ノウラン市占領地
ラド・ベイカーは、白旗を渡された瞬間、この世の終わりみたいな顔をした。
カーバーゲンではない。
剣でもない。
通信端末でも、観測装備でもない。
白旗。
そして、担架。
救護班長は当然のように言った。
「持て」
「……俺、騎士なのに担架ですか」
ラドの声は、絞り出すようだった。
周囲の若い騎士たちが、見ないふりをしている。
見ないふりをしながら、全員ちらちら見ている。
屈辱だった。
停止線を越えた。
ティリカの警告を無視した。
貸与されたカーバーゲンは回収された。
そして今、自分は白旗と担架を持たされている。
ジィッドは、救護班の準備を確認しながら言った。
「騎士だから担架だ」
「意味が分かりません」
「倒れた騎士を帰すのも騎士の仕事だ」
ラドは言い返せなかった。
言い返したかった。
敵を落とすのが騎士だ。
GTMに乗るのが騎士だ。
ファティマと共に前へ出るのが騎士だ。
そう言いたかった。
だが、ジィッドの前でそれを言う勇気はなかった。
「不満か」
「……あります」
「正直でいい」
「俺は、カーバーゲンに戻りたいです」
「知ってる」
「ティリカにも、もう一度認めてもらいたいです」
「知ってる」
「でも、担架で戻れるんですか」
「戻れるかどうかは知らん」
ジィッドは容赦なく言った。
「だが、担架を持たずに戻れるとは思うな」
ラドは黙った。
「お前は止まれなかった。ティリカに止められても踏んだ。敵を落とすことしか見えなかった。なら、次は倒れた騎士を見ろ」
「……はい」
「白旗を持て。武器は置いていけ。救護班長の指示に従え。勝手に走るな。勝手に喋るな。敵を睨むな。ファティマに不用意に触るな」
「はい」
「それと」
ジィッドの声が少し低くなった。
「敵側に我々の負傷者がいれば、礼をして引き取ってこい。こちらの手元にいる敵負傷者は、礼をして返してこい。白旗の下では、敵味方より先に負傷者だ」
ラドは白旗を握り直した。
「……了解しました」
救護班長が頷く。
「行きます。ラド騎士、旗は高く。担架は水平。相手側の線に入ったら、目線を下げすぎない。怯えているようにも、挑発しているようにも見えない高さで」
「難しいですね」
「簡単なわけがないでしょう」
救護班長は淡々と言った。
「白旗を持って戦場に出るのは、剣を持って出るより難しい時があります」
ラドは、何も言えなかった。
/*/
泥の上を歩く。
白旗が揺れる。
武器はない。
カーバーゲンもない。
ティリカも隣にいない。
ただ救護班の一員として、担架を持ち、白旗を掲げて、敵部隊側の線へ進んでいく。
遠くに、敵の騎士たちが見えた。
戦闘中なら殺す相手。
あるいは殺される相手。
だが今、彼らも武器を下げていた。
こちらと同じように、白旗を掲げている。
その光景が、ラドには妙に怖かった。
剣を向けられるより、ずっと怖い。
戦場なのに、誰も斬りかかってこない。
だからこそ、一つでも間違えれば、すべてが壊れると分かる。
救護班長が小さく言った。
「止まって」
ラドは止まった。
反射的に一歩前へ出そうになった足を、止めた。
救護班長がちらりと見る。
「今のは良いです」
「……はい」
敵側から、担架が一つ運ばれてきた。
その上に、若い騎士が横たわっていた。
ラドと同じくらいの年齢だった。
顔は泥で汚れ、額に血がこびりついている。
肩から胸にかけて応急処置が施されていた。
意識はあるようだが、目は焦点が合っていない。
その隣に、ファティマがいた。
細い腕に包帯。
片脚を引きずるようにしている。
それでも、担架の騎士から離れようとしない。
敵側の救護兵が、静かにそのファティマを支えていた。
敵のファティマ。
敵の騎士。
だが、その姿は、ラドが想像していた「敵」ではなかった。
若い。
痛そうだった。
不安そうだった。
そして、どこかへ帰りたがっているように見えた。
ラドは、息を呑んだ。
救護班長が、敵側へ礼をした。
「銀月騎士団救護班です。負傷者をお返しします。こちらの負傷騎士およびファティマの引き取り確認をお願いします」
敵側の救護兵も礼を返す。
「確認する。こちらも貴隊所属負傷者一名、ファティマ一名を引き渡す」
事務的なやり取り。
だが、その一つ一つが命に繋がっている。
ラドは、担架を下ろす指に力を入れすぎて、救護班長に小さく注意された。
「力を抜いて。担架が揺れます」
「すみません」
敵側の若い騎士が、かすかに目を動かした。
ラドを見た。
敵意はなかった。
ただ、ぼんやりとした目だった。
自分と同じくらいの年齢の騎士。
きっと、彼にも仲間がいる。
ファティマがいる。
整備班がいる。
帰る場所がある。
ラドは、初めて腹で理解した。
敵にも、戻る場所がある。
自分が停止線を越えた時、ティリカは止めようとした。
もしあの時死んでいたら、ティリカはどうなっていたのか。
敵側の救護班に引き出されたのか。
それとも、泥の上で動けなくなっていたのか。
白旗が通らなければ。
相手が戦時協定を守らなければ。
自分は、ティリカを泥の上に置き去りにしていたかもしれない。
その想像が、ラドの胸を刺した。
交換は静かに終わった。
こちらの負傷者が戻る。
敵の負傷者を返す。
ファティマ同士が一瞬だけ視線を交わし、それぞれの側へ下がる。
ラドは最後に、敵側へ頭を下げた。
救護班長に言われたからではない。
自然に、そうしていた。
/*/
帰還後、ラドはしばらく何も言わなかった。
白旗を戻し、担架を洗い、救護班長に報告を済ませた。
それから、ティリカのところへ向かった。
ティリカは整備区画の端にいた。
カーバーゲンの側ではない。
彼女は今、ラドのファティマではある。
だが、ラドにカーバーゲンは戻っていない。
その距離が、そのまま二人の今の関係だった。
ラドは立ち止まった。
「ティリカ」
「はい」
彼女の声は、いつも通り静かだった。
それが、余計に苦しかった。
「俺、今日、白旗を持って敵部隊のところへ行った」
「記録で確認しています」
「敵の若い騎士がいた。俺と同じくらいで、怪我してて、ファティマも傷ついてた」
「はい」
「……あいつにも、帰る場所があるんだな」
ティリカは少しだけ目を伏せた。
「はい」
「俺、分かってなかった」
ラドは拳を握った。
「敵は敵で、落とせば戦果で、止まったら負ける気がしてた。ティリカに止められた時も、あと一歩で一騎落とせるって、それしか見てなかった」
「はい」
その「はい」は責めていない。
ただ、事実として置かれていた。
だから逃げられなかった。
ラドは頭を下げた。
「俺、君に止められたのに踏んだ」
「はい」
「君に後始末させた」
「はい」
「君を危険に巻き込んだ」
「はい」
「……すまなかった」
ティリカは、すぐには答えなかった。
沈黙が落ちる。
ラドは頭を下げたまま、動かなかった。
やがて、ティリカが言った。
「マスターは、戻ってきました」
「ティリカ」
「それは良い結果です」
「でも」
「ですが、次は止まってください」
ラドは息を詰めた。
前にも、彼女は同じことを言った。
けれど、今は重さが違った。
次は止まってください。
それは命令ではない。
願いでもない。
ファティマが、自分の主に出した条件だった。
「次は止まる」
ラドは言った。
声が震えた。
「敵が崩れて見えても、手柄に見えても、目の前で味方が叫んでも、君が止めたら止まる。隊長が止まれと言ったら止まる。白旗の線があるなら、踏まない」
ティリカはラドを見た。
「証明が必要です」
「分かってる」
「言葉だけでは足りません」
「分かってる」
「私は、次の再審査まで観察します」
「……はい」
少し前のラドなら、それを屈辱だと思ったかもしれない。
いまは違った。
観察してくれる。
まだ見てくれる。
完全に見限られてはいない。
そのことに、胸の奥が熱くなった。
ティリカは続けた。
「白旗任務の記録を読みました」
「え」
「救護班長からも報告を受けています。停止指示に従いました。担架も揺らしすぎませんでした。敵側救護兵に礼をしました」
「……そこまで記録されるのか」
「はい」
「恥ずかしいな」
「良い傾向です」
ラドは苦笑した。
「ニナリスさんみたいなこと言うな」
「必要ですので」
「うわ、増えた」
少しだけ、ティリカの目元が柔らかくなった。
本当にわずかに。
だが、ラドには分かった。
それだけで十分だった。
/*/
その様子を、少し離れたところからジィッドが見ていた。
隣にニナリスがいる。
「ラド・ベイカー様、ティリカ様への謝罪実施」
「記録しているのか」
「はい」
「趣味が悪いぞ」
「軍務ですので」
ジィッドは苦笑した。
「どう見る」
「ラド騎士は、敵にも帰還先があることを理解し始めています。ファティマ警告への反応改善が期待できます」
「期待、か」
「はい。再貸与には、まだ試験が必要です」
「だろうな」
ジィッドは、白旗を干している救護班の方を見た。
風に揺れる白布。
剣でもなく、GTMでもなく、騎士の名誉を派手に飾るものでもない。
だが、あの布がなければ、ラドは今日のことを知らなかった。
敵にも戻る場所があると。
ファティマを危険に巻き込むとはどういうことか。
止まるとは、臆病ではなく、誰かを帰すための技量なのだと。
「騎士だから担架、か」
ジィッドは小さく呟いた。
ニナリスが聞く。
「記録しますか」
「それはするな」
「記録しました」
「早い」
「教育資料名に適しています」
「やめろ」
「検討します」
「やめないやつだな」
ジィッドはため息を吐いた。
だが、表情は少しだけ緩んでいた。
ラドはまだ戻っていない。
カーバーゲンも、ティリカの信頼も、完全には戻っていない。
だが、最初の一歩は踏んだ。
今度は、停止線の向こうへではない。
白旗の下で、倒れた騎士を帰すための一歩だった。