ベラ方面会戦
戦場は、既に泥と煙と欲で濁っていた。
同盟軍二百七十九騎。
ベラ側百二十二騎。
数だけ見れば、同盟軍が押している。
だが、押し切れてはいない。
ツラック隊は崩れない。
正面で受け、泥に誘い、弱い騎士を逃がし、強い騎士を噛ませる。
南では、所属不明の八騎がウモス第五大隊の半数を押さえ、南回り込みを鈍らせた。
それでも、同盟軍はまだ勝てる形を残していた。
消耗戦なら、押し潰せる。
ただし、それは地味な勝ち方だ。
誰かが戦功を欲しがる戦場では、地味な勝利だけでは足りない。
ウモス旗騎GTM・X-4型の指揮座で、ベルミ・クローゼ総騎士団長は戦域図を見ていた。
クロス・ジャマーの迷彩幕が、戦場のあちこちに薄くかかっている。
同盟軍が一気に攻めないと思わせるための霧。
乱戦に持ち込みすぎず、だが敵の観測を鈍らせるための幕。
その幕の下で、同盟軍は探っていた。
ベラ防衛の支柱。
ナルミ支隊長の位置を。
ジィッドはデムザンバラの中で、ニナリスから送られてくる解析線を確認していた。
クロス・ジャマーの迷彩の中で、敵味方の反応は薄く滲む。
だが、完全には消えない。
動きの癖。
指揮信号の返り。
周囲の騎の守り方。
通信の反射。
ファティマ側の制御負荷の流れ。
その中で、一つだけ、妙に重い点があった。
「ベルミ騎士団長」
ジィッドは通信を開いた。
「ニナリスのジャマーコード、用意できました」
短い沈黙。
ベルミ・クローゼの声が返る。
『頃合いだ』
声は静かだった。
しかし、戦場全体の温度が変わった。
『ハプハミトン、ドレンノ連邦、全軍』
ベルミの命令が、各部隊の指揮回線へ落ちる。
『音速突撃』
その瞬間、同盟軍の側面が動いた。
ハプハミトンのGTM群。
ドレンノ連邦の突撃隊。
これまで抑えていた脚を、一気に解放する。
泥を弾く。
湿地の上に白い水煙が上がる。
機体が低く沈み、次の瞬間、音が遅れてくる。
音速突撃。
戦場にある種の歓声が走った。
これだ。
こういう場面を、各国の騎士たちは欲しがっていた。
ベラの防衛線を裂く。
大将首に届く。
メディアが見る。
同盟軍が戦功を取る。
バッハトマではない。
ハプハミトンとドレンノ連邦に与えられた晴れ舞台だった。
ウモス指揮回線で、別の声が鋭く走る。
『クロス・ジャマー解除します。同時に、次の大カウンターをリナリス様に!』
迷彩の幕が剥がれた。
『クロス・ジャマーが消えた!』
ベラ側の通信が跳ねる。
その瞬間、ジィッドが言った。
「ニナリス」
「はい」
「ジャマーコード、発信します」
「承知。敵味方識別コードへ干渉。限定範囲、突撃正面」
ニナリスの指が端末上を滑った。
デムザンバラの中で、低い電子音が走る。
次の瞬間、戦場の識別信号が崩れた。
『敵味方識別コードクラッシュ!』
『識別が落ちた!』
『敵と味方の区別がつきません!』
『回線を戻せ!』
『照合不能! 視認に切り替えろ!』
混乱。
だが、完全な乱戦ではない。
ジィッドが望んだのは、同盟軍全体を壊す広域混乱ではなかった。
ベルミが望んだのも、ただの乱戦ではない。
クロス・ジャマーという迷彩の中で、同盟軍は一気に攻めないと思わせた。
その間に、ナルミ支隊長の位置を探り出した。
そして幕を剥がした瞬間、突撃路だけに識別混乱を落とす。
敵の目を潰す。
味方の欲を通す。
戦功の欲しい陣営に、晴れ舞台を渡す。
理屈は通っていた。
勝てる形だった。
少なくとも、その瞬間までは。
ジィッドは、デムザンバラを動かさない。
銀月騎士団も動かさない。
彼らの任務は突撃ではない。
中央帰還線の維持。
識別線の再構築。
孤立騎の回収。
カーバーゲン十九騎が、突撃部隊の背後で線を張る。
「銀月各騎、持ち場維持。突撃には乗るな」
『了解』
「見える敵に飛びつくな。突撃の後ろが崩れる」
『了解』
若手の声は硬かった。
音速突撃を見ている。
行きたいはずだ。
乗りたいはずだ。
自分たちもあの先頭で走りたいはずだ。
だが、止まっている。
それだけでも、以前の銀月とは違っていた。
ハプハミトンとドレンノ連邦のGTM群が、識別混乱の隙間を突いて伸びる。
突撃線は、鋭い。
ベラ側の防衛線が割れる。
ナルミ支隊長の位置へ向かう道が、開いたように見えた。
「……開いたか」
誰かが呟いた。
ジィッドは答えなかった。
彼の目は、そのさらに奥を見ていた。
開き方が綺麗すぎる。
綺麗に見える穴は、怖い。
次の瞬間だった。
突撃したGTMの先頭が、突然、横へ弾かれた。
何が起きたのか、最初は誰にも分からなかった。
ただ、装甲片が飛んだ。
一騎が肩から割れた。
もう一騎が脚を失った。
三騎目が、機体ごと回転して泥に叩きつけられた。
『正体不明機!』
『速い!』
『照合不能!』
『何だ、今のは――』
突撃隊の正面に、何かがいた。
識別できない。
味方ではない。
ベラ側の通常識別にも乗らない。
クロス・ジャマー解除後の視界の中で、ただ、そこだけが切り抜かれたように歪んでいる。
正体不明機。
それが、突撃したGTMたちをバラバラにしていく。
速いのではない。
速さの見え方がおかしい。
突撃してくる機体の線を先に読んで、そこに刃を置いている。
避けた先にいる。
踏み込んだ瞬間、もう崩されている。
ハプハミトンの一騎が、突撃の勢いのまま斬りかかる。
刃は届かない。
逆に、腕ごと持っていかれる。
ドレンノ連邦の一騎が、横から入る。
正体不明機は、そちらを見てもいないように見えた。
だが、次の瞬間、その機体は腰から折れていた。
通信が悲鳴に変わる。
『突撃線、崩壊!』
『先頭が食われてる!』
『識別戻せ! 戻せ!』
『敵味方が分からない!』
『いや、あれは敵だ! 敵だが何だ!』
ジィッドは、歯を食いしばった。
銀月の若手が、また反応する。
『隊長、突撃隊が!』
『助けに――』
「動くな!」
ジィッドの声が、通信を叩いた。
若手たちが止まる。
「銀月は線を持て。今、前に出れば突撃隊の崩れに巻き込まれる」
『ですが!』
「助けるのは、崩れて帰ってくる騎だ。正面で斬り合うな」
ニナリスが報告する。
「突撃線、崩壊率上昇。ハプハミトン、ドレンノ連邦の前衛、損耗拡大」
「帰還線」
「銀月第三、第五小隊が保持。ですが、突撃隊からの退避経路が乱れています」
「第一小隊、右側退路を開け。第二小隊、識別灯を上げろ。第四小隊、負傷騎を拾え。敵は追うな」
『了解!』
その時、北部側から別の通信が入った。
『こちらレイスル騎士団、ナオ』
戦場のノイズを押し分けるように、声はよく通った。
『大将首、とりそこねたぜ』
軽いようで、重い声だった。
『この戦い、ここまでってことぜよ! レイスル騎士団、撤退する! 友軍を守りながら後退!』
その判断は速かった。
ナオ団長の部隊が、崩れた突撃線の横へ入る。
敵を倒しにいくのではない。
突撃で前へ出すぎたハプハミトンとドレンノ連邦のGTMを、切り離して帰すために入った。
レイスルのGTMが盾になる。
崩れた機体を押し戻す。
片脚を失った機体を、二騎で挟むように下げる。
味方同士の衝突を避けるため、強引に線を作る。
『レイスルがドレンノとハプハミトンを守りながら下がっています!』
ニナリスが即座に映像を回す。
「確認しました。ナオ団長、撤退支援に移行。突撃線の生存騎を後退させています」
ジィッドは息を吐く。
「見事だ」
前に出るより難しい。
崩れた突撃隊を、正体不明機の前から引き剥がす。
それを、ナオ団長はやっている。
その判断で、戦場全体の空気が変わった。
勝てるかどうかではない。
ここで続ければ、戦功ではなく死体が増える。
ベルミ・クローゼ総騎士団長の通信が、戦域に響いた。
『青銅騎士団、ここまでだ! 撤収する!』
それは敗走ではなかった。
統制撤退だった。
X-9が前に出て、X-8が後ろへ下がる。
旗騎X-4型が、中央で引く線を示す。
ウモスの南部隊も、所属不明八騎への押さえを残しつつ、深追いをやめる。
同盟軍の各戦域から、次々に撤退命令が出始めた。
『南部第二集団、後退線へ』
『中央第一軍、前衛を引け!』
『ガマッシャーン、北部圧迫中止。後退支援へ移行』
『ハプハミトン、生存騎を回収しろ!』
『ドレンノ、識別灯を上げろ! 味方へ寄れ!』
バギィの声が入る。
『ジィッド、今だ。銀月の仕事だ』
「はい」
ジィッドは通信を開いた。
「銀月各騎、全任務を帰還線維持へ切り替え。撃破数評価なし。敵に触るな。味方を帰せ」
『了解!』
「第一小隊、ドレンノの損傷騎二騎を拾え」
『了解』
「第二小隊、ハプハミトンの退路に識別灯を展開」
『了解』
「第三小隊、中央第一軍の後退線に割り込むな。横へ流す」
『了解』
「第四小隊、レイスルの退路を広げろ。ナオ団長の線を邪魔するな」
『了解』
「第五小隊、南のウモス部隊へ映像継続。所属不明八騎を追うな。追えば死ぬ」
『了解』
若手は叫ばなかった。
文句も言わなかった。
目の前で、突撃隊がバラバラにされたのを見たからだ。
音速突撃。
晴れ舞台。
大将首。
戦功。
その全部が、一瞬で血と泥に変わるのを見たからだ。
ジィッドはデムザンバラを動かした。
「ニナリス。低中域、帰還線構築。ピークには入れない」
「承知。デムザンバラ、限定出力」
白い騎体が進む。
低く、太い駆動音が戦場に響いた。
剣聖の音ではない。
だが、帰る線を作る音だった。
デムザンバラは前へ斬り込まない。
突撃隊の後ろへ入り、敵と味方の間に立つ。
壊れた識別線の代わりに、白い騎体そのものを目印にする。
「白を見ろ!」
ジィッドが叫ぶ。
「デムザンバラの後ろへ下がれ! 銀月の識別灯に寄れ! 敵を追うな、戻れ!」
崩れたハプハミトンの一騎が、その声に反応して下がる。
ドレンノ連邦の損傷騎が、銀月のカーバーゲンに支えられて泥から抜ける。
レイスル騎士団が、ナオ団長の指揮で後退線を守る。
青銅騎士団が、重い足取りで、しかし統制を保って引く。
正体不明機は追ってこない。
少なくとも、今は。
それが余計に怖かった。
向こうも、欲張っていない。
必要なだけ突撃線を壊し、必要なだけ同盟軍を止めた。
それ以上はしない。
ジィッドは、その冷たさに背筋を冷やした。
「ニナリス」
「はい」
「追撃反応」
「限定的。正体不明機、追撃せず。ベラ側主力、押し返しではなく防衛線再構築」
「……勝ったつもりはないわけか」
「はい。戦場の終了を選んでいます」
ジィッドは短く笑った。
「嫌な相手だ」
バギィの通信が入る。
『ジィッド、撤退線を保て。ここで欲を出した部隊から死ぬ』
「はい」
『デコーズ隊長に言われた通りだ。落とせそうで落とせない戦場に拘った奴らは、痛い目に遭う』
「今、目の前で見ました」
『なら忘れるな』
「はい」
同盟軍は、次々と撤退していった。
それは敗走ではない。
だが、勝利でもない。
戦功の晴れ舞台は、正体不明機に砕かれた。
大将首は取れなかった。
ベラは落ちなかった。
ただ、同盟軍は壊滅しなかった。
その理由の一つは、レイスル騎士団ナオ団長の撤退判断。
ベルミ・クローゼの統制撤収。
バギィの後詰め。
そして、銀月騎士団が帰還線を保ったことだった。
若い銀月の騎士たちは、誰一人として大きな敵首を取っていない。
だが、ハプハミトンとドレンノ連邦の損傷騎を帰した。
レイスルの撤退線を邪魔せず広げた。
青銅騎士団の後退に映像を流し続けた。
南の所属不明八騎を追わなかった。
正体不明機に飛びつかなかった。
戦場が終わる頃、彼らの声は低くなっていた。
『隊長』
「何だ」
『……大将首って、ああいうものなんですね』
「違う」
ジィッドは言った。
「あれは、大将首に見えた穴だ」
通信の向こうが黙る。
「そこへ飛び込んだ騎士たちは、勇敢だった。だが、穴の奥に何がいるかを見誤った」
『俺たちが行っていたら』
「死んでいた」
即答だった。
若手は黙った。
「だから、今日の評価は帰還者数だ。味方を何騎帰したか。ファティマを過負荷にしなかったか。カーバーゲンを傷めず戻したか。それを書く」
『了解』
今度の返事は、熱くなかった。
重かった。
それでいい。
ベラの泥は、銀月を冷やした。
ジィッドは、デムザンバラの操縦席で、撤退していく同盟軍の灯を見ていた。
ニナリスが静かに言う。
「銀月騎士団、全騎帰還中。カーバーゲン十九騎、大破なし。中破二、小破六。ファティマ過負荷、軽微二名。死者なし」
ジィッドは目を閉じた。
「死者なし」
「はい」
「十分だ」
「はい」
十分だ。
大将首は取れなかった。
記事にもならないだろう。
メディアはきっと、突撃と正体不明機と撤退の混乱を書く。
銀月の名は、小さくしか出ない。
だが、彼らは帰した。
若い騎士たちは、派手な戦功ではなく、撤退線の重さを知った。
そのことだけは、ジィッドにとって勝利だった。