ノウラン市占領後
ジィッドが銀月騎士団の陣地へ戻る頃には、夜明け前の冷えた空気が降りていた。
野戦陣地の灯火はまだ残っている。
土嚢の列。
偵察哨戒から戻った騎士たちの報告板。
カーバーゲン貸与者の仮リスト。
略式お披露目を終え、主を得たブーメランファティマたちの記録。
そして、妙に落ち着かない若い騎士たち。
彼らのうち数名は、すでにファティマを娶っていた。
正式な大式典ではない。
戦時下の略式お披露目。
騎士級の見届け人を立て、記録を残し、ファティマ自身が選んだ相手。
その結果、二名、そして予備扱いでもう一名に、カーバーゲンが貸与されることになっていた。
だから彼らは浮ついていた。
ただ戦場に出たいのではない。
もう出られるのだ。
ファティマがいる。
GTMがある。
自分にも、ついに前へ出る順番が来た。
その熱を、ジィッドは見ていた。
消してはいけない。
だが、踏ませてはいけない。
「集まれ」
ジィッドが言うと、騎士たちはすぐに動いた。
整列は速い。
まだ若いが、軍務はできる。
ニナリスがジィッドの右後ろに立つ。
整備班長も端末を抱えてやってくる。
ジィッドは口を開いた。
「デコーズ隊長に話は通した」
ざわめきが走る。
「銀月騎士団を、次の作戦で使ってもらえる」
今度こそ、ざわめきが大きくなった。
「本当ですか!」
「前に出られるんですか!」
「カーバーゲンで出撃ですか!」
「敵主力ですか!」
「静かにしろ」
声を荒げたわけではない。
だが、ジィッドがそう言うと、場はすぐに静まった。
「使ってもらえる。だが、お前たちが想像しているような華やかな突撃ではない」
若い騎士たちの顔に、少し不安が混じる。
ジィッドは続けた。
「最初にやるのは、敵前停止だ」
沈黙。
次の瞬間、あちこちから声が漏れた。
「……敵前停止?」
「停止?」
「突撃じゃなくて?」
「隊長、それ派手なんですか?」
「地味すぎません?」
ジィッドは頷いた。
「地味だ」
「認めた」
「だが、重要だ」
ジィッドは作戦図を展開した。
敵補給中継線。
中規模の守備隊。
後方の予備戦力。
こちらの攻撃線。
撤退路。
そして、赤く示された停止線。
「ここまで前進する。接敵する。敵影を確認する。報告する。そして、この線で止まる」
若い騎士たちは図を見る。
敵は見える。
射程にも入る。
届きそうに見える。
だが、停止線はその手前に引かれていた。
「敵が見えても、勝手に突っ込まない。敵が引いても、勝手に追わない。敵が罠を見せても、食いつかない。停止線で止まり、報告し、味方の展開を待つ」
誰かが小さく言った。
「それ、相当きついですね」
「そうだ」
ジィッドは即答した。
「きついからやる」
若い騎士たちの表情が変わる。
ジィッドは、彼らを見ながら言った。
「お前たちは派手に戦いたいと言った。銀月も前に出たいと言った。だから、前に出す。ただし、前に出た先で止まれなければ、カーバーゲンは預けられない」
貸与予定の騎士たちの顔が、明らかに強張った。
「預けられない、ですか」
「ああ」
ジィッドは容赦なく言った。
「停止線で止まれなかった者は、貸与したカーバーゲンを回収する。次の出撃から降ろす。機体は、次に止まれる騎士へ回す」
場の空気が凍った。
それは処分より効いた。
彼らにとって、カーバーゲンはただの機体ではない。
ファティマに選ばれ、GTM乗りとして前に出る資格そのものだった。
その機体を取り上げられる。
もうファティマに選ばれているからこそ、痛い。
若い騎士の一人が、強張った声で聞いた。
「一度でもですか」
「一度でもだ」
「敵が明らかに崩れていても?」
「命令が出るまで止まれ」
「もう一騎落とせそうでも?」
「止まれ」
「味方が押していても?」
「止まれ」
ジィッドの声は変わらない。
「止まれない騎士に、GTMは預けられない。ファティマを危険に巻き込む。機体を潰す。部隊の線を乱す」
ニナリスが静かに補足する。
「停止命令への反応は、ファティマ側の負荷にも直結します。騎士が止まれない場合、ファティマは騎士の過剰出力、機体の姿勢制御、撤退線維持を同時に処理する必要があります」
整備班長も続ける。
「機体側にも出ます。カーバーゲンは癖のない良い機体ですが、無理な突撃と急停止を繰り返せば当然傷みます。貸与機を壊す騎士に、次の機体は回せません」
「つまり」
別の騎士が、苦い顔で言った。
「止まれない奴は、ファティマにも機体にも迷惑をかける」
「そう思っておけ」
ジィッドは言った。
そこで、場の緊張がさらに増した。
「今回の作戦で見るのは、撃破数ではない。前進、接敵、報告、停止、再展開、帰還。これを見る」
「攻撃は?」
「許可が出た小隊だけだ」
「許可は誰が?」
「俺だ」
ジィッドは短く答えた。
「それと、後詰めにバギィ少将が入る」
若い騎士たちの背筋が伸びた。
黒騎士団副団長。
ベイジ侵攻時にデコースの右翼を務めた古株の強力な騎士。
その名が出ただけで、場の温度が一段下がる。
「バギィ少将が……」
「後ろで見てるんですか」
「見ている。拾ってくれる。止めてもくれる」
ジィッドは少しだけ口元を歪めた。
「止まれなかった奴は、俺だけでなくバギィ少将にも怒鳴られる」
数人が露骨に青ざめた。
「それは……」
「かなり嫌ですね」
「嫌で済めばいいな」
整備班長がぼそりと言った。
ニナリスが端末に入力する。
「停止線違反者への処置。貸与カーバーゲン回収。次回出撃停止。再教育後、再貸与可否を審査。バギィ少将による叱責可能性」
「最後は記録しなくていい」
ジィッドが言う。
「士気管理上、有効です」
「有効だが、怖い」
「怖さは抑制に有効です」
「それはそうだが」
若い騎士たちは、笑いたいのに笑いきれない顔をしていた。
ジィッドはその顔を見て、少しだけ声を緩めた。
「勘違いするな。俺はお前たちを戦場から遠ざけたいわけじゃない」
彼は作戦図の赤い停止線を指した。
「ここまで出す。敵の前まで出す。お前たちが見たがっていた戦場を見せる」
次に、撤退路を指す。
「そして、ここから帰す」
若い騎士たちは黙る。
「帰ってこい。見たものを持ち帰れ。敵の数、配置、反応速度、予備戦力、退き方、罠の匂い。全部持ち帰れ。そうして初めて、カーバーゲンを任せ続けられる」
「敵を落とさなくても、ですか」
「落とさなくてもだ」
「でも、騎士として――」
「敵を落とすのは騎士の仕事だ」
ジィッドは否定しなかった。
「だが、敵を落とすことしかできない騎士は、GTM部隊では危ない。ファティマを娶り、カーバーゲンを預かるなら、敵を落とす前に情報を持ち帰れ」
若い騎士の一人が、悔しそうに言った。
「隊長は、俺たちを信用してないんですか」
「信用したい」
ジィッドは即答した。
「だから試す」
その言葉に、若い騎士は何も言えなくなった。
「信用していなければ、最初から戦場に出さない。カーバーゲンも貸与しない。略式お披露目にも立たせない」
ジィッドは、まっすぐ見た。
「俺は、お前たちを前に出したい。そのために、止まれるかを見たい」
沈黙。
やがて、貸与予定の若い騎士が小さく息を吐いた。
「……回収は、きついですね」
「きついようにしている」
「ですよね」
「止まれ」
「はい」
別の騎士が、少しだけ苦笑した。
「結局、派手な戦場に出るために最初にやるのが停止って、銀月らしいんですかね」
「俺らしいだけかもしれん」
ジィッドが言うと、少し笑いが戻った。
「でも隊長、出られるんですよね」
「出られる」
「敵の前まで」
「出る」
「そこで止まれたら、カーバーゲンを任せ続けてもらえる」
「そうだ」
若い騎士たちの目に、別の熱が灯り始めた。
突撃の熱ではない。
試される熱だった。
「やります」
一人が言った。
「止まります」
別の一人が言った。
「帰ってきます」
さらに別の者が続ける。
「情報、持ち帰ります」
ジィッドは頷いた。
「よし」
ニナリスが端末を閉じた。
「貸与者名簿と停止線違反時の処置を更新します」
整備班長も頷く。
「カーバーゲン貸与者には、今夜中に停止線の座学を入れます。明朝、模擬停止訓練。午後、偵察哨戒前の最終確認」
「夜通しかよ」
若い騎士が呻く。
「派手に使われたいんだろ?」
ジィッドが言うと、その騎士はすぐに姿勢を正した。
「やります」
「よし。あと、夜食を片付けてから来い。ポテトチップスの油が端末についたら整備班長が怒る」
「それは本当に怒ります」
整備班長が真顔で言った。
ようやく、笑いが起きた。
だが、その笑いはさっきまでとは少し違う。
浮ついた笑いではない。
緊張を飲み込むための笑いだった。