銀月騎士団格納区画
白いGTMは、吊架の中で沈黙していた。
デムザンバラ。
かつて別の名で呼ばれていた、白い剣聖騎の成れの果て。
その胸部装甲には、黒い仮固定具と魔導ケーブルが這っている。
美しい白は、いま解析用の封印と制御線で縛られていた。
ジィッド・マトリアは、その前に立っていた。
接続服の上から騎士用ハーネスを締め直す。
騎士殻へ入ること自体は、ジィッドにとって珍しいことではない。
胸部奥の狭い殻。
肩を預ける受け。
肘を逃がす細い空間。
腰を固定する拘束具。
膝を軽く折ったまま収める脚部カバー。
足先の奥にある、脚部カバー内コントローラー。
それらは、騎士なら知っている。
GTMは椅子に座って操縦桿を握る機械ではない。
騎士の身体を機体の内側へ差し込み、重心、踏み込み、肩の入り、首の向き、呼吸の変化を拾わせる。
それをファティマが翻訳し、巨大な骨格へ渡す。
そこまでは常識だ。
問題は、今日入る殻が、普通のGTMのそれではないことだった。
剣聖騎の殻。
剣聖の踏み込みを受けるための器。
ジィッドは、胸部奥の白い空間を見上げた。
「規格は分かる。構造も分かる。だが、こいつは別物だな」
横に立つニナリスが答えた。
彼女はデカダン・スタイルだった。
戦闘用の重装ではなく、日常生活と執務、教育、移動にも対応するファティマの軽装装備。
白い襟元と橙の差し色が、デムザンバラの白い装甲の前で静かに整っている。
「はい、マスター。騎士殻の基本規格は通常GTMと同系統です。ただし、反応取得幅とピーク時の入力許容量が異常です」
「異常、か」
「はい」
ニナリスは端末に出力曲線を表示した。
低域では眠っている。
中域ではまだ重い。
だが、ある一点を越えると、出力が針のように跳ね上がる。
細い。
あまりに細い。
そこから先は、普通の騎士が踏む場所ではない。
剣聖が踏み込むための領域。
剣聖が斬るための領域。
剣聖が、機体と同じ速さで考えるための領域。
ジィッドはしばらく黙っていた。
「俺が踏んだら?」
「振り落とされます」
ニナリスは即答した。
「機体から。制御から。場合によっては、騎士殻の内部で身体出力が破綻します」
「少しは迷え」
「軍務ですので」
「そうだったな」
ジィッドは苦笑した。
だが、口元だけだった。
胸の奥は冷えていた。
整備班長が言う。
「騎士殻、開きます」
デムザンバラの胸部装甲が、低い音を立てて開いた。
内部の騎士殻が露出する。
ジィッドは一歩進み、慣れた手順で騎士殻へ身を入れた。
背中が奥の支持材に沈む。
腰が固定される。
肩の受けが閉じる。
両脚は脚部カバーに収まり、足先が奥のコントローラーへ触れた。
ここまでは身体が覚えている。
だが、その奥にある反応が違う。
爪先を少し動かす。
まだ機体は動かない。
だが、どこか遠くで、デムザンバラの足首が眠ったまま反応を待った気配がした。
普通のGTMなら、ここで返ってくる感触はもっと鈍い。
もっと遅い。
もっと人間側に猶予をくれる。
この白い騎体は違う。
動かす前から、もうこちらを見ている。
「騎士殻、閉鎖」
整備班長の声。
白い装甲が閉じていく。
外の光が細くなり、内部照明が立ち上がった。
視界は直接外を見ているわけではない。
頭部側の視覚系、各部センサー、ファティマ経由の情報が、ジィッドの前方に重ねられていく。
遅れて、ニナリスの声が入った。
「ファティマ・シェル、接続します」
ジィッドの視界の端で、頭部コントローラー系統が開く。
頭部。
目。
首。
索敵。
敵味方識別。
視線誘導。
そこへニナリスが入る。
ただし、制御はまだ粗い。
デムザンバラのどこを残し、どこを殺すべきなのか。
どの反応は危険で、どの癖は武器として活かせるのか。
ジィッドとニナリスには、まだ十分な手触りがない。
だから、初回は安全側へ倒す。
危険な上は封じる。
「胸部騎士殻、ジィッド様の身体寸法に暫定適合。脚部カバー内コントローラー、反応取得。頭部コントローラー、待機。低中域トルク制御、第一段階」
「ピークは」
「封鎖します」
ジィッドは一瞬黙った。
「完全にか」
「はい。現段階では、残す理由より危険性が上回ります。ジィッド様が踏み込んだ場合、制御不能に陥る可能性が高い」
「デムザンバラを鈍らせるわけだ」
「マスターを生存させるためです」
ニナリスの声は静かだった。
ジィッドは息を整えた。
足裏に、細い道がある。
踏めば届く。
届けば、この白い騎体は本来の声を出すのだろう。
だが、その先にジィッドはいない。
ニナリスにも負荷が行く。
整備班も戻せない。
随伴機も合わせられない。
「低中域で行く」
「はい、マスター」
「出力は?」
「八十五パーセントまで落とします」
「そんなに落としても怖いのか」
「はい」
「剣聖騎ってのは、嫌なものだな」
「はい」
ニナリスの声が静かに重なる。
「起動します」
最初に鳴ったのは、甲高い音だった。
白い装甲の奥で、眠っていた剣聖騎の喉が開いた。
細く澄んだ、空を裂くような高音。
格納区画の整備兵たちが、反射的に手を止める。
ジィッドも一瞬、呑まれた。
美しい。
そう思ってしまった。
これが、本来の音なのだ。
選ばれた者だけが踏み込める領域の音。
その瞬間、ニナリスが制御を落とした。
音が沈む。
甲高い響きが潰され、低く太い駆動音へ変わっていく。
空を裂く声ではない。
地を踏みしめるための声。
白い騎体が、別のものに作り替えられていく。
「エンジン出力、八十五パーセント。低中域トルクを再配分。脚部カバー内コントローラー、反応不安定。再補正。頭部コントローラー、視線追従開始。バックラッシュ遮断、待機」
ジィッドの右足の奥が、重くなった。
ほんの少し爪先へ力を入れる。
デムザンバラの右脚が反応した。
だが、反応が強い。
思ったよりも先へ行く。
「っ」
機体の膝がわずかに沈みすぎた。
格納区画の床が軋む。
整備班が声を上げる。
「右脚荷重、上がりすぎ!」
「ニナリス!」
「補正します。マスター、爪先出力を落としてください」
「落としてる!」
「ジィッド様、まだ強いです」
「これでか!」
「はい」
ニナリスが脚部制御を太く鈍らせる。
高い反応を殺し、動きを重くする。
ジィッドは息を吐き、右脚の感覚を半分捨てるようにした。
ようやく、デムザンバラの右脚が収まる。
だが、格納区画の空気は凍っていた。
たった爪先の試し入力。
それだけで、白い騎体は床を割るほどの荷重を出しかけた。
「……これで八十五パーセントか」
「はい」
「鈍らせて、これか」
「はい」
「化け物だな」
「はい」
ニナリスは否定しなかった。
次に腰を入れる。
巨大な白い胴体が、わずかに重心を移す。
だが、まだぎこちない。
機体がジィッドの動きを受け取り、ニナリスが翻訳し、整備班の仮設定が受け止める。
その間に、薄い軋みが生じる。
綺麗な同期ではない。
無理やり繋いでいる。
肩を動かす。
機体の肩甲が、眠りから覚めるように軋む。
その瞬間、頭部側の視界がわずかに流れた。
「視界が飛んだ」
「頭部コントローラー補正。首部反応が肩入力を拾っています」
「そんなところまで拾うのか」
「拾います。現設定では分離が不十分です」
「怖いな」
「はい」
ジィッドは小さく笑いかけた。
その笑いに呼吸が乱れ、胸部騎士殻の内圧がわずかに変わる。
デムザンバラの胸部が反応した。
警告が鳴る。
「感情出力上昇。胸部反応過多。抑制してください」
「笑っただけだ!」
「笑いでも拾います」
「面倒な機体だ」
「危険な機体です」
「そうだったな」
ジィッドは息を落とした。
騎士殻の中で、身体が機体へ繋がる。
だが、完全な一体化ではない。
綺麗な同期でもない。
ジィッドが踏む。
ニナリスが慌てて滑らせる。
デムザンバラが応える。
ジィッドが行き過ぎる。
ニナリスが封じる。
整備班が数値を叫ぶ。
その繰り返しだ。
騎士は剣を振るう。
ファティマは、その剣が機体ごと折れないように制御する。
GTMは、その二人に起こされる巨大な骨格。
ただし、今日の骨格はまだ寝起きが悪い。
そして、危険すぎる。
「ニナリス」
「はい、マスター」
「今の止め方、かなり力任せだな」
「はい」
「認めるのか」
「現時点では、細部特性を把握しきれていません。安全側へ倒す以外にありません」
ジィッドは、息を吐いた。
「いつか、もう少し上手くやれるか」
「知見が必要です」
「誰の」
「この騎体を本来の形で知る者の。または、十分な試験回数と損耗を許容できる環境が必要です」
「後者は嫌だな」
「私も推奨しません」
「なら、前者を探すしかないか」
「はい」
ジィッドは目を閉じた。
今はこれでいい。
美しい高音を殺す。
ピークを潰す。
低中域を太らせる。
ジィッドが読める範囲まで、デムザンバラを落とす。
屈辱だ。
機体にとっても。
かつて憧れた自分にとっても。
だが、生きるためだ。
「歩行準備」
「歩行補助、開始。脚部出力、低域。膝部反応、不安定。補正。踵荷重、制御内。マスター、右脚を急がないでください」
「分かってる」
「ジィッド様、急いでいます」
「……分かった。落とす」
右脚の奥で、白い巨体が静かに床を踏む。
一歩。
格納区画の床が低く鳴った。
剣聖騎が跳ぶ一歩ではない。
戦場へ突撃する一歩でもない。
重く、鈍く、慎重な一歩。
それでも、整備兵の何人かが息を呑んだ。
八十五パーセント。
ピーク封鎖。
低中域化。
そこまでしてなお、この白いGTMは恐ろしい。
ジィッドは騎士殻の中で、ゆっくり息を吐いた。
「……行けるか」
「現段階では、限定運用可能です」
「限定か」
「はい。通常戦闘には推奨しません」
「厳しいな」
「軍務ですので」
格納区画の外部映像に、デコーズ・ワイズメルの姿が映った。
黒騎士は、白い騎体の低い唸りを聞いていた。
「泣いてるな」
デコーズが言った。
ジィッドは騎士殻の中で答える。
「はい」
「高く鳴る喉を潰されて、低く唸らされてる。かわいそうなもんだ」
「黒騎士殿が、それを言いますか」
「言うぜ。かわいそうだと思うのと、使うのは別だ」
デコーズは笑った。
だが、その目は笑っていなかった。
「ジィッド。そいつを剣聖騎だと思うな」
「はい」
「デムザンバラだ。お前が使うために、性能を落とし、癖を潰し、音まで変えた鹵獲騎だ」
「分かっています」
「分かってても、傷つくだろ」
ジィッドは返事をしなかった。
デムザンバラの低い音が、胸の中で鳴っている。
高い音はもうない。
あるのは、押し潰されたような低音だけだ。
「……悪いな」
ジィッドは呟いた。
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
かつての白い剣聖騎にか。
いまのデムザンバラにか。
それとも、剣聖騎に憧れた自分にか。
「俺は、お前を本来のまま扱えない」
ニナリスは黙っていた。
ジィッドは続けた。
「だから、お前を俺のところまで落とす。屈辱だろうが、兵器としては働いてもらう」
デコーズが外で笑った。
「いいじゃねえか。ようやく分かってきたな、ジィッド君」
ジィッドは答えなかった。
代わりに、ニナリスへ言う。
「ニナリス」
「はい、マスター」
「デムザンバラの運用基準を作れ。ピークパワー使用は禁止。現段階では完全封鎖。使う場合は緊急離脱時、または黒騎士殿の許可がある時だけだ」
「承知しました」
「低中域の制御を詰める。俺が読める挙動にする。随伴機が合わせられる加速にする。整備班が次の出撃までに戻せる負荷にする」
「はい」
「それと」
ジィッドは、少し考えてから言った。
「初回起動記録に残せ。高音域から低中域へ落とした瞬間、騎士側の集中が乱れた。次回以降、起動時の心理負荷として監視」
「承知しました」
「感傷としてじゃない。運用記録としてだ」
「はい、マスター」
「……いや、まあ、少しは感傷もあるが」
「記録しますか」
「するな」
「承知しました」
整備兵の何人かが、小さく笑った。
低く太い駆動音が、格納区画に響き続けている。
だが、動く。
ジィッドでも読める範囲で。
ニナリスが無理やり押さえ込める範囲で。
整備班が震えながら戻せる範囲で。
デムザンバラは、初めて一歩を踏んだ。
白い騎体は泣いているのかもしれない。
けれど、その泣き声を背負ってでも、若い騎士は戦場へ出るしかなかった。