー使用は禁止。使う場合は緊急離脱時か、黒騎士殿の許可がある時だけだ」
「承知しました」
「低中域の制御を詰める。俺が読める挙動にする。随伴機が合わせられる加速にする。整備班が次の出撃までに戻せる負荷にする」
「はい」
「それと」
ジィッドは、少しだけ笑った。
「欠点一覧に一行追加しておけ」
「何と?」
「剣聖騎の音が変わると、少し傷つく」
ニナリスは一瞬、目を伏せた。
「……記録します」
「いや、そこは冗談だと言ってくれ」
「軍務ですので」
ジィッドは苦笑した。
整備兵たちが、小さく笑った。
デコーズも、そこでようやく喉の奥で笑った。
「いいじゃねえか。欠点一覧が増えて。自分の痛いところが分かってる奴は、そう簡単には死なねえよ」
「黒騎士殿にそう言われると、不安になります」
「安心しろよ。ボクちゃんが不安にさせてやってるんだ」
「なお悪い」
「そういうもんだ」
低く太いエンジン音が、格納区画に響き続けている。
それはもう、剣聖の音ではなかった。
だが、軍の音だった。
戦場で兵を帰すための音。
見栄を殺し、最大値を捨て、扱える範囲で勝つための音。
ジィッドは、その音を聞きながら呟いた。
「よし。行こうか、デムザンバラ」
白い騎体は答えない。
ただ、低い唸りだけが返ってきた。
剣聖騎は泣いているのかもしれない。
だが、その泣き声を背負ってでも、若い騎士は戦場へ出るしかなかった。